04.アイヴィー/永遠の愛


「ナマエです」
「ナマエ……? そうか、ナマエか。良い名じゃ」

 どんな声で呼んでくれていたかも思い出せないくせに、その口でわたしの名を呼んでくれたことが嬉しくてたまらなかった。




 例の歓迎会から数日、ディアソムニア寮の寮長はマレウス・ドラコニア、副寮長はリリア・ヴァンルージュだと明らかになった。
 どうやらマレウス様……否、ドラコニア先輩は茨の谷の次期王となるお方らしい。まあ、だろうなと思う。あの気配と魔力からして只者ではない。彼は王としての見聞を広めるためにこの学園にご入学なさったのだろう。それは容易く推測できるが、問題は後者──副寮長のほうである。
 リリア・ヴァンルージュ先輩はあのリリア様なのか、それとも同姓同名のまったくの別人なのか。生憎、数百年以上前の彼のお顔立ちとお声をはっきり覚えているわけではない。
 リリア様とヴァンルージュ先輩をイコールで結びつけて確信できるような判断材料はないが、王子のお名前を気軽に呼び、砕けた口調で会話をするという、そういった態度が許されるのは城に仕える権力者のみだ。つまり、ヴァンルージュ先輩は一朝一夕の信頼と功績だけでは手に入れられない地位にいらっしゃる。永劫にも感じられる永い時を、忠誠を誓って過ごさなければ得られないような地位だからこそ、ヴァンルージュ先輩は女王に長らく使仕えていらっしゃったリリア様ご本人で間違いないと思うのだ。
 未だにご健在でいらっしゃったことを嬉しく思う。しかし、幾重もの戦場を駆けた彼があのお姿で生活をしていらっしゃる理由がわからない。それに、口調や雰囲気もすっかり変わられた。わたしが死んだあとに色々なことがあったのかもしれないが、残念ながらわたしはそれを知る権利もない。リリア様はわたしの知るリリア様ではなく、ナイトレイブンカレッジの学生──ディアソムニア寮副寮長リリア・ヴァンルージュだった。
 少しだけ。ほんの少しだけ、寂しい。
 わたしがよく知る彼のままで、いてほしかった。
 これは、単なるわがままだ。長く生きていれば、自分も環境も変わっていくのは当たり前のこと。時代の変遷に伴って変わられていかれたであろう彼に、寂しくて悲しいと思うのも烏滸がましい話なのだ。
 わたしがスラムで育ち、小さな人の子たちと共に育ち、かつてのラストネームを忘れ去ったように。わたしもまた、リリア様の知る“ナマエ”ではなくなっているのだろう。
 けれど、わたしが彼の婚約者であった証拠はちゃんと形として残っている。瞳に宿るゼラニウムの赤、背中に残る小さな痣、魂の器を超えて引き継がれたユニーク魔法。
 リリア様との因縁に、わたしは安堵していた。彼の中からわたしという存在は消えてしまっていたとしても、わたしの身体にはこんなにも残っている。それが、それだけが、泥水を啜って生きてきた二度目のわたしにとっての救いだった。
 どんなに消えてしまいたいと思っても、そんな夜に限ってリリア様の夢を見た。目覚めたら彼の声も言葉も思い出せなくなってしまうおぼろの夢の中で、わたしは明日を生きる希望を見る。置いていった過去を彼はきっと許してはくれないと思っていながら、好きに美化した幻を見続けるわたしは滑稽で、愚かだけれど。
 愛された心も身も守っていかなければと強く思えたのは、リリア様のおかげだった。そうでなければ、わたしはこの身体を売って、二束三マドルのお金で生活していただろう。
 人の子として生まれて十六年が経った今では、一人で生きていける力はそれなりにあると思う。ナイトレイブンカレッジへの入学が認められていなかったとしても、まあそれなりに生きていけただろう。今とは違った道を歩む姿を想像して自画自賛してみたが、衣食住が揃っているこの学園はスラムで生きるより遥かに魅力的だ。制服一式を揃えるまでの余裕はないものの、シャツとスラックスさえあればわりとどうにかなる。ただ、ジャケットがないので腕章を付けられない。腕章がないと所属寮がわかりづらくなるため教師陣や先輩方にはなんとも言えない顔をされてしまうが、バイト代が入り次第ジャケットも購入するという条件付きで今は目を瞑ってもらっている。

