三千世界の鴉を殺し君と朝寝がしてみたい 02


※少し流血表現あり





 シルバーと仲良くなった頃のことを思い出すと、決まって苦笑いをしたくなる。あの時はまだ、どちらも七歳だった。
 人間の血を引いていて、親の愛情に飢えているわたしたちは似ているようで似ていない。お気に入りの本を読んでいると、目を覚ましたらしいシルバーがふらふらとわたしの隣に座った。後頭部の寝癖が少し気になるけれど、どうせまた眠ってしまうから指摘する必要もないだろう。
 どんな本? とシルバーが問うた。

「恋のお話」

 悲しい結末を迎えるおとぎ話が多い中で、この本だけは誰も悲しむことのないハッピーエンドで幕が降りる。

「茨の谷のお姫様と騎士のおとぎ話なの。最後は結婚するんだよ」
「……身分が違うのに結婚できるのか」
「うん。強い騎士は褒美にお姫様をもらえたんだって」

 不意に、何度も読み返したことで少し日に焼けているページに影がさした。おとぎ話には滅多に興味を示さないシルバーが珍しく身を乗り出し、古ぼけたインクの文字を目で追っていたのだ。淡白な彼がこんなリアクションをするとは思っていなかったわたしは、真剣な眼差しに驚いて二、三回瞬きした。とても奇妙なものを見た気分だ。
 お兄様の護衛になるために鍛錬を積んでいる彼にとって、「騎士」という単語はよほど魅力的に聞こえるのかもしれない。納得のいく結論に至り、読みたがっているような素振りを見せるシルバーのほうに本を向けると、彼は更に身を乗り出した。こういう話が好きなのだろうか。だとしたら意外かも。珍しく思いながら観察していると、途中からでは物足りなくなったらしいシルバーはいよいよ最初のページから読み始めた。
 実を言うと、この有名なおとぎ話の陰に隠れているだけで、茨の谷の姫が王の部下に嫁ぐことは珍しい話ではない。世間にはあまり知られていないけれど、降嫁した姫君の逸話は茨の谷の歴史書には数多く登場する。物知りなリリア様はこういった類の話をよくしてくださった。主君に忠誠と愛とを誓う騎士と、一国の麗しい姫君の恋物語は大昔に流行っておったのだぞ、と。

「気に入ったのならあげるけど」
「いや。別にそういうわけじゃない」
「ええ……」

 だったらなんで読んだの。そう思ったものの、シルバーの思考回路がよくわからないのはいつものことだと気づいて、結局なにも言わなかった。本を閉じた彼がこくりこくりと船を漕ぎ始め、やがてすやすやと眠りに落ちたのでブランケットをかけると長い睫毛が少しだけ揺れた。




「ナマエ様。リリア様がお呼びです」

 一人の青年がわたしの部屋を訪れたのはその晩のことだ。静寂をも呑み込んだような夜、星はひとつも輝いていない。
 城の敷地内の森は、その地形に慣れていない者が立ち入ったらなかなか抜け出せなくなる。特に、森をぐるりと囲っている茨は夜になると活発化するため、我が家に長年仕えている者でも近づきたがらない。茨の魔女が植えたとされている刺々しい茨は生きとし生けるものの血液を吸い取って成長し続けている、というにわかには信じがたい噂まであった。

 夜の森には不用意に入らぬことじゃ。痛い目には遭いたくなかろう。

 リリア様のおっしゃる通り、夜の闇に沈む森は危険に満ちている。冷たい風にざわめく木々は夜空を覆い尽くしそうなほどに高く、明るいはずの月光も地面まで届かない。苔だらけの倒木や土から這い出ている木の根に躓かないように歩くのは、至難の業だった。
 マジカルライトのかすかな光を頼りにわたしの前を歩いている青年は迷いのない足取りで突き進んでいる。右に曲がり、左に曲がり……数メートル先も見渡せない夜闇では、戻り方はすでにわからなくなっていた。

「ブルース。本当にリリア様がお呼びなの?」
「はい。至急呼んでくれと。マレウス様もいらっしゃっているはずです」
「なにがあったの?」
「僕にもはっきりとは……シルバー様になにかあったのかもしれません」
「……でも、こんな森の奥で?」

 ブルース・クルーズは答えなかった。十年近く城に仕えている彼は信頼できる召使いの一人だけれど、たまに無口になることがある。
 前触れもなく、わたしの部屋を訪れたブルースに「リリア様が……」と告げられたのが一時間ほど前の話だ。とっくに深夜零時を回っているであろう現在は、不気味な森をひたすら歩いている。ホー、ホー、とふくろうの変わった鳴き声が聞こえた。生まれてからずっとこの城に住んでいるけれど、どんな動物が生息していて、どんな植物が群生しているのかも詳しくはわからない。

