イヴの傍証 02
カレッジの授業や生活に慣れてくる頃には、フロイドは飛行術でぐったりすることも減った。入部したのもバスケ部だし、運動神経と感覚的なセンスは元から十分に備わっていたんだろう。一方、最近はジェイドだけがリンゴの木の下でぐったりしている。木の幹に美男子がもたれかかる様はそれはそれは絵になるが、体力消耗による空腹と、飛行術の授業特有の全身の臓器がひっくり返るような気持ち悪さに苛まれているようだ。
俺とジェイドの立場を逆にして考えてみれば、確かに堪えがたい。少し前まで二足歩行をしていた人間が人魚になって海の中での生活と文化を強いられているようなものだろう。
「人はどうして飛ぼうと思ったんですか」
今は哲学的な思考にふけっているようだ。
「飛べて当たり前とでも思ってるんですかね」と言われても大昔の人間の考えなんてわからないし、逆ギレはしないでほしい。
「白身魚のフライがあったぜ」
「今日は豚肉の気分でした」
「情緒不安定やめろ」
「嫌ですね、僕はいつでも安定していますよ」
「あっそう」
「いま、安定してねーだろ、そう思いましたね?」
「めんどくせ。ほら、さっさと食べるぞ。時間がなくなっちまう」
「最近雑ですよ、君」
「ジェイドがめんどくさいだけでーす」
取りだしたフライドチキンは衣はサクサク、スパイシーで美味しい。胡座をかいて座り直したジェイドはフォークでフライを突き刺し、いつもよりほんのちょっと疲れた様子で食べ始めた。胡座が凄まじく似合わない。温室や庭園の真っ白なチェアに腰掛け、温かく質の良い紅茶を飲んでいるほうがよっぽどお似合いだ。
木の葉の隙間から差し込んだ木漏れ日はジェイドの髪を淡く照らし、雪のような冷たい光を孕む肌が陽だまりにとけて滲むようだった。浜辺に寄せては返すさざなみの色に海底の深い色が一房混じる髪。ジェイドは、気まぐれで広大な海に愛されているのかもしれない。荒々しくも慈愛に充ちている海の女神に愛され、祝福されて産まれてきたのかもしれない。そうでなければこんなに綺麗な髪を持って生まれはしないのではないか。
ジェイドを見ていると、バカバカしくもそんな気さえしてくるのだ。
「ここってそろそろ毛虫だらけになんじゃねぇかな」
気を取り直して言うと、彼は思いっきり顔を顰めた。ずっと陸にいた人間でも虫が嫌いだったり苦手だったりするのだから、長らく海で生活してきたジェイドには殊更気色悪く見えるだろう。
「嫌なこと言わないでください」
「じゃあせめてベンチのところでぶっ倒れてくれ」
「わかりました」
「倒れてたことは否定しないんだ」
「僕が無様に倒れていたことは自覚していますので」
「いきなり卑屈になんないでくれ。誰も『無様に』とか言ってないだろ?」
どうでしょうかね、とバケットを齧りながら呟いたジェイドの顔はぶすくれているようにも見える。相当気が滅入っているんだろう。
「空を飛ぶのってやっぱ抵抗あんの?」
「怖いですよ。歩くのもやっとなんですから」
「まー、だよなぁ。海に入って深海まで行けって言われても未知すぎて怖いもんな。たとえ尾びれがあっても……俺だったら無理だね」
「ご案内いたしましょうか? 深海の方々は少々気が荒いですが観光するにはスリルがあって楽しいと思いますよ」
「うぇ……遠慮しとく。お前らより歯が鋭そう」
ジェイドは「そうでもないですよ」と言ったが、彼の鋭い歯がパンやクッキーなどに残す歯型でさえ恐ろしいのだから深海の人魚たちの歯はもっと恐ろしい形状をしているに違いない。
「その歯って自分の唇傷つけたりしねぇの?」
「いいえ? 慣れてしまえば問題ありません。喧嘩するには持ってこいの歯だとは思います」
「……痛そう」
「ちょっと血が出るくらいですよ。フロイドも僕も、喧嘩する時はよく噛み合っていましたね」
皮膚が裂けて海水にしみたり、鱗が剥がれたりしないのだろうか。想像するだけでも痛々しい。
