LEFT BEHIND 02


 ナマエの目の前にある鏡は霞がかかっている空のように曇っていて、人が近づくと水面のように波打つ。リリアとカリムとは別れたナマエとケイトは、ハーツラビュル寮へと続く鏡の前に立っていた。
 魔法使い御用達の移動ネットワークである暖炉を使うでもなく、ポートキーを使うでもなく、ひらべったい鏡で別の場所へと移動するのは魔女のナマエであっても初めての経験だった。右を見ても左を見ても、制服を着ている生徒たちは鏡の中へと溶け込むようにして消えていく。彼らにとっては至極当然の当たり前のことなのだと理解して、手本を見せてもらうべく彼女は隣に立っているケイトを見上げたが、彼は鏡のほうへと右手を向け、その目を温和そうに緩めた。一見すると軽薄そうにも見える彼は、存外にも紳士的だった。

「先にいーよ。オレもすぐ入るから」

 流れるようにさらりとなされるレディファーストは、ケイトが姉二人によって幼少期から扱かれた結果として身についた振る舞いであり、女性であるナマエを優先するのは身体に染み付いた条件反射のようなものだった。
 ナマエとてそんな思慮を台無しにするつもりはないが、初めて鏡を使う彼女は思わず尻込みしてしまう。
 もちろん、ケイトは彼女が異世界の魔女だとは──そもそも彼女自身も自分が異世界の人間だとはこれっぽちも思っていないのだが──知らないし、彼女がツイステッドワンダーランドの正統な移動手段を知らないとは考えつかない。だからこそ先に行くように促したのだが、ケイトの見本が見たかったナマエと、ただ習慣に則って女性を優先したケイトの思いは見事に空回りしていた。

「ナマエちゃん、どうかした?」
「あの、どうやって入るんですか?」
「どうやってって?」
「行き先を強く思い浮かべたほうがいいですか……?」
「ん? 行き先?」

 ケイトはなぁにそれ、と言いたげな、素に近い表情でナマエを見下ろした。
 鏡を用いた転移魔法に慣れていないために鏡を前におどおどしていた新入生もいるにはいる。ナマエもそういった戸惑いを見せているのかもしれない、と当たりをつけた彼は、そんなに気負わない気負わない、と明るく言ってから八重歯を覗かせて笑った。語尾に音符でも付きそうな明るさを持つ、彼だからこそ使いこなせる軽やかなその口調は妙な説得力があった。ケイトが言うならその通りにしよう、という気持ちにさせるのだ。
 ドアから入るみたいな感覚でいいよ、というアドバイスを頼りに、彼女は唇を真一文字に結んで鏡の中に右足を踏み入れた。吸い込まれるような、引っ張られるような、奇妙な感覚がしたのはほんの一瞬のことで、彼女は瞬きをする間もなく屋外にいた。
 ハート型に剪定された薔薇の木、整然とした石畳、十数メートル先にある意匠に凝った噴水──そして、ハートをモチーフにしているらしい華やかでかわいい建物はおとぎ話に登場する洋館のようで、鏡を通り抜けた瞬間に広がる光景は、仕掛け絵本を開いた時の驚きに似た感動をもたらした。キラキラとしたギミックが目の前に飛び出してきたような高揚感と胸の高鳴りは、ナマエが幼い頃によく見ていたお気に入りの仕掛け絵本を彷彿とさせる。
 先ほど言った通りに、すぐにハーツラビュル寮の前に姿を現したケイトは、あたりを見渡して庭や建物を食い入るように見つめている彼女の背中に思わず笑みを浮かべた。こんなにいい反応をしてくれるならマジカメに載せればよかったかも、と思いつつ、ナマエちゃん、と声をかける。しかし、返答はない。
 これは変なスイッチ入っちゃったかな〜と苦笑した彼はナマエの隣に並び、その顔の前に手をかざした。さすがに、会って十数分も経っていない女の子には気安く触れられない。そう思っての行動だったが、彼女は思いのほか大袈裟に肩を揺らした。

