イヴの傍証 06


 よく晴れた水曜。植物園で水やりをしていると、監督生に付き添っていたエースとデュースが暇そうにしていた。授業に追いつけていないらしい監督生は補習でマンドラゴラの観察中だ。

「うげ、ナマエ先輩……」
「先輩にその顔はないんじゃないか? エース」
「いや、だってオクタヴィネルだし……」
「俺をタコ野郎とウツボ兄弟と一緒にすんな。俺は人魚じゃねぇし普通の人間だ」
「え、あそこって人間も入れるんですか?」
「そりゃな。デュースは入りたかったか?」
「うっ……いや、それは」
「ねーよなあ、そりゃイソギンチャク生やされたらねーわ」

 わはは! と笑い飛ばしてやると一年生二人は決まりが悪そうな顔をした。

「トレイ先輩が嘆いてたぞ。今年の一年はヤンチャすぎるってな」
「うぐ……」
「まぁ、俺は面白くていいと思うけどな。あ、ペロペロ満腹キャンディ食うか?」
「それ死ぬほど酸っぱいやつじゃん……」
「知ってんの?」
「ダイヤモンド先輩に僕ら食べさせられたんです。おいしいよって」
「さすがだなぁ、ケイト先輩。先にやられてたか」

 キャンディをポケットにしまい、代わりに普通のチョコをやる。かなり怪しまれたが、信用に足ると思ったらしく二人とも食べてくれた。

「俺も一年の頃にケイト先輩に騙されたんだ。『甘いよ☆』なんて言いながら渡されて……」
「本当は酸っぱいんすよねぇ」
「ああ、あれは本当に酸っぱかった。僕はもう食べたくない……」
「だろうな。度が過ぎてベロが痛くなるし」

 思い出しただけでも口の中が唾液でいっぱいになる。あれはあれでコアな消費者がいる商品らしいが、満腹になる以外にいいところがあるかは俺にもわからない。
 今度の実験に使う薬草は十分に栄養を吸収しているようで、緑の若葉からは水が滴っている。温度は基本的に一定に保たれ、冬は暖かく夏は涼しい環境が整えられている植物園は薬草育成に持ってこいの場所だ。レオナ先輩の縄張りと化してしまったのが残念だが、邪魔さえしなければ問題はない。
 カラカラ、とガタが来ている扉が開く音がしたので音源を辿ると、ジョウロとシャベルを持っているジェイドが入口に立っていた。相変わらず意味がわからないくらいに泥臭い道具が似合わない男である。
 ガーデニング用品を携えたなんだかヘンテコなジェイドの登場にエースとデュースは思いっきり顔を顰めた。

「おや、あなたたちは何をしているんですか?」
「うげ……」
「ジェイドは嫌われてんなぁ」
「そうでもないですよ。ね?」
「いや、怖いだろ」

 さもそうすることが当たり前であるかのように俺の隣にしゃがみ込んだジェイドは「また何か作る気ですか?」と問うた。イソギンチャクのトラウマが残っている一年坊二人はそそくさと退散してしまい、魔法薬学同好会専用の区画の前は俺とジェイドの独占状態になっている。

「お前こそ、キノコはいいのか?」
「ええ」
「監督生ならあっちにいるぞ」
「なぜ監督生さんが出てくるのですか?」
「ええ……? あー、うん、なんでもない」

 ジェイドは俺が男である時は絶対に女の子扱いをしない。友達として、俺の性別を知る前と同じように振る舞ってくれている。それはとても有難く、稀有なことだ。こんなに友情に篤い男はなかなかいないだろうとも思う。けれど、

(だからこそ、女になった時がしんどいんだよな……)

 ジェイドのやさしさを勘違いしてしまいそうになる。女として生きていてもいいと言われているようで、おかしくなってしまう。生きていくために捨てたものが俺には多すぎて、何を再び欲しがっているのかもわからない。
 薬草を見下ろすジェイドは心なしか楽しそうだ。珍しいキノコか紅茶の茶葉でも手に入ったのかもしれない。

「ナマエくんは」
「んー?」
「カレッジを卒業したら……どうするんですか?」
「二年でもう就活のこと考えてんの?」
「真面目に聞いてるんですよ」
「……そうだなぁ、実家の仕事を継ぐかな」
「そうなんですか」
「ジェイドは? 海に帰んだろ?」
「僕は……わかりません」

 ふぅん、と相槌を打ったら、ええ、と呟く小さな声が聞こえてきた。


  ◇


 ジェイドは俺にやさしい。肚の中に何を飼っているかわからない時もあるが、大抵はやさしかった。
 俺たちは変わらない関係を維持したまま三年に上がり、監督生も、なんとか授業に食いついて二年に上がって、レオナ先輩やトレイ先輩たちは四年生……最高学年になった。歳を重ねる度に流れていく時間は早くなっていく。入学したばかりの頃は十六だった俺も、十七になり、十八になり、やがては大人になっていくのだろう。
 ついに、式典服を着ての入学式を行うのも四度目になった。

