イヴの傍証 03


「ナマエくん、ちょっとよろしいですか?」

 その言葉の続きを聞いた時、俺は頭を抱えた。
 ナイトレイブンカレッジ入学から数ヶ月。魔法史の授業を聞きながら、マジカルペンを一回転させる。ぐるっと回って綺麗に手の中に収まったペンはキラリと光り、揺れているライトの光を受けて天井や壁に反射した。
 向かいの席に座っている蒼色の彼はトレイン先生の話を真面目に聞いているようだが、俺の頭の中はあっちにもこっちにも思考が転がり、授業どころではない。たった一人のルームメイトは、男なら一度は経験したことがあるであろう生理現象に悩まされているようだった。せっかくできた友達の悩みを聞いてやりたいという思いは勿論ある。そりゃあ、あるけども。

(誰が友達の下世話な話を聞きたいって思うんだ……)

 同性ならまだしも、と思ってしまう俺が悪いのだろうか。いや、俺は性別を隠しているのだから女であることをジェイドは知らなくて当然──むしろ知られていても困るのだが。
 苦し紛れに説明はした。果たして通じたかはわからない。何故なら俺は男じゃないからだ。器だけが男なのであって、生殖機能があるわけでもその他諸々の生理現象が起きるわけでもない。
 人魚の世界には下ネタがないのか? そもそもあいつらは生殖器が違うのんじゃないのか?

「朝起きたら大変なことになっていたんですが……どうすれば治るんですか?」

 本当に、頭が痛い。俺はあの質問になんと答えれば正解だったんだ。
 人間の男の処理の仕方なんてジェイドにはわからないだろうが、俺だって詳しいわけじゃない。ジェイドにちゃんと教えられるかと問われれば肯定しにくい。しかし、俺が知る限りでは親しい友人がそんなにいないジェイドを放って、知らぬ存ぜぬを貫くのもあんまりだろう。
 唯一の頼みの綱であるアズールとフロイドも元人魚であるため、そういうことに詳しいとも思えない。……本当に、どうしろってんだ。


 大して容量もない頭を捻りに捻り、気がつけば昼休みに入っていた。

「あれ、ナマエくん。一人ッスか?」
「ああ、友達いないんだよな」
「真顔で言うのやめてくんないッスかね……」

 俺はジェイドより親しい友人がいない。ジェイドとラギーを抜けば、友達と言えるかも怪しい奴らばかりだ。クラムチャウダーに沈んだスプーンを見下ろし曖昧に笑っていると、料理が載っている皿をテーブルに置いたラギーが俺の隣に座った。

「レオナ先輩のとこ行かなくていいのか?」
「さぁ? どっかでほっつき歩いてんじゃないスか。植物園にもいなかったんで。……そんで? なーんかナマエくん、元気ないッスよねぇ」
「いや、大したことじゃないんだ」
「優等生なナマエくんが悩むなんて珍しい。ヤバいことに関わっちゃったとか?」
「それはないけどな。つーか、ラギーお前、また背が伸びた?」
「えっマジ?」
「成長期か? 羨ましいな」

 話題を変えたかったのもあるが、ラギーの背が入学した頃より伸びているのは事実だった。ラギーはいっぱい食べるし動くしで、成長する環境が整っているのだろう。

「ナマエくんは成長期終わったんスかねぇ」
「何気に失礼だな」
「ま、ナマエくんより背が低い人なんていっぱいいるッスよ」
「おおう……各方面から顰蹙を買いそうな言い方すんなよ……リドルが聞いてたらどうすんだ」
「キミのほうが失礼ッスよ」

 ラギーは気にせずはぐはぐとパンを頬張り、あっという間に完食した。仔猫みたいでかわいいなぁ、と思っていると不意にラギーがこちらを見て目を瞬かせ、悪戯っぽく笑い始めた。

「彼女できたとか?」
「ないない」
「このあいだ、サイドストリートのアクセサリーショップ見てたって聞いたんスけど?」
「それでラギーは彼女へのプレゼント選びだと思ったわけ?」
「そうそ。ナマエくんは女の子に興味なさそうなのに意外だなーって」

 誰もいないことを確認して見たつもりだったが、詰めが甘かったらしい。しかもラギーにそれを知られるとは、俺もツイていない。

「俺に彼女がいるとかいないとかは置いといて、なんかいいの持ってない?」
「いいのって?」
「エロ本とか」
「え………っ」

 ラギーは飲んでいたオレンジジュースを吹き出しそうになっていた。背中をさすりつつ顔を覗き込めば、ラギーは苦しそうな表情をしている。申し訳ないことをしてしまったようだ。

