三千世界の鴉を殺し君と朝寝がしてみたい 幕間


 目覚めた時の気分は最悪だった。身体が重く、頭も痛む。昨夜のことを思い出しながら、ずきずきと痛みを訴える額を押さえる。
 昨日は確か、ナマエを助けるために森に入った。
 そうだ、小鳥だ。小鳥がいつかの夜のように俺の部屋の窓を叩いて異常を教えてくれた。彼らに導かれ、ターリアに騎乗したのは日付が変わる直前のことだっただろう。マレウス様や親父殿にお伝えする時間すら惜しく感じられ、単身で森に入ってしまったのは俺が自身の力を過信していた証であり、冷静な判断力が足りていなかった証でもある。現に、奴の仕掛けにあっさりと嵌り、仲間の男たちにやられてしまうところだった。ナマエがブルースに襲われていたことで頭に血が上っていたとは言え、俺はまだまだ未熟だったのだ。
 俺はここで死ぬ。
 そう諦めた時、俺を庇うようにして前に立った小さな背中があの日の彼女の背中に重なった。大きな花瓶を抱えて俺の前に現れた、あの時の。

『さあシルバー。行きましょう』

 見ていて、なんて言って、お姫様らしく猫を被って、俺の手を取って、普通の女の子のようにスカートを翻して、それから無邪気に笑った。彼女に手を引かれながら見た景色は、衝撃と真新しさにチカチカと光っていた。
 初恋の、もう忘れかけていた頃の記憶が昨日の出来事のように鮮やかに蘇る。鮮烈に、ありありと、こんな状況のさなかでさえ愛おしいと思えるような記憶が星のように瞬いては消えていく。
 いつも、お前はそうだった。そばにいてほしい時に、近くにいてほしい時に、立ち止まって俺のほうを振り返ってくれる。寂しさを縫い止めて、目には見えない小さな小さな綻びを塞いでくれる。そうやってすべてを満たしてくれる彼女の存在は大切でありながらも恐ろしかった。身につける服はおかしくなければなんでもいい、昼餉は食べられればなんでもいい──幼い頃とそう変わっていない根幹をなす価値観は未だにあるが、恋だとか愛だとか、存在価値があるのかもわからない無形のものに心酔して時間を費やす自分自身が、理性とは切り離された違う生き物みたいで恐ろしく感じられたのだ。変わっていく。変えられていく。幼心に、怖かった。
 しかし、それ以上に。
 ナマエからの愛情を捧げてもらえる俺という一人の人間はどうしようもなく愚かで、どうしようもなく大切なものに思えた。俺は俺が怖くて、愛しかったのだと思う。愛は人を変えると言うが、彼女に恋をして愛を知った時、俺は違う俺自身に出会ったんだろう。
 だからこそ、ナマエだけは守らなければと思っていた。マレウス様が悲しまれぬよう命を尽くす覚悟はあったが、一番は俺自身が彼女を死なせたくなかった、最後まで守り抜きたかった。
 結果的にはナマエに助けられ、こうして医務室で目覚めたわけだが──、

「……ナマエ」

 かなり唐突に、昨晩見た夢の内容を思い出して飛び起きた。あれは本当に夢だったのか。ただの願望夢だったとしたら記憶がはっきりとしすぎていた。幼い子どものように駄々を捏ねてナマエを困らせ押し倒した挙句にキスをした気がする。
 彼女を探し出して謝るにも気まずいだろう。そのように考えて、いや、と嘲笑う。
 なにを馬鹿なことを考えている。願望をぶつけたあとに顔を合わせたところで状況はなにも変わりはしないのに、気まずいだのと心配する必要がどこにある。ナマエはあの富豪の男のもとに嫁ぐ。家臣の一人に過ぎない俺が一国の姫君を娶り、子を授かるなど絵空事でしかない。俺はただ無礼を働いた事実だけを謝ればいい。
 未だにだるさが残っている身体を動かし、立ち上がるとちょうどカーテンが開いた。思いもよらなかった登場に思わず仰け反り、ベッドに逆戻りしてしまった。

