三千世界の鴉を殺し君と朝寝がしてみたい 16


 ダブル・クロス。そんな言葉がある。
 裏切りと欺きを意味する、縁起の悪い言葉だ。

「わしらはそやつのことを『ダブル・クロス』もしくは『クロス』と呼んでおった」

 医務室の丸椅子に腰かけているリリア様は細くしなやかな足を組まれると、神妙な表情で淡々とおっしゃった。彼は人差し指を宙に向けて動かし、その軌跡をなぞるように光の粒子でできた端麗な文字がぼうっと浮かび上がる。パチン、とそのまま指を鳴らしたことで光文字が反転し、彼の青白い頬をぼんやりと照らしていた。
 ついさっき、お兄様と彼に付き添っているセベクはお父様のもとに向かったため、医務室にはわたしとリリア様、ベッドで眠っているシルバーしかいない。

 Double(ダ ブ ル) Cross(ク ロ ス)

 並んだ十一のアルファベットは弱々しく点滅しながらも順番と場所が入れ替わり、別の、異なる意味を持つ文字列へと変化した。それは、わたしもよく知っているものだ。

 Blues(ブルース) Croods(クルーズ)

 裏切り者(ダブル・クロス)のブルース。
 妖精たちの鱗粉のようにきらきらと輝く文字は、波打つ水面に浮かんでいるかのように頼りなく揺らいでは震えている。嗤うブルースの声すら聞こえてきそうだった。このような言葉遊びをしたところで、誰かに猜疑心を向けられることはない──二十年前にこの城を訪れた彼には、そんな自信があったはずだ。優秀な暗殺者であったが故にその名をあえて名乗り、幼いわたしに接触した。凝り固まった執念と、頭がおかしくなりそうな憎悪を携えて。

「あやつこそが何者かが差し向けた刺客じゃろうと、わしもマレウスもあたりをつけておった。二人で探りを入れておったが、なかなかしっぽを出さんでな……」

 わしらが留守にしているあいだはマチルダに奴の監視を任せておった、と話されるリリア様は眠っているシルバーの横顔を見やり、それからわたしを見つめる。

「お主はわしとマレウスの謝罪など求めておらぬだろう。なれば、『ありがとう』と言わせてもらおう」
「……」
「ありがとう。ナマエがいなければ、シルバーはあそこで死んでおった」
「でも、一度、わたしは逃げました」
「シルバーが逃がしたんじゃろう。愛する者を見捨てるように育てた覚えはないからのう」

 愛する者。その言葉に口ごもるわたしを見て、彼は楽しそうに笑った。

「マレウスも驚いておったぞ。お主はもう弱くない。もう、一人で生きていけるだろう、誰にも謗られずに前を向けるだろう。だが、一人では笑えん。一人では強くなれん。愛する者のそばにいてこそ、人生は輝くものだからのう」

 ゆるりと細められた大きな両目が慈しむような光を孕み、小さな愛らしい唇ははっきりとした声だけを漏らす。雨が上がったあとの月はわたしたちを呑み込みそうなくらいに大きく、禍々しく光っていた。月明かりが室内の物の輪郭を照らし出し、床の白いタイルは青白い明かりで青っぽくなっている。
 もの寂しいようであたたかいこの空間で、ひゅう、ひゅう、という北風みたいなシルバーの呼吸音だけが異質だった。どこか哀愁を漂わせているリリア様が立ち上がると、彼の小柄な影も動いた。

「今夜は、シルバーのそばにいてやってくれんか」
「よろしいのですか……?」
「わしもマレウスたちのもとに向かう。なあに、万全の護りはつけておく。安心して共にいるといい」
「……ありがとうございます、リリア様」

 額に汗を滲ませ、体内を巡っている毒と戦っているシルバーのそばを離れたくなかった。わたしの気持ちを察してくださっていたらしいリリア様は悪戯っぽく笑い、そして真面目な表情をなさった。

「今、茨の玉座に座している者はとうに耄碌しておる。わしとマレウスの──近しい者の訴えにも一切耳を貸さず、歳を重ねる度に保守的になり、他を排斥してしまった。それは妖精も人の子も変わらぬだろうが……あの男も、潮時であろうな。国のためにも、民のためにも、引き際を違えてはならん」
「……それは、つまり」
「時代が変わるということじゃ。革命は、概して無意味には起こらん。……一瞬たりとも見逃すでないぞ。新しき王の時代が訪れる黎明の刹那を、しかと見届けようぞ」