「さすがにサムさんのとこには売ってないだろうし……サバナクローにはバイブル的なのねぇの?」
「そんなのオクタのほうで調達してくださいよ……」
「オクタはな、人魚の自己流があんのよ、たぶん。俺ら人型と同じだと思ってはいけない」
「だったらハーツラビュルかポムフィオーレに……」
「友達いねぇんだぞ。そもそもハーツは絶対アレだぜ、リドルが寮長なんだからエロ本持ち込みなんて禁止だって。んで、ポムは『美しくない!』とかで話も聞いてくれないと思う」
「それは確かに一理あるッスね…………」
「てことで頼む。お礼はするからさ」
「はぁ……無料で動画とか見れるこの世の中、なんでそっちを頼らないんスか」
「え、見れんの?」
「見ようと思えばいくらでも?」
「……」
「ナマエくん? どうしたんスか?」
「……俺バカだ!! ラギー、サンキューな!」
「は!? ちょ、ナマエくん!?」

 そうだ、携帯があるじゃないか!? ジェイドに調べさせてあとは丸投げすればいいだけじゃないか!!
 その日、意気揚々と寮に帰った俺はジェイドにそれだけ伝えて寝た。よく眠れたので、文明の利器さまさまには感謝を忘れずに生きていこうと思う。


  ◇


 ジェイドは俺に遠慮しなくなった。
 陸にかなり慣れてきたジェイドは飛行術のあともふらふらしなくなったため、今では一緒に食事を摂ることもない。ルームメイトとしての関わりはあるが、至って普通の、良好な友好関係を築いている。

「……きみ、早起きですよね」
「ん、まぁな」
「朝から何をしてるんですか?」
「別に? 早起きは三マドルの徳って言うだろ?」
「言いませんし聞いたこともありません」
「人魚界にはないことわざなのか……」

 寝癖で髪があちこちに跳ねまくっているジェイドは「ええ」と頷き、バスルームへと入っていった。髪がやわらかいから寝癖がつきやすいんだろう。毎朝のように鳥の巣のごとく爆発している。
 寮の食堂から持ってきたトーストを齧りつつ、スマホを覗く。休日の朝からネットサーフィンだなんてやることが虚しすぎる気もしないでもないが、調べたいものがあった。

「おや、お行儀が悪いですよ」
「すみませーん」

 顔も洗ってきたのか、寝癖をしっかりと直してきたジェイドの前髪や一束だけ長い横の髪は少し湿っている。人魚だったわりには人間らしい習慣がすっかり身についているようだ。
 必要以上に踏み込んでこない質であるジェイドは特に何かを聞くでもなく、呆れたと言わんばかりに肩を竦めて食堂に行ってしまった。ジェイドは寮指定のシャツにスラックスを着るだけでも絵になる。Tシャツとハーフパンツで食堂に行った俺とはえらい違いだ。
 扉が最後まで閉まる音を聞いてから見下ろした画面には女の子らしい服やアクセサリーが溢れている。

「かわいー……」

 思わず指先でなぞってみても、液晶画面らしい無機質な冷たさだけが伝わってくるだけだった。骨が浮かんだ手の甲や関節が目立つ指は紛れもなく男のそれで、女性らしさは欠片もない。
 不意に、数ヶ月前のラギーの言葉を思い出した。

 ──そうそ。ナマエくんは女の子に興味なさそうなのに意外だなーって。

 ラギーは悪気なんてなかった。あいつは俺を男だと思っている、正当に扱ってくれている。俺自身を怪しまれたり疑われたりするより、俺が女の子のものに興味を持つ行為自体を訝しがられたほうがいい。
 けれど、生きていくために切り捨てたものは、今さらになって重くのしかかっているようだった。

「かわいい、な……」

 一度だって伸ばしたことのない髪は短く切り揃えられている。オンラインショップのホームページを飾る女の子は長くて綺麗な髪をくるんと巻いて、やわらかそうな唇に甘くておいしそうな色を乗せていた。


  ◇


 俺が飲んでいる薬の作用時間は最長十五時間。水や火などの外的な要素には弱く、それらに晒されれば化けの皮が剥がれ──つまり男から女の姿に戻る。それが副作用であり、欠陥だ。
 ミーンミン、とどこからともなく聞こえてくる蝉の音を聞きながら、更衣室に向かう道すがら溜め息をついた。夏真っ盛りにもなると、ナイトレイブンカレッジの授業には水泳が組み込まれ、学園内のプールが賑やかになる。

「なーんで水泳なんてあんだ……」
「体力育成の一貫では?」
「途端に生き生きすんなよな、お前は」

 嬉しそうなジェイドの顔を見ていると、人の足に慣れなくてふらふらしていたあの頃が懐かしくなってくる。夏場に飛行術の授業があれば、ジェイドは干からびた魚よろしく芝生に倒れ込んでいたことだろう。それはそれで面白そうだが、仕返しが怖いのであえて口には出さないでおく。