「ナマエ様はシルバー様と仲良くなられましたね」
「そう……?」
「僕はとても嬉しいですよ。あなた様が心をお許しになれるご友人ができて」

 亡きお母様もお喜びになっているはずです、と微笑んだブルースはわたしのお母さんのことを知る貴重な人物だった。お母さんはどんな人だったの? と聞けば思い出を語るように優しく話してくれるので、お兄様やリリア様が城にいらっしゃらない時は彼のもとによく行っていた。
 生まれてからずっとわたしの世話をしてくれていたブルースに喜ばれると妙に照れくさい。大木の幹に手を当て、丸太を跨ぐ。
 右足を地面につけたとほぼ同時に、風を切る音がした。視界の端でなにかが光り、わたしを突き飛ばしたブルースが前に躍り出た。

「ナマエ様!! く……ッ!」
「ブルース!!」

 ドス、という鈍い音のあとに誰かが走り去る物音が聞こえてきた。ブルースは地面に膝をつき、四つん這いで呻いている。この距離でも漂ってくる鉄の匂いに喉がからからに渇き始めていた。
 人が、害されたのだ。穏やかに会話をしていた人が、わたしを庇って。状況を理解した途端に、姿の見えない誰かに心臓を鷲掴みにされているような恐怖心に襲われ、震える歯がカチカチと鳴った。

「……僕のことは気にしないでください。ご無事ですか、ナマエ様」

 ブルースの肩には弓矢が深く突き刺さり、てらてらと光る血液が黒い服からあふれていた。放り出されて少し先で転がっていたマジカルライトを慌てて拾うと、蒼白い彼の顔がよく見え、ライトを持つ手が急速に冷えていく。額に光っている脂汗は彼の苦痛そのものを示し、荒い呼吸は手負いの獣のようだった。
 ブルースは一度固く目を瞑ると、一思いに矢を引き抜き、背後の木に背中を預けた。彼の手を離れ、地面に落ちた鋭い矢には赤黒い血液がべったりと付着している。

「な、なんてことを!! 血が……!!」
「毒矢だったようです。神経毒かと」
「そんな……」
「……申し訳ありません、ナマエ様。僕はおそらく──リリア様を騙るなにかにだまされたんです。奴らの狙いはナマエ様に違いありません。あなた様だけでも……お逃げください」

 天を仰いだブルースは、もっと疑うべきだった、と厚い唇を噛んだ。肩を押える手はみるみる赤くなっていき、血液は指の隙間から腕へと流れていく。
 次にこうなるのはわたしかもしれない。
 久々に感じる死の恐怖に、足が竦んだ。今すぐ泣いてしまいたいくらい怖くて、さっきから震えが止まらない。

「だ、だめ……ここにはあるの、森の、奥に……えっと、」

 けれど、ずっとそばにいてくれたブルースを置いていくことなんてできなかった。入り組んだ森を引き返して城まで無事に戻れるかもわからず、仮に戻れたとしても……ブルースが生きている保証なんてないのだ。大人を連れて森に入ったところで、治療も手遅れなほど毒が回っていたら、ブルースは。ブルースは、どうなるの?

「そう、花が……花がね」

 この茨の森にはどんな毒でも中和する魔法の花がある。城にいる者ならば誰もが知っている、稀有な力を持った不思議な七色の花が。それさえ見つければ、ブルースを助けられる。

「花があるの……だから、まってて」
「なりません、あの花は崖の近くに群生しています。この暗闇、それに刺客がどこに潜んでいるかもわからない……あなた様は今すぐ戻るべきです!!」
「ブルース!! 大丈夫、大丈夫よ、きっと」

 半分、自分に言い聞かせていた。わたしは茨の谷の王となるお方の妹。花ひとつ見つけられないなど、お兄様の顔に泥を塗ってしまう。一寸先に広がる闇に怯みそうになる弱い意志を叱責し、マジカルライトで前を照らす。日中すら陽が射さない地面はぬかるみ、行く手を阻むように突き出ている木の根や転がっている石で転倒してしまいそうだった。
 ブルースの制止を振りきって、足を取られないようにしながら駆ける。矢を放った者はどこにいるだろう。もうどこかへ逃げた? それとも、まだわたしを狙っている? ……肉食獣に睨みつけられている獲物の気持ちを味わっている気分だ。

「こっち、じゃない……?」

 右も左も同じ景色に思えて足を止めたら、冷や汗が一気に吹き出した。強い焦りと緊張のせいで冷静な判断ができなくなっている。正しい方向も、自分がどこにいるのかもわからない。大した距離を走ったわけじゃないのに、呼吸の感覚が短くなっていった。
 風が吹く音すら恐ろしく、耐えられなくなって再び走り出すと、どこからともなく鳥たちの鳴き声が聞こえてくる。昼間はちっとも怖くない森の音がわたしを責め立て、背後からはおぞましさが差し迫っているような心地がした。
 肺も足も痛い。だけど、止まることはできない。感情だけが先走り、一心不乱に走っていた足がもつれ、体勢を立て直すこともできずに泥で滑って無様に転んだ。