「やー、俺らが四年なんてね〜」
「信じらんないッスよ、本当に。まだまだバカやってたいんスけど」
「レオナ先輩がいなくなって寂しいんだろ?」
「うるさいッスよ、ナマエくん」

 個性が強すぎる四年生を見送ったあと、俺たちは自動的にナイトレイブンカレッジでの最後の一年を迎えた。マジフト大会に学園対抗戦、ハッピービーンズデーとは名ばかりの生徒同士の仁義なき戦い。色々なことがあって、忘れられない思い出ばかりができた。陳腐な表現をするならば、俺の学校生活は輝いていたと言える。

「ジェイド」

 呼んだら、見慣れた蒼色が揺れて太陽の光に焦がされた。
 すっかり二本足に慣れたジェイドはもうふらふらしない。また何センチか伸びたらしいジェイドは、三年前よりずっと大人びた顔でリンゴの木の下に座っていた。昼休み前に飛行術の授業がある火曜日と金曜日、昼休みに入るとジェイドは必ずそこにいる。

「お前、何してんの」

 約二年ぶりにクラスメイトになった彼は木の幹にもたれかかり、飛行術の補習訓練をしている一年生を懐かしそうに眺めていた。ジェイドはわざとらしくゆっくりと顔を上げ、ギザギザの歯を覗かせ笑った。

「君こそ」
「お前がちっとも動かないから昼飯持ってきたんだろ。ハンバーグとサンドイッチだけな」
「ありがとうございます、待ってました」
「だと思ったよ」

 ヘらりと笑ってサンドイッチを頬張る。この四年間で、この学園のリンゴの木には毛虫がいないらしいということだけがわかった。おそらく、駆除剤を撒いてくれているのだろう。

「リンゴは、禁断の果実なんだとさ」
「そうなんですか?」
「監督生が言ってた。彼女の世界にはそういう神話があるらしい」
「どうして禁断なんですか?」
「さあ。俺も詳しく聞いてない。おいしいからじゃね?」
「絶対違いますよね」

 かもな、と頷いてペットボトルのキャップを開ける。力を入れた拍子に手の甲にうっすら血管が浮いた。

「君は卒業したらどうするんですか」
「俺は家を継ぐよ。何度も言ったろ」
「その意思は変わりませんか」
「……ジェイド、お前は俺に何を言わせたい?」
「君は……あなたは、わかってるんじゃないですか?」

 ジェイドはナマエという少年越しに本当の俺を、ナマエという女を見ている。気づかないふりをし続けるには、俺たちは距離を置くのが遅すぎた。いつからジェイドはこんな目をするようになっただろうか? それすらわからないくらいに俺たちは近すぎて、感覚が麻痺していた。

「わからない」
「だったら僕が言って差し上げましょうか」
「いやだ。言うな。……ああ、もう時間だ、またあとでな」

 今まさに切り裂かれたような、痛そうな顔をするジェイドを置いて、俺は教室に戻った。



 卒業に向けたレポートは遅々として進まない。ほとんどの生徒が魔法士として巣立っていく時期は着々と近づいているのに、俺とジェイドは当たり障りのない関係を続けていた。どちらかが踏み外せば割れてしまう薄い氷の上を歩いているような、細い糸の上を綱渡りしているような、そんな薄っぺらい壁がある。
 夜の帳が下りた午前零時、部屋に戻ってきたジェイドは人好きのする笑顔で言った。

「ナマエくん、ちょっとよろしいですか」
「なんだよ」
「少し、散歩しませんか」

 特に断る理由もなかった。ジェイドはシャツにスラックスという、彼にしてはラフな格好のままだ。

「どこに?」
「寮を出るだけですよ」
「……少しだけだからな」
「ええ、勿論」

 いくら俺が男の姿でも、ジェイドの脚の長さには敵わない。五分ほど歩いて、ジェイドは建物の前で立ち止まった。そこは屋内プールの扉の前だった。

「おい、何する気だ」
「スペアは失敬してますので」
「な、なんてやつだ……」
「おや、計画性があっていいでしょう? わざわざ作ったんですよ」

 夜間外出にプールの無断使用、しかもスペアキー作製。卒業前に校則を破るなんてとんでもない。ジト目で睨む俺を特に気にした様子もなく、ジェイドは金色の小さな鍵を鍵穴に差し込んだ。容易く開いた扉の中からはプール特有の塩素の匂いが漂い、鼻をつく。
 今日も水泳部が利用したのだろう、誰かのゴーグルがプールサイドに忘れ去られている。塩素が入っていないほうのプールに手を入れ、頷いたジェイドは俺を見てニッコリ笑った。

