三千世界の鴉を殺し君と朝寝がしてみたい 17


 最近、城の中が騒がしい。
 みんながみんな、お兄様の戴冠式とわたしの婚約破棄の話ばかりしている。シルバーが勲章を受けるとか、そんな話も聞いた。

「無理は禁物ですよ、姫様」
「わかってるわ」

 お医者様の言う通り、高熱が出てしまったわたしは森に連れ去られた日の翌朝──三日前からずっと寝込んでいた。一緒に寝たシルバーはすぐに回復したらしいのに、雨に打たれただけで体調を崩してしまったわたしは体力がなさすぎるのかもしれない。
 食事を運んでくれたマチルダは胡乱げな目つきで食器の置かれたトレーをわたしの膝上に置いた。こういう時、信用がないのも考えものだ。

「あなた様はお転婆でいらっしゃいますからね」
「……ここにいればいいんでしょう? ちゃんといるわ」
「わたくしに黙って厨房や馬小屋、書庫に行かれているでしょう。マレウス様と同じ魔法が使えるようになられたことは喜ばしいですが、そう気ままに行動なされても困ります」
「……。……知っていたの?」
「ええ、もちろん」

 まさかバレていたなんて。
 あの夜に移動魔法が使えるようになってから、城の音が煩わしいと思った時に便利なこの魔法を使っていた。同じ話をばかりをする彼らがうるさくて、わたしとシルバーの関係について話す彼らが鬱陶しい。後者に関してはどこから流れてしまったのかもわからないけれど、耐え難くなったら魔法を使って逃げればいいだけのことだった。
 厨房に行ったら妖精が話し相手になってくれるし、馬小屋に行ったらターリアや他の子たちに癒してもらえるし、書庫に行ったら勉強もできる。空いた時間を好きに使える日々は久しぶりだった。婚約破棄が決定してからは驚くほどに穏やかな日が続いていて、晴れた日のベンチに座っているような気分になる。ちょうど一年前に戻ったみたいな、懐かしくてやさしい毎日だ。わたしの隣にシルバーはいないものの、あの富豪と結婚しなくても済むと思うと心が落ち着く。

「大丈夫、誰かにやられそうになっても魔法でやっつけるから」
「随分とまあ……たくましくなられましたわね」
「もう怖くないもの。知識と機転だけじゃなくて、一人で生きていくには力も必要でしょう?」

 そうよね? とマチルダに問いかけると、彼女は歯切れが悪い様子でうやむやに答えて視線をあちこちにやった。

「姫様、申し上げるべきかずっと考えていたのですが──」

 ティーカップを持ったまま続きを待つが、マチルダはゆるゆると首を振って赤っぽいベージュ色の口紅が塗られた唇を噛んだ。言いたくても言えない、ということなのかもしれない。彼女は上役に「言うな」と命じられれば、秘密を抱えている素振りすら見せずにひっそりと命令を守り続ける優秀な侍女だ。だからきっと、こんな風にわざわざ言葉にしているのは箝口令も出されなかったから──彼女自身が言うか言うまいか悩んでいるからだろう。

「……やっぱり、わたくしからは申し上げるべきではありませんでしたわ」
「どういうこと? そんなことを言われたら、気になるわ」
「今におわかりになられますよ」

 マチルダは嬉しそうな表情を浮かべ、なんとも言えない返事だけを返した。
 今におわかりになられますよ、と言われてもわからないものはわからない。具材たっぷりのチキンスープを食べながら思い当たることを片っ端から考えてみたけれど、これっぽちもわからなかった。
 わたしの新しい婚約者が決まったとか? そうだとすれば、かの婚約者様にわたしがどれほど苦しめられていたかを知っている彼女があんなに嬉しそうにするはずがなかった。
 それとも、他のこと? でも、もうなにも浮かばない。彼女自身のことなら、口ごもるとも思えない。
 朝食の食器を下げられ、部屋に一人きりになっても彼女の言葉が頭に引っかかったままだ。気分転換に外にでも出たら、少しは整理もつけられるだろう。衝動的な思いつきがとんでもない名案に思えてきて、ベッドから降りて靴下と靴を履こうとしていた──その時だった。
 コンコン、と控えめなノックが聞こえてくる。慌ててベッドの中に潜り込み、はい、と答えると扉が開く音がした。マチルダが再三の注意をするために来たに違いない。手厳しいくせに心配性なのだから。

