大海原の底で待ち合わせ 03
時計の秒針が刻む音は汚れひとつない白い壁に反響している。滅多にしない夜更かしで疲労が溜まり始めている老婆は心電図を映し出すベッドサイドのモニターを溜め息まじりに一瞥し、手鏡の縁の部分を節くれだった指先で数度撫でた。
「少し休みましょうか」
「いいえ……大丈夫よ。恋の話を聞きたいの」
「ですが」
「私はもう、恋なんて忘れたから……懐かしくて……」
私ったら自分の名前すら思い出せないのよ、と悲しそうに微笑んだ老婆は鏡を持ち上げ、ターコイズブルーの髪を持つ不思議な青年の飴玉のような瞳を見つめた。磨きあげられた宝石のようにキラキラと輝くその瞳があまりに悲しそうで、泣いているのではないかと勘繰りそうになる。
「あなたは、私も恋をしていたと思う?」
「ええ。素敵なレディですから」
「嬉しいことを言ってくれるわ……」
弱く降り出した雨は窓を叩き、薄いガラスがカタカタと揺れる。さっきまで細く入り込んでいた青白い光も雨風にけぶってかすみ、窓についた水滴で光の輪郭が朧気になっていた。
この病院の面会時間は八時まで、と決まっているが身寄りのない老婆を尋ねてきた者は一人もいない。両親はとうの昔に亡くなり、長すぎる人生を一人で歩んできた彼女は入院が決まってからもひとりぼっちだった。今よりもっと若い頃に結婚という選択をしなかった理由すら覚えていない彼女はその選択にもきっと意味があったのだろうと心の隅で整理をつけているが、身を切るような孤独だけは痛切に感じていた。
「ナマエさんは……きっとフロイドくんに恋をしていたのね」
「違うよ、こえ、ああいや、違います」
特に誤魔化しもせずに、彼はそれ以上の言葉を重ねなかった。
「さあ、そろそろクライマックスですよ」準備はよろしいですか? 語り部である彼の声は風に揺られる枯れ葉のような弱々しさを孕んでおり、空気に震えた長い睫毛が色白のなめらかな頬に影を落としていた。
「僕たちが四年生に進級した頃でしょうか、ナマエさんは元いた世界に帰りました」
これは悲劇です、それも世界で一番の。老婆は、そんな説明が彼の声で付け加えられているような気さえした。そこには音になり損ねた、他者には推し量れそうにもない悲痛な響きがある。
物語にはいつだって、劇的な出会いと刺激的な出来事と、ほんの少しの悲劇が必要だ。どんなおとぎ話でもそうだろう。可憐なプリンセスに用意された糸車や毒林檎は王子様と結ばれるための過程にある悲劇であり、主役たちがハッピーエンドを迎えるための道具となる。けれど、老婆がまだ年端のいかない少女であった頃、彼女は考えたことがある。喜劇になり損ねた悲劇の行方はどうなるのだろうか、と。
久方ぶりに幼い時のことを思い出した老婆は、おかしな光景を見た。ふわふわと宙を浮く棺、生き物のように動き回る本であふれる不思議な図書館、闇の鏡に誘われた優秀で高慢な学生たち。夢かうつつか、空想か。写真フィルムのように絶え間なく脳内を駆け巡った映像には、目の前の青年らしき学生の姿もあった。そしてなぜか、強烈な違和感に襲われた。
思案する彼女に気づかぬまま、彼は手鏡の中から語りかける。
「思い出さなくていいですから、覚えていてください。僕の大切な宝物を」
生徒たちに絵本の読み聞かせをする先生のようにゆっくり、はっきりと話し始めた彼は時計の短針が十一時を指す音をしっかりと聞いていた。鏡の中で話し始めた頃合いよりも焦燥をまとい始めた彼の声は強くなりだした雨足と絡まり、弱々しさを呈す。
「フロイドは彼女を引き止めませんでした。なぜなら彼女には好きな人がいたからです」
◇
フロイドがナマエに恋をしたように、彼女もまた他の人に恋をした。
「そーいうことね」
モストロ・ラウンジの客用のソファに座り長い足を投げ出して独りごちたフロイドは前髪をくしゃりとかきあげる。ナマエはジェイドが好きらしい。「らしい」というのも、エースとデュースの会話を盗み聞きしてすぐに立ち去ったから不確定要素が多いだけで真実は黒寄りのグレーといったところだった。
血を分けた、たった一人の兄弟が恋敵だと誰が思おうか。
ジェイドもナマエのことを憎からず思っているだろうし、人心掌握に長け、フロイド・リーチを誰よりも理解しているあの男がライバルとなればフロイドの勝率は格段に下がる。もしもジェイドが彼女の想いを受け入れ、そしてそれを自身の愛情をもって返したら。
「ふざけんな」
──ふざけんなよ、指をくわえて見てろって? オレのほうが先に好きになったじゃん、オレのほうが小エビちゃんにいっぱい話しかけたじゃん。オレのほうが、ジェイドよりも。オレのほうが、小エビちゃんのことが好きなのに。
それまで恋の仕方を知らなかったフロイドは途方に暮れた。ナマエがいつからジェイドを好きになっていたのかフロイドにはわからなかったが、ジェイドの長所と短所なら知り尽くしている。だからこそナマエが惹かれたであろうジェイドの美点について考えるのも嫌だった。
