三千世界の鴉を殺し君と朝寝がしてみたい 01


 どうした、また泣いているのか?
 ちがうの、怖い夢を見ただけ。
 それなら僕と寝よう。そうすればきっと眠れる。

 お兄様は優しいお方だった。彼に招き入れられる毛布の中は温かく、低い声で紡がれる茨の谷の子守歌と、背中をやさしく叩いてくれる一定のリズムにはいつだって抗えない。手を伸ばせば握ってくれる。勉強を頑張れば頭を撫でてくれる。お兄様とお呼びすれば笑ってくれる。涼しげな切れ長の瞳と怜悧な雰囲気で勘違いされがちだけれど、いずれ国主となられるお兄様は民や召使いたちが思うほど冷酷なお方ではなかった。
 あまねく人々が認めるような才能にあふれた、かっこよくて優しい自慢のお兄様はわたしだけのお兄様。
 いつかは茨の谷を統べる王となるお方だとわかっていても、早くに母を亡くした幼いわたしはお兄様さえ許してくだされば四六時中べったりだったのだ。
 しかし、そんな素晴らしき日々も一人の少年に奪われた。世間知らずなわたしでもリリア様に育てられている人間の赤ん坊がいることは知っていた。お兄様とリリア様と、その少年のあいだに一体どんな事情があったかは知らなくともお兄様が度々リリア様のもとを訪れていたことだけは。
 リリア様に手を引かれる銀髪の少年を見た瞬間に腹が立った。短時間とは言え、わたしのお兄様を奪った子ども。わたしの、たったひとつの居場所を奪うかもしれない嫌な子ども。絶対に仲良くなんかしたくなかった。

「これ、挨拶をせんか。マレウスの妹じゃぞ」
「……シルバー、です」

 シルバーと仲良くしたくない。強く思った。
 お兄様のうしろに隠れてお召し物を握りしめると、わたしが照れていると勘違いしたらしい彼は「ナマエ。お前も挨拶を」と頭を撫でた。嫌、と素直に言いかけ口を閉ざしたわたしの背中を、お兄様の大きな手が後押しするように優しく押した。
 大好きなお兄様にそう言われてしまったら言うことを聞かないわけにもいかない。
 本当に、とても、絶対に、嫌だったけれど。

「……ナマエ」

 名前だけを告げて、お兄様のうしろに再び引っ込んでお召し物の裾を握る。ナマエが照れるとは珍しいものじゃのう。古めかしい口調で話すリリア様には心の中で全力で首を振った。誰がこんな子どもに照れるものですか、とシルバーと同い年の子どもだったくせに、随分と生意気なことを考えていた。



 シルバーが嫌いだった。わたしと同じように人間の血が入っていて、わたしと同じように差別と軽蔑を受けているであろうあの子どもに向ける悪感情は嫉妬の他に同族嫌悪も含まれていたのだと思う。
 お兄様がいなければなんの取り柄もない少女。リリア様がいなければなんの取り柄もない少年。ほら、わたしたちはそっくりなのだ。

「ナマエ様はマレウス様の妹君だというのに魔力が弱い……やはり、人間の血がいけないに違いない」
「あの子でしょう? リリア様がお育てになっているという人の子は……人間の分際で……」

 広いようで狭い城の中は悪意と猜疑に満ちた噂にあふれている。どこを歩いてもどこかでヒソヒソと語られる悪口が聞こえた。
 わたしとシルバーは代わり映えのないつまらない毎日を送っている召使いたちの恰好の的だった。「人間の血が入っていたらなにがダメなの、お母様が人間だったらなにがいけないの」と具体的に聞いたら黙りこくる頭の悪い弱虫のくせに城内を支配する声だけはやたらと大きい。

「人間のくせにリリア様のお手を煩わせるなど……不快極まりないですわ」
「人間の子どもなど存在価値もないでしょうに……」

 その日は珍しくリリア様がいらっしゃらなかった。午前の勉強が終わった昼下がりに部屋を出ると、悪意を隠す気もない囁き声が耳に入って思わず立ち止まった。
 嫌な場面だ。廊下の先で雑談している召使いたちは歴戦の騎士が身につけたとされている鎧の影に隠れるシルバーの存在に気づいているだろうに、くだらない話をやめない。
 はっきりと陰口が聞こえているであろうシルバーは黙って立っていた。黙ってないで言い返せばいいのにと思わないでもないけれど、一応は一国の姫君であるわたしとは違って“王族”という立場にはないシルバーには反抗するのも難しいだろう。
 経験上、こういう嫌がらせは言い返さなければどんどん酷くなっていく。もしも仮にシルバーが激怒して言い返したとしても王族でもなんでもないからと侮っている者たちは「人間の分際で」どうのこうのと彼を糾弾するに違いない。
 閉ざした口が緩み、溜息が漏れた。
 これだから同族は嫌なのだ。弱虫なわたしとは違って耐えられる心の強さがあるかもしれないシルバーにでさえ、同情せずにはいられなくなる。

