アナザー・プラネット 01
私はいつも、夜明けの空に彼の面影を見る。
器用で要領がいいエースと、真面目なのに少し不器用なデュースはまったく正反対の男の子。けれど、どちらも他人のために本気で怒れる人たちだった。だからこそ二人は仲良くなったのかもしれないし、お互いに惹かれる部分があったのかもしれない。
ナイトレイブンカレッジへの正式入学が決まる前、一番初めに話した生徒がエースで、奇妙な縁を辿ってデュースとも出会った。エースとデュース、それにグリムはトラブルを呼び寄せる天性の才能を持っている。食堂のシャンデリア破壊にリドル先輩やアズール先輩のオーバーブロット事件。レオナ先輩の件は学園長が持ち込んだ案件がきっかけだったけれど、三人と一緒にいると疎外感と孤独感は紛れた。
私は闇の鏡に呼ばれてしまった異世界の住人だ。魔力もなければ特別な能力があるわけでもない。まったく違う価値観、相容れない常識、魔力が欠片もないという絶対的かつ絶望的なハンデ。元いた世界から爪弾きにされてしまった、変えようのない真実。肩にのしかかる現実は日に日に重くなっていき、両足に絡み付くしがらみは日に日に大きくなっていく。
それでも、生きていくには一人で立っていなければならない。私の世界に帰るには立ち止まっていられない。ちゃんと理解していたから、明確なゴールも見えないままに藻掻き続けた。いつかは帰ることができると信じて。
しかしある時、心がポッキリと折れてしまった。エースとデュースがいつものようにじゃれ合う姿を見ていただけのはずなのに、唐突に置いてけぼりにされている心地になったのだ。同じ空間にいようがいまいが、私は彼らと同じじゃない。そんな当たり前の事実に心が冷えた。
「帰りたい……かえりたいよ……」
グリムがいるオンボロ寮に帰らないまま植物園近くのベンチでこっそり泣いた。泣いている姿なんて誰にも見られたくない。だというのに、夜明け色の髪が視界の端っこに映り、草を踏みしめる音がした。
「監督生?」
まるで「どうしたのか」と聞くような口調で言ったデュースは私の顔を見た瞬間に目を見開き、早足でベンチまで来ると私の隣に黙って腰かけた。
デュースにバレるなんて最悪だ。「どうして泣いてるんだ!?」とでも聞かれたら気が滅入る気しかしない。
なんと言い訳しようか考えていると、彼はなぜかノートを取り出しおもむろにページをめくり始めた。クルーウェル先生が今朝のホームルームで回収し、授業中に返却した魔法薬学のノートのようだ。
「僕は見てない。見てるのはノートだけだ。素晴らしいな、クルーウェル先生のダメ出しばかりだ」
「……」
「本当に見てないぞ」
デュースはそれ以上は何も言わなかった。風が吹けば木々はざわめき、どこからか小鳥のさえずりさえ聞こえてくる静けさが広がっている。気を使ってくれている、と気がついた時にはまた涙があふれていた。
そっと寄り添うような、デュースの優しさが荒んだ傷口にしみる。男子用の制服のズボンをぎゅっと握りしめたら小さな皺ができて、手の甲の骨がわずかに浮かんだ。
「ひくっ……」
耐えきれなくなった私の喉から引き攣った音が漏れると、デュースはわかりやすく肩を揺らし、彼が手に持っていたノートもくしゃっと音が鳴った。「見てない」と言うわりにはあからさまな態度で、泣く私のことを気にしている。
いきなり立ち上がったデュースは鞄の中に手を突っ込み財布を取ると、私と鞄を置いてけぼりにしたまま走り去った。私はともかく、鞄を置いていってもいいのだろうか。クルーウェル先生にダメ出しされたらしいノートも、広げられたままぽつんとベンチに置かれている。風に煽られめくりあがったノートの白地が光に透け、デュースの決して上手とは言えない実験器具の挿絵の周りには彼らしい豪快な文字が踊っていた。所々、インクのしみが擦ったように伸びていたりミミズみたいな読みにくい文字が綴られていたりと、デュースが眠気と格闘しながらノートを取っていたことが見て取れる。
笑いたいけど笑えない。さっきまでは一人でいたいと思っていたのにデュースがいなくなった途端に言いようのない寂しさが胸に募り、制御できない感情が涙をあふれさせている。
二、三分経った頃に再び姿を現した彼は息を切らして私の前に立った。
「た、食べたら元気になる……監督生もどうだ?」
デュースの手には金色の紙に包まれたチョコレート、小さな箱に入った魔女のクッキー、白と赤の包み紙に覆われた棒付きキャンディなどがある。全部、私が美味しいと言ったことのあるものだった。
「どっ、どうして泣く!? 嫌いだったか!?」
慌てふためくデュースの手からお菓子がばらばらと落ち、私の足にいくつか当たる。今度は、すすり泣く、では済まなかった。私をちゃんと見てくれていたデュースの優しさがたまらなく愛おしく、嬉しかったのだ。
ありがとう、としゃくりあげながら言ったら、デュースはへにゃっと眉を下げ、屈んでお菓子を拾い集めた。
「僕は何も見てないし何もしてない」
お菓子をひとつずつ拾いあげる彼の、夜明け色の髪に夕日の赤い光が混じっていた。
◇
【20××年三月、日本】
目を覚まし、ベッド横のカーテンを開けると空はまだ暗かった。
故郷の夜明けは煩わしく、騒々しく、そしてかすんでいる。星も見えない都会の真ん中、見上げる空は濁っていた。ツイステッドワンダーランドから元の世界へと帰ってきた私に待ち受けていたのは平凡で退屈な毎日だった。
ナイトレイブンカレッジにいた頃のことはよく夢に見る。
マジフト大会にハッピービーンズデー、学園対抗戦。私の隣にはいつだってグリムがいて、そばにはエースとデュースがいた。帰れないという焦りや家族に会えない恋しさ寂しさを紛らわせてくれていた彼らは、この世界にはもういない。
「しあわせに、なってくれ」
私を監督生と呼んだ彼の声すら、思い出すのがやっとだ。三年生に進級する直前に帰る方法が見つかり、祝福されつつ背中を押されて帰った世界は私が異世界に飛ばされた時と何ら変わりないそれだった。
私の目の前に用意されていた朝ごはんからは湯気が立ち上り、キッチンからは「早く食べなさい、今日は入学式でしょ」と急かすお母さんの声が聞こえてくる。高校の入学式の日にナイトレイブンカレッジの鏡に呼ばれたんだっけ、と思い出した私の目には平凡な家庭の平凡な食卓の様子が映っていた。「ちょっと、どうしたの?」体調でも悪いの? とお母さんが言い、テレビの美人なお天気お姉さんは東京の空模様について語る。
ああ、やっと帰ってこれたんだ。
当時は無事に帰れたことに安堵して大泣きしてしまったけれど、高校と大学を卒業した私が社会人になった今でもお母さんは時々その話をする。高校入学で緊張しすぎておかしくなったのかと思ったわ、と。
「〈東京は所により雨が降るでしょう。今日は折角の春分の日ですが──〉」
雨風で桜は少し散ってしまうかもしれませんね、と残念そうに宣った女性は可憐な花のように愛らしい頬笑みを添えてお辞儀をした。お天気コーナーは終わりらしい。
テレビ局の人はこんな早い時間から大変だなと思いつつロールパンを齧り、コーヒーで流し込んだ。
私はもう、子どもじゃない。