10.ホオズキ/偽り


「テメェ、どの面下げて来てんだよ」

 僕を詰る先輩は、サバナクローの三年生だった。
 秋に開催されるマジフト大会は、ディアソムニア寮の優勝で幕を閉じた。去年もディアソムニアが圧倒的な力を見せつけて圧勝したらしいが、今年の結果も似たようなものだ。ドラコニア先輩のプレーは反則技だと思われかねないほどに、学生が使う魔法からは逸脱しきっていた。
 ドラコニア先輩が入学なさる前までは優勝常連寮だったサバナクロー寮が手も足も出ないほどのその実力は、すべてを語らなくとも十分に伝わるだろう。
 我が寮長の活躍を思い出して苦笑した僕が気に食わないらしい先輩方は、僕の胸ぐらを掴んでそのまま地面に叩きつけた。今日のマジフト部の活動に参加したらこうなることも、大会が終わる前から──サバナクローがディアソムニアに大差で負けた段階でまあまあ予想できていたため、八つ当たりされてもなんとも思わない。けれど、痛みはさすがにある。

「とっとと失せろ!!」
「うざってぇ!! 俺らのことも本当は笑ってんだろ!!」

 自分たちが所属する寮をコテンパンにした寮の一年がなに食わぬ顔で部活に来たらそれはそれは腹立たしいだろうし、どこの寮生よりもマジフトに青春を捧げている彼らのプライドは今日の大会で木っ端微塵にでへし折られたことだろう。今年こそはと意気込み、励んでいた先輩方の姿を知っているからこそやりきれない思いでいっぱいだったものの、ここでなにかを言い返しても火に油を注ぐだけだ。全体的に気性が荒いが、気前がよく男らしい性分の先輩方だと知っている分、彼らの気持ちを考えるとなにも言えない。

「……すみませんでした」

 ディアソムニア生はマジフト部では嫌われるという話は、間違いではなかった。ディアソムニアで開かれているであろうパーティーに参加する気にもなれず、部活に顔を出してみたらこのザマだ。
 優勝寮の生徒で、こんなに暗い顔をしているのも僕くらいだろう。けれど、道行く生徒たちはそんな僕を歯牙にもかけずにすれ違っていく。
 部室で制服に着替え、あてもなく学園内を彷徨う僕は酷い顔色をしているかもしれないが、それを確認する手立てはなかった。
 無意識のうちに辿り着いたボロボロの建物は呪われた洋館のように恐ろしい有様でそこにある。背中の痣を燃やしたあの日のように建物内に入る気にはなれず、石畳の緩やかな階段を上り、建物のそばの草木の上に寝そべると薄暗い色に呑まれかけている茜色の空がよく見えた。日は、もうじき沈む。
 眠りにつく太陽に代わって、夜の象徴たる月が大地を包むだろう。星々は訪れた薄暗がりの中で目覚めを知り、空の彼方で光り輝く。
 木々が囁き、風が笑う。自然が奏でる音に疲れていた心が休まっていく気がして目を瞑れば、ここ数日寝不足だったことが嘘であったかのようにすんなりと眠気に襲われた。肌寒い季節だが、この気温で眠っても人はまず死なない。開き直って空気を吸い込むと、温かい微睡みは僕を夢の中へと引きずり込んだ。
 深く、深く沈んでいく。底なしの湖に。
 溺れて、そして目を覚ました時にはいつもあの家にいる。大きなベッドと小さなサイドテーブルしかない寝室は暗く、月の光もない新月の夜に頼りになるのは星々の明かりと彼の瞳だけだった。うっとりと両目を細める様は猫のようだと、いつも思う。手を繋いだまま眠っていたのか、握りしめている手のひらは少しばかり汗ばんでいたが、彼の大きな手は汗もかいていないように思えた。

「どうした? 眠れないか?」
「……いいえ、」
「子守歌を歌ってやろう」

 リリア様が口ずさむ旋律も、歌詞も、覚えていなかったけれど、懐かしくて夢の中でわたしはまた泣いた。彼の出征前夜はいつも手を繋いで眠っていたと思い出して、大した意味をなさない嗚咽が漏れ出る。

「泣くな。ちゃんと帰ってくる」
「リリア様」
「うん、どうした?」
「愛しています」

 どうか許さないでほしかった。愛さないでいてほしかった。わたしのことなど忘れて、他の女性と幸せになってほしかった。だけどわたしは狡くて醜いから、ずっと愛してくださっていた彼の愛の深さを心の底から喜んでいる。

「あなたの、瞳は」

 濃い色の瞳がきらめいたが、触れる前に背中に激痛が走った。燃えるように熱く、じりじりと背中の皮膚を焦がしている。
 痛い、熱い、痛い。のたうち回って叫び出したくなるほどの強い痛みはわたしが言葉を発することも許さない。死んでしまうのではないかという恐怖心から目を瞑り、痛みを耐えようとしたものの痛覚は段々と鋭さを増し始めていた。
 このままでは死んでしまう。まだ死にたくない、だけどもしかしたら、これも彼を置いていった罰だったのかもしれない。もがき苦しみ、やがて──、

