ナイト・イン・ザ・ウォーター 02


「お前に永遠をくれてやろう」
「えっ」

 胡散臭すぎる魔女の登場は、ナマエにとってまさに青天の霹靂、フィクション映画もびっくりな急展開だった。




 デイヴィス・クルーウェルはナマエという一人の女性に関して勘違いしている。これはクルーウェルに限った話ではないのだが──ナイトレイブンカレッジの養護教諭は決して経験豊富な人魚ではない。むしろそっち方面の経験はゼロを遥かに超えてマイナスに突っ切っている。
 まず、彼女はかなりうぶだった。異性に手が触れれば肩を揺らし、口説かれれば困り果て、好意を向けられれば心の中で大慌てする。ではなぜ、周囲に「経験豊富で色気たっぷりなセクシー人魚」だと勘違いされているのか? それはナマエという女が、上辺を取り繕う行為が非常に巧みだったからである。彼女の心はどんなに大荒れだとしても、くすりと笑えば大抵の男は陥落し、意味ありげに流し目をすれば老若男女問わず頬を染める。彼女が持つ生まれつきの美貌は厄介でありながらも同時に便利なものだった。
 人形のように美しい貌から匂い立つ退廃的な色気。誰もが振り返り、見惚れる美の結晶。抜けるように白いシルクのような肌に並ぶ、人を引き寄せて離さない水晶のような瞳。

 ──つまるところ、見目が麗しいが故に起きた悲劇である。

 生来の口下手さも相俟って、ナマエの本来の姿を知っている者たちはこぞって「ミステリアス」だと囃し立てた。
 教師と生徒。
 大人と子ども。
 そんな関係であってもナマエを手に入れようとする生徒はあとを絶たず、熱烈なラブコールに辟易した彼女はついに野暮ったい格好をするようになった。これが、デイヴィス・クルーウェルがナイトレイブンカレッジに入学する約三十年前の話であり、監督生やグリムが入学してくる年まで続くことになる彼女なりの自己防衛であった。
 故郷の海に帰省した際に不老不死の呪いを受けたナマエは長いあいだ学園で働いているが、呪いを解いてくれるような人間と出会った試しはない。真実の愛のキスこそが呪いを解くだのと魔女は言っていたものの、とても残念なことに──大事なことだから二度言うが、彼女は真性のうぶであった。
 ちょっといいかも、なんて思う男性がいてもアプローチはできず、どんな風に振る舞えばいいかわからなくてかえって冷たい態度をとってしまう。そうして気がつけば、“ちょっといいかも”と思った男性たちは目元の小皺が魅力的なダンディな中年男性へと成長を重ねている──そんなことが一度や二度ではなく。
 年齢イコール恋人いない歴。とは、よく言ったものだ。ろくに手を繋いだこともキスをしたこともないナマエは耳だけが肥えて、耳年増な処女を拗らせてしまっている。十代の少年少女でさえもっとまともな恋ができるに違いない。彼女自身、そう思わざるを得なかった。

「あなたはどうして不老不死なんですか」

 プールサイドに腰かけ、スラックスを膝元まで捲りあげた足をプールに入れている少年は大人びていた。近寄り難い、賢そうな鋭い瞳は夏の暑さもものともせずに涼しげに細められていた。
 時刻は午後十時十七分、あたりは闇に暮れている。
 数週間前から顔を出すようになった少年の名はディヴィス・クルーウェル。のちにナイトレイブンカレッジの理系科目を担当する教師となる、理系科目が得意な優等生だ。

「さあ、忘れた」
「嘘でしょう」
「どうかな」
「あなたはいつも嘘をつく。なんでも、嘘だ」

 他の生徒よりも頭ひとつふたつ飛び抜けて優秀な彼は人魚の正体について出会った数日後には見破り、暇を見つけてはナマエに会いに行った。雨の日も、試験の日も、ふらりと気まぐれに。
 彼女は生徒と過ごすこの時間が嫌いではなかった。それはひとえに、デイヴィス・クルーウェルという少年が本来の彼女の姿を知ってもそれまでの態度を一変させなかったからである。
 入学当初から、クルーウェルは「冴えない養護教諭」ではなく一人の女性としてナマエに最上の敬意を払い続けていた。彼も、均整の取れたプロポーションを台無しにするような彼女のファッションに関して思うところはあるし、彼が身につけるファッションそのものに譲れないこだわりはある。しかし、妙齢(に見える)の女性に理想を押しつけたり、非難したりはしない。そもそも自身の理想と趣味で恋人でもない女性を着飾ろうなどナンセンスだ───そんな美徳を、十代にして持ち得ていたのだ。
 時には授業の愚痴を。
 時には友人の話を。
 時には家族の思い出話を。
 クルーウェルは卒業するまでナマエのもとに通い続けた。教師と生徒という関係ではあるものの、親しい友人のような、そんな関係だった。そして、世間を未だ知らないいたいけな生徒は美しい人魚の毒牙に落ちた。

「先生、好きです」

 ナイトレイブンカレッジの卒業式の日、ナマエはクルーウェルに迫られた。彼の好意に微塵も気づいていなかった「ええ!?」と叫んでしまいたかったが、積年の拗らせ処女はひと味違った。

