大海原の底で待ち合わせ 05


 悪い夢だと思いたかった。
 目を覚ましたフロイドは手に残る痛々しい傷を一瞥する。切れた唇もヒリヒリと痛む。こんな結末の恋ならば、知らないままでいられたらよかった。バカみたいに不器用で残酷なくらいに交わることのなかった想いがフロイドの胸を締め付け、鏡の破片ひとつひとつに映る自身の顔すら憎たらしい。
 あの時、勇気を出していれば。あの時、指を握っていれば。あの時、あの瞬間、素直になれていたなら。

 オレは小エビちゃんの隣にいれたの?

 フロイドのそんな疑問に答えてくれる彼女はもういない。忘れてくれと最期に言った彼女は、どこにも。
 ベッドを背もたれにするように力なく座り込んだフロイドは床に散らばる鏡の残骸を無意味に見つめる。数分か、それとも十数分か経った頃、部屋の扉がゆっくりと開いた。朝から尋ねてくる人物なんて限られている、顔を確認する必要もない。

「フロイド、何をしているんです。もうそろそろ時間ですよ」
「もうオレ学校行かない。サボる」
「本気で言ってるんですか?」
「うっさいな、オレがサボってもジェイドにはカンケーねえじゃん」
「あなたが見送りに行かないと、ナマエさんが寂しがりますよ」
「はあ?」

 中途半端に扉を開けたままフロイドを見下ろしているジェイドは嘘をついている様子もなく「行かないんですか?」と続けた。聞き間違いでなければ、ジェイドはナマエと言わなかったか? 思考が数秒間停止したフロイドは震えそうになる声を無理やり絞り出した。

「小エビちゃんがいんの……?」
「本当にどうしたんですか、今日はナマエさんが帰る日でしょう。昨日は送別会もしましたし……もしかして、バカ騒ぎのしすぎで記憶でも飛んだとか? だからあれほど羽目を外しすぎるなと言ったんですよ」

 ナマエさんが帰る日。送別会。バカ騒ぎ。
 双子の兄弟であるジェイドが嘘をついたらすぐにわかる。わかるからこそ、今聞いたことすべてが信じられなかった。嘘ではない。嘘ではないとしたら──、

「フロイド!? どこに行く気ですか!」

 勢いよく立ち上がったフロイドはジェイドの肩を押し退け廊下へと飛び出した。
 今度は間違えない。今度は手放さない。その一心で、フロイドは全速力で駆ける。両足がもつれそうになりながらも寮の中を走り抜け、鏡から飛び出して屋内から出ると眩しい朝日が顔を照らした。
 もしも、もしも本当に過去に戻っていたとしたら。なんと言って彼女を抱きしめようか。夢でも妄想でもいい。ただ、会って抱きしめたかった。


  ◇


「な、なんなんだゾ〜!! オマエ、この!!」
「あ゙? 邪魔すんじゃねーよ」

 玄関扉を壊す勢いでオンボロ寮を訪れたフロイドは両目を真っ赤に腫らしているグリムの首根っこを掴み、部屋の外に追い出した。後ろ手で鍵を閉め、外から開けられないように防衛魔法もかけておいたフロイドは石のように固まっているナマエのそばへと歩み寄った。

「ふ、ろいど、せんぱい……?」
「また会えたね、小エビちゃん」

 もう永遠に会えないかと思った、とはあえて口には出さない。朝早くからの訪問を驚くにしては度を過ぎているナマエの反応に、彼女もまた時を遡ってここにやって来たのだとフロイドは悟った。
 どうして時が巻き戻ったのかは当事者であるフロイドにもわからない。鏡が割れて、過去をやり直したいと強く願った。ただそれだけだったからだ。

「ほんとに、小エビちゃんがいる」

 知らず、フロイドの声が震える。まるで幽霊でも見ているかのような表情で、恐る恐るといった風に彼女の頬を撫でた。
 あの時、勇気を出せなくて告白できなかった。あの時、指先すら握られなくて手も伸ばせなかった。あの時、あの瞬間、素直にすべてを伝えられなかった。
 痛みも切なさも、胸焼けがする愛おしさも、余すことなく自由に伝えられる声があったというのに。

「小エビちゃん、これで帰れないね」

 あはは、と笑ったフロイドは少女を両腕の中に閉じ込めた。

「……夢でしょうか」
「ううん」
「じゃあ、幻ですか?」
「ううん」
「先輩も死んだとか?」
「ううん、生きてるよ」

 ほら、と言ってナマエの手を自身の胸に当てた。フロイドに比べると随分と小さな手は彼の心臓の上に置かれている。

「ほらね」

 ガタが来ているソファに座るナマエの前に膝立ちしたフロイドは、今度はその胸に耳を寄せて目を瞑る。彼女の背中に腕を回すと、とくとくと鳴るのは穏やかな心音で、頬に伝わるのはいのちの温かさだった。

「いきてるよ」

 自分自身に言い聞かせるような声だった。息吹を繰り返す胸があって、穏やかな心音を響かせる心臓があって、寝癖だらけの髪を撫でてくれる指があって。
 フロイドの上から落ちてきた水滴が彼の頬を濡らし、赤々とした傷跡が残る唇に触れてほんの少しの痛みが走った。