「ナマエくんは泳がないんですか? 手ぶらのようですが」
「俺? 俺はトラウマあるから入れないの」

 半歩前を歩いていたジェイドは首を傾げ、長いピアスは波が広がるように上から下へとゆっくり揺れた。しゃら、と場違いなくらいに涼しげな音が響き、視界に入ったジェイドの黒い影も鷹揚に動いている。

「トラウマ、ですか?」
「小さい頃に溺れてさ。水に入るとどうしても呼吸できなくなるんだ」
「難儀ですね」
「俺だって泳ぎたいんだけどな。冷たくて気持ちよさそうだし」

 水性に弱い体質の俺は水には入れない。学園のほうには水泳の授業はすべて見学させると伝えたとかなんとか母親が言っていた気がするが、よくわからない。

「ここのプールは凄いらしいし」
「そうなんですね」

 学園のプールは室内にあり、人魚の生徒が泳ぐ前提として設計されているため無駄に広く、深い。名門とだけあって、設備はレジャースポット並みに整っている。

「ま、俺は大人しく見とくよ」
「残念ですね……」
「その顔は俺になんかしようとしてたな?」
「いいえ、そんなわけないじゃないですか」
「どうだかなー」

 この暑さなんて気になりません、と今にも言い出しそうなジェイドは嫌味なくらい涼やかな目元をきゅっと緩ませて笑った。
 額縁のように空を縁取る入道雲と抜けるように青い空のコントラストは綺麗で、巨大なキャンバスの真ん中で輝く太陽は茹だるような熱線を地上に降り注がせている。何もしていなくても、立ち止まっているだけでも暑い。ぞろぞろと歩いていく白いシャツの集団は目に眩しく、みんな口々に「暑い」と愚痴っていた。



 ジェイドやフロイドは人魚姿に戻っても規格外だった。尾びれで水を掻き分け凄まじいスピードで泳ぐ様はもはや壮観でさえある。

「リーチ兄弟すげぇな」
「あれ何メートルだよ……」
「おっかねぇ……」

 サバナクローとスカラビアの奴らが喋っている内容には概ね同意だ。プールから少し離れた場所にある見学者席から眺めていても、二人の凄さはよくわかる。
 人の足を生やす魔法薬は水から上がると人間の足が生える仕様で、効果が切れていない限りは人間にも人魚にもなれるらしい。オクタヴィネルや他寮の人魚たちが学校指定のジャージ姿のままプールに入った時はビビったが、服も一緒に変身できる便利な魔法薬のようだ。

「楽しかったか?」
「ええ。久々に泳ぎましたからね」
「カメちゃんはなんで泳がねーの? 冷たくて気持ちいいのに」
「ナマエくんは泳いだら死んでしまうんですよ、フロイド」
「へぇー溺れて死ぬってどんな感じ?」
「だから怖いって、お前……溺れないために俺は見学してんの」

 苦笑いしながら、喉を詰まらせそうな勢いで食事を流し込むフロイドにコップを渡す。
 今日はジェイド、フロイド、アズールの幼馴染三人組に囲まれての食事となった。たまたま同じテーブルについただけなのだが、フロイドの気まぐれスイッチにより共に食べることになったのだ。

「カフェはナマエさんにも手伝ってもらいますからね」
「いや、アズールが言うならそりゃ手伝うけどさ……」

 新たに寮長に就任したアズールは今すぐにでも席を立ちそうな勢いでサンドイッチとサラダを食べている。新しくカフェを経営するとかで、アズールはここのところ忙しそうにしていた。
 ジェイドはホワイトソースのリゾット、フロイドはトマトソースのスパゲティを食べている。そういえば、と言ったジェイドは今しがた思い出したかのように俺を見やった。

「放課後、プール掃除をするんだとか?」
「あそう、そうなんだよ」
「ナニソレめんどくさそ。サボっちゃえば?」
「バルガスが脅してくんだよ……掃除しなけりゃ単位はやらん、ってな」

「病欠と怪我以外で見学した者はプール掃除だ!! いいな!!」と見学者に命じたバルガスの声を思い出しただけでも憂鬱な気分になる。

「まあ、真面目にやるよ。単位は欲しいしな」



 放課後、プールに向かうとサバナクローの奴らがいた。たとえクラスメイトであっても気性が荒い生徒が多くて嫌なのだが、バルガスは無慈悲に指示を出していく。掃除が終わったらプールの鍵を職員室に返すように、と言うだけ言ったバルガスが戻ってしまえば始まるのはクラスでも目立たない俺への押しつけだった。

