大海原の底で待ち合わせ 04


 ナマエがツイステッドワンダーランドにいた頃、彼女は一度たりともフロイドとジェイドを間違えなかった。そんな些細なことがどうしようもなく嬉しかったと言ったら彼女はなんと答えるだろうか。一音たりとも間違えずに呼んでくれる声の愛おしさを、一緒に食べた飴玉の味を、アズールやジェイドと一緒に案内した珊瑚の海の平凡さを、何となくで対価もなしに教えてあげた錬金術の公式を、今になって思い出す。音や匂い、温度、色を……灼きつくような痛みを鮮烈に伴って。
 肩を揺らしてわかりやすく動揺した鏡の彼は鷹揚に首を振り、「嫌ですねぇ」と不器用に微笑んだ。

「僕はジェイドですよ」
「いいえ、あなたはフロイド先輩です」

 老婆は少しも引かない。大事なところで一歩も引かないその強さに惹かれて好きになったんだっけなぁ、とまたひとつ愛おしく感じてしまう自分が愚かしい。
 秒針は絶えず時を刻み続け、彼女にも、彼にも、残された時間はもうないのだと残酷に告げている。降参するように両腕を上げた彼は今にも泣き出しそうな顔でかつてのナマエに言った。

「いっかい忘れたならさあ、忘れたフリくらいしといてよ」

 ぐしゃぐしゃに乱れたフロイドの前髪の隙間から一筋だけ水滴が流れる。それは彼女の見間違いだったのかもしれないし、死期迫る中で見た幻だったのかもしれない。

 フロイドとナマエが生きる世界は流れる時間が違う。

 数日おきに会えるフロイドと一年おきにしか会えないナマエ。青年のままのフロイドと老いていくナマエ。弱っていく彼女をただ眺めることしかできないフロイドと鏡の世界を通して会う度に皺が増えて小さくなって痩せ細っていくナマエ。いるべき世界に帰ったナマエは若々しいフロイドを置いて目にも止まらぬ凄まじいスピードで老い、忘却の病魔に蝕まれて、やがてこう聞くようになった。

「あなたは、誰かしら」

 知らない子ねえ、と毒気もなしに呟く声の恐ろしさをフロイドは覚えている。
 他のことは忘れてしまっても自分のことだけはずっと忘れないでいてほしいと願っていた。けれど、彼女がすべてを思い出してしまうと途端にフロイドは怖くなる。思い出すだけならまだいい、むしろ喜ばしいことだ。いつものフロイドならば、想いを暴露するようなフロイドとナマエの昔話さえしていなければ、「やっと思い出したの? 遅すぎるよ、小エビちゃん」とでも言って不機嫌になっていただろう。
 けれど。ジェイドではなくフロイドだと見破られてしまった上に、ずっと隠していた想いももはや知られてしまっている。言い逃れできるはずもない。

「なんで……」

「フロイドはナマエさんのことが好きだったんですよ」とジェイドの面の皮を借りて言えば言うだけ棘が抜けていく気がした。楽になっていく気がした。今となってはそれもこれも判断力が鈍っていたとしか言いようがないが、それでもフロイドの心は幾分か楽になって救われていたのだ。

「なんで思い出しちゃうかなぁ、小エビちゃん」

 思い出さないで。思い出して。ジェイドへの想いは思い出さないで。オレだけを覚えていて。一番じゃなくてもいいよ、二番目でいいから小エビちゃんのトクベツをオレにちょうだい。
 相反する想いを隠すには遅すぎて、秘密にし続けるにはどこかに吐き出さないと胸が詰まって苦しくて死んでしまいそうだった。きっとこれは、溺れる、という感覚に近しいのだとフロイドは思った。
 人魚が溺れるなんておかしな話である。どうしようもなく間抜けで、どうしようもなく格好がつかない。奇しくも、かつてのナマエにうそぶいた「人魚が溺れるわけないじゃん」は宣言したフロイド自身によって否定された。
 人魚は溺れない、溺れたら死ぬから。
 泳げていたはずのひとりの人魚は気がつけば同じ場所にずっと留まっていた。
 退屈になりがちだったフロイドの世界を鮮明にいろどった彼女がいない世界は暗くてつめたい。息もできないほどの苦しさにどれだけもがいても底の見えない海に引きずり込まれ、口からこぼれた空気を含む白い泡は陽も射さないうなぞこで暗い色にまみれてしまう。
 何をしていても息苦しい。何をしていてもふとした時に想いが燻る。掻きむしるように胸元を押さえたフロイドは鏡の向こうでナマエに手を伸ばし、鋭い歯を覗かせて明るく笑った。

