アナザー・プラネット 04
私が「帰る」と言った時、彼はただ笑って頷いた。本当に帰ってしまうのか、と問う人が多い中で、デュースは「ナマエはやっと帰れるんだ」と言い続けた。彼は、私が帰ることを誰よりも望んでいるようだった。
残りの数日間を大事に過ごしていた私にエースが「本当にいいのか」と言ったのは、帰る日の朝方。最悪な出会いを経た私たちだったけれど、エースは私が思うよりずっとお節介で世話焼きだった。
「いいの」
「後悔しねぇのかよ」
「言ったほうが後悔する」
「あんだけ想い合ってんのに──」
「エース」
泣きそうになっていることを悟られたくなくて、わざと固い声を出した。思い出すのが泣けてくる思い出だけならば、すべてここに置いて行く。揺るがしてはならない想いを抱えていつも通りに振る舞い、いつも通りに笑い、いつも通りにグリムと授業を受ける。いつもの毎日、いつもの日常。ほんの少し違うのは、私は明日にはこの世界に存在しないということだけ。
あっという間に一日は終わり、ナイトレイブンカレッジの先輩や同級生たちに囲まれた私は鏡の間にいた。
「本当に、帰っちまうのか?」
「うん」
「オレ様と一緒ならすごい魔法士にだってなれるんだゾ」
「うん」
「だったらどうして帰るんだゾ!! オレ様とお前は二人で一人なんだゾ!!」
「うん、ごめんね、グリム」
わあわあと泣くグリムを抱きしめると、グリムの肌触りのいいグレーの毛皮に涙が滑る。二人で一人、ずっとそうだった。どんなに寒い夜も寂しい朝もグリムがいた。さびしい、と素直に言えないところが私とグリムはそっくりだったのかもしれない。
「グリム。ナマエを困らせるな」
私に縋りつくグリムを引き剥がしたデュースは眉を下げてて笑った。彼が、まだ別れの挨拶を交わしていない最後の人だった。
「今までありがとな。楽しかった。僕はそんなに手助けできたわけでもないが……大切に思ってる。今までも、これからも、ずっとだ」
別れ際、デュースは他の人たちみたいに私を抱きしめはしなかった。そして、「また会おう」とも「またな」とも言わなかった。
手袋が外された両手は白く、雪が降ったあの日のようには触れようともしない。
「……ナマエ」
そんなに泣かないでくれ、と言ったデュースの目からも雫が滴り落ちる。
デュースが近くにいるのに泣かないなんて無理だよ、胸が苦しくて苦しくて張り裂けてそうなんだよ。言ってはならない言葉はあふれそうなのに言うべき言葉が見当たらず、嗚咽だけが漏れた。
「すまない、泣くつもりはなかった。俺は、俺はお前が誰よりも大切だった」
冷たい色の両目から流れる熱い涙は次から次へとこぼれて、濡れた涙声は私にも届いている。宙をさまよった手は俯くデュースの頬に触れる直前で思いとどまり、触れることなく落ちた。
触れたい。でも触れられない。一度でも彼の気持ちを紐解いてしまったら、私は恋だなんてものに呑み込まれてしまう。
「しあわせに、なってくれ」
デュースの声は底抜けに明るい。
私たちは好きだとは絶対に告げなかった。離れがたくなるとわかっている。キスをしたらハグをしたら「好き」と言ったら悲しい思い出だけが増えてしまう。
綺麗な目がとけそうなくらいに泣くデュースの笑顔がかなしい。届く距離にあるはずの手を今すぐ握って、私の涙を掬ってほしい。けれど、すべて叶えてはならない望みだとわかっている。
「しあわせになるから、デュースもしあわせになって」
私はデュースがいない世界で幸せになる。デュースは私がいない世界で幸せになる。まだまだ子どもな私たちには、そんなことしかわからない。
私たちは違う世界で生まれたのにどうして惹かれ合ったのか、明確な解すら導き出せそうにない命題はどこまでいっても残酷だった。
「ばいばい、デュース」
「ああ、ばいばいだ」
鏡の中に足を踏み入れ完全に身体が暗闇に沈んだ時、行くなと悲痛に叫ぶ声が聞こえた。それはきっと、初めて聞けたデュースの本心だった。
◇
【20**年四月、日本】
私はいつも、夜明けの空に彼の面影を見る。
彼の声も笑い方も思い出せなくなった朧気な記憶を回顧する。空の底が白み、塗り潰された真夜中に黎明の光が射し込む瞬間の色。恐ろしく昏い闇を切り裂いて訪れる一閃は、デュースの色だった。彼への恋心を自覚してから初めて迎えた朝、起き抜けに見た空はこの世で一番はかなく、心がふるえるほどに綺麗な幻想を見ているような心地になった。
この世界に夜明けが訪れる限り、私はきっとこの恋を忘れられないのだろう。何年引きずれば気が済むのかと笑いたくもなるけれど、こっちの世界に帰る時に強力な魔法でもかけられたのではないかと本気で疑ってしまう。
「お隣さん、引っ越してきたんだ」
隣のベランダの柵には青いバスタオルが干され、朝の涼しい風にはためいていた。昨日の朝までは掛かっていなかったはずだから私が仕事で留守にしているあいだに引っ越してきたのかもしれない。独りごちて、小さなプランターに水やりをする。
カラカラ。金属同士が擦れる乾いた音がして、新しい隣人がベランダに出てきたことを悟る。ばさっと布を空中で伸ばすような音がしたから、バスタオルを取り込んでいるのかもしれない。
カラカラ、パタン。隣人は隣のベランダで水やりしている私の存在に気づくはずもなくすぐに部屋に戻った。
隣人が挨拶に来るまで、あと数時間。