こんなに落ち着いているジェイドでも、腹が立ったり怒ったり、感情のままにフロイドと喧嘩していた時期があったと思うとなんだか不思議だった。同じ家にいるのに一言も話さないより喧嘩するほうが健全な兄弟仲と言えるだろうが、話を聞くだけでもどこかが痛むような喧嘩の話には閉口してしまう。
「俺も双子だけど、喧嘩しないし仲良しでもないな」
「おや、ご兄弟が?」
「まーな」
「ナマエくんは一人っ子かと思っていました」
「家族に電話とかしないから?」
「ええ」
さすがはルームメイトだ、よく見ている。
ポンコツ兄貴と最後に交わした会話がいつのことだったのかも覚えていない俺とは違って、リーチ兄弟は仲がいい。しっかり者で物腰柔らかなジェイドと気まぐれでマイペースなフロイドは、やはり海のような双子だ。二人でひとつ、ひとつだからわかり合える。まったくの真逆にも思える彼らの特性は、広く深い海に通ずるところがあると思えてならなかった。穏やかでありながらも時に白波を立てる大海に、遍く生物の起源となった母なる海に、彼らは似ている。
真昼間に、月が輝いた。月光にも思えたそれはジェイドの左目だった。ランチボックスはもう空になっている。
「ナマエくん?」
「あー……電話とかやり取りとか別に必要ないんだよ。俺らは同じ家にいる赤の他人って感じだし」
「いきなり重い話をしないでいただけます?」
「俺にとっちゃ普通だからなー」
双子の片割れと一緒に育てられてきたであろうジェイドにとって、俺たち兄妹の冷えきった関係は不気味に思えるかもしれない。
「つーか、フロイドってなんで俺のことカメちゃんって呼ぶわけ?」
「さあ。僕も知りませんね」
「あ、そ」
「フロイドのネーミングの奇抜さは今に始まったことではありません」
「もう慣れっこか?」
「ええ」
フロイドのネーミングのバリエーションはほぼ魚介類だ。
「アズールのことは『タコちゃん』と呼んでいましたよ」
「それはヤバいな。怖いものナシか」
「ナマエくんも呼んでみては?」
「遠慮しとくわ。あとが怖い」
「僕は『泣き虫の墨吐き坊や』と呼んでましたね」
「……ジェイドのほうが凄まじいな」
◇
いつの間にか、フロイドはバスケ部の気まぐれルーキーになっていた。気分が乗れば試合には出るし、主砲としてチームにも貢献してくれるらしい。
一方のジェイドは、箒の授業後はいつものようにぐったりしている。山を愛する会の一員である彼は陸地から離れたがらない。
「陸を離れろよ」
「ナマエくんまでそんなことをおっしゃるんですか?」
「いや、今のお前、地球抱いてるよ」
「フッ」
「面白くもねぇのに笑わないでくれる?」
ジェイドは長い手足をこれでもかと伸ばして、びたーんと地面に張り付いている。蒼色の色男も、この時ばかりは無様だった。
「ステーキあったから持ってきた」
「魚はなかったんですか?」
「なんで先に言ってくんないの? 食べたかった?」
質問で返すと、ジェイドはちっさく笑って首を振った。俺をからかいたかっただけらしい。ベンチに座っている俺の隣に腰かけ、ジェイドは満足した様子でパンを食べ始めた。
「試験範囲、バカみたいに広いよな」
「そうですか?」
「もう対策始めてる?」
「いいえ」
「うわ、絶対やってるやつじゃん。『勉強してないんだよね』って当日に言う奴に限ってちゃんと勉強してっからな」
「陸の人間の常識は僕たちには適用されませんよ」
ジェイドはマイペースだ。彼はフロイドとはまったく違った方向にマイペースだった。穏やかではあるが、自分の意思は曲げない。シイタケ嫌いのフロイドに飽きもせずにシイタケ料理を振る舞うあたり、メンタルも強いのだろう。
銀紙に包まれているバターを取り出し、バケットに塗っていると一限目のことを突然思い出して憂鬱になった。
「……クルーウェルのテスト、難しそうだから嫌なんだよな」
「赤点をとったら……わかっているな?」バッドボーイども、と低い声で唸った白と黒と赤の教師の顔を思い浮かべただけでも胃のあたりが重くなってくる。