「は、はっ……はぁ……っ!!」

 激しい痛みは眠っていた意識を呼び覚まし、うたた寝から飛び起きた身体は汗で濡れていた。月の光もない夜は、静かに僕を見下ろしている。
 いつもの夢か。そう再認識して安堵できたのは目覚めた直後の数秒間だけだっただろう。もう一度横たわり、何気なく額に置いた手の甲は見慣れ始めていた少年らしいそれではなく。

「ぼ、く……は」

 夜のしじまに落下した声は女のものだった。
 空には月もない。
 新月の夜は気をつけろとあれほど言われていたのに、僕は月の満ち欠けのことなど考えもせずに外を出歩いてしまっていた。身体が華奢になったせいでスラックスがずり落ちそうになっており、サイズが大きいシャツでは首元が心もとなく感じられる。

「最悪だ……」

 薬は手元にはない。寮の、自室の机の引き出しに隠している。
 まさか今夜が新月だとは思っていなかったと言えど、こんなにも易々と女の姿に戻ってしまうなんてあまりにも愚鈍すぎるだろう。寮内にいたとしたら寮生の前で女に戻ってしまっていた可能性すらある自分自身の危機管理能力の低さに思わず舌打ちをした。
 不幸中の幸にして、今のこの姿は誰にも見られていない。仮に見られていたとしたら大騒ぎどころの話では済まず、明日には荷物をまとめてこの学園を追い出されていただろう。
 新月の夜に性別転換薬を飲んだとしても効果はないが、この夜が明けてから服用さえすれば身体はちゃんと男のものになる。だけど、どうやって寮に戻ればいい。ディアソムニアの談話室の中を通り抜けなければ寮生の部屋があるフロアへは辿り着けない。加えて、今頃は優勝を祝うパーティーが催されているはずだ。人で溢れているであろう談話室内を女の姿で横切れば確実に咎められ、寮生全員に性別がバレてしまうに違いない。
 ナイトレイブンカレッジには女の子のような顔立ちの男子生徒もいるにはいる。が、シャツを押し上げて存在を主張しているこの胸がある以上、男の時よりも体格が華奢になって制服のサイズが見るからに合っていない以上、「女顔の男です!」と言い張るのも無理がある。そもそも、あの寮長と副寮長が僕の精一杯の言い訳と嘘で騙されてくれるわけがない。
 こうなったら、寮生が寮から出払う、もしくは寝静まるタイミングで寮に戻って薬を飲むしかない。けれども、どちらのタイミングも不安要素が多すぎる。寮生が出払う平日の朝を狙うのがより現実的だが、明日はマジフト大会の振替休日だ。寮内でゆっくり休む生徒が多いだろう。
 片や、寮生が寝静まった時間帯に戻ったところでヴァンルージュ先輩に見つからないとも限らない。物音ひとつでも立てようものなら異常を察知した彼に捕らえられ、すぐさま学園長に突き出されるだろう。

「……」

 どちらにしても詰んでいる。強いて言えば授業がある平日の朝を狙いたいが、そのためには明日もここで息を潜めて過ごさなければならない。一日くらい飲まず食わずでも死にはしないけれど、今の精神状態と健康状態では弱るのも早いだろう。
 背中の火傷が熱を持ち、じくじくと痛む。
 伸びた草木が夜風に揺られ、僕の顔を覗き込んだ。さっきまで見ていたリリア様の夢が引き金となっていたのは言うまでもないが、彼とより縁の深い女の姿になったことで魔力が暴走しているのだろう。全身を満たす魔力が、肉体も本来の性別に戻ったことを僕自身よりも喜んでいるのだ。
 夢の中で、リリア様になにを言おうとしたのかも思い出せない。手を繋いで、茨の谷の子守歌を歌ってくださったことだけは覚えている。
 懐かしいあのメロディーが、かさついたこの唇から漏れる。歌詞はおかしなくらいに思い出せない。音程だけしか覚えていない、歌とも言えないような鼻歌は虚しい。
 植物から逃げようと立ち上がれば、僕の魔力に侵された花々は楽しげに揺れ、開花していく。逃げようとすればするほど、急激な成長を遂げた蔦は枷のように足首に絡みつく。
 瞳に宿るゼラニウムの赤、背中に残る小さな痣、魂の器を超えて引き継がれたユニーク魔法。そのすべては、生まれた時から共にあった呪いだったのかもしれない。

「やめ、てくれ」

 魔力が暴走している。
 だけど鎮め方がわからない。
 もう寝よう、寝ないと、苦しくて死んでしまう。急に襲ってきた睡魔は僕を暗闇の世界へと誘い、育ちすぎている植物は僕の身体を受け止めた。
 誰かの、睡眠魔法だったのだろうか。
 温かい湖底へと引きずり込まれかけている僕の耳には、誰かが草木を踏みしめる足音だけが聞こえてきた。

「お前は誰だ」

 その声の主が口にした質問の答えは、僕が一番知りたかった。なんのために生まれて、なんのために前世の記憶を持っているのか、僕の存在はなんのためにあって何者なのか、一番知りたいのは、僕自身だった。
 けれどあえて、答えるならば。

「……ナマエ」

 僕はずっと、ナマエとして生きている。意味もなく、理由もなく、ただただ今を生きている。


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