11.ナルシサス/わたしのもとへ帰って


 目を覚まして真っ先に目に入ったのは、見慣れた天蓋だった。気を失う前はボロボロの廃墟にいたはずだ。魔力が暴走し、オーバーブロット直前で気を失い──誰かに声をかけられて名乗った記憶はあるが、その先の記憶はまったくと言っていいほどない。今思えば、あの声はドラコニア先輩のものだった。
 横たわる僕の目の先にあるのは見慣れた天蓋ではあるものの、僕の部屋とは明らかに匂いと雰囲気が違う。ここは、一人部屋らしい。僕が寝起きをしていた部屋は、ルームメイトたちのベッドが四隅に置かれていたはずだ。けれどこの部屋には僕が今起き上がったベッドひとつしかなく、お世辞にも片付いているとは言えなかった。
 ここは誰の部屋だ。
 寝起きで冷えていた身体が更に冷えて、凍えていく。
 見渡す限り、異国のものばかりが溢れていた。宝箱のような木箱にはこれでもかと物品が詰め込まれているのか蓋が閉まりきっておらず、開きっぱなしのクローゼットの扉には脱いでそのままかけたであろう衣服が引っかかっている。
 床に乱雑に置かれたバグパイプ、ベッドの柱にかけられているドリームキャッチャー、壁に貼られたタペストリー。楽器が異常に多いこの部屋の主は世界中を旅している旅人なのかもしれないが、統一感のない有様は奔放な性格を表しているようだった。
 身体が震える。
 寝起きからずっと感じている、嫌な予感。

「……なんで」

 小さく、高い声だった。慌てて身体を見下ろし、女のままであることに絶望を覚えた。どうやって寮に戻ったのか、どうしてこの部屋で眠っていたのか。それすらもわからないというのに、僕は見知らぬ部屋で女の姿のまま目を覚ました。
 身体だけでも男になってくれていれば、救いはまだあったはずなのだ。

「……これ、」

 往生際の悪い思考を一蹴してベッドから立ち上がるとコウモリのラグが目に入り、目眩がした。ベッドに入っていた時は気づかなかったが、布団にもコウモリのイラストが描かれている。
 椅子の背もたれにかけられたままの黄緑色のベストや、どこか牢獄を思わせる冷たい雰囲気の造りの部屋を見るに、ディアソムニア寮内だということはわかっていた。だが、好んで選んだであろう家具や寝具はコウモリモチーフのものが多すぎた。
 ディアソムニアでコウモリに最も近しい人を、僕は一人しか知らない。

「まさか……」

 まさか。そんなわけがない。
 僕は近づかないと約束した。彼も、それを受け入れた。
 違うという、この部屋の主が彼ではないという確証が欲しくて部屋を見渡した僕の視界に二つの写真立てが入った。ひとつはちゃんと立てられ、ひとつは伏せられている。
 見るなんて真似、やめておいたほうがいい。きっと後悔する。
 理性はそう囁いていたけれど、僕の手は怖いもの見たさで伏せられているほうの写真立てへと伸びていた。そもそも、飾られている写真は僕が想像しているものとは違う可能性だって──僕は、それに賭けたかった。

「ナマエ」

 心臓が、仕留められた。耳の真横から聞こえてきた声に驚き、跳ね上がった指先に当たった写真立ては床へと落下して大きな音が轟いた。
 心臓がバクバクと音を立てる度に他の臓器を押し上げるような圧迫感で吐きそうになる。短い間隔で跳ねる心音の振動は耳にまで届き、身体中が心臓になったみたいだった。

「ナマエ」

 振り向いたら、恐ろしい魔物に睨まれた獲物のように動けなくなるとわかっていた。だが、僕を呼ぶ声は揺らぎを知らない湖面のように平坦な静けさを湛えている。
 逃げられるはずもないのに、かの方を押しのけてこの部屋から飛び出したかった。
 俯いた先にある、写真立てが落ちてしまった床の上、一枚の写真が破片の奥で笑っていた。わたしに瓜二つの、女の人が笑っている。

「ナマエ」

 ゼラニウムのように赤い目が僕を見上げていた。その隣には幸せそうに笑う、彼が、

「ナマエなのか」

 いいえ、とは言えなかった。彼が“僕”と“わたし”のどちらの名を呼ぼうとしているのかは考えずともわかる。
 共に撮った最初で最後の写真は、幸せなその瞬間を切り取っている。この写真のシャッターを押した時、わたしたちは幸せになれると信じて疑わなかった。茨の谷のあの家で、ずっとそばにいられると。
 冷たい頬を流れる涙が熱かった。

「リリア様」

 どんな声で、どんな調子で、呼んでいたのか思い出せなくなったわたしの声にでさえも、そばにいらっしゃる彼の影が動揺したような気がした。
 怒っていらっしゃるだろう。過去のわたしを愛してくださっていたとしても、今のわたしはまったくの別人だろう。
 今世も愛していただけるとは、許していただけるとは思っていない。ただずっと、彼に謝りたかった。約束を果たせぬまま置いていってしまった過去も、愛してもらえた記憶を拠り所にしてしまった今も、許さなくてもいいから謝りたかった。

