09.クロユリ/呪い


「いてて……」

 ナイトレイブンカレッジの保健室は、無駄に広い。痛む背中に負担をかけないように保健室まで向かったが、そこには誰もいなかった。まさか無人だとは思わず、端から端まで先生の姿を探してみたものの、やはり誰もいない。
 人っ子一人いないとは何事か、職務放棄ではないか。
 生徒が怪我をして治療を要しているのだから薬ぐらい勝手に拝借してもいいだろう、むしろ今の時間帯に留守にするほうが悪い。ごちゃごちゃと考えながら、戸棚から湿布や塗り薬を取り出して回転する丸椅子に腰かけると錆び付いているらしい椅子がギィギィと軋んだ。
 運動着のジッパーを下ろし、袖から腕を抜いて黄緑色のTシャツを脱ぐと男の子らしい胸が露になる。マジフト部の活動や掛け持ちしているバイトで毎日のように扱かれている成果はうっすらと割れた腹筋や引き締まった腕に出ているようだった。スラムに比べて、安定して栄養のあるものを食べられている点も大きいだろうが、僕の身体は入学直後よりも健康的な男子高校生らしくなっている。
 ぺたぺたと自分のものらしくない自分の身体に触るのも飽きて、本来の目的を思い出し、打撲に効くらしい塗り薬の蓋を開けると毒々しい色合いの軟膏が顔を出した。これは本当に人体に塗っていいのだろうか。漢方薬っぽい匂いはするが、薬品のそれとは思えないヘドロのような一見すると綺麗とは思えない色をしている。
 しかし、ラベルには「打撲用、患部に塗布。湿布を貼ること。」としっかり書いてあり、デフォルメされた人間が肩あたりを痛めているイラストまでご丁寧に描かれていた。
 いい加減に部活に戻らないと時間が勿体ない。
 壁掛けの丸時計を一瞥し、人差し指で軟膏に指を突っ込んでみたものの、ぬめっとしていて冷たい気色の悪い感触に背筋がぞわっとした。スラムにいた頃は、こういう高価な薬はほぼ使ったことがない。そのためか、こういった類の薬を使用するにはまだ慣れておらず、使おうとする度に高度な魔力が込められているその感覚に鳥肌が立つ。
 けれども掬い取った薬を無駄にするなんてことはできず、背中側に腕を回し、感触が悪い薬を塗っていく。痛みが和らいだ気がしたが、いくら高級品と言えどもそんな即効性があるとも思えないため、これはおそらく暗示による痛みの緩和でしかないのだろう。
 痛みがある場合には湿布を、と書いてある説明書きの通りに湿布を貼ろうと袋から取り出せば、湿布特有の匂いがした。

「ぐ……届かん……」

 まさか、届かないなんて思いもしなかった。僕の身体が硬いのは今さらどうしようもないことであり、患部が背中というのもどうしようもない。さっさと貼って部活に戻らなければならない。それはわかっている。が、さすがに腕が回らない。
 片手で濡れた薬とは違い、湿布は両手で貼らなければ皺が寄って剥がれやすくなってしまう。このまま戻ってラギーに貼ってもらうか……とも考えたけれど、飛行術のあとに「あちぃ!」と言って上裸状態で場所を問わずに涼むサバナクロー生のようにはなりたくない。かと言って、Tシャツを着て移動してもせっかく塗った軟膏が取れてしまう。
 正直なところ、僕の筋肉と靭帯は悲鳴を上げているのだが、四の五の言っていられる状況ではなかった。僕への苛立ちを隠さなくなったキングスカラー先輩が今日の部活に顔を出している以上、僕はさっさと部活に戻らなければ上級生たちにシメられてしまうだろう。
 人体の限界にチャレンジする僕の耳にも保健室の扉が開く音は聞こえたが、初対面の人に見られるには恥ずかしい体勢をしている僕としては無表情を取り繕うので精一杯だった。新たに保健室に入ってきた上級生と思しき先輩は数分前の僕と同じように室内を見渡し、困ったような顔をした。やはり、あの先生は職務放棄をしているとしか思えない。

「あの……今、先生いないので勝手に薬使っていいと思います……」
「ああ、そうだったのか」

 同じ空間にいて話さないのもなんだか逆に気まずくなり、なけなしの良心に従って声をかけると、緑色の髪の眼鏡をかけている先輩は優しそうな目を緩めて笑った。なんというか、先輩の理想像とばかりに輝いて見える彼は僕のイメージ通りに優しかったらしく、四苦八苦している僕を見て「大変だよなあ、それ」と同意するような目をした。

「……手を貸すか?」
「……いいんですか?」
「大変そうだしな」

 初対面かつ他の寮の僕にも優しいなんて、この人は聖人なのかもしれない。有難い言葉をそのまま受け取り、ありがとうございます、と告げると先輩は僕の背後に立った。

「赤くなってるな。結構酷い」
「やっぱりですか……部活中にディスクが当たっちゃって」
「ディスクってことはマジフト部か。そりゃあ痛い」

 労わってくれる優しい声だったものの、薬をちゃんと塗れていなかったらしく、先輩は台の上に置いておいた軟膏に手を伸ばして蓋を開けた。さすがに、さっきまで部活をしていた身体に直接触れられてしまうのは忍びない。僕が本当に男だったら気にしなかったかもしれないが、女としての捨てきれなかった部分というか、申し訳なさが胸に広がる。