「ナマエくん、次薬学室ッスよ」
「んー」
「ったく、寝る間も押しんでバイトするからそうなるんスよ」
「ラギーには言われたくないよ」

 シシシッ、と笑ったラギーはテキストを持っていないほうの手でわたしのマジカルペンを取った。緑色の魔法石がはめ込まれたマジカルペンは寮を見分ける唯一の品だ。

「ナマエくんってディアソムニアって感じしないッスよね」
「ラギーは一目でサバナクローってわかる」
「そりゃそうでしょ」

 なに言ってんスか、と呆れ顔で呟いたラギーはわたしを置いて教室から出ていく。置いていくのは構わないが、マジカルペンは返してもらわなければ困る。

「ラギー、返して」
「はいはい」

 慌てて追いかけた背中も、わたしと同じようにシャツの白さが目立つ。
 ジャケットを着用していないわたしとラギーは授業が始まった当日に職員室に呼び出され、それがきっかけで親しくなった。同じクラスになった彼とは、似たような境遇で育ったからこその仲間意識と親しみがあったのだ。なにせ、この学園は苦労知らずのボンボンが多い。貧しい出身の生徒が圧倒的に少ないため、価値観が似ているわたしとラギーは必然的に一緒にいることが多い。
 同い年の友人ができて嬉しいものの、ジャケットを着ていない新入り二人が一緒にいると嫌でも目立つからうんざりする。名門校だと聞いていたのに、絡んでくる不良がそこそこ多いから辟易してしまうのだ。

「そこの新入生、ちょーっと顔貸してくんね?」

 そう。たとえば、こんな風に。
 廊下の隅でたむろっていた上級生たちに一瞬だけ嫌そうな表情をしたラギーは瞬時に取り繕い、へらへらと笑って「なんスか?」と愛想よく答えた。

「俺ら今さあ、金ないんだよね」
「バーカ、こいつらのが金ねえって!!」
「でも持ってるかもしんねーじゃん?」

 育ちはいいはずなのに、言葉遣いのせいで頭が悪そうに見えていることを彼らは自覚したほうがいい。ゲラゲラと笑うガラの悪い生徒たちを視界の端に捉えつつひっそりとしたため息をつくと、腕を掴まれた。
 わたしとラギーのどちらかが大柄だったなら絡まれることもなかっただろうが、わたしの身長は平均以下だしラギーも獣人族の中では小柄なほうだ。わたしたちを完全に舐め腐っているであろう先輩方は嫌な笑顔と余裕綽々そうな態度を崩さない。

「無視すんなよ」
「……すみません」
「謝るなら誠意見せろや」

 いくら謝り倒してもお金を渡さない限り解放してくれないくせに。思いきり睨みつけてやりたいが、これ以上の面倒事はできるだけ避けたい。わたしと同じく事を大きくしたくないらしいラギーも、相変わらず調子よく笑っている。

「すんません、オレら授業に遅れるんで……」
「はあ? んなの知るかよ! 大人しく金渡せよ」

 こっちのほうが「知るかよ」という話である。彼らが金欠になろうがなんだろうがわたしたちには一切関係のない話だ。そもそも、人が汗水垂らして稼いだものを横から奪おうだなんてそんな都合のいい話があってたまるか。
 ぶちん、と頭の中でなにかが千切れた。
 握った拳を振りかぶると、わたしのストレートは先輩Aの腹にクリティカルヒットした。無様な悲鳴をあげながら吹っ飛んだ彼はふらふらと立ち上がり、腹を摩っている。

「なにやってんスか、ナマエくん! そんな面倒なことやんなくても……!!」
「今舐められたらこれから先も舐められるよ」
「そりゃそうッスけど!」

 盗みにスリに、殺人、人身売買。スラムは犯罪のオンパレードだ。そんなところで育ったわたしたちを、絶対的な弱者だと下に見るから噛みつかれる。

「この野郎……!! 優しくしてやってたのによォ!!」
「ぶっ殺してやる!!」

 性懲りもなく元気に挑んでくる先輩方に、めんどくせぇ、と思ったのはわたしだけではないはずだ。ラギーも覚悟を決めたのか、肩を竦めてネクタイを緩めた。
 入学したばかりの一年生と上級生の喧嘩はそれほど面白みがあるとは思えないが、囃し立てる声で廊下は騒がしくなっている。いい機会だ。ただの貧乏人ではないと知らしめるにはちょうどいい。

「オラァァア!! っぶ!!」

 喧嘩の“け”の字も知らなさそうな弱っちいパンチをいなして顔面に拳を叩き込んだら、先輩Aは鼻血を吹き出しながらうしろ向きに倒れた。またしてもクリティカルヒットを出してしまったようだ。今日は身体の調子がいい、ツイてる。
 あとはラギーが先輩Bに対してどう出るかだが、問題はなさそうだ。

「ぐえっ」

 ラギーに吹っ飛ばされた先輩Bの声は潰されたカエルの鳴き声のようだった。揃いも揃って間抜けというか、後輩に挑んだ結果が惨敗だなんて格好つかない人たちだ。


  ◇


 その日の午後の授業は、比較的平穏に過ごせた。こんなに楽なら最初から喧嘩買っとけばよかったッスねぇ、とラギーは笑っていたものの、彼は少しも本気を出していないだろう。体力育成の授業での様子を見ていたらわかるが、ラギーの身体能力は目を見張るものがある。今日だって、先輩Bを殴り飛ばしたあとに浮かべていた表情には余裕があった。さすがは獣人族と言わざるを得ない身のこなしと、自身よりも上背のある相手を一発KOさせる高い技術には敵いそうにもない。

