イヴの傍証 05


 僕のルームメイトである彼、否、彼女はとてもおかしなひとだ。この僕に本来の性別を何ヶ月も隠しおおせたことにも驚いたが、彼女は愚かしいほどに秘密主義だった。
 真っ黒な水面に、誰もいないプールにただ静かに浮かぶ姿は世界に取り残された子どもみたいで、なぜだか僕は、親の言いつけを破って西の海を訪れた幼い頃のことを思い出した。あれは、夜空をそのままひっくり返したような星屑たゆたう海が恐ろしい夜だった。

「いい? ママにはナイショ」
「はい、ないしょです」

 フロイドと二人で手を繋いで海から顔を出したら、静かな孤独は悠然と広がっていた。星々が輝く空と、それらを反射する水面は不完全な銀河のように広大でありながら、どことなく寂しげだった。地平線の奥の、そのまたずっと奥まで、物言わぬ孤独は続いている。
 だから僕は怖かったのかもしれない。彼が、彼女がひとりぼっちで海に留まっているように思えて、怖かったのかもしれない。勿論、溺れ死んでいるのではないかという恐怖もあったけれど、僕がプールに飛び込んだ瞬間に彼女は悪足掻きと言わんばかりに泳ぎ始めたため、その心配は杞憂へと変わった。
 水が落ちる音が頭から離れない。
 数秒とかからずに捕まえた彼女は何も言わなかった。僕が怒りに任せて責め立てても、彼女は一言たりともこぼさずに俯いている。無言を貫く彼女を捲し立てながら、やけにやわらかい身体の感触を奇妙に思い、次いでありありと存在を主張する胸のふくらみに目眩がした。張り付いた薄いシャツは肌色が透け、白と黒のネクタイはぐちゃぐちゃになったまま胸のあいだに沈んでいた。

「説明してください。君は、僕の目には女性に見える」

 見える、ではなくて、女性そのものだ。
 陸の女性はやわらかすぎる。人魚のように硬い鱗もなく、どうやって身を守るというのか。甚だ不可思議で、なんと弱そうな生き物だろうと思った。
 僕が守ってあげなければ死ぬのではないか。そんな不安と哀れみから、僕は手を差し伸べてしまったのだ。



 彼女が飲む薬は、なるほど確かに危険な副作用ばかりだ。調べてみればすぐわかることなのに、調べようとしなかったのは僕自身の怠慢だとしか言いようがない。うまい話には裏があるように、便利な薬には当然欠点がある。僕が飲んでいる人間の足を生やす魔法薬がとてつもなく不味いように、彼女の薬にも重大すぎる欠点があっただけだ。
 そんな薬を、朝と夜。猛毒だと知っていながら食む。僕に性別を知られてからは夜に飲むこともなくなったようだが、身体は既に悲鳴をあげているのだろう。

「俺が女に生まれた意味なんてないんだよ」

 もう諦めた、そう言いそうな彼女の言葉を聞きたくなかった。たとえ、彼女が受け入れてしまった運命だとしても。
 彼女が抱えている秘密のうちのひとつを知って、だからなんです? とすまし顔で言える僕は何処にもいなかった。どうでもいい相手なら「それは災難ですねぇ」なんて言って訳知り顔で悲しそうに振る舞えた。相手が大切な人でなければ現実に打ちひしがれずに人好きのする笑みを浮かべられた。
 あの時の僕は僕らしくなかった。

「バカではありませんか!!」

 だって僕は怒ってしまったのだ。バカなことをするなと怒って、自分の身体をもっと大事にしてくれと頼んでしまった。
 彼女の足の爪は桜貝のように小さくて、くるぶしから足の甲までのラインはすべてがまるみを帯びている。まるくて太っていると言いたいわけではないけれど、彼女を構成するすべてはなだらかで、やわらかそうだ。僕には彼女のような細くくびれた腰はなく、触れたらどこまでも沈みそうなふくらみもない。
 人はそれを色気もなく性差と呼ぶらしい。僕にとってはどうしようもなくむず痒く感じられるが、彼女は当たり前のこととして受け入れている。つまり、胸を掻きむしりたくなるような奇妙な衝動を抱えているのは僕だけだ。面白くない、とてもつまらないことのように思えた。

「ジェイドさぁ、何考えてんの?」
「フロイド……何かご用ですか?」
「あはっ、そうそー、カメちゃん見なかった? 遊ぼうって言ったのにどこにもいないんだよね」
「ナマエくんなら寮に戻ったと思いますよ」
「は? ありえねー、ムカツク」