「なんじゃ、もう起きておったか」
「親父殿……おはようございます」
「ああ、おはよう。と言っても、もう昼だがの」

 よく寝たなあ、といつもの明るい声でおっしゃった親父殿は腕を組んで俺を見つめた。その唇は、かつてないほどに楽しげに歪んでいる。

「いいニュースとどうでもいいニュース、どちらから聞きたい?」
「……今度はなにに影響を受けたんですか」
「ええい、やかましい。さっさと答えんか」
「じゃあ、どうでもいいニュースからお願いします」

 親父殿はあいわかったと頷き、感情を引き抜いたようなゾッとするほどに冷たい声色で告げた。

「ブルースとその仲間、ナマエの婚約者への厳罰が決まった」
「……どういうことですか、ナマエの婚約者が?」
「おお、そうじゃ。王族への謀反は許されざる大罪だからのう」

 聞き返す俺に、親父殿はいっそう笑みを深める。今の今まで眠りこけていた俺は、事の真相についてあまりにも知らなかった。


  ◇


「真偽を問う断罪者は城に招いておる。じきに裏切り者全員が炙り出されるだろう」
「……こんな話、あんまりです」
「そうだろうな。ナマエは平気そうにしておるが、カウンセリングは受けさせる予定じゃ。……今回の件でパニック障害になってもおかしくはない」

 怒りに染まっていた頭が急速に冷えていく。大雨の中、怯えて強ばっている泥だらけの白い身体が物言わぬ人形のようで恐ろしかった。もう永遠に、無以外の表情を見せてくれなくなるのではないかと不安になるほどの空虚がナマエの瞳にはあったのだ。泣きもせずに怒りもしない、意思のある生き物らしからぬ心を殺したその様を思い出すだけでも肚の底が冷える。

「あの男が、ナマエを殺そうとしたんですか」

 否定してほしかったのかもしれない。
 しかし、いかにも、と頷く親父殿の姿に意識が遠のいて憎悪で狂いそうになった。ブルースは雇われの殺し屋で、婚約者のあの男の一族こそが真の黒幕だったなんて誰が思う。誰からも信頼されていたあの男が黒幕だなんて。

「……」

 ナマエにとっての幸せがそこにあるならばと諦めた。
 もとより王に直訴できるような身分ではないが、俺がこの手を離しても幸せになってくれたならば悔いはなかった。花嫁衣装に身を包む彼女を見ても、他の男の隣で笑う彼女を見ても、耐えられる。けれどそこには、ナマエが幸せならば、という前提が絶対に必要だった。
 前提から壊された今、成り立つものはひとつもない。

「して、そろそろいいニュースでも聞かせてやろう」
「……はい」
「そう沈むでない。心躍るニュースじゃ」

 くふふ、といつものように笑い、親父殿は上機嫌におっしゃった。

「シルバー。お主への勲章授与が決まった」
「……なぜですか、俺はなにもしていません」
「一国の姫──国王の寵愛を受ける妹君を命を賭して守ったのだぞ。お主がいなければナマエはいいようにされておったじゃろうて。間違いなく勲章ものであろう」
「ですが」

 ナマエを危険に晒し、あまつさえ助けられた身で、不相応な栄光と名誉を受け取るわけにはいかない。抗議しようと身を乗り出し、はたと気づいた。
 “国王の寵愛を受ける妹君”。
 “国王”とは陛下のことではなく、マレウス様のことをおっしゃっているのか。それとも、ただの言い間違いか。違和感を覚えて顔を上げると、幼い子どものような無邪気な笑顔が目に入る。

「マレウスが王となる時が来た」
「マレウス様が……?」
「そうじゃ」
「ならば尚更、勲章など受け取れません。俺はナマエを守れませんでした」
「そうか、そうか。シルバーはいらぬと申しておるぞ、マレウスよ」

 マレウス様? 聞き返す前にカーテンが引かれ、そこにはマレウス様とセベクが立っていた。主を前に座ったままでいるわけにもいかず立ち上がろうとしたが、マレウス様本人に手で制されてしまえばご厚意を無下にはできず、大人しく座り込む。