「いや、だから一人じゃ無理だって……」
「いいだろ、やれよ!」
「友達のお願いが聞けねぇのかよ!!」

 いや俺ら友達じゃないだろ、という言葉をすんでのところで飲み込んだその時、一番身体がデカい奴に突き飛ばされ、俺は宙に浮いた。

(あ、やばい)

 数秒間空中を吹っ飛び、背中から水の中へ真っ逆さまに落ちた俺にはゲラゲラ笑いながら去っていくサバナクローの奴らの背中だけが見えた。水の中は息苦しく、大きな白い泡が口からこぼれる。一瞬だけ真っ白になった頭は生温かい水に入ったことでクリアになり、なんとか溺れずに済んだが──、

「……どうしろってんだ」

 女の、少し高い声が屋内に響く。シャツを押し上げふくらんだ胸やベルトを巻いていてもスラックスがずり落ちていく細い腰は紛れもなく女の身体で、元の姿に戻ってしまったことを示していた。
 男体化の薬は手元にない。誰にもバレないように寮に忍び込み、何事もなかったかのように男の姿にならなければ俺は即退学だろう。だが、どうやって? どうやって戻れと言うんだ。女の姿で学園内をうろつけば遅かれ早かれ人に見つかり、咎められるに決まっている。
 仰向けにぷかぷかと浮かんだまま、手の甲で顔を隠す。透明ガラスの向こうから降り注ぐ斜陽が水面を照らし、一面をオレンジ色に染めていた。もう少し時間が経てば星空を映す鏡になるかもしれない。

(……そんなこと、いま考えることじゃないだろ)

 感情がぐちゃぐちゃに切り裂かれたみたいで何も考えられない。人生なんて、誰も助けてくれないんだ。いつだってそうだったじゃないか。空に向かって手を伸ばすと、指先から甲へと伝った水滴は手首を流れ、やがて顔に落ちた。まるで、泣きもしない俺への皮肉のようだ。ぽとりぽとりと落ちてくる雫だけが冷えた頬を流れていく。
 恐ろしいくらいの静寂のあとに、夜はやってきた。ガラス越しに見える真夏の空には星々が散らばり、今にも手のひらで捕まえられそうだった。
 ジェイドは心配してくれているだろうか。穏やかでいい奴ではあるが掛け値なしに優しい奴ではないため、わざわざ探しに来たりはしないだろう。メリットと利益があれば手を差し伸べるというギブアンドテイクの精神で動くあいつのことだ。俺のことなど歯牙にかけるはずがない。
 しかし俺は、ジェイドの友情を甘く見ていたらしい。甘く見ていた、というより、俺は俺が思うよりジェイドの“大切な友達”ポジションを持ち得ていたらしい。

「ナマエ!!」

 叫び声が聞こえたかと思えば、次いで水に飛び込む音がした。いやいやいやちょっと待て、と言う暇もなく、数時間前に見た人魚が恐ろしいスピードで迫ってくる。これはこれでヤバい状況だとすぐにわかったが服を着ている俺がジェイドに勝てるわけもなく、数メートル泳いだ先で捕まった。
 ジ・エンド。その言葉が脳内を駆け回る俺を抱えたまま、ジェイドは俺を非難する。今は頭に血が上っているようで俺の変化には気づいていないようだが、そんなの時間の問題だった。

「ナマエ、君! どうして逃げるんですか!! あまりにも帰りが遅いから溺れたのかと思って心配したんですよ!!」
「……」
「なんとか言ったらどうですか!」
「……」
「ナマエ!! 聞いて──」

 濡れた髪から水滴が落ち、水面に波を描きながら消えていく。ジェイドの言葉が途中で途切れてしまった理由も、俺の手のひらに伝わるジェイドの心音が激しくなった理由も、聞かずともわかった。
 ぴちゃん、ぴちゃん。二人の身体から流れ落ちる水の音だけが反響している。月の光を垂らして閉じ込めたような目には、今の俺の姿はどう見えるだろう。

「説明してください。君は、僕の目には女性に見える」
「……」

 上ずっているものの、理性で落ち着けようとしているのがわかる声色だった。

「だんまりですか?」
「……」
「君は僕のユニーク魔法をご存知でしょう。今すぐ使ってもいいんですよ」
「……だめだ」

 俺を抱えている腕が揺れた。声まで女らしくなっていたから驚いたのかもしれない。恋人同士のように触れ合っているのに、甘さも艶やかさもありはしなかった。
 ジェイドの胸に置いている俺の手は有り得ないくらいに小さくて生白い。捨ててきたはずの性別が、ありありと性差を突きつける。

「俺は女だよ。お前には、雌って言ったほうがわかりやすいか?」

 色の異なる双眸が驚愕に染まり、その中に映っている俺は自嘲的な笑みだけを浮かべていた。


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