「見ていて」
「……え?」

 いきなり声をかけたわたしにシルバーはぱちぱちと両目を瞬かせた。大きな目は思ったよりも透き通っていて宝石みたいだ。
 壁に飾られていた花瓶を背伸びして持ち上げて、勢いよく落とすと安っぽくて軽い花瓶は見るも無惨な破片と化した。耳を突き破るような大きな音に召使いたちは肩を跳ね上がらせ、粉々の破片とわたしを見比べては目を白黒させている。

「ごめんなさい、不快な声が聞こえたから頭が痛くなって……花瓶にぶつかってしまったの」

 頭は痛くない。むしろ冴えている。彼らを困らせるための嘘がつらつらと出てくる。

「え……あ、」
「どうしましょう、お兄様とリリア様に相談しなければ……シルバーも一緒に来てくださる? わたしだけ責められてしまうのは嫌だもの」
「ひ、姫様……それだけは」

 利用価値が高いものはここぞという時に使え。さすれば自ずと勝機は得られよう。
 偉大なリリア様のお教えだ。いずれは他国に嫁がされるお飾り程度の姫であっても、みなの畏怖の対象──マレウス・ドラコニアの妹であることに変わりはない。その意識が前提としてあるからわたしの前だけでは比較的大人しくしている者が多く、わたしがいないところで悪い噂話を口にしている小心者が多い。馬鹿な人たちだ。そのくせ脅し文句にお兄様のお名前をお借りすればガタガタと怯える。

「さあシルバー。行きましょう」

 召使いたち以上に驚いているシルバーの手を引き、質のいい絨毯を蹴る。真後ろから、待ってくださいと上擦る幼い声が聞こえた。いつもなにを考えているのかわからないシルバーの子どもらしい声を聞くのはおそらく初めてだ。
 丈の長いスカートの裾を持ち上げ、装飾品だらけの長い廊下を走ると白いフリルが翻ってふわふわと揺れる。また「ナマエ様は姫君であるのに相応の品がない」と言われてしまうだろうか。でも、日頃からわたしを悪く言っている者たちに今さらなにを言われようとどうでもいい。
 シルバーの手を掴んだまま自室に滑り込んで後ろ手で扉を閉めると、床から天井近くまである巨大な扉が大きな音を立てた。
 城の中を全速力で走るのは久しぶりだ。膝に両手をついて前屈みになったまま息をつくわたしとは違って、シルバーは呼吸ひとつ乱れていない。
 どうしてここまで来てしまったのかもわかっていないような顔でシルバーは物珍しそうにわたしの部屋を見渡している。不敬罪で罰を与えられそうなことをあっさりとしてしまう彼はやっぱりどこか変わっているのかもしれない。

「見た?」
「なにが……」
「あいつらの顔。見ものだったでしょ?」
「それは……」

 素直に頷けないけどスッキリした、という顔をしていたのでわたしは満足だ。シルバーさえ「うん!」と堂々と頷いてくれていれば一緒に大笑いしていたと思う。そのくらい機嫌がよかった。

「あの、マレウス様に花瓶を割ったことをおっしゃらなくて大丈夫なんですか?」
「いいの。あんなの妖精に頼んで作ってもらった安い模造品だもの」
「模造品……?」
「そう。ああやってそこらじゅうで人の悪口言う輩がいると鬱陶しいでしょ? どうせ小心者だし、ビビらせたらこっちのものだもん。お兄様もわたしの悪戯だっておわかりになってるんじゃない?」

 実際は、高く見積っても数千マドルもしない贋作だ。この真相を知っているのはわたしと物作りの妖精、それから、すべて見透かしていらっしゃるであろうお兄様だけだ。
 もちろん、召使いたちはそれを知らない。ウン千万マドルはする花瓶が割れた、となれば雇われの身である召使いたちは嫌でも閉口せざるを得ない。性格が悪いと自分自身でも思うけれど、生まれてこのかた貶され続けてきたのだからちょっとくらいずる賢い戦い方をしたって許されるだろう。
 やけに静かになったシルバーを不審に思い、横を見やれば立ったまま器用に眠っていた。よく寝る子、とリリア様がおっしゃっていたことは覚えている。でも、数秒も待たずに眠りに落ちる子どもだったとは思っていなかった。

