07.フリージア/親愛の情
「僕は食べ物を無駄にする奴が一番嫌いだし、なんなら他人を馬鹿にする奴も大嫌いだ!!」
──わたしは食べ物を無駄にする方も、誰かを無闇に見下す方も大嫌いです。
なぜか、あの子どもの言葉に“彼女”の姿を思い出した。彼女は血が似合わない女だったが、確固たる意志を持つ女だった。
かの少年は血だらけの姿で長身の人の子相手に果敢に挑んでいる。まったく違う。違うはずなのに、奇妙な違和感を覚えた。
「親父殿? いかがなさいましたか」
「いや……なに、ちと懐かしかっただけじゃ」
もしも生きていたら、シルバーを共に育てたであろう女。己がかつて愛した女と同じ名を持つ人の子は、食堂のド真ん中で暴れ回っていた。
◇
僕が教室に入るなり、クラスメイトたちは肩や背中を叩いたりからかったりと大忙しだった。
「おう、英雄」
「ボッコボコだな、マジ」
「血濡れだったぜ」
昨日の僕は本当にとんでもないことをやらかしたというのに、クラスメイトのサバナクロー生たちは「見直したぜ!」と言わんばかりに僕を労っている。余計なお世話だ。純粋に褒められても嬉しくないし、喧嘩の強さで彼らに認められるかどうかが決まるなんてどこぞの不良校のようだ。ここは名門校ではなく荒地の不良学園だったのだろうか。
「骨とか折れてねーの?」
「いや、折れてはないよ。殴られたところはめちゃくちゃ痛いけど」
「だろうな!」
僕の頬は真っ赤に腫れ、唇や口内も切れている。保健室の先生にはしこたま怒られた挙句に乱雑に消毒液をばしゃばしゃとかけられたので、あそこにはもう行きたくない。魔法で治療できるにも関わらず、治癒魔法を使ってくれないなんてなかなか鬼畜で手厳しい先生だ。
席につき、まだ熱を持ちじんじんと痛みを訴える頬に手を当てながら鞄の中からテキストやペンケースを取り出すと、昨日出し損なった反省文が一緒に顔を出した。それを見た瞬間の僕は、思いっきり苦々しい顔をしていたと思う。
本当に、どうすればいいのかわからない。
ヴァンルージュ先輩との約束を破ってドラコニア先輩に接触すれば、待っているのは退学よりも恐ろしい末路だけだ。よくて退学処分、悪くて殺処分。最悪の想定が本当に最悪すぎてもはや笑えてくる。
ラギーに言ったら今さらッスかと呆れられそうだけれど、最近の僕はことごとく自分から厄介事に突っ込んでいる気がする。まず、すぐに手が出るというこの気性の荒さをどうにかすべきなのかもしれない。
スラムでは抵抗しなければ犯罪に巻き込まれたり、若い女の子どもという理由だけでそういう店に売り飛ばされたりするが、多少は平和ボケした少年たちしかいないボンボンだらけの名門校──天下のナイトレイブンカレッジならばひっそりと過ごしても生きていける。拳で解決する必要もない。何事も、大人しくしておけば済むということだ。
そっちの問題についてはすぐに解決したものの、一番の深刻な大問題は寮長への反省文提出イベントだ。学園長やその他の先生方に提出するならば僕もこんなに気に病まなかったが、提出先がドラコニア先輩となれば僕は相応の覚悟を決めなければならない。他のディアソムニア生に頼めるならとっくに頼んでいるし、そもそも彼らはドラコニア先輩を怖がって話しかけられない。
つまり、言わずもがなで状況は詰んでいる。二年生にはドラコニア先輩に話しかけられるような人はいるだろうか。もしもいたらその人に託すしかない。だが、運良く見つけられるとも限らない。
……本気でどうすればいいのかわからなくなってきた。なにをしても間違っている気がしてきて頭が痛む。
午前中の授業のノートを取りながら必死に考えたが、これといった名案はひとつも浮かばないままに昼休みに入ってしまった。一人で二年の教室前の廊下をうろちょろしている白シャツの一年は嫌でも目立つ。しかも、昨日の今日で殴り合いの喧嘩をした僕の容姿をそれなりに覚えている先輩方が多いらしく、突き刺さる視線はどこか珍獣を見る観察員のもののようだった。
もう、大人しく食堂に行って昼食を食べたほうがいいのかもしれない。口の中が切れているから食べられそうなものは限られるけれど、なにかは口にしたほうがいいだろう。
「おや、あなたは……」
なにひとつ収穫を得られなかったことに肩を落としながら歩いていたら、廊下の曲がり角でフロイドと出くわした。昨日から、少しも嬉しくない出来事が連続して起こっているのはなぜなのかと考えても、フロイドは依然としてにこにこと笑っている。そこで初めて、おや? と思った。僕の知るフロイドは口を開けて笑うし、制服はもっと着崩していたはずだ。
そういえば、ラギーは昨日の飛行術の授業でリーチ兄弟だとか言っていた気がする。片割れ、とも言っていたから、フロイドにそっくりなこの少年はもしかして──、
「僕はジェイド。ジェイド・リーチと申します。あなたはナマエさんですよね?」
胸元に手を当て上品に微笑む様は洗練された紳士のようだったが、かえって裏を感じさせる笑顔と恭しい態度に思わず後ずさると、ジェイドと名乗った少年は長い脚を駆使して僕を一瞬で追い詰めた。彼が僕に喧嘩を吹っ掛けるれっきとした理由──フロイドを殴ったり蹴ったりした僕への報復を前提にジェイドが紳士然として話しかけているのなら、反省文提出イベントを遂行できていない僕は大人しくていなければならない。さすがに、反省文を二回も出したくはなかった。