「ダメよ、クルーウェル」

 そう、お色気砲発動(無意識)である。大慌てで表情や素振りを取り繕った彼女には年端もいかない少年に仮初の余裕を見せつけるつもりはなかったものの、「俺はあなたが思うほど子どもじゃない」と一言だけ告げた彼は傷ついた表情をしていた。
 少しだけ、胸が痛かった気がする。そんな痛みさえ気のせいだということにして仕事に励み続けていたナマエは十年ほど前に、理系科目の教師として学園に戻ってきたクルーウェルと再会した。今度は同僚として目の前に現れた元生徒はあの頃の幼さと未熟さを流れゆく時の中に置き去りにしたらしかった。大人びた顔で、なんでも知っていると言いたげな顔で、ナイトプールを訪れる。
 だから、あの時の告白はなかったことにしたいのだろうと思った。口説きはせず、卒業式のことを掘り返さず、彼は同僚としてナイトプールを訪れるから。時には自身の教師としての在り方に悩みながらも地位を確立した優秀かつ有能な男は、教育者らしい面持ちでナマエの前に立つ。

「少し、食事にでも行かないか」

 端的に言えば、まるっきり油断していた。昔のように敬語を使わなくなったクルーウェルに、気軽くフレンドリーに誘うクルーウェルに、彼女は油断して頷いてしまった。
 待ち合わせ場所は色気のないダイナー。あの男が女を落とすのにそんなところを選ぶはずがない。ならば自分はやはり対象外なのだろう。チクチクと痛んだ胸にまた気づかないふりをしたナマエは用意された罠に気づかないままその誘いに乗った。

「……酔ったのか」
「ごめんなさい……」

 油断と過信は身を滅ぼす。どんな人魚も、油断したら溺れることだってある。
 長い人生を歩んでおきながら高を括って彼と食事をしたナマエは見事に酔っ払い、食事どころではなくなってしまった。身体に力が入らない。頭がふわふわしてるのか身体がふわふわしているのかわからない。顔が熱くて呼吸が苦しい。気持ち悪い。
 押し倒されたナマエの視界で白と黒の髪が揺れていた。頭の中でぐわんぐわんと鳴っている警鐘、押さえつけられている無抵抗な──抵抗さえ許されない身体。二百年あまり処女を拗らせている彼女には刺激が強すぎる。洗練され、選び抜かれた家具が置かれているモデルルームのような部屋にはクルーウェルお気に入りの白と黒のコートが放り出されていた。コートやその他の服を床に放っておくなんて、なによりもファッションを重要視している彼にあるまじき行動だ。それでも、今の彼には衣服のことを考える余裕がなかった。

「ダメよ」
「どうして?」
「ダメ……」
「嫌なのか」
「はずかしい……」
「恥ずかしい? は、相当な演技派だな」
「ちがうの、キスしたら」
「したら?」
「……永遠の命じゃなくなるかもしれない」

 どういうことだ、とクルーウェルが言う。酔いが完全に周り、半ば夢見心地で魔女にかけられた呪いについて話すナマエは状況の整理が少しもできていなかった。

「キスしたら、呪いが解けるということか」
「んん……たぶん……つめとか、かみものびるとおもうわ」
「真実の愛なんて、またくだらんものを……」
「ふふ、くだらない?」

 ふにゃふにゃと笑っているこの女は一人暮らしの男の部屋にいるという自覚はあるのか。乱れた前髪をかき混ぜたクルーウェルはペットボトルに入っているミネラルウォーターを飲んだ。

「試してみるか?」
「だめ……」
「減るものじゃないだろう」
「はずかしい……」
「なにを処女みたいなことを──」
「処女だもの」

 クルーウェルの手からペットボトルが落ちかけた。嘘か、それとも真実か。見極めようとする彼の目は、今にも泣き出しそうなナマエの表情に混乱の色を滲ませた。

「……はずかしいもの、どんなかおすればいいか、わからないもの」
「……」
「あんなこと、できない」

 元来、クルーウェルは一途でいじらしい生き物が好きだった。それが、自分よりも遥かに経験豊富だとばかり思っていた女は誰のお手つきでもなく、恥ずかしいと言って身体を震わせている。肚の底から湧いたのは、今までにないほどの欲情だった。

「恥ずかしくない。慣れれば気持ちがいい」
「そんなわけ───」
「目を閉じろ」

 ナマエが目を閉じる前にクルーウェルは彼女の唇に噛みついた。ついに落ちたペットボトルは床の上で跳ね、漏れた水はフローリングを濡らしていく。涙をこぼす女は逃れようと躍起になり、すぐに肩で呼吸を繰り返す。

「ま、」
「『待て』はもう懲り懲りだ」

 ようやっと離れた唇が熱くて仕方がない。ナマエの小さな顔が呆然とクルーウェルを見上げている。

「先生」

 とうの昔に生徒ではなくなった男が、かつては「先生」と呼び慕ってくれていた男が、わざとらしく「先生」と呼んだ。この上なくナマエの罪悪感を煽る。

「先生、好きです」

 いっそう顔を赤くさせたのはナマエのほうだった。くすくすと、今や意地悪く笑っているのはクルーウェルのほうだ。あの日の告白をなぞったのも、あえてだろう。
 彼女の前ではおりこうな生徒であり続けた。今も、昔も、ずっとそうだった。だからもう、クルーウェルは逃がさない。虎視眈々と狙い続けた。誰にも奪われないように、ナマエに警戒されないように、罠を張り巡らせて。

 この夜から普通の人間と同じようにナマエの爪と髪は伸び始め、止まっていたはずの永遠の命が再び動き始めたと彼が知るのは、完全に彼女を仕留めたあとのことだ。


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