「ナマエ様をお守りできず、申し訳ありません」

 そう謝るとマレウス様は困ったような顔で俺を見、助けを求めるような目で親父殿を見やった。

「お主の言葉を言えばよい。思ったこと、考えたこと……たくさんあろう」
「……僕の、か。ああ、そうだな、まず言うべきことを言っていなかった」

 マレウス様は沈痛な、どこか安堵したような面持ちでおっしゃる。

「ありがとう。お前がブルースを仕留めていなければナマエの尊厳は踏み躙られていた。……僕たちも、間に合っていなかっただろう。ナマエの心身を救い、敵に立ち向かうだけの強さを与えたのは偶然でも奇跡でもない。シルバー、お前がナマエを救った。僕はお前にこそ相応しい栄誉だと思っている。それでも、受け取れないか」
「……ですが」
「これでも、僕は怒っている。不甲斐ない僕自身に、怒っているんだ。兄として妹を助けられなかった。兄としても王としても情けないだろう? 近しい妹も守れない国王が、この地に住まう民たちを守れるはずがない」

 反論したそうな顔でマレウス様を見つめているセベクは彼のお言葉を聞くごとに泣き出しそうになっている。しかし誰も語らず、静かな声に耳を傾けていた。

「お前に授ける勲章はお前のためだけじゃない。僕のための戒めでもある。受け取ってくれるな? シルバー」

 受け取らない、という選択肢はマレウス様によって消されてしまった。一介の家臣が受けるにはあまりある誉れだが、誇りと戒めを与えてくださるのなら俺は誠意を尽くして応えるしかない。
 ベッドから立ち上がってマレウス様の前に跪いても、誰もが黙している。指先にわずかに残る痺れは毒によるものか緊張によるものか、よくわからない。

「謹んでお受けいたします」

 どんな形であっても、親父殿とマレウス様にご恩を返すと決めている。親父殿が願い、与えてくださるなら全力で尽くそう。マレウス様が望み、授けてくださるなら全力で応えよう。
 水を打ったように静まり返る室内で、一番最初に声を出したのは親父殿だった。

「ふむ、ならば褒美も聞かねばな」
「褒美、ですか?」
「そうさなあ、金銀財宝、もしくは歳若いおなごと相場は大昔から決まっておるが……望むならばなんでも与えよう」
「いえ、そこまで頂くわけには──」

 俺の言葉を遮るように、親父殿は笑い声をあげた。つられるようにしてマレウス様も楽しげに笑い出す。

「茨の谷には、こんなおとぎ話がある。姫君を守った騎士は、褒美に姫君を娶った。ナマエは小さな頃からその本が好きだったが……今はどうだろうな」

 俺は、その物語を知っていた。めでたしめでたし、で締めくくられるハッピーエンドを。

「知っておるだろう。『茨の姫と茨の騎士の物語』というタイトルだったか……あやつも、姫君に首ったけであったからのう。姫君を守るために敵陣を突破した屈強な男じゃったわ」

 なにが欲しい? と回顧に浸っていた親父殿がそっと囁いた。濃い色を呈す瞳が妖しく輝き、三日月形に細められる。俺を試すような、挑発するような声だった。背筋が薄ら寒くなり、古の魔女や得体の知れない魔法を使う者たちが人々に恐れられていた理由がよくわかった気がした。

「シルバーはなにが欲しい?」

 マレウス様が、囁いた。親父殿とは打って変わって、穏やかな声だった。

「おれ、は……」

 言っていいのか、わからない。
 初めて抱いた日の翌朝に沈んでいた絶望も、真昼の陽射しの中で見た決して叶わない夢も、二人きりで部屋から抜け出した夜も、すべてが幸せな思い出ばかりだったとは言えない。それでも俺は、初恋の少女だけを愛していた。
 それこそ、今も過去も未来も。
 彼女を逃す時に放った俺の言葉が茨の棘となりその身に巻きつくのなら、呪いではなく祈りだと思ってほしかった。強いようで弱いナマエが前を向いていけるような、祈りであってほしかった。

 なにが、欲しい?

