三千世界の鴉を殺し君と朝寝がしてみたい 04
十六歳になり、ナイトレイブンカレッジの鏡に見事に選ばれたシルバーは今年の秋に学園に入学した。城に残るお兄様の付き人はセベク一人だけになったけれど、セベクも優秀な少年だ。来年には彼もいなくなってしまうだろう。お兄様とリリア様がご入学なさった去年の秋も、寂しいと思いながら見送った覚えがあるのに、シルバー、セベクと続いてしまえば言いようのない寂しさに胸のうちをきゅっと締めつけられる。
狭い棺の中で飛び起きて頭を打ちつけそう、おでこがいつかみたいに真っ赤になってしまう。シルバーは少し天然なところがあるからちょっと心配だ。
僕がなぜあいつのために!? と嫌がるセベクをシルバーの入学祝いパーティーに無理やり参加させ、そんなことを口にしたらセベクは「フン、間抜けですね」と楽しげにしていた。去年は三人でお兄様とリリア様のためにパーティーを開いたが、今年は二人。来年の出席者はわたし一人だけになる予定だ。
「来年はセベクもいなくなると思うと寂しいね」
「ナマエ様……」
一人でもセベクのお祝いパーティーはするけどね、と付け加えると、サーモンのカルパッチョを頬張っているセベクは見るからに嬉しそうな顔をした。本人は隠しているつもりなんだろうけど、顔に出やすいセベクはかわいらしい。
「入学した暁にはシルバー以上に任をこなしてみせます!!」
シルバーへのライバル意識が強いセベクは握りこぶしを天高く掲げた。もしもこの場にシルバーがいたら「……わかったから静かにしろ」と呆れ顔で言って、それにセベクが噛み付いていたことだろう。去年のパーティーでも、そんな言い合いをしていた気がする。
二人だけの少し寂しいそのパーティーから数日、リリア様から連絡をいただいた。
シルバーは無事に入学式に出席し、お兄様たちと同じディアソムニア寮に入寮したらしい。言わずもがな、お兄様とシルバーはかなりの連絡不精なので、近況を知らせてくれるのはリリア様だけだ。彼のメールによると、シルバーは護衛としての仕事だけではなく学業や部活動も頑張っているようだ。真面目な彼のことだ、自分自身が怠けてしまえばお兄様やリリア様の顔に泥を塗ると思っているのだろう。
一方のわたしは、命を狙われやすい立場上、城の外への外出は禁じられている。そのため、小さな頃から数人の家庭教師を城に招いていた。ずっとこのような生活を送ってきたわたしは、世間一般の人々からすれば箱入りのお嬢様もいいところだ。世間知らずの無知な姫で、人間の血まで入っている。概して人間を見下す傾向にある茨の谷の妖精たちは、そんなわたしを追い払いたかったのだろう。
人間であった母はわたしが生まれてからというもの過激派の者たちに命を狙われ、王室に穢らわしい血をもたらした愚かな母は死んだ。
では次のターゲットは誰か? 深く考えるまでもない、愚問である。
物心がつく前から、一人で眠れる夜はなかった。わたしの一歩先にはいつも死が横たわっていて、訪れる夜の暗闇は恐ろしい魔物のようだった。わたしの命を狙う暗殺者はどこに潜んでいるかもわからない。朝日すら拝めなくなったら、お兄様たちに会えなくなったら……それを考えると、ベッドに潜り込んでも眠れなくなる。
そんな夜は、決まってお兄様のもとを訪れた。お部屋の前まで行けば、わたしが訪れることをわかりきっていたかのようにゆっくりと扉が開いて、肩にカーディガンをかけているお兄様が出迎えてくれるのだ。見上げるほどに高い背丈を屈めて、わたしの前にしゃがむお兄様の両目を見たら全身を支配していた恐怖が抜けていく。枕ひとつを両腕に抱えて泣くわたしの頭を撫でてくれる手が大好きだった。
──どうした、眠れないのか? それなら僕と寝よう。
よすがはお兄様だけだったように思う。だって信じた人はみんな裏切るから。この人ならと信じた誰かでさえ、手酷く裏切ったから。最後にはなにも残らないなら、最初から信じないほうがずっとずっと楽だったのだ。
「ナマエ。この老いぼれとも遊んでくれんか?」
それでもリリア様は、生きていくために誰も信じられなくなったわたしを理解してくださっていた。彼はわたしが怖がらないように至って普通の登場の仕方をしてくれたし、なにかがあればお兄様をお呼びしてくれた。わたしを尊重してくれる数少ない大人として見守ってくれていたのだと、今となっては思う。
そうして、シルバーと出会う頃にはわたしなりに処世術を身につけていた。わたしに生きる価値すら与えてくれない者に弱みなんて絶対に見せたくない、すぐに泣くような弱々しいお姫様だなんて言わせたくない。弱さは他人を付け込ませる餌になり、無知は好き勝手に操られる隙になる。
自分のことは自分で守れると証明するために。一人でも生きていけると証明するために。お兄様には劣るにしても魔法を学び、様々な学問を学んだ。
だけど、どれだけ頑張ってもままならない現実はある。今も、そう。
口から吐き出した血液が、磨きあげられた床を汚してしまった。
「ああなんてこと……!!」
「誰か陛下にご報告を……!」
信じるよりも疑うことのほうが簡単で、“裏切られるかもしれない”という心配をしなくてもいい。いつか絶望するなら希望は持たないほうがいい。そんなこと、久しぶりに思い出した。