「錬金術が苦手なようには見えませんが?」
「子どもの頃から躾られてただけだから得意ではないんだよ。センスがない」
興味なさげなジェイドはカットステーキを頬張っている。話を聞く時は聞くが、他の何かに集中している時はずっとこの調子だ。三ヶ月も昼食デリバリーとルームメイトをしていれば、嫌でも人となりは見えてくる。
「ねえ聞いてる?」
「聞いてます聞いてます、魔法薬学の話ですよね?」
「聞いてないじゃん」
笑ったら、ジェイドは「僕は飛行術のことを考えていたので……」とちょっと決まりが悪そうに答えた。試験には飛行術や実践魔法などの実技も含まれるため、筆記よりそちらが心配なのだろう。
「そんなに苦手ならさ、一回俺と飛んでみる? ジェイドは高い所まで飛んだことないだろ?」
「……落ちませんか、それ」
「いけんじゃないか。物は試しだろ」
「落としたら承知しませんよ」
「オーケー、オーケー。危険運転はしないって」
ジェイドが今以上に空を苦手になっても困る。それに、本人が一番苦手としていることでふざければ、決して堅固ではない友情は儚く砕け散るだろう。
「一歩間違えたら死ぬからなぁ、あの授業」
「しみじみと言わないでくださいよ……」
「大丈夫だろ。バルガスもいんだから」
明日の二限目に飛行術があるはずだ。二人乗りをする場合はバルガスに見ててもらえば問題はない。憂鬱そうに頷くジェイドを横目でちらっと見、ペットボトルの茶を流し込んだ。
来たる金曜日、天気は快晴。絶好の飛行日和だ。顔面蒼白でグラウンドに出てきたジェイドはぺこっと頭を下げて俺のうしろに跨った。喋る元気も気力もないらしい。
「顔色ひどいけど、大丈夫か?」
「ああ、今日はちょっと……朝食を抜いたので」
そういや、フロイドが「ジェイドのやつ、朝飯食ってないんだよね」と言っていた気がする。二限目の飛行術が恐ろしくて食事も喉を通らなかったのか、吐くかもしれないと考慮して食べなかったのか、思慮深く用心深いジェイドならどちらも有り得そうだ。
「ちゃんと掴まっとけよ。怖かったら下は見るな」
「目は閉じててもいいですか?」
「目を開ける時が怖くね? それ」
「確かに」
「んじゃ、ゆっくり上がるから怖くなったら好きにしろ」
はい、と頷いた気配がしたので箒に魔力を流し込む。当然だが、一人乗りより二人乗りのほうが消費魔力量は多い。ジェイドが縦にも横にもビッグなおデブちゃんだったら一ミリも飛べなかっただろうが、幸い彼は長身痩躯だ。
ジェイドのほうが二十センチほど背が高くとも、男の状態の俺ならお姫様抱っこもできる気がする。
「よーし、いいぞ!!」
「先生、声デカ……集中できねぇ」
「おっ浮かんだ! 浮かんだぞ!!」
俺らのそばで大声で激励しているバルガスと二人乗りをしようものなら一瞬でオーバーブロットだろう。身体だけじゃなく声までデカイな、と苦笑していると、俺の肩を掴む手に力が入った。
ジェイドと俺のスニーカーは緑の芝生から離れている。臓器が持ち上がるような浮遊感は、上昇途中のジェットコースターに乗っているようだ。木の棒の先端が地面に対して斜めに浮き、抵抗力と重力でうしろに引っ張られるような感覚に陥った。
「おーし、行くぞ」
「ゆっくりでお願いしますよ」
「おー」
「ちょっと浮くの早くないですか?」
「普通だよ」
「いやいや、早いでしょう」
ぶつぶつ言っているジェイドは無視して、ぐんぐん上がっていく。バルガスの声も遠くなり、風の音のほうが大きく唸り始めた。今日は少し風が冷たい。眼下に広がる木々には赤色と黄色が混ざり始めている。
ジェイドは目を開けていたらしく、人が豆粒みたいだと口にした。感嘆のような、驚きのような、どちらともわからない声色だった。
「……ここは地上から何メートルくらいでしょうか」
「さぁ。三〇メートルとか?」
「三〇? 」
「ジェイドが十五人ぶんくらい」