「……っ! ご、ごめんなさい、ずっと声をかけてくださっていましたか?」
「え? んーん、オレも今来たとこだけど……じゃ、行こっか」
「は、はい」

 電波ってワケじゃないけど、なんか不思議な子。自分のテンポを少しずつ崩されているような気がしてきて、ケイトは心の中で独りごちた。
 薔薇の木が両端に植えられている石畳を歩き、噴水の横を通り過ぎ、寮内に続く扉を開けると、天井に浮いているティーポットやティーカップ、おびただしい数の本や鏡がまず目に入る。一目見ただけではごちゃごちゃに散らかっているようにも見えるのに、どことなく統一感のある洒落た内装だった。

「ここがハーツラビュル寮ね。“女王様”のお城だよ」
「女王様……?」
「そう。ハートの女王の厳格な精神に基づく寮だからね。……うーんと、それじゃあ、ナマエちゃんはここにいてね。トレイくん探してくるから」
「はい、ありがとうございます」

 ナマエを談話室に案内したケイトは来た道を引き返し、くねくねと曲がった廊下を突き進んでいく。タイル張りの廊下のあちこちから縦横無尽に張り巡らされている階段はホグワーツの勝手に動き出す階段を思い出させるが、ハーツラビュルのそれは親切設計らしい。変わった形状をしているだけで、動く気配はなかった。ホグワーツの校内が少々特殊だっただけに、ナマエはハーツラビュル寮の設計に母校の面影を多少重ねてしまっている節がある。
 
 ──夢にしては長い夢だわ。

 ここがどんな世界かわからない以上、夢からの醒め方がわからない以上、受け入れていくしかないと思う反面、命を落とした自分が地獄でもなく天国でもない捻れた世界にいる今のこの状況が彼女を混沌とさせている。死んだと思ったのになぜかもう一度目を覚まし、変な仮面をつけた胡散臭い男──ディア・クロウリーに雑用係を任されてしまってから半日と経っていない。いくら優秀な彼女と言えど、現状を飲み込むには熟考する時間が少しも足りていなかった。
 夢かうつつか、それとも。
 地獄か天国か。

「キミは誰だい」

 ソファに座って考え込むナマエの思考を途切れさせるように、小さな王冠を頭に載せている少年が現れた。彼のブーツから響くヒールの音は場違いな少女を咎めるように甲高く鳴っている。愛らしいかんばせに並んでいる細い眉はつり上がり、赤い瞳は怪訝そうに彼女を見下ろしていた。

「生徒でもない部外者の入寮は禁じられているはずだよ」
「ナマエ・ミョウジです。学園長……クロウリー先生に任じられて今日からナイトレイブンカレッジの雑用係を」
「雑用係……? ふぅん、見たところ、ボクとそう変わらない年齢に見えるけれど?」

 見るからに怪しい黒いローブの少女を見逃すわけにはいかない。初対面かつ同年代であろう彼女に厳しい視線を向けるのは少なからず心が痛むが、ハーツラビュル寮寮長たるリドル・ローズハートは一切の妥協を見せなかった。
 この様子じゃあ、いくら説明しても納得してくれないだろう。厳しさを増していく彼の視線にナマエも困り始めた頃、この場にはふさわしくない明るい声が助け舟のごとく響いた。

「あっれぇ、リドルくん。どうしたの? ナマエちゃんと仲良くおしゃべり?」

 わざとらしいくらいに明るい声だった。リドルの剣幕を和らげるために、わざとそんな声を出しているということは、ナマエにも察せられた。

「……。ナマエちゃん……? どういうことだい、ケイト。彼女はキミの客人なのかい?」
「んー、いや? 正しくはトレイくんのお客さんかな」
「トレイの……?」

 見知らぬ怪しい人間の弁明よりも見知った同寮生の説明のほうが疑い深いリドルには効果があったようで、眉のあいだに深く刻み込まれていた皺は緩みを見せた。しかし、不機嫌そうな小さな顔には「事情をちゃんと説明しろ」と書かれている。
 トレイとケイトの態度からも、リドルの言葉や表情からも、リドルがこの寮の重要な役職に就いているであろうことは、ナマエにも容易に推察できる。

