アナザー・プラネット 02
デュース・スペードは寂しさを理解しているひとだ。純粋で真っ直ぐでありながら、一人の孤独を知っている。僕は母さんと長いあいだ二人で暮らしていたから、と教えてくれた時、デュースは心配そうな顔をした。デュースは、一人で家に残っているお母さんを心配し、それと同時に懐かしんでいる。
もしかしたら、小さい頃のデュースは家に一人でいることが多かったのかもしれない。お母さんの仕事が終わるのをじっと待ち続けて、足音や玄関の鍵が開く音に人一倍敏感になって、「ただいま」と疲れた顔で言うお母さんを待ちわびていたのかもしれない。
それは私の予測であって想像でしかないけれど、もしかしたら、と強く思う。
「ナマエ、今日は寮でお茶会があるんだ。よかったら来ないか?」
ふとした時に、デュースは私に手を伸ばす。何気ない仕草で、何気ない口調で、何気ない素振りで、私の寂しさを拭う。
どうだ? と首を傾げたデュースの表情には哀れみもなく、ただただ優しさが居座っていた。彼はとても鈍いようで、私のそういった感情の機微には無意識下で聡いひとだった。
「いいの?」
「ああ。ローズハート寮長にも許可はもらってる。そもそも、監督生には恩があるからな」
「私は何もしてない気がする……」
「気にせず来ればいい。他の寮生も、親しい友人を連れてくることがあるんだ」
「そうなんだ。じゃあ、お邪魔するよ」
デュースにとって、私は親しい友人になれているということだろうか。素っ気なくも感じられる返事だけをして、上がりそうになる口角がデュースに見えないように窓の外を見た。ヨーロッパの城のように豪華絢爛な廊下は映画の中から飛び出したセットのようで、大理石の床はどこまでも続いている。
今日は麓のベーカリーが移動販売に来ているとかでエースはグリムと真っ先に食堂に向かってしまったため、デュースと二人きりだった。
「さっきの魔法史、ちゃんと起きてたか?」
「起きてたよ。トレイン先生の減点は大きいから」
「エースとグリムは爆睡していたけどな」
「エースは地頭いいから問題ないだろうけど……グリムはなぁ」
「試験前に泣きを見るハメになるのは自分なのにな。オクタヴィネルの寮長と変な契約を結ばなければいいが……」
「デュースはもう懲りた?」
「当たり前だ。あの人たちに頼るくらいなら自力でやる」
イソギンチャク事件が相当効いたらしいデュースは思い出すのも嫌なのか、忌々しそうに溜め息を深くついた。
食堂に近づくにつれ騒々しい声が大きくなり、美味しそうな匂いも漂ってくる。育ち盛りのデュースはお腹に手を当て「腹が減りすぎて死にそうだ」と大袈裟に言った。
「今日は何を食べたい?」
「特にないな。見てから決めようと思ってる。ナマエは?」
「うーん、スパゲティとか……?」
「じゃあ僕もそうしよう」
「ええ? 卵料理あるかもよ?」
「昨日オムライスを食べたからな、今日はもういい」
「そういえばそうだっけ」
「ああ、美味しかったぞ。ナマエもいつか食べるといい」
デュースと話しながら騒がしい食堂内に入り、二人でスパゲティの列に並ぶ。ハンバーグやステーキなどの列に比べるとそんなに混み合っていない。しかし今日だけは、いつも人気がある肉料理ゾーンを差し置いてベーカリーの移動販売に一番長い行列ができていた。人が多すぎてエースとグリムがいるかもわからない。
グリムはメンチカツサンドを今度こそ買えたのだろうか。
「デュースはパン食べなくていいの? ああいうとこで買い物するの得意だよね」
「僕は別に。今すぐ食べたいわけじゃない」
「そっか」
「買う時はナマエのぶんも買ってこよう」
「いや、私もまずは頑張ってみるよ」
