大海原の底で待ち合わせ 01


「こんばんは、レディ。きっかり一年ぶりでしょうか?」
「あなたは誰かしら……」
「僕はジェイド。ジェイド・リーチと申します」

 夜の九時。白いベッドに横たわる老婆に紳士然とした振る舞いで恭しく頭を下げた青年は上品に微笑み、黒の革手袋に覆われた右手を自身の胸元に当てた。ジェイド・リーチと名乗った彼が老婆のお気に入りの手鏡の中にいること以外を除けば、至って普通の、むしろ人好きのしそうな好青年にも見える。
 しかし齢九十数歳の年老いた彼女は驚いた様子もなく、弾力を失った肌に血管が浮き出た腕を持ち上げ鏡の中のジェイドを見つめた。老いぼれの瞳では彼の鮮やかな髪色や双眸もぼやけてしまう。

「僕はあなたとお話をしに来たんですよ」
「お話? ごめんなさいね、今はそんな気分じゃないの」
「まあまあ、そうおっしゃらずに。とても楽しい話ですよ。きっとあなたも気に入りますから」

 老婆は眉を下げ、困ったと言い出しそうな表情できょろきょろとあたりを見渡した。夜中に起きていたことが小うるさい看護師に見つかったら長々とした説教をされてしまうため、彼の声が病室外に漏れてしまわないか心配になったのだ。
 しかし、これといった話し相手もおらず寂しい入院生活を送っていた彼女にとってこの機会を逃すのはもったいないことのようにも思え、悩んだ末に「小さな声でお願いね」と鏡に向かって囁くと「承知いたしました」と低い小声が返ってきた。

「では、何からお話しいたしましょうか?」
「なんでもいいわ」
「承知いたしました。でしたら、僕の双子の兄弟ととある女性のお話にいたしましょう」
「……それは、素敵ね。愛の話かしら」

 ピッ、ピッ、と規則的な電子音が物の少ない部屋に響いていた。老婆は手鏡をかすかに上下する胸の上に置き、筋肉も落ち骨のように痩せ細った腕をベッドに下ろして両目を閉ざす。
 エアコンの効きが悪い白い室内は薄ら寒く、黄ばんだカーテンの隙間からは人工的な青白い光が差し込んでいた。乾燥してひび割れた唇からは北風のような呼吸音が漏れ、落ちくぼんだ両目や骨が目立つ生白い頬が形作る顔は白骨化した骸骨のようにも思える。
 赤色の落ち葉が秋の匂いが残る風に煽られて窓に当たった。
 そこは生命の気配が一切遮断されたような空間だった。老婆をあの世へと誘う死神の足音は着実に、しかしゆっくりと彼女に近づいている。

「ええ、愛の話です」

 舌が上手く回らない老婆の返事を待っていたにしては遅すぎる相槌を打った彼の、作り物じみた笑顔にほんのわずかに亀裂が入った。

「これはもう、ずっと昔のお話です」


  ◇


 ジェイド・リーチの片割れであるフロイド・リーチはオンボロ寮の監督生に恋をしていた。最初は単純な好奇心。ナマエは魔法も使えないただの人間で、フロイドより数十センチも背が低い女の子で、ニコリと笑うと見えるのは真珠のように小さな歯ばかり。荒くれ者が集う海じゃ絶対に生きていけないだろう。
 絞めたらポッキリいきそうだなぁ、というのがフロイドの第一印象だった。
 彼が少し力を込めて絞めたら十秒とかからずに気を失うであろう陸の非力な小動物。そう捉えていた時点では気まぐれな彼にとっては面白いおもちゃでしかなかったしそれ以上の存在になり得るはずもなかった。
 しかし、ナマエはなかなかどうして面白い少女である。
 リドル・ローズハートとレオナ・キングスカラーのオーバーブロット事件を解決したナマエはついにはフロイドの幼馴染であるアズールにまで立ち向かった。あんな、見るからに弱そうな身体ひとつで。契約書のトリックを看破し、怠惰なライオンを味方につけ、アズールの本来の姿を引きずり出した。正直に言うと、雷という自然現象を初めて見た時と似たような衝撃がフロイドに走った。

(ふぅん、おもしろそ)

 飽きたら遊ばなければいいだけの話。そうそう、そうすりゃいいじゃん。と、いささか勝手に心に決めてナマエを構うようになったあの日が彼の恋路の分岐点だった。

「小エビちゃんさぁ、なんでそんなにちっさいの?」
「先輩が大きいだけでは?」
「ふーん」

 飽きたらもう話しかけない。飽きたらもう近くに行かない。飽きたらもう駆け寄らない。飽きたら、飽きたら、あきたら……気がつけば「飽きたら」を枕詞にした自分ルールは次から次へと積み重なって、フロイドの容量の広い頭脳に山積されていた。
 オレはいつになったら小エビちゃんに飽きるんだろう、とナマエに話しかける度に考えるようになってしまったフロイドを畳み掛けるように彼女は彼の興味をひどく惹きつける。自然と目で追うようになって、エースやデュースと一緒にいるところを見て面白くないと思うようになって、屈託のない笑顔に胸がむずむずするようになって、気づかないうちに目だけではなく心まで奪われていた。