「ねえ、小エビちゃん。オレの話、もっと聞いてくれる?」

 恋を知り、濁流のような激情に溺れるに至ったフロイドと同じように、陸に憧れ陸の男に恋をした人魚姫は水面を透き通る太陽の光を深海から眺めていたのだろうか。


  ◆


 まず最初に、フロイドがその鏡を見つけたのは単なる偶然だった。
 ナマエを見送ったあとに購買部で見つけた手鏡に妙に惹かれたフロイドは五千マドルを支払った。それは何年も前から並んでいた商品だけど、本当に買うのかい? そう言った店主のサムは突然ついた買い手に驚きつつも快く売ってくれ、無事に鏡を手に入れたフロイドはなんとなく寮の自室の机に置きっぱなしにしていた。
 学園生活最後の入学式で初々しい新入生たちを迎えた日。ナマエが帰ってから二週間と経たないうちに購入してしまったため、ヤケになっていらねーの買っちったかも、と考え直しもしたが──その日は唐突に訪れる。放置していた例の手鏡がいきなり発光し始めたのだ。

「小エビちゃん……?」
「フロイド先輩……?」

 慌てて手を伸ばしたフロイドは信じられないものを目の当たりにした。鏡の中には彼の記憶と寸分違わないナマエがいた。いかないで、と最後まで言えなかった愛しい少女が。

(帰ってきてよ、小エビちゃん)

 伝えたいことならたくさんあるのに伝えられないもどかしさ。目の前にいるのに温度を感じられない寂しさ。その秋に始まった奇妙な交流は喜びも悲しみも運び、薄っぺらい鏡を通した逢瀬は何度も重ねられた。
 フロイドの鏡とナマエの鏡はこちらとあちらを繋げる不思議な鏡であり、決まった間隔をあけて決まった時間に所持者同士の鏡を繋ぎとめる。しかし、普通なら存在し得ない強力な力を持つ手鏡は大きな代償を二人に課した。

「小エビちゃんがオレより歳上なの、変なカンジ」
「私もです」
「じゃあさ敬語がいい?」
「フロイド先輩って敬語使えるんですか……?」
「使えるんじゃね、たぶん」

 ナイトレイブンカレッジの制服を着るフロイドは綺麗な化粧をするようになった彼女を見つめた。幼さが徐々に薄れ始めている頬から顎にかけてのライン、華やかな色の口紅が乗ったやわらかそうな唇。ナマエは学生のままのフロイドを置いて大人になっていき、やがて少女から女性へと羽化した。いつか、どころではなく既に手が届かない場所で羽ばたいている彼女はあまりに眩しい。

 学生の本分は勉強ですから恋人とかはまだいいです。
 就職先が忙しいから恋はできそうにないです。
 聞いてくださいよ、仕事ばかりで婚期を逃しちゃいました。

 フロイドはナマエの近況を聞く度に彼女が独り身であることに安堵した。そのままどうか一人でいて、と。
 恋という綺麗な感情から怪物に成り果てた邪悪な生き物は愛しい女性の不幸を食い物にして成長しているようだった。日に日に醜くなっていくその怪物は、「ジェイドと会わせてあげるね」なんて言っておきながらジェイドのふりをして彼女の前に顔を出した狡猾さも、彼女が親しくしていた友人たちに魔法の鏡について教えなかった意地の悪さも、餌にしているに違いない。
 ナマエを独り占めにし続けたツケは、フロイドの精神をすり減らすナイフとなって返ってきた。