「今日はもう外に出ないから安心して」

 出るけれど。今日は城の外に出るつもりだもの、見張りをつけられるわけにはいかない。静かな足音に向かってさらっと嘘をつくと、足音はぴたりと止まる。今頃、わたしの嘘をすぐに見抜いてしまう彼女は呆れ返って「どうせ嘘でしょう」と言いたげな顔をしていそうだ。しかし、いくら待っても彼女は返事をしない。

「マチルダ、聞いているの?」

 ベッドの近くに立って動く気配がないマチルダを不審に思い、問うても彼女はやはりなにも言わなかった。

「マチ──」
「申し訳ありません、俺はマチルダさんではありません」

 随分と声が低くなったのね、マチルダ。
 そんなジョークを言える空気ではなかった。毛布を頭から被っていても感じる気まずさは重石を乗せられているかのように重たくて、今すぐ消えたくなる。唯一の救いは子どもじみた真似をしているわたしの姿を見られていないことだけだ。ベッドの中にいてよかった。

「出てきていただけませんか」
「……どうして」
「あなたに話があります」
「今じゃなきゃダメなの?」
「はい」
「どうしても……?」
「はい」
「ごめんなさい、今はいや」
「……わかりました。失礼します」

 わかりました、と言って、毛布を掴んでいる気がするのは気のせいだろうか。
 シルバーは従順に頷いてもちっとも引いてはくれない。今だって、わたしから毛布を引き剥がそうとしている。彼の性格と次に取るであろう行動をとうに学習していたわたしも負けじと毛布を引っ張ったら、ビリッと嫌な音がした。

「ダメって言ってるでしょう!!」
「俺はどうしても話したいことがあります!!」
「ダメ!!」
「ナマエ!! お前の顔を見て話さなければ意味がない!!」
「ダメ!!」
「なぜだ!!」
「か、髪がボサボサなの!! お化粧だってしてないし──それに、あっ」

 毛布がわたしの手から離れた瞬間、反射的に移動魔法を使ってしまった。ナマエ、と呼ぶ声が魔法を使う間際に聞こえた気がするけれど、外の芝生の上に立っているわたしにはどうすることもできない。
 当然、靴下を履く前に逃げたから裸足だ。ガーゼで保護されているから痛みはない。でも、裸足で森の中にいたあの夜のことを──シルバーに助けられた夜を思い出す。
 彼はわたしを助けた功績で勲章を授与されるらしい。勢いのままに逃げてしまったものの、「ありがとう」と「おめでとう」の一言くらい伝えておけばよかったと思いつつ近くの切り株に腰かける。晴れ渡る空に輝く太陽の光に喜んでいるのか、小鳥たちが囀っている。曇天に覆われている日が多い茨の谷がこんなにも晴れるのは珍しい。昔から、天気がよくなると吉兆だとされていた。
 乱れてしまった髪を手櫛で大雑把に整え、骨みたいに痩せてしまった足を見下ろす。厨房に顔を出す度に妖精たちが油っこいお菓子ばかりをくれていた理由がよくわかる。マチルダもお医者様も、なにかとカロリーのあるものを食べさせようとしてくれていた。
 もっと痩せて骸骨みたいになれば、今回みたいな事件は起こらないかもしれない。こんなに醜くて恐ろしい娘など妻にはできない、と相手側から断ってくれるかもしれない。それはそれで楽しそうだ。くだらなくてどうでもいいことを考えながら、目を瞑る。風のざわめきに合わせて、幼い頃によく聞いていた子守歌の鼻歌がこぼれる。
 ピィ、とかわいらしい鳴き声をあげる小鳥たちがわたしの頭上で円を描くように飛んでいた。鳥も、リスも、なにかに喜んでいる。

「あなたも歌いたいの?」

 わたしの足元に摘まれた野花を置いた黄色の小鳥は首を傾げ、羽をパタパタと動かした。シルバーがいないのに、こんなに近くまで来てくれるのは珍しい。
 そばで日向ぼっこをしていた小動物たちはしっぽや耳、翼を動かして同じ方向を見た。わたしのうしろになにかあるのかもしれない。そうして振り返る前に投げ出している足に影が差し、背後から抱きすくめられた。

「……茨の谷の子守歌か」

 懐かしいな、と呟く声が荒く弾み、背中に伝わる鼓動は走り回ったあとのように激しく脈打っている。逃げようとする気配に気づいたのか、抱きしめる力を強めた彼はわたしの手を握りしめて懇願するような声で囁いた。