 お兄様が王位に。それはつまり、お父様の退位を意味する。
 王が、時代が、変わる。わたしたちは今、過渡期の混乱のさなかにいるのだ。

「くふふ、楽しみだのう」

 その笑みを最後に残し、リリア様は医務室からお姿を消された。それと同時に、お医者様が休憩室の中からおずおずと顔を出し、「あのお……」と気弱そうな声を漏らす。彼の手には冷めきった紅茶が入っているであろうティーカップが三つ。出るタイミングを失って、紅茶を出すに出せなかったのだろう。

「ナマエ様……お気持ちはわかりますが、その、ナマエ様もお休みになるべきです。擦り傷だらけで、足なんて捻挫もしております。湯に浸かって温まったとは言え、お身体も冷えたことでしょう。明日の朝か夜には熱発なさるでしょうし……」
「今夜くらい寝なくても平気。今はそばにいたいの」

 年老いたお医者様は分厚いレンズの眼鏡越しに、困ったと言いたげにわたしを見下ろしている。もう一押しだ。彼はわたしのお願いにとても弱い。お願い、と言うと、彼は予想通りため息をついてティーカップが並んでいるトレーを近くの机の上に置いた。

「……承知いたしました。ですが、体調が悪くなったら他のベッドをご利用ください」
「その時はシルバーのベッドに潜り込むわ」
「はい?! あいてっ!!」

 棚に足をぶつけてしまったらしい彼を一瞥し、シルバーが眠っているベッドに近づいて仕切り用のカーテンを閉めきる。背後から「さすがにマチルダ様に叱られてしまいます……」と泣き言が聞こえてくるけれど、彼が誰にも言わなければマチルダに怒られることもないのだから安心してほしい。
 ベッドの端っこに座り、手を握りしめたら弱い力で握り返された。ちゃんと温かい。相変わらず苦しそうな呼吸を繰り返しているものの、お医者様は山は越えたとおっしゃっていた。だからきっと、もう大丈夫だ。
 一時はどうなるかと、シルバーが死んでしまうと思った。
 リリア様はわたしに「ありがとう」と言ってくださったけれど、恐ろしい力を開花させてしまったわたしはそんな言葉をもらえるような行動をしていない。お兄様たちがいらっしゃるのがもっと遅ければ、わたしは誰かをあやめてしまっていただろう。同じように生きている生物の息の根を止めて、もう戻れないどこかに堕ちる寸前だったのだ。
 自分自身が恐ろしい。シルバーを守れる力が欲しかったはずなのに、制御できない力を手に入れた途端に息がしづらくなっていた。もしもあの時、シルバーに抱きしめられて名前を呼ばれていなければ──わたしは、どうなっていただろうか。彼の手に触れているこの手を、血濡れにしていただろうか? 彼が教えてくれたやさしさも、正しさも忘れて、仄暗い感情だけに突き動かされて。
 戦きと、不安と、安堵。
 こぽこぽとあふれ出す感情が複雑に絡み合う。
 わたしに対して小言を言うのも諦めたらしいお医者様はティーカップを片付けているのか、カチャカチャと食器同士がぶつかるかすかな音が響いていた。やがて、医務室から直接入れるようになっている自室に引っ込んだらしく、物音ひとつしなくなった。シルバーの呼吸音だけを強調する静けさは身体中を蝕む疼痛のようだ。
 静かな夜は怖い。
 寝る前にする夢想みたいに、様々なことが頭に浮かんではうたかたのように消える。もし誰かを殺していたら、わたしは彼のそばにはいられなかった。そうやって考えるとおかしなくらいに自分がきたならしく思えてくる。

「……っ、シル、」

 手を離そうとしたら、手をまるごと掴まれてベッドの中に引きずり込まれた。高熱と痺れに魘されていても、気配に聡いままらしい。わたしを見下ろしている彼は警戒心の強い厳しい光を湛える両目を細め、それから場違いなくらいに間抜けな声を落とした。

「ナマエ……?」

 刺客と剣を交えてから二時間と経っていない。神経をすり減らしてでも、彼を生かそうとする防衛本能が働いているのだろう。
 だけど、こんなにボロボロな状態で無理をしたら──なにかを言う前に、シルバーがそのままわたしに覆いかぶさってきたことで潰れたカエルのような気持ちを味わうことになった。