「待て」
「……なにかな」

 ラギーと鏡舎で別れ、ディアソムニア寮の鏡の前に向かおうとしたわたしの前に銀髪の少年が現れ、通せんぼされてしまった。見るからに強そうだ。獣人に比べれば幾分華奢ではあるものの、服の上からでも鍛えていることはわかる。
 確か、この子はドラコニア先輩の護衛だったはずだ。その若さで与えられる役職が護衛だとは恐れ入るが、優秀であろう彼に話しかけられた理由として一番に考えられるのは、わたしとラギーが起こした私闘についてだろう。己の主君が寮長を務めている寮の生徒が、かのお方の顔に泥を塗ったとなれば注意もしたくなるに違いない。

「……喧嘩したことについての説教? それなら、ハーツラビュルの先輩たちに言ってくれないかな。僕は売られた喧嘩を買っただけだよ」
「それはどうでもいい。俺と手合わせしてくれないか」
「ごめんちょっと待って? 怒ってたんじゃないの?」
「なぜだ」
「いや、君はドラコニア先輩の護衛だし……ディアソムニア寮生としての自覚を持て!! くらい言われると思ったんだけど」
「……確かに」
「気づくの遅いよ」
「お前の腕っ節を見て手合わせしたくなったんだが……そうか、ディアソムニア寮生の品位に……ぐぅ……」
「えっ!? ちょっと、倒れる!!」

 会話の途中で、彼の身体がぐらっと傾いた。頭から倒れたら危ない。鞄を放り投げて身体を支えると、彼は遠慮なくわたしに身を預けて眠り始めた。いきなり話しかけてきたかと思えば眠り出すなんて癖が強過ぎないか、この子。いや、それ以前に──ナイトレイブンカレッジは変わり者が多すぎる。様々な人種が入り乱れて入学してくるのだから個性があって当然なのだが、今はそれどころではない。

「重い! 起きて……!!」

 筋肉の塊を長時間支え続けるほどの筋力はない。肩を揺さぶり、髪を引っ張り、最終手段として急所を蹴りあげようとしたところで「う……」と低い声が聞こえてきた。

「はっ……!」
「……いきなり寝ないでくれる?」
「すまない。つい眠ってしまった」
「つい、で眠れるものなの?」
「ああ」
「すごいじゃん、才能だよ」
「そうなのか……?」
「うん。僕は寝るのあまり好きじゃないし」
「それはそれで羨ましいんだが」
「ふぅん。僕は逆に君の体質が羨ましいけど」

 放り投げた鞄を肩にかけ直し、鏡の前に立ったわたしの隣に彼も並んだ。どうやら、彼もこれから帰寮するつもりらしい。右足を灰色の鏡の中に突っ込み、引きずられるような感覚に身を任せるとあら不思議。目の前には暗い雰囲気の建物が現れる。
 わたしに続いて鏡から抜け出た彼は、今も眠たげだ。突然居眠りされても次は対処できる自信がないので釘を刺しておいたほうがいいかもしれない。

「ここで寝ないでね」
「わかってる」
「寝たら置いてくよ」
「わかった」
「ところで君、名前は? 僕はナマエって言うんだけど」
「……ナマエ?」
「なんなの、ドラコニア先輩と同じような反応しないでよ。ていうか、君の名前は?」
「俺を育ててくださった方の奥様の名前もナマエさんだった」
「ねえ聞いてる? 奥さんの名前がナマエさんだったのはわかったけど、僕は君の名前も知りたいよ」
「親父殿は……いつも、ナマエさんの写真を見ていらっしゃる」
「ねえねえ、人の話を聞いてる? お父様がナマエさんを大好きだってことはわかったって。君の名前は?」
「いつか、俺もお会いしてみたかった」
「……ソウデスカ」

 わたしは諦めた。この子は人の話を聞く気がない。
 変なスイッチが入ってしまったらしい彼は、悲しげな表情で唇を噛んでいる。彼から醸し出されるどんよりとした空気がとてもつらい。初対面でこの雰囲気はあんまりだ。心做しか、足取りも重くなった気がする。彼のお父様が奥さんの写真をいつも見ていらっしゃるということは、そのナマエさんはすでに亡くなられているんだろう。

「元気出しなよ」
「……ああ。一番おつらいのは親父殿だ」
「優しいね、君」

 話を少しも聞いてくれないきらいはあるが、彼は優しい子のようだ。いい子を見ていると前世の記憶に引きずられて褒めたくなるから困る。
 先ほどとは打って変わってキリッとした表情で前を見据える彼の瞳は寮のほうへと向いていた。

「俺もいつかは……親父殿にご恩を返したい」

 頑張って、と軽々しく言えるような声色ではなかった。なにも言えないまま、意味もなく鞄の持ち手を握ると安っぽい肌触りが手のひらに伝わってくる。
 いきなり寝たり人の話を聞かなくなったり、ちょっと変わっていて心優しい彼を育てたお父様がどんな方なのか気になった。


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