「頼む、逃げるな。話がしたい」

 こんなにも早く見つけられるとは思っていなかった。見つかる前に他所に逃げようと思っていたのに、それも不可能なようだ。

「シルバー、離して」
「ありがとう」
「ありがとう……?」
「はなして、と言っただろう」
「そっちの意味じゃ──」

 ない、と言う前に身体が離れて抱き上げられた。シルバーの肩に乗っている水色の小鳥が彼をここまで連れてきたのだろうか。

「……降ろして」
「裸足なのに歩かせられない。捻挫もまだよくなっていないんだろう、無理はするな」
「あなただって、腕を怪我したじゃない」

 俺のことはいい、とすげなく返したシルバーは別の言葉を重ねた。

「ブランコだ」
「ブランコ……?」

 森のほど近くに作られた、リリア様お手製のブランコの支柱には蔦が巻き付き、吊るされた縄は風に揺られている。それを見ているシルバーはとても懐かしそうで、どこか楽しそうだった。

「あのブランコで遊んだことは覚えてるか?」
「覚えているけど……それがどうしたの?」
「どちらがより高く漕げるか競争しただろう」

 わたしからその勝負を持ちかけたんだっけと考えているうちに、立ち止まる気はないらしいシルバーは芝生の上を突き進んでいく。
 例のブランコの近くに、小さな動物が通れそうな狭い穴が掘られていた。もぐらが掘ったトンネルだ。お兄様たちの憶測だけれど、あの穴を通って森から抜け出た小鳥たちがシルバーのもとに飛んでいってくれたらしい。
 そう言えば、なんやかんやあってお礼をまだ言えていなかった。すっかり忘れていたことを思い出してお礼を口にすれば、彼は決まりが悪そうに眉間に皺を刻んだ。

「助けられたのは俺のほうだ」
「そんなの結果論だよ」
「だが……」
「あんな風に言われたら、誰だって引き返したくなるでしょう」

 ──愛している。
 その言葉が忘れられなかった。けれど、無事に生還できた今。わたしとシルバーは一緒にはなれない。

「聞かなかったことにしてあげる。気にしないで」
「……好きな奴でもできたのか」
「わからないの? またいつか、わたしには新しい婚約者様ができるもの。今度は商家の彼かしら、それとも他国の王子様?」

 愛していると告げたその過去が後悔と悲しみに暮れるなら、なにも聞かなかったことにしておけばわたしも彼も楽になる。期待して希望を抱いて、絶望を見たあの時みたいにはならないように予防線を張って生きていくしかないのだ。
 明るく言うわたしを無視して、彼は続けた。

「あの木の下で本を読んだ」
「……聞いてる? マイペースすぎるよ」
「聞いているが……すまない、俺はナマエの婚約者を知っている」
「そう」

 やっぱり、と頭が冷えていく。相手はお兄様のお知り合いか、大金持ちや王族のご子息だろうか。
 幹の太いオークの木は十年前と変わらぬ姿で立っている。シルバーの言う通り、あの木陰に寝転んで二人で本を読んでいた。彼は鍛錬に疲れて眠ってばかりだったけれど、周りにはいつも小動物がいて、愛らしい彼らは花やどんぐりをくれた。この城は、どこに行ってもシルバーとの思い出がこれでもかと詰まっている。

「マレウス様は降嫁させるとおっしゃっていた」
「じゃあ、城の者と……?」
「いや……うん、まあ、そうだ」

 言いづらそうに視線を逸らしたシルバーはわたしをオークの近くにあるベンチに座らせ、芝生に片膝をついた。目の前にある瞳が日の光に晒され、様々な色味を出す魔法石細工のように輝いている。

「俺は……」

 風に攫われた前髪から、幼いおでこが見えた。思い出すのはおでこを手で押さえて泣きそうな顔をしているシルバーで、面影だけを残して成長した彼の姿に胸がぎゅっと締めつけられる。膝の上に置いているわたしの手を握りしめ、一度唇を引き結んだ彼はまっすぐにこちらを見上げた。