「どうして……?」
「オレもわかんない」
「私は、死んだはずです」
「うん」
「なのに、どうして──」
「オレね、すっごいお願いしたんだよ。『神様お願いします!』って。そしたら戻っててさ」
「そんなの有り得ない……時間が戻ったって言うんですか?」
「さあ。オレもわかんねーけど、小エビちゃんがいるからいいやって思っちゃった」

 フロイドの説明に戸惑っているであろうナマエはくるりと部屋を見渡した。彼女の記憶が正しければ、今日という一日は元の世界へと帰る日のはずだ。なぜ過去に戻っていて、なぜ目の前にフロイドがいて、なぜ十代の頃の姿に戻っているのかもわからないが、胸を突くような懐かしさが渦巻いて涙が止まらなくなる。
 泣いたせいで赤くなっているナマエの目元に浮かぶ涙を親指でやさしく掬ったフロイドは彼女の頬を両手で包み込んだ。

「夢なら夢でいいよ」
「……先輩」
「あは、カッコワル……オレも涙出てきちゃった」

 どれだけ望んでも触れられなかった肌が、どれだけ願っても届かなかった温度が、どれだけ愛していても面と向かって伝えられなかった想いがそこにはあった。風通しがよすぎる室内には隙間風が吹き込み、朝焼けの光に染まるカーテンを揺らしている。

「ねえ、オレの話、もっかい聞いてくれる?」
「……はい」

 フロイドの手は傷だらけで、服もしわくちゃで、お互いに泣いていて、少しも格好つかないけれど、不器用で鈍感な彼らには最高の幸福に思えた。

「臆病でごめんね」

 大切だからこそ臆病になって、身動きが取れなくなった。暗い巣穴の中で息を殺して潜めていた。目の前の少女の瞳に溺れて息ができなくなった。

「ちゃんと言う。言うからさぁ……一緒にいようよ、いっぱい好きって言うよ。いっぱい遊ぼう、いっぱい話して、いっぱい笑って、それから……いろんな海にも連れていってあげる。オレがたくさん楽しませてあげる。だからね」

 フロイドは彼女の名前を初めて呼んだ。一度目は言いにくそうに、二度目はいとおしそうに。

「帰らないで。オレのそばにいて。離れないで」

 ナマエの目からまた涙が落ちる。
 恥ずかしがる様子もないフロイドによって吐露されるそれは朝の澄んだ空気に融け、二人だけの秘密となった。隣にいられるだけでも幸せだと思えるほど幼い気持ちではなく、誰にも渡したくないと思うほど浅はかな劣情だけれど、自分の力など不必要だとわかっていても彼女を守りたくてたまらなかった。

「ばあちゃんとじいちゃんになっても、ずっと一緒にいようよ」

 湧き出る愛情の上手い伝え方がわからなくなって、フロイドはナマエを抱きしめた。伝え損ね続けた想いが多すぎる彼は、今だけはほんのわずかでも取りこぼしたくはなかったのだ。

「オレの隣で綺麗になって」
「はい」
「オレの隣で大人になって」
「……はい」
「そんで、オレが死ぬ時はそばにいて」

 ナマエは無言で頷き、フロイドの肩に顔を埋める。彼の願いはわがままだと言うには切実すぎて、神さまに祈りを捧げる信者のようだった。

「約束してよ。小エビちゃんの世界の仕方あったでしょ、あれでいいから」
「指切りげんまんですか?」
「そうそう、それ」

 指切りげんまんはフロイドが二年生の時に聞いた彼女の世界の約束の仕方だった。ふーん、変なの、と言って聞き流した当時の彼は約二年後の自分自身が言及するとは思ってもいなかっただろう。

「指切りげんまん、嘘ついたら──」

 右手の小指同士を絡め合わせたままフロイドは身を乗り出して、指切りの言葉を唱えているナマエにキスをした。勢いをつけすぎたせいで唇が少し痛んだが、目を白黒させる彼女に気分が良くなっていく。

「好きって言って」
「……好きですよ、フロイド先輩」
「うん、オレも。大好き」

 どちらともなく重なった唇は涙としあわせの味がした。キスがしづらくなるのに固く結んだ小指も離しがたい。

「おばあちゃんになっても、いくつになっても、先輩が好きですよ」

 セピア色に色褪せた思い出はあっても、核となる変わらない想いだけはあった。ナマエが八十年以上もフロイドを愛し続けたように、フロイドが年老いてしわくちゃになったナマエをひとりの女性として愛し続けたように。

「だから、百年先も好きでいてください」

 窓の外に広がる朝日はナマエとフロイドの髪を照らし、彼の右耳で揺れる薄青色のピアスが光の粒子を集めて白い壁やボロボロの床板に乱反射している。うん、と答えるフロイドの頬を雫が滑った。

「オレも……じいちゃんになっても、死んでも好きでいるよ」

 フロイド・リーチが命を終わらせる時には、長い人生を連れ添った最愛の妻とその子どもたちに囲まれたやわらかい光の中にきっといるのだろう。彼によく似て気まぐれな、彼女によく似て芯の強い、愛しい子どもたちに囲まれて。


<< fin.

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