「……弾き飛ばされるんじゃないか?」
「あはは、その時はその時だ」
私はクリームスパゲティ、デュースはミートスパゲティをプレートによそった。トングで麺をほぐすと湯気が立ち上り、空腹を更に刺激するような香りがふわっと匂い立つ。
好きなように料理を盛ったプレートを持ったまま食堂を見渡してみても、ゆっくり食事を摂れそうな席がない。クラスメイトが運良くいてくれたら相席をお願いできたのだが、それらしき人影もない。
「他寮の先輩方に相席を頼むのはちょっとな……」
「だよね……」
ラギー先輩やアズール先輩なら見かけたけれど、デュースも私も彼らと食事を囲むほど肝は据わっていなかった。デュースはアズール先輩やリーチ先輩たちにイソギンチャクのトラウマがあるので、オクタヴィネルの先輩方との同席は御免こうむりたいところだろう。
「あ、エースいたぞ」
幸いなことに、振り返ったデュースがエースとグリムを見つけたらしい。デュースの視線の先を見ると、二人がパンの入った袋を片手に大きく手を振っていた。無事にパンを買えてそんなに嬉しいのか、二人とも上機嫌だ。
「ありがとう、エース。どこにも座れなくて困ってたから助かったよ」
「お前ら来るのが遅すぎんだよ。もっと早く来りゃいいのに」
「そうもいかないだろ。僕とナマエは日直だったんだ」
「そんなの昼飯食ったあとにすりゃいいじゃん」
昼休みの黒板消しはいつすべきか。不真面目なエースと真面目なデュースの言い合いに苦笑しながらグリムの隣の席に座り、手を合わせる。グリムのふにふにな肉球にはデラックスメンチカツサンドが握られていた。
「サンド買えたんだゾ!」
「よかったね」
「お前にはやらないんだゾ!」
「いらないよ……グリムのなんだから」
はぐはぐとサンドを食べ始めたグリムはうっとりとした幸せそうな表情で飲み込み、また大きく口を開いてかぶりついた。エースはブラックチェリーとクリームチーズのデニッシュパン、そして惣菜系のパンをいくつか買ったらしく、こちらも美味しそうに食べている。
麺をフォークに巻き付け、口に運んだところで真向かいのデュースに見られていることに気がついた。何かしただろうか。口内に食べ物が入っている状態で喋るわけにもいかず首を傾げれば、デュースは「悪い、見すぎたな」と申し訳なさそうに言ってフォークを握った。
日誌を書き終えた頃に、黒板を消していたデュースも黒板消しを置いた。汚れないようにと黒の革手袋が外された白い手は男の子のものと思えないほどにうつくしく、小指の先まで端正だった。
「終わったか?」
「うん」
「よし、じゃあそれを出して寮に行こう。今日はクローバー先輩のスコーンが食べられるぞ」
手を洗ってくるから待っててくれ。その言葉に頷き、ペンや消しゴムをケースに戻していく。デュースが消した濃い緑色のそれは真面目な彼らしく綺麗に掃除されていた。
男子校であるナイトレイブンカレッジの黒板は大きく、女の私にはとてもじゃないが上まで届きそうにない。デュースが私の身長のことを考えて「黒板は俺がする」と言ってくれたかはわからないけれど、一番上に並んでいた“魔法士と人間の薬草の違い”の文字列は消せないであろうことは確かだ。
「ナマエ。待たせたな、行くか」
手袋をはめ直したデュースは教室に戻ってくるなり鞄を肩にかけたが、ジャケットの背中の部分には白い粉がついていた。
「チョークの粉、ついてるよ」
「クソ、しくじったか……」
「いやいや、いきなりワル語録出さないでよ」
「なっ……そんなつもりは!」
「険しい顔で『しくじったか』って言われたら誰だって怖いよ」
「す、すまない」
「ほら、背中向けて」
軽く叩いてチョークの粉を落とそうとするも、なかなか落ちない。