 そう囁く声が、親父殿のものだったかマレウス様のものだったか、それともセベクのものだったか、判別はできなかった。
 口の中が乾ききっている。心臓が口から飛び出しそうで、声が裏返らないように心を落ち着かせるのが精一杯だった。

「なんでも与えてくださると、おっしゃいましたか」
「ああ」
「ならば……ならば、」

 ナマエの生涯を。

 言った瞬間に「なにが欲しい?」と囁いていた声が波に呑まれて消えるあぶくのように聞こえなくなってしまった。ああ、と気づく。耳元で笑っていた声は、俺の本心を詰め込んだ声だったのかもしれない。
 流れる沈黙はたったの数秒にも、数時間にも思えた。断罪される時を待つ大罪人のような気持ちは、こうも落ち着かないものなのか。

「シルバー」
「……はい」

 マレウス様の厳しくも鋭い翠の双眸がほっと息をつくように優しく緩められた。それは、ナマエだけに見せる兄としての慈しみを感じさせる瞳だった。

「与えよう。お前があの子を愛す限り、与えてやろう」

 信じられなかった。俺はまだ目覚めていないのか。
 夢か、妄想に取り憑かれているのか。あんなに望んでいた夢物語が突然落ちてきた。俺の手の中に、戻ってきた。嘘ではないのか、幻ではないのか。

「セベク、頬を叩いてくれないか」
「ぅ……なぜ僕が!!」
「信じられないからだ」

 床がぐにゃぐにゃと歪んで足元から崩れ落ちそうになり白いタイルに手をついたが、床はちゃんと硬かった。「おめでとうございます、ナマエ様……っ」と号泣し、この場にいる俺にではなくこの場にいないナマエだけに祝福を向けていたセベクは俺の前に進み出ると胸ぐらを掴んだ。

「ナマエ様をお守りするんだぞ!!」
「ああ、わかっ……っぐ!」

 誰が全力で殴れと言った。手加減を知らないセベクに殴られたことで口内が切れたらしく、鉄の味が広がる。痛覚も味覚もあるということは夢ではないだろうが、それにしても痛みが酷い。熱を持ち始めている頬に手をあてると、疼くような痛みが走る。
 なにか言ってやろうかとも思ったものの、マレウス様はセベクを連れて医務室から退室なさってしまった。次に会った時に文句を言っても、「お前が殴れと言ったんだろう!」と怒鳴られて終わるだろう。これでは、ため息もつきたくなる。
 部屋に取り残されているのは、頬を真っ赤に腫らしているであろう俺と、笑い袋のように笑い続けている親父殿のみだ。

「くふふふ、随分と傲慢だのう。己が命は儚いとわかっていながら、あの子の一生を欲するか」

 口の端から垂れる血を拭う俺のそばにしゃがんだ親父殿の言葉に思わず俯く。長くは生きられない身で、ナマエを望むのはやはり自己中心的だろうか。
 妖精に育てられた人間らしくていいではないか、と慈しむような声で続けた彼は俺の肩に小さな手を乗せた。

「さりとて、無欲なお主がなにかを欲したことがわしは嬉しい。……これは、同じ男としても父親としても言わねばなるまい。顔を上げよ、シルバー」
「はい」
「もう、手を離すでないぞ。お前はわしの自慢の子じゃ。昔から言葉数が少なすぎると心配しておったが……誰にも咎められぬ真実の愛を知っておった。これほどの、いとおしくてうつくしい幸いは他にはない。されば、わしは父として愛しい息子の門出を祝おうぞ」

 らしくもなく、頬の痛みも忘れるほどに目頭が熱くなった。俺の頭に手を回して抱きしめてくださった親父殿のゆっくりすぎる心音が懐かしく、雷に怯えて泣いていた幼い頃のことを思い出す。
 俺はもう、親父殿に巣立ちを祝福される年齢にまで成長していた。

「おめでとう、シルバー」

 いつか、かわいい孫の顔を見せておくれ。
 祝福と歓喜に染まる声が、ほんのわずかに震えて湿っているような気がした。


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