「こーえーびーちゃーん」
「フロイド先輩? どうかしました?」
「は? なに、用がないと話しかけちゃダメなの?」
「いや、そういうわけじゃ……」

 目に見えて慌てるナマエの姿に何かが満たされていく。
 ──ちいさくてカワイーなぁ。歯なんて真珠みてぇだし。爪もピンクでちっこいから貝殻みたい。困ったように笑う彼女を見つめ、フロイドはそっと手を離す。
 この時のフロイドが恋という不確かな感情を理解していたわけではないが、誰かを守ってあげたいと思ったのはナマエが初めてだった。弱いヤツは死んでトーゼン、というフロイドの考えを根底から覆すほどの庇護欲は彼がナマエを視界に入れる度に湧く。魔力の欠片もないこの生き物は、もしかしたら孵りたての人魚たちより生存能力が低いかもしれない。ちょっと力を入れたらパキリと折れそうな脆くて弱くて儚い命。ここが海だったら真っ先に死ぬだろう。そう考えれば考えるほど、フロイドはらしくもなくナマエを守りたくなった。
 時に荒れ狂い時に凪ぐ海に産み落とされる人魚にとって自己防衛とは生存本能のひとつだ。卵として産み落とされた瞬間から生存をかけた戦いは始まり、防衛する手段や生きる力がなければ生き延びることすらできない。卵から孵れなくて死んでいった兄弟、満足に食べられなくて飢え死にした兄弟、激しい白波に攫われそのまま姿を消した兄弟。フロイドもジェイドも消えていく生命なら幾千も見てきた。

「ひとつひとつの命に価値基準や序列はない」

 と、陸の人間は綺麗事をまことしやかに言うが、それは生まれ落ちたその時から恵まれていた人間たちの詭弁であるとフロイドは思っている。
 奪われないように傷つけられないように失わないように。自分の命を優先すべき序列のトップに置き、時には他者を見捨てなければ生きていけない。弱者が容赦なく淘汰される弱肉強食の海の世界を生き抜くには、残忍なほど強くなければならないのだ。

「自分も、それが正しいと思えません」

 しかし、彼にとっての当たり前と常識をとても簡単そうに引っくり返す少女が現れた。守ってあげたい、と彼が強く思うような弱そうで強いひとりの──まさしく彼女は彼の特別であった。
 そーいうトクベツをあげるのはちょっとだけ、ちょっとだけだ。たくさんあげすぎたら小エビちゃんも調子に乗ってウザくなるかもしれないからウザくなる前に離れよう、そうすれば問題ない、ってあれだけ思っていたのに。他のヤツと話してるのも笑い合ってんのもムカつくのはなんで? わかんない。わかんねーのにめちゃくちゃムカつく。
 食堂で見知らぬ生徒と親しげに会話しているナマエの姿にフロイドの負の感情がぐるぐると蟠り、大好きな笑顔が他の男の前で無防備に晒された瞬間にすべてが弾ける。それはオレの、という子どもじみた独占欲に染まった時にはフロイドはナマエの肩を容赦なく掴んでいた。
 果たして愛が先だったのか恋が先だったのか、十七歳の青年にはわからなかった。

「小エビちゃんの世界にはなんか面白いのあったの?」
「うーん……先輩が好きそうなものは特にないような?」

 小エビちゃんの存在自体が面白いのに小エビちゃんがいた世界が面白くないわけがない、というのがフロイドの持論である。
 文明の発展と科学技術のレベルはほとんど同じ。魔法はなく、特殊な進化を遂げた人魚や獣人もいない。そして驚いたことに、ツイステッドワンダーランドではるか昔にぼっ発した大戦に似たようなものがナマエの世界でも起きたのだと言う。
 平和で平凡そうなナマエの世界には争いの火種なんてないのではないか、と考えていたフロイドの憶測を見事に裏切ったナマエは故郷の歴史について拙いながらに説明したが──フロイドはすべてに耳を傾けるような男ではない。最初はそれなりに興味があったフロイドも、数分もすればナマエの話ではなく表情の変化にしか興味を持たなくなった。おそらく話の一割も聞いていないし頭にも入っていない。

「……フロイド先輩、聞いてます?」
「ん? 聞いてる聞いてる、聞いてるに決まってんじゃん」
「絶対嘘だ……」

 自分の話がつまらないのが悪いので別にいいんですけど、とぶすくれるナマエに思わずフロイドの頬が緩む。彼女には警戒心なんてあってないようなもの。出会ったばかりの頃は顔を合わせる度に怯えていたというのに、こんなに気を許して。
 フロイドが何を考えているかも知らずに話を中断して顔を上げたナマエは彼の右耳で揺れるピアスを見つめ、光の加減によって色合いを変化させる鉱石のような輝きに瞳を瞬かせた。

「先輩でも溺れることがあるんですか?」

 ナマエからの質問は拍子抜けするようなものだった。「人魚は本当に溺れないの?」というのは、ツイステッドワンダーランドの子どもたちがエレメンタルスクールの夏休みの研究課題でよく使う常套句的な質問だ。フロイド自身、陸からやってきた観光客たちに何度か聞かれたことがある。
 彼女の質問に答えるならば、フロイドは生まれてこのかた溺れた記憶はない。そもそも、危険だらけの生まれ故郷で一度でも溺れたらとっくに死んでいるはずだ。

「人魚が溺れるワケないじゃん」

 当たり前でしょ、とフロイドが続けるとナマエは興味深そうに相槌を打った。

「自分の世界には『猿も木から落ちる』っていうことわざがあったので……」
「こっちにあんのは『人魚も大海に死す』。陸のヤツらが勝手に作った言葉だけど」
「大海に死す、ですか」
「そー。溺れたら死ぬしかないじゃ〜ん?」

 特に怯えてもいないフロイドの発言にナマエが目を丸くするが、彼ら人魚にとっては常識である。
 人魚は溺れない。名のある科学者も生物学者も海洋学者も、みな長い論争を経てそのように結論付けた。エライ人が言うんならそうなんじゃない? とどこか他人事のように言ってのけたフロイドは右手を首に置いて大きな欠伸を噛み殺した。


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