「……。……ぐぅ」
「……信じられない。本当に寝たの?」

 なんと自由気ままな。揺すってもほっぺを抓っても起きないので、仕方がなくベッドまで引きずると壊れて動かなくなったロボットのように倒れ込んだ。
 長い睫毛は絹のようにすべらかな肌に映えている。起きていても寝ていても、おとぎ話から飛び出した妖精のように見目整った少年だ。まめが潰れている痛々しい手のひらに巻かれた包帯は所々赤色が滲んでいて、綺麗な見た目には似つかわしくないけれど、綺麗な子だと思う。

「はっ……! ぅぐ!!」
「い゙っ!!」

 まじまじと見つめていたのがいけなかったのか、勢いよく飛び起きたシルバーのおでことわたしの顎がぶつかった。シルバーはベッドの上で、わたしは床で、あまりの痛さにのたうち回り、呻き声をあげていた。顎が割れたらシルバーのせいだ、一生許してやらない。

「頭が割れる……」
「こっちのセリフなんだけど……」
「ナマエ様……? も、もうしわけありません」

 シルバーは涙目で、小さな指で覆われているおでこは真っ赤になっている。どちらがより痛かったかはこの際どうでもいいから、冷やすものを探しに行ったほうがよさそうだ。
 城にはまだ不慣れなシルバーの迷子防止のために手を繋いで部屋から出ると、人っ子ひとりいなかった。誰かに見咎められても面倒だから、さっさと目的地まで向かったほうがいい。

「いい? なにか言われても堂々としてて。あいつらなんてお父様やお兄様の御前じゃヘコヘコしてるんだから。あんな奴らに弱みを見せちゃダメ」
「はい」
「あなた、厨房には行ったことある?」
「いいえ」
「妖精たちがたまにおやつをくれるの。今日もくれたらいいけど」

 じんじんと痛みを訴えてくる顎を押さえ、シルバーはおでこを押さえ、二人とも間抜けな姿を晒しながら厨房を目指す。医務室の過保護なお医者様はわたしが受診するとお兄様やリリア様に報告なさってしまうため、医務室にはあまり行きたくない。冷やす程度なら厨房で氷をもらえばいいし、ついでにおやつをもらえたらラッキーだ。

「ナマエ様はどうして助けてくださったんですか」
「助けてなんかない。あいつらを調子に乗らせたくなかっただけ。他人の意見なんて関係ない。わたしはしたいようにしただけだし」

 そうなんですか、と呟いたシルバーが納得したのかはわからない。廊下射す茜色の斜陽がわたしとシルバーの細長い影法師を作っている。

「敬語も“様”もいらない。わたしはお兄様みたいに優れているわけじゃないもの」
「ですが……」
「わたしがいいって言ってるからいいの」

 気難しそうな顔で、たっぷり三十秒は悩んだシルバーはゆっくり頷いた。図太いのか繊細なのかよくわからない、すぐ寝るこの子どもに対して、燃え盛るような敵愾心を持っていた自分が馬鹿らしい。

「ナマエは人間の血が入ってるって本当?」
「うん。お母様が人間だったの」
「お母さんってどんな感じ?」
「……わかんない。小さい頃からいなかったから」

 シルバーには血の繋がった家族がいない。オーロラのように色合いを変える瞳を見て、なんと哀れで可哀想な子だろう、と思った。母がいてくれたら、と何度も願ったことがあるわたしよりずっと寂しさを背負っている。
 お母さんがいたら一緒に散歩をしたい。お母さんがいたら一緒にご飯を食べたい。お母さんがいたら一緒のベッドで眠りたい。シルバーより境遇も環境も恵まれているわたしでさえ、絶対に叶えられない願望で泣きたくなるのに。

「明日はトランプで遊ぼうね」
「え?」
「リリア様にはお願いしておくから」

 わたしの胸を蝕んだ同情という不純な感情が、シルバーとわたしを結びつけていたと言ったら、成長したあなたは怒るだろうか。

「はい……」
「はい?」
「あ、う、うん」

 生まれて初めてできた友達は、嬉しそうな、ちょっとびっくりしたような顔をして頷いた。


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