「リドル。彼女とはさっき会ったんだ。ケイトもクルーウェル先生に頼まれて寮まで連れてきたらしいし、そんなに警戒しなくてもいいんじゃないか?」

 ケイトに代わって言葉を口にしたのはナマエの目当ての人物──トレイ・クローバーだった。クルーウェル先生に? と呟いたリドルはわずかに目を見張り、年相応の子どもっぽい表情を見せる。すると、次はナマエが口を開いた。

「あの、わたしがミスター・クローバーにぶつかってしまったんです。それで魔法薬を……謝りもせずにいきなり消えてすみませんでした」
「そんなの気にしなくてよかったんだが……君は無事だったか?」
「はい」

 魔法薬学室でサイエンス部の活動に勤しんでいたトレイのもとにいきなり姿を現したナマエは、彼がいることに気づかないままに教材を戸棚に片付け、「そのあたりには危ない薬草があるから気をつけたほうがいいぞ」と言う声にも気づかぬまま振り返り、危険を伝えるために近づいていた彼とぶつかった。その際にナマエは調合済みの魔法薬を頭からかぶったわけだが、あまりにも心配する彼にかえって申し訳なくなり、落ちて割れたビーカーと床に広がる薬品を魔法で掃除して姿をくらましたわけだ。一言だけ「ごめんなさい」と言って姿を消したものの、魔法薬の材料となる薬草は決して安価なものではない。ホグワーツで学んでいたナマエは、その価値を十分に理解している。弁償なりなんなり、貴重な魔法薬を無駄にしてしまった対価はしっかり払うというのが道理だろう。

「あの魔法薬はなんですか?」
「え? ああ、あれは……酸素薬だな」
「酸素薬……」
「それがどうかしたか?」
「作ってお返しします」
「えっ、いや、別にそこまでしなくていいぞ?」
「ですが、材料もタダではないでしょう?」

 どうしても作らせてほしい、と言うナマエをしばらく見つめたトレイは、降参だと言う風に肩を竦めて頷いた。

「わかった、じゃあ頼むよ」
「ありがとうございます。……あの、お返しする時はまた伺っても?」

 前半の言葉はトレイに、後半の言葉はリドルに向けたものだ。酸素薬を無事に作れたとしても、ハーツラビュル寮を再び訪れなければトレイに返すこともできないと考えての確認だった。

「そういうことなら仕方がないね。許可しよう」

 また来るといい。と、言って、気まずげに目を逸らしたリドルはケイトから離れてナマエの前に出ると、右手を差し出した。

「さっきはすまなかったね。ボクはリドル・ローズハート──ハーツラビュルの寮長だ。見知らぬ女性とは言え、失礼なことをしてしまった」
「いえ、寮長さんなら警戒して当然だと思います。わたしのほうこそ、いきなり伺ってすみませんでした」

 寮長として寮と寮生を守るのは当然のことだ。むしろ、お手本のような素晴らしい警戒心の強さだったとナマエは思っている。リドルの手を握り返した彼女は小さく笑い、手を離した。
 華やかで目立ちそうな顔立ちをしているのに、どこか頼りなくて存在感が薄い少女。リドルが持ったナマエへの印象は、挨拶を交わしたあとでも変わらない。

「そうだ、ナマエもタルトを食べていかないか?」

 ナマエはトレイを不思議そうに見上げた。
 事件の発端はナマエだったものの、不味い魔法薬をかけてしまった負い目はある。そのため、タルトを食べないかと提案したのだが──先に乗っかったのはケイトだった。

「おっ、それいいじゃ〜ん! 女の子もいたらマジカメ間違いなしだし!」
「なんだ、ケイトも食べるのか?」
「なになに? ダメなの?」

 そうは言ってないだろ? と笑ったトレイは、ナマエの頭をいつもの癖で撫でそうになり、慌てて引っ込めた。
 初対面もいいところの男になんて触られたくないだろう。トレイは距離感を違えそうになった自分自身に呆れた。

「悪いな。なんだか放っておけなくてな」

 そこに友情や恋情はなかったが、彼女の儚い雰囲気にはトレイも思うところがあった。どこか浮世離れしているのだ。諦観に満ちた瞳も、ぼんやりとした寂しそうな佇まいも、目を離した隙に消えてしまいそうだ、と思ってしまうくらいには。

