アナザー・プラネット 05


 僕には探しものがある。



 ナマエはいつも寂しそうだった。目が離せない、と言えばわかるだろうか。
 僕は背が伸びても、ナマエはちいさな女の子のままだった。弱い者いじめはよくない。だから守ってあげなければと思ったし、彼女の背中は僕の幼い頃の記憶を鮮明に思い出させた。
 彼女を目で追うようになったのは、果たしていつだったか。さみしそうに伏せられた長い睫毛を見た時にきゅっと締め付けられるような痛みを感じ、思わず胸に手をあてて首を捻った。

「ナマエがかわいく見えるぅ?」
「なんだその顔は。僕は真面目に聞いてるんだぞ」

 ははーん、と人を明らかにバカにしているような笑みを作ったエースは大袈裟な身振りで椅子に腰かけ、背もたれに両腕を置いてこちらを見た。こいつがこの顔をする時はろくなことを言わない。聞くだけ無駄だと机に向き直った、ら。

 ──それは恋じゃね? まさかお前がナマエになぁ。

 エースはやはりろくなことを言わないのだ。
 そんなわけがない、と否定もできなかった。ニヤニヤと笑うエースをぶん殴る気すら起きず、手に持っていたテキストやペンケースを落とした。僕が、誰に? 誰に恋をしているって? 顔は爆発しそうなくらいに熱く、唇は開閉を繰り返すだけだった。反論できないことが何よりも証拠になっている、と追い討ちをかけたエースの赤い髪が視界の端で愉快そうに揺れている。
 僕は恋をしていたらしい。異世界からやって来た、年齢よりもずっと幼く見える異邦の少女に。どれだけ泣いても前を向き続ける強さと弱さを隠してしまう健気さがとてもアンバランスで危なっかしい、どうしても放っておけない、心配だからそばにいるだけだと言い聞かせていた僕が足元から壊れていく。
 ねじれて壊れて、こぼれたようで。粉々に砕けて終わったようで。僕の心には何かが残った。

「デュース、今日は何食べたい?」

 一旦自覚してしまうとあとはもう早かった。ナマエが他の誰よりもかわいく見える。
 女の子にはやさしくしなさい、と母さんは言っていた。僕は男だから女の子は守らなきゃいけない、やさしくしなきゃいけない。けれど、そんな教えを抜きにしてもナマエを守ってあげたいと思った。
 それでも僕らのあいだには深い溝がある。帰ってほしくない僕と帰りたいナマエは一生交わることのない平行線の上をそれぞれ歩いている。
 閉じ込めろ、依存させろ。願望を囁く悪魔は身近にいた。今、彼女をどこかに閉じ込めて世界から遠ざけ隠してしまえば俺のものになるだろうかと暗くよどんだ感情が肚の中をむしばんで、真面目でいい子ぶった僕がやめてくれと叫ぶ。



 ナマエはおそらく僕と同じ感情を抱えている。視線にも声色にも特別なものを感じたし、周りの反応を見てもまず間違いないだろうと思った。しかし、たやすく想いを告げられる関係ではなかった。ナマエが「帰る」と言った時、僕は何も言わずにただ頷いた。彼女を引き止める権限も特権も僕にはなかったからだ。
 ナマエを見送りに来た生徒であふれた鏡の間は今までで一番かすんで見える。
 グリムに泣きつかれている彼女を見ていると「ナマエはやっと帰れるんだ」と、誰のために言い聞かせていたのかもわからなくなる。誰のための言葉だ。誰のための戒めだ。誰のための──? そんなの、わかりたくもないな。
 考え込んでいるうちにやがて僕の番が来て、僕はナマエの前に立っていた。

「今までありがとな。楽しかった。僕はそんなに手助けできたわけでもないが……大切に思ってる。今までも、これからも、ずっとだ」

 次から次へと口から出てくる別れにふさわしい虚像は形ばかりのうつくしさを保っていた。物の見事に綺麗で完璧な別れの挨拶。ああまったく、笑わせるなと思った。
 バカなことを言うな。鏡を壊せ。壊してしまえばナマエは帰れない。この世界は綺麗事ばかりじゃねぇだろ。

「しあわせに、なってくれ」

 何を言ってるんだ? 彼女がいない世界なんて寂しいに決まってるだろ。俺が幸せになれないに決まってるだろ。さあ今すぐ壊せ、マジカルペンを引き抜いて、魔法で割ってしまえ。泣いている彼女を抱きしめて、「ずっとそばにいる」と言ってやればいい。そうしたらきっと泣き止むぞ。さあ壊せ、破壊しろ、鏡なんて必要ない。