「あの、そこまではしてくださらなくても……」
「俺は構わないから気にするな」
「だけど、」
「トレイ。怪我はどうじゃ──おや、ナマエか」

 運命ってのは意地悪だ。こんな風にしみじみと思うのも、一種の現実逃避なのだろうか。保健室の扉を勢いよく開けたヴァンルージュ先輩は僕を見るやいなや好意的な笑みを浮かべ、ニコニコと笑いながら僕のそばにおいでになったけれど、その笑顔の裏には苛烈な警戒心があると痛いほどに知っている。

「こ、こんにちは、ヴァンルージュ先輩」
「ああ、こんにちは。お主も怪我をしたのか?」
「はい……」

 僕がヴァンルージュ先輩に怯えていると勘違いしたらしい眼鏡の先輩は明るい声で「ナマエって言うんだな」と朗らかにのたまい、薬を塗った。今は、先輩の──トレイ先輩と言うらしい──の優しさに泣きたくなった。
 けれど、僕はすっかり忘れていた。前世の因縁が、背中に刻まれていることを。

「ナマエは背中に痣があるんだな」
「……へ」
「羽みたいな形をしてるなんて変わってるよ」

 つい見上げてしまった先で、ヴァンルージュ先輩の小さな顔から感情が抜け落ちていた。僕が気づいていなかっただけで、最初からそんな顔をしていたのか、トレイ先輩の言葉を聞いて表情を一変させたのか、トレイ先輩の優しさに泣きそうになっていた僕にはちっともわからない。
 全身の血液が沸き上がり、一瞬で冷め、凍りついていく。生命活動さえもストップしてしまったのではないかと思えてしまうような衝撃が身体中に走っていた。
 生まれつきある小さな痣は人差し指の先ほどの大きさしかないものの、白い肌には赤い痣は浮いて見えるだろう。

 ──いつか、お前がこの羽で飛んでいきそうで恐ろしい。

 よりにもよって、トレイ先輩はリリア様と同じようにこの痣を「羽」と形容してしまった。どこにもゆくなとおっしゃって、小さな痣を慈しんでくださったリリア様と同じことを。
 どうして、運命はこうも底意地が悪い。
 リリア様を数百年以上と縛りつけている僕は、彼には出会ってはならなかった。たとえわたしの写真を大事にしてくださっていても、ゼラニウムを今でも愛してくださっていても、わたしはもう、彼の知るナマエではない。
 わたしはリリア様を裏切った。
 わたしはあの時に最愛を失った。
 わたしは僕としての器を手に入れて、今を生きている。

「……まさかな」

 僕のうしろに回り、痣を見ていらっしゃるであろうリリア様はぽつりと、トレイ先輩にも聞こえないような声量でそうこぼされた。彼の中に残っているであろう記憶は、彼を苦しめる茨となってしまっているだろうか。
 あなたが、わたしの写真を見てなにを想ってくださっているのかも、わたしには知る権利もない。

「よし、もういいぞ」
「ありがとうございます、トレイ先輩」

 ぺたりと貼られた冷たさに顔をしかめることも、驚くこともない。トレイ先輩にお礼を言い、この程度のお礼じゃ失礼だとわかっていながらもTシャツを着込み、心に燻る焦燥と罪悪感を見透かされないように平静を装って保健室から出た。誰もいない廊下をしばらく歩き、曲がり角に差しかかったところで一気に駆け出したら背中が痛んで堪らなかったけれど、一刻も早くリリア様がいらっしゃる保健室から離れたかった。
 結局、その日は荷物だけ回収して部活をサボった。
 酷い顔色をしている自覚はあったし、いつものように動ける自信がなかった。
 生きていけないと思った時に、身体に残る証に何度だって救われた。けれど同時に、どうしようもなく傷ついて、前世を思う度に絶望していたのだ。

「もう、いらない……」

 いらない。僕はもう、一人でも生きていける。生きていく術を持っている。過去に縋り、あの方の偶像に縋り続けなくても、僕はきっと生きて、まっとうに死ねる。
 僕は別に、自分を虐めたいと思ったことはない。それでもこの行為は傍目から見たなら異常で歪な自傷行為だと思われるだろう。手のひらから上がる炎は、赤い舌をちろちろと揺らし、僕を誘うようにゆっくりと揺れていた。
 単なる自己満足だ。わたしが楽になって、救われるための。
 学園内のひとけが少ない場所を探し回り、ようやく見つけた校舎にほど近いボロボロの建物の中で僕は背中の痣を燃やした。皮膚が焦げてめらめらと焼けていく感覚は激痛を伴ったが、痛いのは背中なのか心なのかもわからなかった。

 今を幸せそうに生きていらっしゃるリリア様に、僕とわたしを結びつけられるわけにはいかないのだ。


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