「少しもわかりやすくない例えですね」
かすかな笑い声が聞こえてきた。先ほどよりもずっと穏やかな調子で、ジェイドは続ける。
「僕たち人魚にとっては、空も宇宙も謎ばかりです」
「そーか? 俺にとっちゃ、海も同じくらい謎だらけだけどなぁ」
ようやく解明されたと思えば、またすぐに新たな謎に直面する。それを繰り返し文明は発達してきたが、この空飛ぶ箒は科学技術ってものとは無縁なのだろう。
「箒が空を飛ぶなんて、とんでもないですよ」
「はは、一応大昔からあった正当な移動手段だぞ?」
「大昔からあったのに原理が解明されていないのが恐ろしいんじゃないですか」
「ああ、確かに。それでも、魔法とか宇宙がまだまだ謎に包まれていた頃はバカなやつも多かったらしいぜ。大気圏突破して窒息死した魔法士がたくさんいるんだ。ヤバイよな」
「そんなことをする気が知れませんね……」
「知の探求のつもりだったんだろ、本人は」
「大気圏に行くまでにオーバーブロットしそうなものですが」
「闇落ち状態で宇宙か……それはそれで強そうだな」
雑談しながら空をくるくる動き、十分ほど経つと箒に乗ったクラスメイトが飛んで来た。ポムフィオーレの無駄にキラキラしている優等生くんだ。そろそろ下に降りてこい、ということらしい。
腹のあたりがゾワッと寒くなるような気持ち悪さ。下降する時に嫌でも感じる心地の悪さだ。絶叫系の乗り物が好きなやつには堪らない感覚だろうが、俺は生憎と得意でも苦手でもない。
上昇する時より、俺の肩を掴むジェイドの手には力が入っていなかった。
「おっと」
「……大丈夫ですか?」
「おう、問題ない」
地上に降り立つと、身体がぐらりとふらついた。少し調子に乗りすぎたか。魔力を消耗した自覚はある。バルガスの目を盗んでリンゴの木陰に腰かけ、空を飛ぶクラスメイトたちを見ているとジェイドも何故か隣に来た。「リンゴの木は毛虫が落ちてくるかもしれないから嫌です」って言ってたけど、今はいいのだろうか。
「練習してこいよ」
「空が綺麗だということはよくわかったので今日はもういいです」
「何もよくない気がするのは俺だけか?」
「いいんですよ」
やはり、毛虫が落ちてこないか心配らしい。ちらちらと上を確認している。
「昼ごはんは何食べよっかな」
「昨日の夜はオムライスが食べたいとおっしゃっていませんでしたか?」
「もうなんでもいいから食べたい。ペコペコだよ」
バルガスが向こうで何やら叫んでいる。リドルの飛行に感動しているらしい。あいつ、上手いからな。
ぼんやりしていると、ジェイドは伸ばしていた長い足を器用に折りたたみ、両膝の上にこれまた長い両腕を置いた。
「ナマエくんはどちらで昼食を?」
「食堂。マドル払わなくていいし」
「今日は僕もご一緒しても?」
「まさかデリバリーさせる気か……?」
「さてどうでしょう」
ふふ、と笑ったジェイドは楽しそうだった。月曜と木曜以外でジェイドと昼食を摂るのは何気に初めてだ。
「ま、あと一限もあるけどな!」
「今さらになって朝食を抜いたことを後悔してます……」
「ペロペロ満腹キャンディならあるぜ」
「なんですか、それ」
「舐めたら一瞬でお腹いっぱいになるゲロ甘い飴」
「そんな代物、どこで売ってるんです?」
「サムさんの店。食べる?」
「ううん……ええ、いや……はい、いただきます」
「めちゃくちゃ悩むじゃん」
ちなみに、ジェイドは舐めた瞬間に激しく咳き込んだ。実はペロペロ満腹キャンディはめちゃくちゃ酸っぱい飴なのだ。
「二人乗りと飴のお礼はキノコ四年分でいいですか?」
「ごめん、それは勘弁」
「まあまあ、そうおっしゃら……げほッ!!」
「ジェイド……なんか、ごめんな」
咳き込みすぎて顔が赤くなったジェイドに睨まれたが、バカみたいに笑わせてもらった。
ジェイドは俺に気づかれないとでも思ったのだろうか。魔力の大量消費で今にもぶっ倒れそうな俺のためにそばにいてくれたことは、痛いくらいにわかっていた。