ナイト・イン・ザ・ウォーター 03


 理系科目担当の教師であるクルーウェルと養護のナマエはデキている。そんな噂が流れ始めて早一年、けれども月日はただ流れるだけで、確証を得た生徒は一人もいない。
 野暮ったい瓶底眼鏡はなくなり、短く切り揃えられた前髪の下からは宝石のような輝きを閉じこめる双眸が覗いている。人形のように整った貌のその女は不健全とも言える色気を青少年たちの前で出し惜しみなく晒し、今もナイトレイブンカレッジの養護教諭として働いていた。
 が、デイヴィス・クルーウェルは思う。
 いくつも年下の少年たちと言えど熱視線を向けられているナマエを見るのは非常に面白くないと。
 去年の晩夏に正式に交際を始め、恋人であるクルーウェルのためにといじらしくも地味な格好をやめ、お洒落をしようと努力してくれている姿は愛らしくもあるが、年若い青少年たちがナマエを“そういう”目で見ているのは面白くないどころか不愉快である。
 自分好みに着飾らせてみても、アクセサリーを贈ってみても、己のセンスが良すぎるばかりに生徒たちの視線を集めてしまう。かと言って、お洒落をやめさせたいわけではないのだ。照れくさそうに、しかも嬉しそうに恋人に選んでもらった服を着る彼女は掛け値なしでかわいらしく、生来のその美しさを自身がより一層引き立てていると思うとたまらなくなる。
 本当に、とても、どうしようもなく。愛おしい女だ。
 だからこそ手放したくはないし、どんなに年下であってもナマエを口説こうとする生徒たちには腹が立つ。何年もかけて恋人の座を手に入れただけに、クルーウェルの嫉妬心はひときわ強かった。
 けれど、大人げなく生徒に妬いたと言えるはずもなく、ここ数日の彼は苛立ちを抱えながら過ごしている。

「クルーウェル」

 アルコールの入ったグラスを片手に、シャツにスラックスというラフな格好をしているクルーウェルはゆっくりと溶けていく丸い氷を見下ろした。その隣ではナマエが退屈そうにありがちなラブストーリーが流れるテレビを眺めている。
 いい加減に飽きた、と言わんばかりにナマエはクルーウェルを呼んだが、些細な反応すらなかった。目も、手も、少しも動かない。

「クルーウェル」
「……」
「クルーウェル」
「……」
「……。……デイヴィス、本当は聞こえてるでしょう」

 ついにしびれを切らしたナマエが名前を呼べば、クルーウェルは彼女をようやく見やった。

「子どもみたいなことしないで」
「俺はあなたに比べたら子どもだ」
「……そうでもないじゃない」

 ローテーブルに置かれたグラスの中で氷が崩れる音がしたが、テレビから流れるラブシーンの音にすぐにかき消された。演技っぽい女のその声に気まずそうに目を伏せたナマエを意地の悪い笑みを浮かべながら見つめ、クルーウェルは彼女の細い腰に腕を回し、熱を持った唇を寄せた。
 交際を始めてから、クルーウェルは彼が生徒としてナイトレイブンカレッジに通っていた頃のようにナマエを「あなた」と呼ぶようになったが、今の彼にはかわいげなんて少しもないとナマエは思う。特に、夜は。

「なにを怒っているの?」
「……怒っていないが?」
「嘘」
「嘘じゃない」
「嘘だわ。ずっと機嫌が悪いもの」
「そんなことはない」
「わたしには言えないの?」

 言えないというか、言いづらいのだ。男性経験は無を通り越してマイナスに突き抜けていたナマエでも、精神年齢はクルーウェルよりも遥かに歳上である。酸いも甘いも味わってきたであろう彼女に子どもじみた嫉妬心を暴露してしまうのは男としてのプライドが許さない。そして特に、自分の感情も制御できないお子様だと思われたくはなかった。
 しかし、ナマエもナマエで恋愛の経験が乏しすぎるが故に、口ごもって眉を寄せたクルーウェルにあらぬ勘違いをしてしまっていた。もしかしたら、他に好きな女性でもできたのではないか、と。

「あなた、わたしと別れたいの?」
「は?」
「わたしといても楽しそうじゃないわ」
「……違う」
「本当に? 最後に笑ってくれたのはずっと前よ」
「そんなわけ……」
「別れたいならそう言って。同僚同士に戻ったほうが楽なこともあるわ」
「ナマエ。頼むから落ち着いてくれ」
「落ち着いてるわ。ずっと怒ってるあなたよりね」