 気まぐれで気分屋なフロイドを宥めながら、暗く黒く広がった感情に歯噛みする。相手はフロイドだ。彼の本当の性別を知っているわけではない。だというのに仄暗い気持ちだけが先行し、そっくりな顔立ちをしている片割れに苛立ちが募っていく。
 僕たち双子は分け合って当たり前じゃない。僕にもフロイドにも、欲しいものは自分から捕らえにいく狡猾さと行動力がある。
 彼女が女性であると知ってしまえば、フロイドは彼女にもっと興味を示すだろう。興味本位で近づいて、気に入ってしまえば「でもジェイドのじゃなかったんでしょ?」なんて言って容赦なく奪っていくに違いない。僕はそれが嫌だった。とてつもなく苦しく、可能性を考えただけでも吐き気がした。
 中身は似ても似つかない僕らは、根本的な本能の部分で似通っている。
 僕が彼女に奇跡と神秘を見出したように、フロイドも少なからずそれを感じ取るに違いなかった。僕の矮小な想像も及ばない未知が彼女の身体にはあって、きっと僕の身体にも彼女にとっての未知がある。変わったものが大好きなフロイドには、ナマエさんはお誂え向きの玩具だろう。

「あ、カメちゃんいんじゃん」

 ああ、またしてもむず痒くなってくる。それから、どこかが苦しくなってくる。感情を制御する何かがぼろりぼろりと一枚ずつ剥がれていったら、最後に残るのはなんだろう。答えも出なさそうな自問に呆れつつ、フロイドの視線の先を辿ればリドルさんやカリムさんたちと楽しげに会話しているナマエくんの姿が目に入った。

「どこ行くの?」
「僕はラウンジのほうに。アズールに呼ばれていますので」
「ふーん」

 フロイドが離れたことに安堵して、僕は足早に校舎を出た。
 少し前まで、彼が誰と話していようとも何も感じていなかったはずだ。あの日、彼が彼女になった日、僕の中で何かが変わってしまった。カチッとスイッチが切り替わるような明確な音を聞いたわけではないが、それでもやはり変わってしまったと思う。
 どうしても、不快感が残る。僕に彼女の交友関係を縛る権限はないのに、苛立ちが蟠る。
 気が晴れないまま自室まで歩いていると、寮生がそういった類の本の闇取引している現場を目撃してしまった。僕に気がついたらしい彼らはわかりやすく顔を蒼くし、本を背中に隠した。

「ジェ、ジェイド!! これは……」
「僕だってそこまで無粋ではありませんよ。ただ、アズールには見つからないようにすることですね」

 ちらっと見えた本のタイトルは「金髪巨乳人魚」だそうで、知りたくもない好みを図らずして知ってしまった。人魚特有の曲線美も素晴らしいと思うが、僕は生脚のほうが──ああ、僕は一体誰を思い浮かべているのだろうか。

(……嫌なことを思い出してしまいました)

 ナマエさんが女性だと知っていれば、人間の男性の生理現象であるらしい朝のアレについて相談することもなかっただろう。その件について彼女は一切触れてこない。非常に有難かったが、気を遣われていると思うと感謝と同じくらいに羞恥心もある。
 僕は彼女に言われた通りに調べ、見よう見まねで処理をした。こんなことをして気持ちいいと思う人間の心理がわからない。最初はそう思っていたが、しばらくすると僕の興味は陸の人間同士の行為そのものへと注がれるようになった。
 人間のそれは僕ら人魚の繁殖とはわけが違う。人間は、セックスという名前までつけたその行為に、愛を確認し合うためだとか、快楽を得るためだとか、様々な理由まで付与しているらしい。
 なんとくだらない。
 そんなものは子どもを残すには無用なものではないか。愛だとか快楽だとか、生産性のないくだらないものを得て何になるのか。そう思うと生理現象に悩まされること自体がバカバカらしくなってしまった。
 だというのに、彼が彼女になってから、俯瞰的で批判的な僕の思考はころりと変わった。あのやわらかい身体はもはや毒だ。夜のプールで掴んだ二の腕のやわらかさは今でも感触として残っていて、まだ消えてくれない。あの日から、水が滴る音も彼女の感触も忘れられないまま原因不明の空腹が続いている状態だった。何を食べても満たされない、何を飲んでも渇きが癒えない。

「……お腹がすきましたね」

 また、あの本のどぎつい色合いの表紙が脳裏にちらついた。ナマエさんのほうがずっとやわらかくて、ずっとおいしそうなのに、他の人たちはそれを知らない。


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