「ああ、そんなに怖がらないで。僕はただあなたとお話がしたいんです」
「お話……?」
「ええ。昨日、フロイドが上機嫌で帰ってきたんです。『フグちゃんおもしれー』と言って。フグちゃんとは、ナマエさんのことではありませんか?」
「フグちゃん? 僕じゃないと思うけど」
これがいわゆる年の功というものなのか、前世の記憶もプラスされている今の僕には表情を微塵も変えずに嘘をつくことは容易い。良心は多少痛むが、仕方がない。
「僕はこれから寮長に反省文を出さなくちゃいけないんだ。また今度ね」
「……そうですか、それは残念ですね」
「うん、ごめんね」
それじゃあ、と軽く手を振り、ジェイドに背を向けた。しかし、僕は本当に神様に見放されていた。
「あ、フグちゃんいたぁ」
ああ神よ、僕がなにをしたと言うのですか。
防衛本能だったか、第六感だったか、その声が聞こえてきた瞬間に廊下を駆け出した。幸いなことに、ほとんどの生徒が食堂に出払っている昼休みの廊下はひとけがない。走ると口内に振動が伝わって切れてしまっている場所が痛んだが、正直それを気にしていられるような余裕はない。
「あは、追いかけっこ? いいよ〜、オレも好きだし」
僕を追いかけてくる声がなぜ友好的なのかはわからない。階段を駆け下り、中庭を走り抜け、また階段を駆け上がる。校内での逃亡劇を繰り返し、昼休みもあと三十分ほどで終わろうかという頃には、僕もフロイドも息切れしていた。フロイドの腕章はオクタヴィネルのカラーリングであるため、他のオクタヴィネル生のように彼もまた元は人魚なのだろう。陸一年目だと侮っていたが、僕を追いかけ続けた彼の運動神経は光るものがある。
「もう無理……ゔ、苦しい……」
ついに限界を迎えて階段の踊り場に座り込むと、フロイドも昆布のようにへなへなと座り込んだ。どちらも肩で呼吸を繰り返し、汗をかいている。肺も心臓も痛い。
「喧嘩、しないからね……」
「はぁ、はぁ……喧嘩? しねーし……ムリじゃん、こんなの」
フロイドの言う通りだった。そりゃあ、こんな状況じゃどっちも動けない。呼吸は徐々に落ち着いてきたが、酷使したふくらはぎや太ももの筋肉が悲鳴を上げ始めていた。走り回ったせいで白い頬が少しだけ赤くなっているフロイドを見れば、彼は口を半開きの状態にしたまま俯いていた。相当苦しいらしい。
「……君さあ、寮長に反省文出した?」
数分して呼吸が楽になり、聞くと彼は素直に答えた。
「出せってうるせーから出したぁ」
「え、寮長も学園長になにか指示されてたってこと?」
「そうなんじゃね? 知らねーけど」
反省文を受け取るように、と学園長が直々にオクタヴィネル、ディアソムニアの寮長両者に言っていたとしたら──僕はドラコニア先輩を待たせているとんでもなく無礼な一年である。
「ヤバ……っ、え? フロイド、この手はなに?」
座り込んでいる暇はないと慌てて立ち上がったが、手首を掴まれカクンと膝から力が抜けた。
「ね〜、飯食いに行こうよ。オレ、腹減った」
「だから喧嘩はしないってば……食堂でまた殴り合いたいの?」
「ちげーし。フグちゃんはなにが好き〜? 俺はねぇ、タコ焼きが好き〜」
「はっ……!? フロイド!! 降ろして!!」
フロイドの肩に荷物のように担がれ、手足を動かしてみたけれど両足が地面から完全に離れてしまっている時点で僕には不利な体勢だった。思いきり動けばフロイドはよろめくものの、僕を落とす気配はない。かなり短い付き合いでも、気まぐれな彼なら「飽きた、バイバイ」と言って僕をどこかに放り投げそうで恐ろしいのだが、僕が話さずともずっと話しているフロイドはなんだか機嫌がいいようだった。
僕を抱えるフロイドとすれ違う生徒たちは振り返ったり、ニヤニヤしたり、なにかと楽しそうだ。僕本人は少しもそんなことはないものの、走り回ったせいで頭も身体も疲れきっているため抵抗はとうに諦めている。
「フグちゃんさぁ、ちっこいねぇ」
「……そうだね」
ようやく食堂に着きフロイドに解放された頃には、昼休み終了まで二十分を切っていた。あと少しで午後の授業が始まるということもあって人も疎らな食堂内はいつもより静かで、一番前のテーブルに並んでいる料理はほとんどなくなっている。
かなりお腹がすいていたらしいフロイドは残念そうな声を上げ、薄い腹の上を摩った。
「あーあ、なんもねぇじゃん」
「僕、食べなくていいや。口にしみて痛いし」
「じゃあ購買部行こ〜」
「いや、授業始まるよ」
「そんなのサボればいいだけじゃん」
「僕は……まあ、いいか」
ナイトレイブンカレッジの授業形態は、サボり魔が多すぎるが故に寮長や副寮長にわざわざ連絡が行くことはあまりない。実力至上主義であるこの学園は、基本的になにをしようと──喧嘩をしようが商売をしようが──原則的には自己責任になるのだ。
色々と、最適解も出せないのに考えなければならないことについて頭を悩ませるのにも疲れきっている。だから少しだけ、僕は休みたかった。
「どこ行くの」
「購買部でなんか買ってぇ、あとはテキトー」
「ははっ……そっか、テキトーか」
大海原みたいに気分屋なフロイドらしい答えに笑ったら、彼もギザギザの歯を見せて笑った。自由気ままで、誰にも縛られない彼の生き方が、今の僕には輝いて見えた。