ジェイドにそっくりなフロイドを通して自身の想い人への想いを重ねて募らせていたとしたら。本当はフロイドではなくジェイドと話したいと思っていたとしたら。真面目にやろうと思えば回転の速くなる頭が最悪な仮説ばかりを想定するせいで腹が立ってくる。やってらんねえ、と独り言が磨きあげられたフロアに落ちてもそれを拾ってくれる人間はいない。ソファの背もたれにもたれかかり天井を仰いだフロイドは鬱陶しいほどに明るい照明の光に舌打ちして、忌々しげに目を細めた。
「協力なんてしてやんねぇ」
フロイドがそう心に決めたのは、三年生の春頃だった。
ジェイドと二人きりになるような時間は作らせない、口実もきっかけも与えない。間違ってもナマエとジェイドの関係が進展しないようにフロイドは先回りし続けた。ナマエが他の誰かのものになるより、自分以外の男と幸せになるより、「恋が実らなかったかわいそうな小エビちゃん」のほうがフロイドにとっては都合がよかった。ナマエへの罪悪感はもちろんあったが、わがままを突き通し続けた彼はついにもうひとつの問題に直面することとなる。
「フロイド先輩。帰る方法を見つけたんです」
出会った頃よりも髪が伸びて女の子らしくなったナマエは何の気なしに告げた。今日も天気がいいですね、という世間話さえ始めそうな軽やかな声で。
「先輩には……知っておいてほしくて」
オレじゃなくてジェイドに知っててほしかったくせに、という文句は喉の奥に押し込んだ。その代わりに無愛想な言葉ばかりが飛び出して言いたくもないことが次から次へと音になる。
「ふ〜ん。よかったじゃん」
ウソだよ、ちっともよくない。小エビちゃん、帰らないで。ずっとここにいてよ。
おかしなスイッチでも入ったのではないかと疑いたくなるくらいに聞き分けのいい建前は、本音と少しもリンクしていない。
「……はい、よかったです」
長い沈黙のあとに聞こえてきたナマエの声はわずかに震えていた。
「まぁ、またね。どっかで会えるでしょ、たぶん」
意味もなく前を見たフロイドの目に、廊下から射し込む日の光によって作られた二人ぶんの影が見えた。距離は近く、細長く伸びる黒い影は二人の体格差を如実に表している。
(ちっせぇなあ)
ちいさくて、よわくて、海にいたらすぐに捕食されてしまいそう。真珠みたいにちいさい歯を覗かせながら笑って、貝殻みたいにちいさい耳でオレの話を聞いて、ここまで好きにならせといていつかは泡みたいに消える。
そうして詰る気力も元気もない。ナマエを無言で見下ろしたフロイドは腕を下ろしたまま細長い指先を動かしたが、フロイドの黒い影はナマエの影に触れずに元の位置に戻ってしまう。臆病すぎんじゃね、と内心でせせら嗤った彼は結局、彼女の手を握れなかった。
「私のこと、忘れないでください」
「どーだろ、忘れちゃうかも」
「酷い先輩だ……」
影法師は一定の距離を保ったまま、二人はお互いの顔すら見ずに笑い合った。
フロイド・リーチは別れが来るその日まで──ナマエを見送って数ヶ月が経った今でも、面と向かって想いを告げられずにいる。
◇
ナマエさんが帰るその瞬間も、フロイドは引き止めませんでした。
あざやかな思い出をぎゅっと凝縮した、わずかに脚色された物語は味気のない言葉で締めくくられて幕を下ろした。読み聞かせていた本を力強く閉ざすような強引さで余韻から抜け出した彼は老婆に問う。
「いかがでしたでしょうか、お気に召しましたか?」
空っぽの瓶を叩いたような、あるいは狭い空間の中に響く足音のような、空虚な電子音だけが響いた。彼の話を聞き終えた老婆の両目からは涙がこぼれ、皺の多い頬を伝い顎から衣服へと落ちていく。
「先輩……」
面白かったわ、素敵だったわ、切なかったわ──彼女が囁いたのは、そんな有り触れた言葉ではなかった。うわ言のように呟かれた単語は相変わらずしゃがれて掠れている。唇をぽかんと開けている彼は手鏡を高く掲げている老婆を見つめ返した。
老婆の目には懐かしむような郷愁が色濃く漂い、抑えられなかった感情が涙に包まれあふれ出す。
「せんぱい」
後輩の誰もが彼をそう呼ぶけれど、いっとう好きな声色でいっとう愛しいリズムで呼ぶのは彼女だけだった。
「そう、そうだった……あなたは……」
「ナマエさん……?」
「ずっと、話しかけてくれていました……ハロウィンの日に、あなたは決まって、わたしに」
ターコイズブルーの髪を鏡の上から愛おしそうに撫でた彼女の指先に伝わるのは無機質な冷たさだけだった。青のピアスと金の目は暗い病室の中でぼんやりと光り、目を細めた彼のあざやかな虹彩は闇にとけるように滲んだ。
上手く取り繕ったのは服装と口調と表情だけ。
「私だけが歳をとりましたね」
「……ナマエさん、僕は」
「フロイド先輩」
彼の右耳で揺れたピアスは寂しい音だけを運んだ。
「あなたは……フロイド先輩」