「小エビちゃん、顔見せてよ」
「私ももう若くないですから」
「そんなの気にしないよ」
「私が気にするんです」

 フロイドはヴィル・シェーンハイトよろしく美醜にこだわったことはなかったが、ナマエは違った。若々しいままの十九歳のフロイドに顔を見せたがらなくなった彼女は着実に衰え始めており、辛うじて見えた彼女の手の甲には青い血管が浮き、指も節が目立つようになっていた。
 生物は生まれたその時から死に向かって歩いていく。理不尽で不公平なこの世の中で、唯一平等に与えられた公平。ツイステッドワンダーランドの歴史に名を刻んだ魔法使いたちでさえ抗えなかった真理。誰にでも訪れる“死”という結末は冷たい気配を伴って常に二人のあいだに横たわっていた。
 既に、二人の年齢は半世紀以上離れている。

「大丈夫ですよ、そんなに怖がらないで」
「……怖がってねーし」
「私は長生きしますから」

 だからどうか悲しそうな顔をしないで、と察しのいい彼女はフロイドに何度も言った。強がる彼に、鏡の向こうから嗄れた穏やかな声で囁いて。

「小エビちゃん、もう休もうよ。疲れたでしょ」
「……そうですね。一年ぶりだからって調子に乗ってしまいました」
「オレが話すからいーよ」

 ジェイドもオレも進路が決まったよ、嫌いなシイタケもちょっと食べられるようになったよ、試験もちゃんと真面目にやったよ……在り来りなたわいのない話はするすると流れるようにフロイドの口から出てきたが、漠然とした恐怖は付きまとい続けた。もしも、次会う時までにナマエが命を落としていたら。どれだけ待っても姿を見せてくれなかったら。
 フロイドは彼が思うより臆病で、繊細だった。
 いつの日か訪れるであろう別れが怖くて手鏡を机の引き出しにしまった日もある。広いベッドに潜り込んで、人間の胎児のように身体を丸め耳を塞いで眠った夜もある。しかし、そんなフロイドを鏡と向き合わせたのは他でもないナマエの言葉だった。

「人間が本当に死ぬのはすべての人に忘れ去られた時だといいます」

 誰からも完全に忘れ去られた時、人は死ぬ。彼女がそう言ったから、フロイドは鏡に何度も語りかけた。ナマエというひとりの女性が生きた軌跡を、記録を、思い出を、自身の脳内に刻み込むために。

「あなたは誰かしらねぇ……」
「こんばんは、レディ。僕はジェイド・リーチと申します」

 フロイドは鏡で会い続けた。彼女がフロイドを忘れ、思い出を忘れ、重ねた逢瀬を忘れたとしても。
 フロイドは愛を告げ続けた。ジェイドの皮を被り、口調や素振りをまね、自分がどれだけナマエという一人の少女を一途に愛していたかを。
 ジェイドとの関係を取り持たなかったことへの罪滅ぼしでも何でもない、ただの自己満足だった。フロイド・リーチとして伝えるよりも素直になれる気がした、醜く成り果てた感情もジェイドを通せば綺麗に、透明に浄化される気がした。何より、死期が近い彼女は自分よりもジェイドと会いたがると思った。

「フロイドはナマエさんに恋をしています。そして、誰よりも彼女を愛しています」

 それが、フロイド・リーチが紡ぐ物語の始まりの一節。


  ◆


 頭の片隅に大事にとっておいた思い出と「こうであってほしい」という希望的観測が交じる記録の海の中をフロイドは泳いでいる。フロイドが生きる世界にはいないけれど、どこかで確かに生きている彼の最愛が寂しく死んでしまわないように回顧し続けている。
 閉ざしていた両目を開けたフロイドは、啜り泣く声と無機質な電子音に耳を傾けた。ざあざあと降り続ける雨は彼らを二人の世界に閉じ込める。