「しあわせになるから、デュースもしあわせになって」

 こわせ、こわせ、こわせよ。この子を失いたくないんだろ? 悪魔がまた囁いた。世界から遠ざけちまえよ、と。
 胸ポケットのマジカルペンを取ろうと手袋を外した指先を動かしたその時、俯きがちだったナマエの瞳が僕を射抜いた。僕に恋していると言って憚らないその両目を、どれだけいとしいと思っただろうか。
 僕は、バカだった。宝物は、ただひとつだった。

「ばいばい、デュース」

 彼女の下手くそな笑みを見た瞬間に、大事なことをすべて思い出した。
 忘れるな、一番失いたくなかったのは笑顔だろう。だから想いも伝えなかったんだろう。忘れるな、思い出せ、記憶に刻め──僕を誘惑しようとする悪魔はどこかに消えていた。

「ああ、ばいばいだ」

 小さく手を振り返し、鏡の中に消えていく小さな背中を見送る。やがて彼女は闇に溶け込む霧のように消え、一枚の大きな鏡だけが残った。言葉にはできない喪失感で心にぽっかりと穴があく。ナマエは帰った。帰ったのだ。
 好きだった。俺の名前を呼んでくれる声も、強がりなところも、結局手を差し伸べてしまうお人好しな性格も。笑顔を見るためだけに本音を押し殺して見送ってしまうほどに好きだった。
 物言わぬ鏡だけが目の前にある。
 俺の手も言葉も届かない場所に行かないでくれ、そばにいてくれ。そんな声すら届かないんだろ。

「行くな……!! 行かないでくれ!!」

 こんなに痛いなら、心臓を突き刺してでも誰かに殺してほしい。



  ◇◆


 あちらの世界へ行くには四年に一度行われるある試験で合格点を……そうですねぇ、あちらの大学に入学できる程度の実力があると証明できれば可能ですよ。なぜ学力が必要なのかって? では逆に聞きますが、魔法しか学んでこなかった人間がいきなり異世界に行き、一人で生きていけると思いますか? 答えはノーでしょう。お金もなければ学もない、血縁という後ろ盾もなく生きていかなければならない……こちらとしても優秀な魔法士の卵をみすみす見殺しにするわけにはいきませんからねぇ。ですからこの試験があるんですが──まさか君がそこまで調べていたなんて思ってもいませんでした。一定の魔力がなければ試験資格すら与えられない試験なので監督生くんには教えませんでしたがスペードくんが知っていたとは……ゴホン、君が受けたいのなら私はもちろん反対はいたしませんよ。ええ、ええ。私、優しいので。

 さあ、君はどうしますか? デュース・スペードくん。



  ◇◆



【20××年三月、日本】

「〈トウキョウは所によりアメガ降るでショウ。キョウはセッカクのシュンブンノヒですガ──〉」

 耳慣れない発音の言語にまどろんでいた意識が浮上する。今日はシュンブンノヒという記念日らしい。よくわからないが、同僚のタナカがそう言っていたからそうなんだろう。
 初めて訪れたニホンは湿気が多い国で夏は蒸し暑いらしい。七年前に試験をパスしてツイステッドワンダーランドからやって来た時は右も左もわからなかったが、努力が実を結んでこちらの大学にも無事入学できた。ツイステッドワンダーランドの元住人であるサポート役のベンジャミンさんに偽物の経歴を与えられた僕はアメリカ生まれのアメリカ人として生きている。薔薇の王国や輝石の国といった国名がないのは不思議にも思えたが、こちらではそれが普通だと言う。
 この世界は僕にとって新鮮なものばかりで毎日が刺激的だが、生きる上での葛藤や困難はもちろんある。まず第一に、生まれ育った世界を一度捨てたことで一生魔法を使えなくなった僕は帰ることもできない。そして第二に、ナマエの故郷──ニホンの言葉と僕が話す言葉は言語が異なり、ニホンとアメリカは海を渡るほどに遠い。後者についてもベンジャミンさんが教えてくれたが、「闇の鏡に誘われた監督生さんには何らかの魔法が働いて同じ言語を話せていたのではないか」とする説が濃厚らしい。彼女がナイトレイブンカレッジにいた頃は「ニホンゴを話しているはずなのにどうして自分の言葉が通じるのかわからない」と言っていたから、その仮説もあながち間違いではないのだろう。
 自ら異世界を訪れた招かれざる客である僕にその便利魔法が作用するわけもなく、魔法が存在しないこの世界は言語統一もなされていない。つまり、英語しか話せない僕は自力でニホンゴを勉強しなければならなかった。
 長期休暇の度にニホンを訪れていた僕に転機が訪れるのは今の会社に就職してからだ。幸いなことに、かねてから望んでいたニホン支社への出張が認められたのだ。