「いっ……」

 受身を取った手のひらが擦り切れ、膝も血が流れている。いよいよ泣いてしまいそうだった。怪我をした上に泥だらけで、命まで狙われていて。どうしてわたしがこんな目に遭うの、なにも悪いことなんかしていないのに。
 マジカルライトは転んだ衝撃でレンズの部分が割れていた。どれだけ魔力を注いでも明かりは点かず、割れたガラス片はわたしを嘲笑うかのように散らばっている。あんなに頼りないと思っていたかすかな光でさえ、一度失ってしまうと絶望感が強まる。
 どうしよう、こわい、ここはどこ。強いストレスで研ぎ澄まされている聴覚は、小さな音を拾っては恐怖を煽る。
 後方から、走るような音がした。うしろには物言わぬ険しい道がただあるだけで、それらしい獣や人影はない。それでも、安心できっこなかった。
 ついに奴はわたしを殺しに来たのだ。カタカタと震える指に温度はなく、身体の末端は冷えきっていた。遠くに逃げなければ、早く隠れなければ。頭ではわかっていても、動きが鈍くなっている手足は言うことを聞かない。半歩ずつ後ずさっても、意味なんかないのに──、

「きゃあ?!」

 木の根にかかとを引っかけ、そのまま後ろ向きに倒れてしまった。思わず漏れた悲鳴を聞きつけてか、聞こえてくる音は大きくなっていく。もうダメだ、もう殺されてしまう。耐えていた涙が頬を濡らす。立たないと。逃げないと。でもどこに? きっとすぐ殺されてしまうのに? もうどうしようもない、と諦めるわたしと、まだ生きたい、と訴えかけるわたしがいた。
 ぼんやりと光る明かりは、少しずつ私に近づいている。奴は馬に乗っているようで、特徴的な足音が夜半の空気に響いていた。毒矢で殺されるのか、それ以上にむごい方法で殺されるのか、考えるだけでしゃくりあげそうになる。

「ナマエ!!」

 けれど、聞こえてきた声はわたしがよく知る少年の声だった。

「シルバー……?」
「どうして部屋を出た!? マレウス様も親父殿も心配なさっている!!」

 華奢な背丈には不釣り合いなたくましい黒馬に跨っているシルバーの表情には怒りが広がっていた。
 わたしはこんなに怖い思いをしたのに、ブルースのために花を探していただけなのに。シルバーの説教が理不尽なものに思えて、理解してもらえなかった悲しみよりも怒りがふつふつと湧いてくる。

「わたしはブルースに連れられてここに来たの!! なんにも知らないくせに言わないで!! ブルースが死んじゃうと思って花を探していたのに……!!」
「……っ、花だと!? そんなもののために、お前は……!!」
「そんなもの!? シルバーはどれだけ大事な花かわかってない!!」

 引っ込んだはずの涙も、行き過ぎた怒りでまたこぼれる。終着点を見失った言い合いはどんどんヒートアップし、わたしからもシルバーからも理性が消えている。
 頬を滑る涙をシルバーに見せたくなくて乱暴に拭うと、馬から降りた彼は黙り込み、眉をきゅっと寄せた。

「……違う。ナマエ、俺は」
「もう聞きたくない……!!」
「ナマエ!!」

 珍しく声を張り上げたシルバーの近くで、一匹のコウモリが滑らかに羽ばたいた。

「よさんか、お前たち」
「親父殿……」
「言ったはずじゃぞ、シルバー。常に冷静であれと。幼いお主にはまだ難しいじゃろうが……」

 どこからともなく姿を現したリリア様はわたしの頭を撫で、気まずそうな顔をするシルバーを優しく宥めた。気持ちはわかるが、ナマエのことを慮ってあげるのも優しさじゃろう。と、リリア様がおっしゃったそばから緑色の粒子が空を舞い、数秒後にはその場にお兄様がお立ちになっていた。
 鋭い眼光は一切の感情を感じさせず、わたしを見下ろす表情も強ばっている。リリア様はお怒りにならなかったけど、お兄様にはこっぴどく怒られてしまうかもしれない。心に生じた新たな恐怖心によってなにも言えなくなって俯くと、傷だらけの膝が見えた。こんな怪我をしたって、わたしはなにもできなかった。今になって自分の無力さに押し潰されてしまいそうになる。

「僕に助けを求めなかったことはあとで説教だが……ブルースからも事情は聞いている」
「……」
「ブルースは生きている。解毒も済んだ」
「……ほ、ほんとうですか?」
「ああ。よく頑張った」

 お兄様はわたしを抱きしめ、背中を撫でた。わたしはなにもできないお飾りのお姫様だから、王族であるにも関わらず人間の血が入っている小娘だから、誰かに虐げられても仕方がない。そう受け入れて耐えてきた。けれど、昔から、お兄様だけはわたしが泣くことを許してくださった。
 お兄様に抱きしめられてようやく、生きた心地がした。

「こ、こわかった……」
「ああ」
「もうだめだって、しんじゃうって……」

 堰を切ったようにあふれる涙が傷ついた頬を流れて痛い。幼い子どもみたいにわんわん泣くわたしを、お兄様は安心したような顔で見つめていた。


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