「トレイが作るケーキは一級品だよ。ナマエも食べていくといい」
「ですが、」
「リドルもこう言ってるし、どうだ?」

 ナマエは自分を見つめている六つの目を見つめ返し、三人の厚意を突っぱねるわけにもいかず、小さく頷いた。




薔薇を塗ろう(ドゥードゥル・スート)

 美味しそうな苺タルトに見えるが、味は糖蜜タルト、らしい。さあ召し上がれ、とにこやかに笑うトレイから皿を受け取ったナマエは不思議そうな顔で手作りのタルトをフォークでつっついた。

「ナマエちゃんって超甘党なんだね」

 ナマエの隣に座ってチキンのハニーマスタードソースかけ味のタルトを味わっているケイトは興味深そうに口を開く。

「糖蜜タルト、わたしの国では大人気なんです」
「ふーん。そういえば、どこ出身なの?」
「小さな村の生まれなので……皆さんは知らないかもしれないです」

 ──“イギリスのロンドン”はこの世界には存在していない。おそらく、貴方は異世界から来たのではありませんか?
 数時間前、図書室の蔵書で調べあげたクロウリーにそう告げられた。夢の登場人物がそう言うのならその通りなんだろう、と結論づけたナマエは彼らになにかを言うつもりはなかった。異世界云々についてツイステッドワンダーランドの住人に言ったところで、気が触れた狂人だと思われてしまう確率が高い。ならば、最初からすべてを隠してしまうほうがいい。どうせ夢なのだから、彼らにどう思われたって構わないのだけれど。

「美味しいか?」

 自身のタルトには手をつけないまま、トレイが聞く。

「はい。とっても」
「……そうか、ならよかった」

 一拍置いて、トレイは笑った。笑う前に一瞬迷うような表情を浮かべたが、それ以上はなにも言わなかったのでナマエも特に気にせずタルトを咀嚼する。
 三人の男子生徒に囲まれてのティータイムは心臓に悪い。そんな緊張と驚きのせいか、味はあまりしなかった。ナパージュが塗られ、つやつやしている新鮮な苺がこれでもかと乗っているタルトはそれはそれは絶品だろう。見た目だけでもよだれが垂れそうなほどに美味しそうなのに、しっかり味わえない自身の舌を恨んだ。
 まあ、夢では味なんてわかるはずもないか、と若干諦めてはいるものの。サクリ、と口内でタルト生地の音が虚しく響いた。

「ところで、どうして雑用係になったんだい? 学園長は日頃からああだけど、未成年をこの学園で働かせるとは思えないからね」
「それは俺もずっと気になっていたな」

 ナマエはタルトを飲み込んだ。わたしは死んだはずです、とクロウリーに訴えた時には信じてもらえなかったため、ここに来る前にうっかり死の呪文を受けたことは安易に口走らないほうがいいとわかっている。どう説明すれば怪しまれずに穏便に済むか考えるが、答えるまでに時間を使いすぎても怪しまれてしまう。そこで口にしたのが、気がついたら学園の保健室のベッドで眠っていた、という便利な言葉だった。目を覚ましたら本当にベッドで眠っていたのだから、あながち嘘ではない。ただ、その前段階である“ナマエ・ミョウジの死”とどうやってこの学園に来たか、についてはぼかしているだけだ。

「クロウリー先生も今までこんなことはなかったとおっしゃっていました。わたしは魔法が使えたので特別にこの学園に置いてもらっているだけですが……」
「それは大変だったね。ここは男子校だし、女性のキミには耐え難いかもしれないけれど……なにかあったら先生方やボクたちに頼るといいよ」
「……ありがとうございます」

 予想以上に、リドルは優しい少年であった。そんな彼に対して嘘を重ねているという罪悪感が膨れあがるが、こればかりは致し方ない。夢の中でまで、奇人狂人扱いされるのは真っ平なのだ。

「イレギュラーと言えばさ、昨日入ってきたモンスターと男の子も雑用係になったらしいよね」

 友達? と朗らかに笑ったケイトにナマエは首を振り、そのモンスターと男の子が同居人だとも知らずに、最後の一口を食べきったのだった。


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