08.ヒヤシンス/変わらぬ愛


 久々に、夢を見ていた。
 ナマエ、とわたしを呼ぶ声は懐かしく、愛おしそうだった。汗ばむ背中に触り心地のいい生地が張り付き、皺が寄っているシーツはマットレスから剥がれかけている。大きな手のひらはわたしの太ももを撫で、濃い色の瞳が不機嫌そうに細められた。

「なにを考えている?」
「……いいえ、なにも」
「久々に会えたというのに、今夜はやけに素っ気ない」

 ナマエ。
 耳たぶに触れた唇が吐息をこぼし、また名前を呼んだ。病弱そうにも見える青白い肌はいつもよりも赤く染まり、わたしを嬲る手も汗が滲むほどに熱かった。

「どうして泣くんだ」
「ごめんなさい、リリア様」

 雫のように落ちていく水滴に、彼の瞳が揺れる。夢の中でしか会えないこの方に、わたしは泣いて謝ってばかりだ。
 愛して、愛されていた。茨の谷の森の外れにあった、二人きりで暮らすには広すぎた我が家で。広い庭と、小さな池がある家。庭にはわたしが野菜や果物を育てられる十分なスペースがあって、池には蓮の花が咲き、清い水の中で小さな魚たちが泳いでいた。
 彼は、広い庭で我が子と遊ぶ日を、池の魚に餌をやる我が子と笑い合う日を、彼らしくもなく夢に見てくれいたのかもしれない。子が欲しい、と口にしておっしゃられたことはなかったけれど、わたしが望むのなら与えていてくださっただろう。

「ごめんなさい」
「ナマエ、どうしたんだ」
「許さないでください、リリア様」
「許さぬもなにも、悪いことはしていないだろう?」
「いいえ。……いいえ、リリア様」

 夢の終わりには、いつも。
 薄いカーテンしか引かれていない窓から伸びる、四角に切り取られた月光が乱れたシーツの皺に影を落としている。脱がせて、脱がせられた服はそんな光も当たらない床の上に点々と落ちていた。

「わたしは、死んでしまうんです」

 いつも、死が両手を広げて待っていた。
 彼の手が頬に触れ、そこから泡になっていく。水中で空気を孕んだあぶくのように、目にも見えないような銀色の粒は徐々に大きくなり、ぱちんと弾ける。束の間のうちに視界は暗くなって、塗り潰された世界には彼の「ナマエ」と呼ぶ声だけが響いた。
 リリア様はお許しにはならないだろう。わたしと僕を繋げる縁が細く途切れそうな糸で魂を繋ぎ合わせていたとしても、リリア様は今を生きる人間としてのナマエは愛してくださらないだろう。
 わかっているのだ。僕としてのナマエに刻まれた繋がりはどうしようもなく希薄で、出会った瞬間に惹かれ合うだなんて劇的なラブストーリーが始まるはずもなかった。
 温かい微睡みの底で沈んでいた意識が緩やかに浮上し、どこからか小鳥の囀りが聞こえてきて、木々の葉っぱが擦れる音が聞こえてくる。薄らと開けた目の先で、僕に落ちる木漏れ日が風向きに合わせてゆらゆらと揺れていた。ここはどこだろう。今は何時だろう。意識がまだ覚醒していないからか、頭がぼんやりしている。
 ここでうたた寝をする前になにをしていたか思い出す前に、横たわる僕のそばに誰かがやって来て、青々とした草を踏みしめる音がした。首を動かすのも億劫に思いながらも目を向ければ、僕とは距離を置いているシルバーが立っていた。

「ナマエ」
「……きみ」
「うなされていたぞ」

 寝起きの目には、彼の髪の色は眩しすぎる。草や花々が僕の腕や首に巻きついていたが、気にせずに引きちぎって起き上がると散った花弁が制服に落ちた。

「僕、なにか言ってた?」
「ひたすら誰かに謝っていた」
「……そう」
「植物が巻きついていたが大丈夫なのか」
「ああ、うん。そういう体質なんだ」

 彼の夢を見ているあいだは、魔力が暴走することが幼い頃からわりとあった。屋内で眠るならまだいい。なんらかの植物が植えられている屋外であの夢を見てしまったら、急成長した植物にさっきのように縛られる。それが呪いなのか、それとも他の因縁によるものなのかはわからない。
 少しずつ目は覚めてきたものの、起きたばかりだからか、それともリリア様との夢を見ていたからか、身体が酷く熱くて汗をかいている。額に張り付く前髪を払いのけ、木の幹にもたれかかってようやくフロイドがいないことに気がついた。昼休みに謎の追いかけっこをしたあと、なぜか彼と行動する事態になったのだ。機嫌がいいフロイドと購買部に行ってサボれる場所を一緒に探し回り、居心地が良さそうな中庭の片隅に座ってどうでもいい話をしていたはずだが、そのうち眠くなって僕は寝てしまったようだ。姿が見えない長身痩躯なあの少年は、お得意の飽き性が顔を出して野良猫のようにふらっとどこかに行ってしまったのかもしれない。

「お前、瞳が……」

 固まった身体を動かしたくて背伸びをしているとシルバーに肩を掴まれ、前髪も掴まれた。僕はなにか気に障ることをしてしまったのか。唐突すぎる真意の見えない行動に戸惑う僕を見つめる紫色の虹彩は、目の前で鉱石のように輝いた。