 こういう時、女性とはなぜこんなにも口が回るのか。以前付き合っていた女も、その前に付き合っていた女も、口喧嘩となるとクルーウェルを巧みに追い詰め、いつも言い負かされる彼は最終的には白旗を上げるしかなかった。
 長ったらしいラブシーンの喘ぎ声がテレビからまた響いたが、ナマエは少しも目を逸らさずにクルーウェルを見上げている。

「すまなかった。ただ、ナマエに怒っていたわけでも、機嫌が悪くなっていたわけでもない」
「じゃあどうして?」
「それは……」
「言えないこと?」
「言っても、笑わないか」
「ええ」
「引かないか」
「ええ」
「……子どもっぽいと、思わないか?」
「子どもっぽい……? ええ、思わないわ」
「いいか。あなたが笑ったら俺はなにも話さない」
「そんなに言いづらいの?」

 ああ、当たり前だ。この年齢にもなってみっともなく嫉妬しているのだから。
 氷が溶けて薄まってしまった酒を一口煽ってテーブルに肘をつき、クルーウェルは組んだ手の甲に額を乗せた。セットしていない前髪は白と黒が混じって乱れている。

「嫉妬した」
「え……? 嫉妬?」
「生徒に、腹が立った。……大人げないのはわかっている。十代の子どもに妬くなんて、馬鹿馬鹿しい話だ」
「……」
「格好がつかない。だから話したくなかった」
「……あなた、やきもちやいたの?」
「…………ああ」

 なにが嬉しくて、己の器の小ささを愛しい恋人に暴露しているのか。
 重い溜息をついたクルーウェルは彼女を見ないままにグラスをまた煽り、居た堪れないこの空間から飛び出したい衝動を必死に抑え込んでいたが、彼の耳に届いたのはほんのかすかな笑い声だった。
 あれだけ、笑うなと言ったのに。少女のように笑うナマエはクルーウェルに睨まれてもちっとも気にしていない様子だ。

「……ナマエ」
「そんなに怖い顔をしないで」
「笑わないと言っただろう」
「かわいいって思っただけよ?」
「お得意の子ども扱いか?」
「違うわ」
「どこがだ」

 ねえ、怒らないで、とあだやかに笑うナマエは悪びれていないのだろう。アルコールによって熱を持っているクルーウェルの滑らかな頬を撫で、奥手な彼女にしては珍しく自分から彼に抱きついた。

「妬いているのはわたしだけだと思ったわ」
「ナマエ?」
「デイヴィスはかっこいいから、中身がおばあちゃんみたいな女は相応しくないって思ってたの。だから、外見も中身も若くてかわいい女の子たちに嫉妬してたわ」
「……」
「ねえ、好きよ? あなたが浮気でもしたら海に引きずり込んでやろうって思うくらい」
「……随分と恐ろしいことを言ってくれる」
「わたしから永遠を奪ったのはあなたでしょう?」
「人魚は慈悲深いんじゃなかったか?」
「さあ? 試してみる?」
「いいや、遠慮しておく」

 そもそも、ナマエ以外の誰かに目移りするはずもないのだから。学生時代から焦がれ、愛していた女をみすみす手放すつもりはない。
 自分から仕掛けたくせにキスをしようとすれば身をうしろに引いて逃れようとするナマエを抱き寄せ、そのままソファに押し倒すと恥ずかしそうに頬を染めながらも満更ではなさそうな瞳がクルーウェルを見つめ返す。

「ナマエ・クルーウェル」
「え?」
「悪い響きじゃないな。どうだ、名乗ってみるか?」
「……プロポーズにしてはお酒臭いわ」
「そのわりには嬉しそうだが?」
「そうかしら」

 クルーウェルの手がナマエの首元に触れ、彼女の顔や耳が真っ赤になっていく。いつまで経っても愛し合うという行為に慣れないその姿は酷く愛おしく、そそられる。

「次の休みにエンゲージリングでも買いに行くか」
「……本気?」
「仕事中もつけておけ」
「生徒が驚いちゃうわ」
「驚かせておけばいい」

 驚かせて、見せつけておけばいい。
 至極上機嫌に笑ったクルーウェルはナマエの唇に口付け、次いで左手の薬指に口付けたのだった。


 左手の薬指にプラチナの指輪をつけているナマエの姿に、休み明けの学園中に激震が走ったことは言うまでもない。


<< fin.

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