「もうしわけ、ありませんでした」
「……」
「約束を、破ってしまいました」

 なにもおっしゃらないリリア様の前に跪いて謝罪の言葉を口にしたが、続きが出てこなかった。
 もしも、おそばにいられたなら、わたしは今も茨の谷のあの家で彼の帰りを待っていただろうか。もしも、死んでいなければ、あの人の子をリリア様と育てていたのだろうか。もしも、彼の妻になれていたのなら、わたしはマレウス様のご成長をも見守ることができていただろうか。
 何度、何百回と後悔してもあの日は戻ってこない。
 何度、何百回と夢で彼に会えても過去は変わらない。
 遠くの日に沈んでしまった愛し日は、わたしの裏切りで幕を閉じた。リリア様が今でもわたしの写真を持ってくださっていたことには驚いたけれど、長い時を一人にさせてしまった罪は変わらない。
 落ちる涙もそのままに、リリア様のお言葉を待つ時間はとてつもなく長くも、短くも感じられた。

「……ナマエ」

 頬に触れた手は小さかったのに、ひとしずくの涙がまた落ちた時には彼の手は大きくなっていた。夢で何度だって会っていたかの方と寸分違わぬそのお姿でわたしの前髪をかき上げた彼は今に泣き出しそうに笑われた。
 懐かしみか、慈しみか。
 幸せか、悲しさか。
 喜怒哀楽にも当てはまらない、たった一言では言い表せそうにもない表情は日頃の天真爛漫なヴァンルージュ先輩からはかけ離れている。

「お前の瞳はゼラニウムに似ている。燃えるように赤くて、綺麗だ」

 床に膝を立て、わたしの目線まで屈まれたリリア様は両腕をわたしの背中に回した。

「すまなかった」
「……リリア様、離してください」
「すまんかった、ナマエ」
「リリア様、」
「すべて、見てしまった」
「なにを……」
「お主が、この学園に来るまでの人生を」

 スラムで生まれ、そしてあの地で育ったわたしの人生を、彼は見たとおっしゃった。女王に仕え続けた彼ほどの魔法士であれば、寝ている人間相手の記憶を覗き込むなど造作ない魔法だろう。それこそ、赤子の手をひねるように容易かったに違いない。
 怒りも、悲しみも湧かない。むしろ、胸に広がったのはここ数日で久々に感じる安堵だった。わたしの記憶をご覧になったのなら、一番手っ取り早く幻滅してくださっただろうから。

「幻滅したでしょう」
「……」
「わたしは盗みもスリもしました。生きていく上で、仕方がないからという理由で死人のお金も奪いました」
「……ナマエ」
「ドブみたいな街で育ったわたしは、あなた様が知るナマエではありません」
「いいや、お主は変わっておらん」
「……いいえ、変わってしまいました」

 いつになればリリア様から離していただけるのかと考えるわたしには、彼のお考えなんてわからない。数秒のあいだわたしを見つめていた彼は背中と膝裏に長い腕を滑り込ませて抱き上げたものの、すぐに下ろされ、わたしはベッドの上に座っていた。
「のう、ナマエよ」と、目の前でマゼンタが虚しく光る。

「先の大戦で、わしは何千人と人の子を殺した」
「……」
「人を殺め、尊厳を奪ったわしには愛なんてものは不必要だと──誰も愛してはならぬと思っておった」
「それは……」
「だが、お前はそんな男でさえも受け入れてくれた。いずれは解放してやらねばと思えば思うほど、愛してしまった。一度、お前の温かさを知ったら一人では生きていけぬと気づいてしまった。普通の、ありふれた幸せが欲しくなってしまった」

 されど、と言葉を切った彼はわたしの目元を撫でた。

「あまたの命を奪った罰だろう。わしはお前を失った」
「ごめんな、さい」
「謝るな。怒っていない。お前は悪くない。……ただ、知っておいてくれんか。お前がかつてのわしを受け入れたように、わしもお前を受け入れるだけの覚悟があると」

 どうしてリリア様がそのようなことをおっしゃられるのかわからない。わたしは前世の婚約者で、今世は女の身でナイトレイブンカレッジに入学してきた校則違反の一年生でしかないというのに、彼は鋭い眼光でわたしを射抜いたまま言い募る。

「今までのわしの態度を許せとは言わん。だが、二度も手放すつもりはない」

 執着と、独占欲と、いびつな愛。
 それらが混じったような瞳には、赤い目を見張るわたしが映っていた。

「逃げるなよ、ナマエ」

 伸びる、触れる、落ちてくる。彼の手も、唇も、妖精らしい傲慢さと執着をちらつかせていた。
 あなたの、瞳は。
 ピンクのサザンカのようだ。夢で言いそびれた言葉を今さら思い出しても意味がないのに、わたしは馬鹿みたいに受け身になるしかない。

「愛している。それこそ、五百年前から」

 マレウス様に「リリアの妻」と呼ばれ、シルバーには「母さん」と呼ばれ、来年入学してくる妖精の少年──セベクに「リリア様の奥様」と呼ばれることになろうとは、この時のわたしは知りもしなかったのだ。
 そして、痣を焼いてしまったことを激怒されるとも知らずに、愚かにもサザンカの瞳に溺れてしまった。


<< fin.

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