大海原の底で待ち合わせ 02


 老婆の目がゆっくりと開いた。寒々しい殺風景な白い部屋は飾り気がなく、備え付けのテレビやベッドのそばに置かれた丸椅子はやや埃被っている。壁にかけられた時計の短針は十時を指し、長針はやがて真上から逸れた。

「……あなたたちは……魔法が使えるの?」
「ええ。僕もフロイドも、魔法使いなんです」
「素敵ねえ、私も小さい頃は魔法が使えるって信じてた……」
「信じる者にはいつだって」
「あら、まるで夢の中ね」
「それなりに魔力は必要ですが」
「ふふ……だったら、私には無理ね……」

 しゃがれた声が消毒液臭い空気を震えさせる。老婆の声はほとんど木枯らしのようだったが、それでも彼の耳にははっきりと届いていた。
 ナースコールで呼び出されたらしい夜勤の看護師の小さな足音は老婆の病室の前を通り過ぎ、二人の密やかな語らいも邪魔されることなく数秒後には穏やかな静寂が横たわる。

「あなたは……恋をしたのかしら」
「僕の話は大して面白くもないですよ。ああ、それでフロイドは──」

 澱みない話題の切り替えを無視して、そう、と呟いた老婆は続ける。

「あなたはナマエさんに恋をしていたのね」
「……どうしてそう思われたのかお聞きしても?」
「彼女の名前を呼ぶ時、とてもやさしい声で囁くのよ」

 彼はハッとした様子で言葉に詰まった。
 鏡を見ていない老婆はそんな反応に気づかないまま二、三回の長い瞬きをして血の気の失せた唇を閉じた。白い天井の一点を眺める瞳にみなぎる力はなく、鈍い光を灯らせるばかりで生気を感じさせない。
 老婆の鼓膜を震わせる心地の良い低音は物語に登場する「ナマエ」というたったひとりの少女を慈しみ、愛していると告げて憚らないような、聞いているほうが恥ずかしくなってくるような優しさをしのばせている。どことなく懐かしさを感じさせる物語を紡ぐジェイドというこの青年は恋をしているのだ、と彼女は思った。

「そっか……そうでしたか」

 彼は両目を伏せ、薄い唇に自嘲的な笑みを乗せた。否定もなく肯定もない。老婆の指摘を受け止めはするが、受け入れはしない。
「それでは続きと参りましょう」時間もないですから、と再び会話の主導権を握った彼は記憶を回顧するような素振りを見せる。思い出の中に生きるフロイドとナマエがどんな会話をしてどんな言葉を尽くしたのかをすべてを語りたい、と一時間ほど前に宣った彼は届きもしない老婆のほうへと手を伸ばし、一枚の鏡に隔てられていると今しがた思い出したとばかりに指先を下ろした。
 彼の右耳で揺れるピアスは口の動きに合わせて小さく小さく動き、しゃらりと揺らぐ涼やかな音は耳の遠くなった老婆にも届いている。

「僕とフロイドは人魚だと先ほどもお話しいたしましたが……」


  ◇


 海の底の話について、ナマエにお願いされてフロイドはよく話した。
 どんな人魚がいてどんな生活をしていてどんな光景が広がっているのか。異彩を放つフロイドの双眸から見た水の世界のうつくしさについて。
 地球という惑星が誕生した時から常に進化と共にあった海はあらゆる生命の祖となってあらゆる奇跡を生み出した、とナマエは言う。そしてここ、彼女が生まれ育った故郷とは似て異なる世界であるツイステッドワンダーランドにもあまたの奇跡があるのだと。人魚や獣人、果てには魔法まで。故に彼女にとってフロイドは稀有な存在であり奇跡そのものだった。

「小エビちゃんは何色が好き? ピンクとか?」

 フロイドによって年代物の机にばらまかれた飴玉は透明な包み紙に覆われ、飴を照らす夕日はちいさな球体を透過してテーブルに個々の色を反射させる。燃えるような茜色、オレンジがかったスカイブルー、星々の輝きを散りばめた紺色。まるで、いくつもの空をそのまま閉じ込めたような飴だった。
 つい先ほどまで海の話を聞いていたナマエはフロイドの突然の行動に驚き、そしてハッとするほど美しい飴玉をじっと見つめている。真新しいおやつを前に両目を爛々と輝かせる子どものような彼女の姿にフロイドは思わず笑った。

