アナザー・プラネット 06


 今日はなんだか、頭が冴えない。
 起床から数時間が経っても寝ぼけたままの頭をすっきりさせたくてシャワーを浴び、髪を乾かしているとインターホンが鳴った。わざわざ相手を確認するのも面倒で、玄関に直行して鍵を開ける。
 ドアを押せば、日の光が細く射し込んだ。訪問者は背が高いらしく、逆光で顔はよく見えない。

「はい、どちらさま──」

 ドアが完全に開ききる前に足元に紙袋が落ちた。東京でも有名なケーキ屋さんの店名が入ったお洒落な袋はもったいないほどクシャクシャに潰れている。軽く混乱したまま顔を上げ、相手の顔を見た瞬間に呼吸を忘れそうになった。

「うそ……」

 朝日が見せる幻かと思った。夜明け色の綺麗な髪を揺らし、碧の瞳はこぼれ落ちそうなくらい大きく見開かれている。
 指先が痺れ、口の中が乾燥してひどく喉が渇いた。幻にしてはリアルで唐突すぎて涙さえ出ず、身体全部が心臓になったのではないかと疑いたくなるほど心音が大きく鳴っている。デュースはツイステッドワンダーランドにいる、ここにいるわけがない。
 いるわけがないのに、長い沈黙のあとに幻はついに泣き出した。私の名前を呼んで、真っ白な手はためらうことなく私の頬を覆う。
 人間は五感のうちの聴覚の記憶から順に忘れていき、そして最後に嗅覚の記憶を忘れるらしい。匂いは、他のどの感覚器官よりも記憶を保持させるのだとどこかで聞いたことがある。現に、懐かしくて恋しい匂いは雪に包まれたあの日のことを断片的に掘り起こし、マフラーのぬくもりも鮮やかに思い出させた。

「泣くな」
「だって……っ」

 まるで、別れの日をなぞっているみたいだった。泣かないでくれと私に言うくせに、私以上に泣いてくれたやさしい人。
 ふとした時に大好きな人の声も表情も思い出せなくなったことに気づいて絶望し、夜明けの色に思い出のかけらを拾い集めていた私に触れる彼は涙を流し続けている。右目にスペードマークの化粧はなく、充血した両目は私をじっと見つめていた。

「僕はここにいる」

 カタコト混じりの日本語でおぼつかなそうに告げた彼は逃げも隠れも取り繕いもせずに私の手を握って額同士をくっつけた。どちらも泣きすぎて、私の頬に落ちたデュースの涙が私の涙にまじってしまう。

「デュース、デュースなの? 夢じゃない?」

 しつこいくらいに聞く声には嗚咽がまじり、喉が引き攣るせいで肺が苦しい。「一番最初に覚えた」と少し誇らしげに宣ったデュースの指先が涙を掬い、デュースの綺麗な瞳の中に大泣きする私が映る。

「あいしてる」

 あの時、言えなかったセリフをあなたが言うの。

「ずっと探してた、ずっとあいたかった」
「な、んで」
「わすれられなかった」

 どうしてなんでもない風に言えるの、どうしてずっと好きでいてくれたの。力が抜けて玄関に座り込むと、追い討ちをかけるようにデュースもしゃがんだ。

「聞かせて」
「そんなの、わたしだって」
「うん」

 目の前のシャツを握りしめ、何年も前よりずっと成長した身体に身を預ける。故郷から一人でやって来たであろうデュースの苦難は拙い日本語からも簡単に推し量ることができた。
 私が夜明けにデュースの面影を見ていたように、彼も私を思ってくれていたのだろうか。そうだとしたら、愛おしいという言葉以外に何も見つからない。

「ずっと、ずっと会いたかった……!」

 すべて言い終わる前に身体ごと包み込まれ、デュースのぬくもりと心音の音が服越しに伝わってくる。

「デュース、あいしてるよ」

 一瞬たりとも離れたくなくて広い背中に腕を回すとデュースからも引き攣るような嗚咽が聞こえてきた。何年も前に作ったストッパーなんてとうに壊れている。言っても言っても想いがあふれて、時間と言葉が足りないように思えて仕方がない。「好き」も「大好き」も「あいしてる」も私の気持ちを言い表すには脆弱すぎて、言ったそばから湿った空気にとけてしまう。

「すき、だいすきだよ」
「うん、僕も、僕もだ」

 少しも伝わっていない気がしてもどかしい。だって本当はあの時に好きだよって言いたかった。私の孤独に寄り添ってくれたデュースに、全部あげたかった。
 耳元でこぼれた彼の声は十代の頃よりも甘さを孕み、背中を撫でる手のひらも大きくなっている。私が知らないうちにデュースは大人になって、デュースが知らないうちに私も大人になった。そのくせ、恋のはじめ方も知らない子どものようにただ抱きしめ合っている。
 それでもいいと思った。青春時代に恋を置いてきた私たちらしくて、幼い恋しか知らなかった私たちらしくて。

「あいしてる」

 夜明け色の濡れた睫毛はそっと伏せられ、デュースの唇が額に乗った。ベランダから吹き込んだ風がカーテンを揺らし、少し冷たい風が頬をくすぐる。

 薄暗い心のなかに目を眇めてしまうほどの眩しさが掠める。
 暗くて冷たい夜を塗り替えて、私の夜明けは訪れた。


<< fin.

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