「俺は、立派な騎士になったと思うか」
「うん」
「ボロカスにやられても、強くなれたと思うか」
「……うん、思うよ」

 俺が強い騎士になったら結婚してほしい。
 陽だまりに滲む歌のようにあたたかくてやさしい記憶の海には、いつも、銀髪の男の子がいる。とても眠たげで、静かで、わたしの世界を壊して作り変えた男の子が。
 しあわせな思い出だけを抱いていけたらどれだけ、朝焼けのシーツの中に融けるわずかなしあわせだけを閉じ込められたらどれだけ、よかっただろう。儚い火花のように散らばってしまった幸福を掻き集めても、得られたのは心臓を射止めるような苦しさとかなしさだけだった。
 濡れる頬を撫でたシルバーは困ったように笑い、わたしの手を再び取った。遠くで小鳥たちが歌い、昼前のぬるい風が落ち葉を巻き上げながら吹き抜ける。

「俺と、結婚してほしい」

 降嫁、と言った意味が、マチルダがなにかを言いたげにしていた理由が、繋がりの見えない点と点だった事象が線になって繋がっていく。シルバーの言葉を理解した途端に夢と現実の境界線が曖昧になり、視界に映るものすべての輪郭がおぼろげになった。

「うそ……?」
「嘘じゃない。本気だ」
「わたしを驚かせようとしているの? だって、もう期待なんてしたら──」

 望みが叶わなかったら、耐えられない。
 シルバーは泣きじゃくるわたしを抱きしめ、小さな子どもをあやす父親のような声色で話し始めた。

「俺も、二日間ほど夢ではないかと悩んでいた。マレウス様から正式な書類を頂いてようやく現実だと思えるようになった。……そのおかげで、親父殿には『さっさと会ってこい』と叱られてしまったが」
「……お兄様が?」
「勲章の褒美にと、俺はナマエを望んだ。お前を物扱いするつもりはない。だが、一家臣に過ぎない俺はこういう形でしかそばにいられない。どうか、許してほしい」

 ごめん、そう謝って、瞼に落とされた熱がわたしを現実へと引き戻す。
 遠く離れていた心がここにあった。握りしめたことで指の隙間からこぼれてしまった想いが戻ってきていた。彼の頬に触れたわたしの手に大きな手が重なり、オーロラの瞳の中に涙を流すわたしが映る。

「シルバーが、いいなら……ずっと、そばにいて」

 他の言葉が見つからない。この言葉以外は許されない。
 幼くて拙い感情に翻弄されていた頃、そう答えることしかできなかったわたしがオークの木の下で笑いながら手を振っているような気がした。もう、手を離さないでねと。

「行こう、ナマエ」
「な、なんで? どこに?」

 しばらく黙り込んでいたシルバーはわたしを抱き上げて歩き出した。突拍子のない行動に驚くわたしを他所に、不思議そうな顔をした彼が当たり前だろう? と言わんばかりにわたしを見下ろす。

「親父殿に報告しなければならない」
「待って、そんなにいきなり……」
「マレウス様にもお伝えしなければ」
「セベクには……?」
「そうか、あいつにも一応言わないとな。お前こそ、マチルダさんには言わなくていいのか」
「マチルダは……泣いちゃうかも」
「そうかもな」

 笑ったシルバーは急に立ち止まり、スカイブルーの空を見上げた。ピィ、と鳴いた小鳥たちがわたしたちを囲み、追いかけてきたらしいうさぎやリスたちは足元でぴょんぴょんと跳ねている。彼らのくちばしや口には色とりどりの野花が咥えられていた。

「小鳥たちが祝ってくれている」
「そうなの……?」
「ああ。ほら」

 花々の雨が落ちてくる。確かに、空を飛ぶ小鳥はわたしたちを祝福しているかのように歌っていた。花びらがシルバーの髪や肩に乗り、わたしの身体にも花が散っている。なんだか、結婚式みたいだ。ぽつりと呟くと、彼らに「ありがとう」と律儀に告げていたシルバーが頷いた。

「動物に祝福される結婚式か……悪くないな」

 二人で無邪気に笑い合えるのはいつぶりだろう。温和にたゆむ双眸に吸い寄せられ、さも当然のように唇が重なった。
 指先から爪先まで、身体すべてがしあわせに包まれている。夢みたいだ、嘘みたいだ。冷たくて暗い海の底から引き上げられて、今は温かい日向の中にいる。
 左手の薬指に口付ける彼は絵本から飛び出した王子様のようだった。小鳥たちの祝福と喜びに満たされた祝歌は留まるところを知らず、風や木々のざわめきと共鳴している。

「幸せになろう」

 この物語の結末に、哀しい涙は似合わない。


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