「めっちゃ見んじゃん。そんなに珍しいの?」
「それはもう……こんなお菓子もあるんですね」
「じゃああげる」
「えっ!?」
「集めんのめんどくさいし」

 それはさすがに! と首を横に振ろうとするナマエを無視したフロイドはたそがれ色の飴玉を口に放り込んでその鋭い歯で噛み砕いた。口内に柑橘系特有の匂いと甘さが広がり、砕けた破片が甘ったるく喉を焼く。

「どれが好き?」
「……えーっと、これ、ですかね」

 ナマエが指さしたのは透き通るようなターコイズブルー。珊瑚が生きるあたたかい海を流し込んだような色合いの濃淡は食べ物とは思えぬほどに綺麗だ。射し込む夕日にかざせば、海の中から眩い太陽の光を眺めているような心地にさせられる。

「先輩の目からは、こんなに綺麗な景色が見れるんですか?」
「え? 別にオレは見慣れてっし。そうでもない」
「そうなんですか……?」

 なんだかそれはそれでもったいないような。
 すんでのところで言葉を飲み込んだナマエの飴を長い腕を伸ばして奪ったフロイドはぺりぺりと包み紙を剥がし、己を見上げる彼女を見下ろしたまま飴を頬張った。なんてことはない、ただ意地悪したくなっただけである。正確には、意地悪した結果に付随するであろう反応を見たかっただけだが。

「おいし。あはっ、小エビちゃんも食べたかったぁ?」
「わ、わざとらしい……」
「あげよっか?」
「大丈夫です、あとが怖いので」

 予想より残念がってくれなかったナマエを不満に思いながらも飴を噛み砕いたフロイドは、行儀悪く机にもたれかかり、他の飴を見つめている彼女を見やった。伏せられた睫毛は光を浴びて薄く透けているように見える。

「フロイド先輩の色だったんですけどね、あれ」
「オレ?」
「髪の色にそっくりだったので」

 わずかに両目を見張ったフロイドは、照れ笑いをするナマエを視界に入れたまま心臓あたりを手で抑えて猛スピードで思考を巡らせる。

(オレいまなんか攻撃くらった? 小エビちゃんって魔法使えたっけ?)

 二人以外に誰もいない教室が今さらになって鋭い静けさを研ぎ澄まして突き刺してくる。フロイドの視線に気づいたナマエが遠慮がちに金とオリーブのオッドアイを見つめ、怖々といった様子で口を開いた。

「先輩?」

 この世界には実に四属性──火属性、木属性、水属性、そして無属性の魔法がある。魔力もないナマエには当然いずれの魔法も使えないだろう。なのにどうしてこんなにも心臓が痛むのか、嬉しくなっているのか、フロイドは自分自身でもわからなかった。



 小エビちゃんは魔法使いなのかもしれない、なんてことを誰かに話してもバカにされると確信していたフロイドはジェイドやアズールにでさえナマエとの会話の内容を打ち明けなかった。自分だけの思い出として心のうちに留めたい、という思いももちろんあったが片割れと気の置けない友人に笑われてしまうのは非常に気に食わなかったのだ。

「フロイド! 仕事の時間ですよ、どこに行くんです」
「あーあ、見つかった。小エビちゃんとこ行こうと思ってたのに」
「小エビちゃん……? あなた、仕事を放棄するつもりだったんですか」
「あーもう、うるさいな。ちゃんとやるって」

 不機嫌面で首を捻りそこに手を当てたフロイドはこれまた不機嫌面のアズールを睨んだ。しかし、幼馴染であるフロイドの睨みでアズールが怖気付くはずもない。

「最近おかしいですよ。何をするにも小エビちゃん小エビちゃん……恋でもしているんですか」
「恋?」
「ええ、恋ですよ」

 優秀故に傲慢な学生が多いナイトレイブンカレッジをしても群を抜いて自分本位なフロイドは「恋」という単語を聞いた途端に腑に落ちるような感覚を味わった。

「まあ、気まぐれで気分の浮き沈みが激しいあなたが人間に恋をするはずもありませんが」

 付け加えられた言葉は硬直しているフロイドの耳に届いていない。
 恋しい、という感情はよくわからない。陸の人間たちが好き好んでよく見るドラマや映画のラブストーリーにすぐに飽きたフロイドにとって、恋愛は無縁のものに思えたし、これといった興味も湧かなかった。
 ──オレが楽しかったらそれでいい。オレが飽きなかったらそれでいい。オレはなんか面白い小エビちゃんのそばにいるだけ。
 しかし、冷淡かつ薄情とも言えるフロイドの言い訳はとけて内側からあたたかくて熱いものが現れた。ナマエに一番やわらかい場所を触られているような気がするのに嫌な気はしない。それがなんだかむず痒くて、痛くて、少し苦しかった。


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