「泣かないでよ、小エビちゃん」
「ごめんなさい……忘れてごめんなさい」
「怒ってないよ」

 フロイドは言葉の通り、怒っていなかった。眉を下げた困り顔で笑って鏡の表面を撫でる。

「ずっとジェイドのふりしてたこと、怒った?」
「いいえ」
「なあに、優しいじゃん」
「あの時の……私は……」

 彼女の言う“あの時”が何を指し示すのか、フロイドにはすぐにわかった。

「あなたに恋をしていた……」
「え?」
「たまに……怖いけれど……」

 先輩と話していたら不安も恐怖もどうでもよくなった、と。フロイドは、ナマエがいる世界の雨の音がより一層大きく耳のそばで響いた気がした。

「一年待ったらあなたに会えるから、他の人に恋もできませんでした。たまに、ジェイド先輩のふりをしている時もあって……それから、たくさん話をしてくれた……」

 ナマエの胸が心許なく上下する。初めて語られる真相にフロイドは息を呑み、やがて唇を噛んだ。

「こんな恋は、もう二度とできないと思いました」

 ジェイドではなくフロイドに恋をしていたこと、一年生の終わり頃から惹かれていたこと、話しかけられる度にドキドキしていたこと、向けられる優しさを勘違いしそうになっていたこと、無邪気な笑顔が大好きだったこと、フロイドが引き止めてくれたなら帰らないと決心していたこと。
 たどたどしく話す彼女の声は弾んでいた。ひとつひとつの言葉を噛み砕こうにも理解が追いつかないフロイドは何度も何度も「ほんとに?」「嘘じゃないの?」と聞き返し、話が終わると形の整った薄い唇をきゅっと結んだ。
 フロイド・リーチは重大な勘違いをしている。否、していた。

「こんな老いぼれに言われても、嬉しくないでしょうけど」

 自嘲気味に言ったナマエはフロイドただ一人に恋をして、届かぬ想いに身を焦がし、年老いても彼だけを愛していた。コトコトと煮詰めた想いはとうに焦げ、こびり付いて剥がれずに。彼女は、海を見ると、透き通るような青を見ると、大海原のように気まぐれな彼のことを思い出していた。
 話を聞き終えたフロイドの手が震え、唇がわななく。

「バカじゃん。……なんで言ってくんなかったの、言ってくれればよかったじゃん。全部、全部さぁ」
「ごめんなさい」
「ごめんじゃねーよ」
「ふふ、許してくれなくていいですよ」

 フロイドが止められる涙なんてなかった。喉の奥と目頭が熱くなり、目元を乱雑に拭ってもあとからあとから涙があふれてくる。

「臆病だから、言えませんでした」
「なに、それ」

 妙なところで二人はそっくりだった。フロイドの喉から乾いた笑い声が漏れ、「おそろいじゃん、オレら」と嘲笑う。
 本当のあなたにずっと会いたかった、と口元に笑みを添えたナマエは言う。ジェイドのふりをしているフロイドより、フロイド本人の言葉を聞きたかった、と。

「会おーよ、会えるよ、まだ、また会えるよ」
「もう、そろそろお別れですから」
「まだ言いたいことあるんだよ、死んだら許さねーから」
「ふふ……怖いですね」
「ねえ、だめだよ」
「もうお別れです」
「小エビちゃん、待って、まってよ」
「愛していますよ、フロイド先輩」
「小エビちゃん、オレ」
「だから……」
「いやだよ、小エビちゃん」
「私のことは忘れてくださいね」

 忘れないでと言った君がそれを言う。有り得ないほど穏やかな微笑みを添えて。

「いやだ、いやだってば!」
「大切な人としあわせになって」

 心電図のアラーム音はひどくうるさく、ナマエの声を雑音で汚す。
 満足げに笑った彼女が言い終えると、病室の扉が開いて数人の看護師と白衣の医師が入ってきた。フロイドにはよくわからない単語が緊迫した表情を浮かべる彼らのあいだを飛び交い、雨の音をかき消している。

「小エビちゃん」

 悠然と時を刻み続ける時計は十二時を指した。
 午前零時に魔法がとけてしまうその前に、すべてを伝えなければ。

「待って、小エビちゃん」

 懇願する声が届くはずもない。
 彼女の手から滑り落ちた手鏡は床に落ちて割れ、フロイドが持っている手鏡も同時に割れた。細かく飛び散った破片はフロイドの手を傷つけ、赤い血液が指先を伝って手首を濡らす。
 しゃがんだフロイドは手が傷だらけになるのも厭わずにガラス片を拾い集め、握りしめた。今、痛いのは手ではなく心だった。鋭い歯で噛み締めたせいで裂けた唇の端から血が垂れ、割れた鏡の上にぽたぽたと落ちて細い亀裂に赤が流れ込む。

「戻れよ……全部、戻れよ!!」

 あの子を見送ったあの日に。愛が鏡の中に消えていったあの日に。
 信仰心なんてこれっぽちもなかったくせに、フロイドは神さまとやらに祈った。


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