「なに? 僕の目がどうかしたの」
「……いや、なんでもない」
「ていうかさ。君、僕に近づかないほうがいいんじゃない」

 やっぱり、変わった子だ。シルバーの手が離れたので前髪を適当に整え、目覚めてからすぐに感じていた疑問を口にすると、彼は気まずそうに首裏に手を当てた。見るからに心根が捻じ曲がっていなさそうな彼には意地悪な質問だったかもしれない。

「まあ、ちょうどよかったや。ドラコニア先輩にこれ渡しといてくれないかな」
「……これは」
「反省文だよ。学園長に寮長に提出するよう言われてたけど、僕はヴァンルージュ先輩に警戒されてるからそうもいかないし」
「昨日のアレのか」
「見てたんだ」

 ああ、と頷いたシルバーは意外にもあっさりと反省文を受け取り、ジャケットの内ポケットに仕舞った。「自分でお渡ししろ」と言われると思っていたものの、ダメ元でお願いしてみて正解だったようで、彼は眠たげな目を擦って僕から離れた。
 しかし、何気なく見ていた背中は揺れ、なぜか振り返った彼の薄紫色の瞳ともう一度目が合った。どんな言葉を用いても表現し難いであろうその表情は、悲しいのか、寂しいのか、よくわからない。

「ナマエはゼラニウムの花言葉を知っているか」

 彼が問うた刹那、僕らのあいだに秋らしい肌寒い風が吹き抜けた。
 頬に残る熱っぽい痛み、全身を侵す怠さ、まだ正常に働いていない頭。そんな悪条件が重なりに重なったせいかもしれない。なんとなく、芝生の上に立つシルバーの姿は過去のリリア様のお姿に重なった気がした。思えば、わたしが知るあの方の口調はシルバーのそれにそっくりだったような……そんな、定かではない記憶があるのだ。
 黙ったまま僕の言葉を待っているシルバーの視線から逃れ、薄紅色が混じり始めている空にゆったりと居座っている雲を見上げた。彼の顔を見たままでは、なぜだか言えないと思った。

「知ってるよ」

 ──アイヴィーの瞳はゼラニウムに似ている。赤くて、綺麗だ。
 何度言われたかもわからない。わたしがそれを知らないはずもない。リリア様にゼラニウムの花言葉を教えたのは、わたしだったのだから。
 僕よりも先に口を開いたシルバーは薄い唇を小さく動かし、けれどよく聞こえる声でのたまった。秋の風に乗るその声は芯が強そうな彼らしい力強さを残したまま僕の鼓膜を震わせる。

「君ありて幸福」

 お前がいれば幸せだと。
 そんな意味を込めて、戦地に向かわれる直前の夜が来る度に彼がこの瞳を褒めてくださっていたことはわかっている。どうかご無事でと願うわたしに、背中の痣に口付けた彼は「お前の瞳を見せておくれ」と言っては愛してくださった。愛していると口にして告げる人ではなかったが、花になんて小指の先ほどの興味もなかったくせに随分とまどろっこしい愛情表現をする方だったのだ。

「どうしてそれを僕に?」

 込み上げそうになる感傷と哀切はシルバーの前だからと押し留め、湿布とガーゼが貼られている頬を無理やり動かして笑った。

「いや……ただ、親父殿が話していた奥様との思い出話を思い出しただけだ」
「思い出話?」
「親父殿は、ゼラニウムの花が好きなんだ。女王に仕えていた時から、好きだったとおっしゃっていた。ナマエさんの瞳の色はゼラニウムのようだったからと」

 全身の毛穴が開き、汗が噴き出すような嫌な悪寒がした。どうして気がつかなかったのだろう。
 人間であるはずのシルバーは妖精たちが暮らす茨の谷の出身で、彼のお父様は女王に仕えていて、彼のお父様の奥さんはナマエという名で──彼を取り巻くすべてには、点と点の繋がりが隠れていた。結婚直前で命を落とした身で奥様と呼ばれるのもおかしな話ではあるものの、女王に仕えていた者たちの中でナマエという名の女を娶った男はいなかったし、当時の茨の谷にも、その名を持つ娘はわたししかいなかったはずだ。

「……口が滑りすぎたな。すまない、忘れてくれ」

 シルバーはため息をつき、口を閉ざした。反省しているらしい彼は、考え込む僕にはお構いなしに早々と離れていく。
 彼を引き止めて、リリア様に育てられたのかと聞けるような勇気はない。考えなしに聞いてしまってもまた怪しまれてしまうだろうし、首肯されてしまっても僕が苦しくなるだけだ。だって、シルバーは僕に言ったのだ。初めて鏡舎で会話をして、寮の前で名乗った時に、確かに言ったんだ。

『親父殿は……いつも、ナマエさんの写真を見ていらっしゃる』

 憎く思っている女の写真ならば普通は見ないだろう。数百年も前の写真なんて残さずに、リリア様は迷うことなく塵になさってしまうだろう。
 けれど、見ていた。いつも、見てくださっていた。
 自惚れでもないのなら、リリア様はもしかしたら──ずっとずっと、わたしを愛してくださっていたのかもしれない。彼の隣に立つなど烏滸がましいわたしを、忘れないでいてくださったのかもしれない。
 何百年ものあいだ、人々にとっては永遠にも思える年月を重ねて。


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