「もっと強く叩いていいぞ」
「結構強めに叩いてるよ」
「撫でられているようで恥ずかしいんだが……」
「あ、ごめん。でもほら、だいぶ落ちたから」
ありがとう、とお礼を呟いたデュースは赤い顔で咳払いした。デュースが仲良くしてくれているからって馴れ馴れしく触りすぎかもしれない。私を男友達と同じように扱っているエースなら大丈夫だっただろうけど、デュースは意外にも気にしていた。
「……」
デュースをちらりと見やる。今日はデュースと二人きりになる機会が多い。
廊下の窓から漏れた斜陽が肖像画の額縁や石柱の輪郭をあわく照らし出し、私たちの影法師も細長く伸びていた。なぜだか何も言わないデュースの目は鉱石のような冷たさを持っている。その双眸のハッと息を呑むような美しさをなんと表現すればいいのか、私にはわからない。無色透明の水晶のなかにいちばん綺麗な空を閉じ込めたような色。ビー玉、宝石、ガラス細工……きっと、世界一のガラス職人が作ろうとしても作れない。もしも落ちたら割れて壊れてしまいそうなくらいに繊細な光をこぼして輝き、冷たく冴える色の瞳からぬくもりを見出す。
カツン、と革靴の音が一際大きく響いた。デュースは立ち止まり、両目を伏せていた。髪と同じ夜明け色の睫毛は白い頬に影を落としている。
「デュース……?」
「ナマエは」
「うん」
「一人で泣いていないか」
私よりずっと寂しそうな声でそれを口にしたデュースのやわらかな髪がさらりと揺れた。やはり彼は一人の孤独をよく知っていて、私の中に巣食う寂しさに気づいている。だから「寂しくないか」とは聞かなかった。わかりきっているからこそ、そう聞く必要もなかった。
デュースはいつも、世界に置いてけぼりにされそうになる私を掬おうとする。
「泣いてないよ。どうして?」
「いいや、だったらいいんだ」
悲しそうに目を細めて笑ったデュースは私の下手な嘘を嘘だとわかりきっているのだろう。
「背負い込みすぎるのは、よくないからな」
◇
【20××年七月、日本】
デュースは鈍いようで鋭かった。
山手線の電車に揺られながら、目をゆっくり開く。微睡みから覚めた世界は家々やビル群の隙間から朝日が射し込み、眩しすぎて目を開けるのも億劫だ。
数ヶ月ぶりに見たナイトレイブンカレッジの夢はあまりにも鮮やかで、ベッドの上で目覚めた時には泣いていた。しかしそれでも、少しずつ忘れ始めている。記憶の輪郭が朧気になり、彼らの声を思い出せなくなり始めている。
「〈次は新宿、新宿。お出口は左側です〉」
都会のネオンとブルーライトに疲弊しきっている社会人と年相応の若々しさと元気の良さを持っているであろうジャージ姿の高校生たちの対比はなんだか目に痛い。土曜日の午前六時。人が疎らな車内でも、私のように休日出勤をしなければならない可哀想な社会人の姿はちらほらと見受けられる。その一方でエナメルバックを背負い同い年の友人たちと話している高校生たちは「今まさに青春しています」と言わんばかりに輝いているように見えた。
平日の朝はなかなか時間通りに到着できないこの緑の電車も、人が少ない休日ばかりは遅延もなく定刻通りに駅に着く。
立ち上がると私のヒールの音が車内に響き、寝落ちしそうになっていたサラリーマンは慌てふためいながらも鞄をとっ掴んでせかせかと電車から降りた。そんなに急がなくてもいいのに。
あのサラリーマンに続いて降りると、土曜の授業があるらしい高校生たちが乗っていく。
「さっきね、すっごいイケメン見た!」
「えー、いいなぁ。見たかった」
「どんな感じだった?」
すれ違いざまに女の子らしい微笑ましい話題が聞こえてきた。私が最後に恋をしたのは、もう何年も前の話だ。