「シルバー……重いよ」
「……さむい」
「寒いなら毛布を持ってくるから、ちょっと待っ」
「……」
「う、嘘……寝たの?」

 シルバーはわたしの胸元に顔を埋めて眠っている。筋肉の塊のような彼は重く、このまま押し潰されてしまいそうだ。どうにか彼の下から這いずり出て、乱れている呼吸を落ち着かせるために深呼吸をすると消毒液臭い空気が肺を満たした。

「ナマエ」

 いつの間に起きていたのか。ベッドから抜け出そうとしたのに再び引きずり込まれ、熱に浮かされているオーロラ色と目が合う。わたしの腕を掴む手の力は強く、ちょっと押し返すだけでは無意味だった。かと言って、弱っている彼から力尽くで離れたくはない。

「ゆめ、だろう」
「違うよ、夢じゃ──」
「ゆめで会えたら、どれだけいいかと」
「……シルバー、だめ、待って」

 制止の声を飲み干すように、唇を塞がれる。
 ベッドに横たわり、わたしを硬い身体の上に乗せている彼は力を抜ききった、甘えるような声を出す。とろとろとこぼれて、脳髄を焦がしそうな灼きつく声で。

「あの夜から、おまえの肌の匂いがあたまから消えてくれない」
「……んっ」
「だきしめたい、キスがしたい」
「……シルバー、」
「もう一度、だきたくてたまらなかった」

 は、と嘲笑を漏らした彼は、わたしの髪を耳にかけ、腕の中に閉じ込めた。

「一度じゃ、たりないくせにな」

 白いシャツから覗く鎖骨が汗ばんでいた。心臓の音が重なって、どちらの音が速くてどちらの音が遅いのかなんてわからない。
 苦しそうな呼吸の中にわたしへの欲情が入り交じり、低い声がわたしに焦がれている。愛しているひとから求められるなんて、女冥利に尽きるというものだろう。シルバーに触れられても、服を脱がされても、拒める自信がなかった。
 だけど。

「だ、め」
「……ナマエ」
「お願い、我慢して。あなたのためだよ」
「いやなのか」
「シルバー。元気になったら好きにしていいから……だから」
「ゆめが醒めたら、俺はおまえに触れない」
「怪我だってしてるのに──だめ、だめだってば、シルバー!!」

 世界がくるりと反転した。白いシーツと天井と、銀色が目まぐるしく入れ替わる。交尾をする獣のように背後からのしかかられ、まったく身動きが取れない。わたしの首裏に顔を埋め、ベッドに潰されている胸に触れたシルバーは離れないままに言い放った。

「ナマエとの子がほしい。ゆめでも、子をなせるとおもうか」
「え……?」
「使用人の子どもたちとわらう姿をみるたびに、俺は、」
「……」
「俺もいつかは、ナマエと、まだ見ぬ子たちとわらい合えるとおもっていた」
「ん……っ」
「だから、死にたくなるほどにくるしかった。息が、うまくできなかった」

 泣いているかと思った。ひとりで取り残されてしまった子どもみたいに、泣き方がわからなくなって暗闇を彷徨う大人みたいに。こんなにも弱くなっているシルバーの心に触れるのは初めてで、どうすればいいのかもわからない。

「だめ……!!」
「頼むから、にげるな」

 逃げようとするわたしを捕まえ、シルバーはうなじに噛みついた。唇で食んだり、熱い舌で舐めたり、歯で噛みついたり、あの夜には傷ひとつつけようともしなかったくせに、今の彼はかなり乱暴だった。

「ナマエ」

 剣の刃先のように鋭い色香が匂う。五感すべてを不能にされてしまいそうな、欲に満ちた声だった。
 本当は触れてほしい。その欲も全部受け入れたい。ここで、甘美な禁断を味わえたらどんなに幸せだろう。けれど、重症の彼と行為に及ぶことなんてできない。

「だめだって、言ってるでしょう!!」
「……!!」

 少々手荒な魔法をかけてしまった。気を失ったらしいシルバーはわたしの横に崩れ落ち、苦しげに眉を寄せている。
 晒されている彼のおでこに口付けを落としても、起きる気配はない。夢に侵されている彼がわたしを抱けば確実に体調が悪化するだろうからと魔法を使ってしまったが、わたしの魔法のせいで悪化してしまう可能性は考えていなかった。幸いなことに体調の変化はなさそうな様子で眠っているシルバーに安堵しつつ、彼を抱きしめると熱い身体がわたしにも熱を与えた。

「……おやすみ、シルバー」

 小さな子どもみたいにわたしの胸の中で眠るシルバーはあまりにもあどけない顔をしている。
 わたしとの子が欲しい。うなされている彼は、確かにそう言った。


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