毒を飲まされたのはいつぶりだっけ。冷静に考えながらまた血を吐くと、鉄臭い匂いが充満する。信を置いている召使いたちが大慌てでわたしのそばに駆け寄ってきたかと思えば、そのうちの一人はお医者様を呼びに、もう数人は敷地内の衛兵に警備の強化を頼みに行った。
「姫様……どうかご安静に。動かないでくださいまし」
わたしの背中をさすっている彼女はこの城の侍女長を務めているベテランだ。落ち着き払った様子でなにをいつ口にしたかを聞いては、難しい表情で廊下の先をちらちらと確認している。お医者様はまだかしら、と呟く声は冷静なようで焦りを含んでいた。
おそらく、彼女はお兄様やリリア様にこのことを伝えてしまう。
「……お兄様たちに言う?」
「お伝えしなければ、マレウス様がお怒りになりますよ」
「……ねえ、マチルダ。シルバーには伝えないでいてくださる?」
「…………シルバー様とはただならぬ関係でいらっしゃるのではないですか?」
「ダメなの。シルバーは忙しいから心配かけさせたくない」
「ですが……」
「シルバーはお兄様の護衛であって、わたしのものじゃない」
眼鏡のレンズ越しにわたしを見つめるマチルダの老いた瞳はどうすべきか悩んでいるようだった。わたしとシルバーの関係を唯一知っている彼女は、時おり母のような愛情を見せる。だからこそ、わたしたちに軋轢が生じることを慮って強硬に首を振ったのかもしれない。
「いいえ、なりません」
「お願い、マチルダ」
「わたくしが黙っていても、遅かれ早かれシルバー様にも情報は入りましょう。その時に激怒なさったらどうなさるおつもりですか?」
「……きっと呆れるだけ」
「わたくしのほうが呆れましたわ、姫様。好きな女性のことは知っておきたい、というのが男心でしょう」
「でも……」
「わかりましたわ。マレウス様とリリア様にはシルバー様にお伝えしないようにお頼みします。姫様は一度痛い目に遭われたほうがよろしいようなので」
今に見ていてくださいまし。なにを言われてもわたくしは知りませんからね、と冷たくのたまった彼女は到着したお医者様にも「シルバー様にはお伝えしないように。あなた過保護ですからね、お伝えしたら減給です」と告げてわたしから離れた。
マチルダには心の底から呆れられてしまったらしい。不思議そうな顔をしてわたしの顔と彼女のうしろ姿を見比べるお医者様に曖昧な笑みを向けると、ハッとした彼はすぐに治療を始めた。
シルバーに心配をかけさせたくない、というのは紛れもない本音だった。でも、マチルダはその奥に隠したわたしの本心を見抜いていたのだと思う。この臆病な心を、彼女自慢の慧眼で。
「ナマエ様、お部屋に移りましょう。歩けそうですか?」
「うん、歩けそう」
シルバーと少し離れただけで不安になった自分が馬鹿らしい。
離れても大丈夫だと思っていたのに、ちっとも平気じゃなかった。離れたら離れたぶんだけ会いたくなる、甘えたくなる。だから言えない。だから知られたくない。城からも出られないくせに自分の命さえ守れない女だと思われたくない。そのためにもっと自立しなければ、もっと強く生きる力がなければ。
彼の隣にいたら安心して弱くなってしまった自分が嫌だった。
毒性の弱い毒を盛られて、吐血した程度。
この世界には多種多様の毒がある。少なくとも、わたしが飲まされたことのある毒の中では弱かった。呼吸困難や痙攣を起こしたわけではないから、明らかな殺意と言うよりも脅しとしての側面があったのだろう。
命には特に関わらなかったことと、いっそう厳しくなった警備に安心していたこともあり、お兄様たちがウィンターホリデーで帰ってこられる頃には毒を盛られたこと自体忘れかけていた。だから、と言うのもおかしいけれど、数ヶ月ぶりに会うシルバーが見せる怒りには驚かざるを得なかった。
「なぜ言わなかった。マレウス様と親父殿にわざわざ口止めをした理由はなんだ」
「……ごめんなさい、そのことならすっかり忘れ──」
「忘れていた?」
わたしは地雷を踏んだらしい。声も顔も恐ろしいそれになり、わたしの腕を掴む手も加減がなくなった。表情をみるみるうちに険しくさせていくシルバーは、城内の女性陣に「王子様みたい」と持て囃されていた姿からは程遠い。
シルバーがどこでこの話を聞きつけたのかはわからない。でも、城の中にいたらそんな情報を仕入れることくらい容易だろう。
「心配かけさせたくなかっただけ」
「心配するかどうか決めるのはお前じゃない。俺だ」
「ご、ごめんなさ」
「悪いと思っていないのに謝るな」
「……っ」
図星だった。心を見透かされ動揺するわたしを見下ろしているシルバーは目を細め、手を離した。
「もういい。これ以上は意味がない」
諦めと痛みが混じる目が悲しそうに伏せられた。待ってもごめんなさいも言えない。なにかを言ったところで、シルバーには少しも信じてもらえない気がした。誰かを疑って信じないのは得意なくせに、彼に信じてもらえない今を苦しいと感じるなんて傲慢が過ぎる。
一度痛い目に遭われたほうがよろしいようなので。
マチルダの言葉が頭をよぎった時には、シルバーはわたしを残して立ち去ってしまっていた。