「〈アメカゼでサクラは少し散ってしまうカモしれませんネ〉」

 開けた窓から風が吹き込みサクラの花びらが室内を舞った。雪のように儚い姿かたちをしているが、手のひらの熱で溶けるようなものでもない。あの日、一緒に雪を見たナマエはこの国のどこかで生きているのだろうか。僕がここにまで探しに来たと知ったら、どんな顔をするだろうか。驚くか? 呆れを通り越して笑うか?
 声も仕草も微笑みも、全部忘れてしまったから想像すらできない。どこかの街でまた出会えたらどんなに幸せだろう。


【20××年七月、日本】

 ニホンの夏は鬱陶しいくらいに暑い。四季のうつくしさにはいつも驚かされるが、気温や湿度の変化には適応しがたい。
 ニホンジンの勤勉で真面目な性格は好ましい。しかし、土曜の朝から仕事が入るなんて信じられないほどのワーカホリックだ。ニホンは労働の仕方を絶対に変えたほうがいい。「真面目くん」と大学の友達に言われていた僕でさえそう思うのだからよっぽどだ。

「〈マルノウチセンをゴリヨウくださいましてありがとうございます〉」

 相変わらず、この国の言語は早口に感じられる。
 土曜日の朝六時、地下鉄内にはくたびれたスーツの男と年若い学生の集団しかいない。学生たちはなぜか僕をチラチラと見ているが、窓ガラスに映る僕はいつも通りで寝癖ひとつない。ニホンの若者には何かがおかしく見えるのだろうか。

「〈ヤマノテ線はお乗り換えです〉」

 シンジュクに着くと、学生の集団は降りていった。最後に一番うしろにいた女の子に意味ありげに見つめられたが、何をしたいのかよくわからない子どもたちだ。
 なんとなく目で追った彼女たちの華奢な後ろ姿はナマエにそっくりなのに、まったく違う。彼女はどこで何をしているのだろう。僕は生きているうちに彼女を見つけられるのだろうか? こんなにも会いたくてたまらないのに、いくら探しても手掛かりひとつ見つからない。
 地下鉄の窓に映る僕は少し疲れてしまっている。夢でも現実でも会えないことがこんなにも苦しい。


【20××年十二月、日本】

 夏は暑くて冬は寒い。寒暖差で風邪を引いた。気分が優れない。
 初めて降りたシンジュクステーションはダンジョンのようで、どの出口が正しいかもわからない。こんなに大量に出口がある意味はあるのか。ないだろ。無駄に多い出口とこの寒さのせいで苛立ちが募った。
 ついさっき拾った誰かのスマホもどうにかしなければならない。スマホカバーに印字されているアルファベットは持ち主のイニシャルだろう。ナマエと同じイニシャルだな、とまた彼女の面影を探す自分がバカバカしくなってくる。何がイニシャルだ。同じ性別で同じ名前の人間なんてごまんといる。
 いい意味でも悪い意味でも、大人になると妙に冷静になってしまう。ナマエがニホンのトーキョーにいるかもわからないのにこの地にまで来てしまった僕は真性のバカだが、年齢だけは立派な大人だった。

「オトシモノですか? あの、お兄さん? あ、ガイジンサン? えーっと、英語わかんないんだけどな……」

 改札口に立っていたおっさんに渡し、立ち去る。チョットマッテ! と言う声が聞こえたが、体調悪化と寒気で今に死にそうだった僕はそれどころではなかった。


【20**年三月、日本】

 ニホンでは隣の住人に引越しの際に挨拶をするのが礼儀らしい。これも同僚のタナカから得た知識だ。引越し初日からバスタオルをベランダに干したままにしていたり新しい床に紅茶をこぼしたりと散々だったが、なすべき礼儀ならば礼を尽くすべきだろう。
 隣人は女性だろうか。ドア横の鉄格子に守られた窓の向こうには女性らしい色合いのカーテンが引かれている。
 職場の最寄り駅で買った焼き菓子片手にインターホンを押すと、部屋の中から小さな足音が聞こえてきた。ニホンゴはそんなに得意じゃないが、英語で話しかけても混乱させてしまうかもしれない。タナカに挨拶の練習を手伝ってもらったほうがよかったか……?

 悩んでいるうちに目の前の扉がゆっくりと開き、廊下側から入り込んだ光が薄暗い玄関内を照らした。


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