「ジェイド? おい、ジェイド……何するつもりだ!?」
「泳ごうかと」
「は!? ばか、待て!!」

 俺の制止を振り切り、ジェイドはプールに飛び込んだ。突拍子がなさすぎて呆気にとられていると、人魚に変化したジェイドが水中から顔を出した。

「君も来てください」
「え?」

 プールサイドに屈んでいた俺を引きずり込んだ彼の目は、水の中でも綺麗な光を映していた。月の光と、海に反射する鈍い光を持つ双眸は薄暗がりの中でも一際の輝きを放っている。
 大きな泡が口からあふれ、言ったはずの言葉は音にもならない。きれい、と思わず呟いた声は泡と一緒にとけてしまった。音になっていないはずなのに、ジェイドは全部わかりきっていると言い出しそうな微笑みを口元に乗せ、鋭い爪が生えた指先で俺の頬をそっとなぞった。傷つけないように、壊れやすいガラスに触れるように。
 ジェイドは一枚の絵画のようにうつくしく、きれいだった。
 海の女神に愛されて、祝福されて生まれてきたこども。リンゴの木の下で、新入生だった頃の俺は確かにそう思っていた。

「あなたは魔法がとけたらとても小さいですね」

 身体が浮上していき、胸いっぱいに吸い込んだ酸素が肺を満たしていく。ジェイドに抱えられたままの身体はひどく頼りないものになっていた。

「……お前のせいだろ」
「ええ、そうかもしれません。ふふ、今、あなたは僕から逃げられませんよ」

 はっと息を呑む俺を見る目は。
 あまりにも、愉しそうで。それでいてどこか痛そうで。

「ようやく状況を理解しましたか? さしずめ、あなたはおびき寄せられた獲物ですねぇ。陸の方々は、袋のネズミ、とも言うんでしたっけ?」

 何か言いたいのに喉はかすかに震えるだけで、言葉も出なかった。喉の奥が引き攣り、ジェイドの両目が憎たらしいほどゆったりと細められる。足を動かせば水が跳ね上がり、楽しげな笑い声をあげたジェイドの尾びれが蛇のとぐろのように下半身に巻きついた。

「いやだ、まて」
「僕はあなたが好きです」
「ジェ、イド……!!」
「あなたはひどいひとだ。僕の気持ちに気づいておきながら言わせようともしなかったんですから」
「ジェイド……!」
「聞かせてください。あなたのすべてを」
「いや、だ」
かじりとる歯
(ショック・ザ・ハート)

「……っ」
「ナマエ」

 ジェイドの声が懇願するような切実さを孕んでいた。うつくしい海の底で誕生し、生きていくためにすべてを拾い上げてきたひと。俺とはまったく違った人生を生きるひと。

「ジェイド」
「はい」

 俺は生きていくために捨てたものが多すぎる。お願いだから告げてくれるなと祈った言葉でさえ、勝手に開閉する唇からするりと流れるように出てきてしまう。

「すきだよ」

 言葉に乗せた想いがあふれたら、胸が苦しくて切なくてたまらなかった。しゃくりあげた末にぽろぽろと涙がこぼれ、ジェイドの綺麗な目もどこにあるのかわからなくなる。

「好き。大好きだよ」
「どうして泣くんですか」
「ジェイドが全部、言わせようとするからだ」
「何もかも、僕のわがままです。ちゃんと聞かせてください」

 これ以上は言ってはいけない。わかっているのに、そう思えば思うほど言葉がつっかえつっかえに出てきた。

「好き、あなたを愛してる。いっぱい、いっぱい大切にしてくれたから。あんなに大切にされたことなんてない。月みたいに綺麗な目も、透き通った海みたいに綺麗な髪も、ぜんぶ好き。キノコが大好きで見つけたら目がないところも、本当はそんなにやさしくないところも、好きだよ。だけど、だけどおれは……わたしは、ジェイドのそばにはいられない」
「どうして」
「わたしはジェイドに相応しくない。ずっと男として生きてきたから。ジェイドにはかわいくて、やさしくて……そう、監督生みたいな子が似合う。わたしなんかより、ちゃんと女の子として生きてきた人と」
「それ以上は僕も怒りますよ……ああ、いや、僕がすべて言わせてしまったのか」
「わたしはジェイドに何も返せない。相応しくない。わたしは一人でも生きてける、だから」
「……もう聞きたくないです」
「このまま友達でいたいのに、何がダメなの」
「もういい、いいです」
「いやだ、ジェイ」
「お願いだ、黙ってくれ」

 ジェイドはくしゃりと表情を歪め、キスをした。ジェイドの祈りにも似た愛情が、今は痛くて痛くてたまらない。

「後生ですから」

 真夜中にこっそり寮に戻ったら、ジェイドは必要以上に何かを言うでもなく俺を抱いた。
 縫い止めて塞いだはずの心は綻んで、まじった吐息は熱かった。ジェイドとの行為がどれだけ痛くても、快楽を覚えてしまうよりずっとよかった。


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