三千世界の鴉を殺し君と朝寝がしてみたい 15


 ろくに受け身も取れずに落ちた身体、泥水に濡れて汚れていく綺麗な髪、容赦なく打ちつける激しい雨。息を呑んだ次の瞬間には、心臓が他の臓器を圧迫するように激しく鳴っていた。

「シルバー!!」

 シルバーのように際立って運動神経が優れているわけでもないわたしも飛び降りたが、ただでさえ足場が悪い地面で足を滑らせ、左足首を挫いてしまった。けれど、そんなことを気にしている暇はない。左足に走る痛みを我慢して彼のそばに駆け寄り上半身を起こすと、小刻みに痙攣している指先が目に入る。

「ナマエ……俺のことはいい」
「よくない!」
「……城に戻れ」
「いや!!」
「王族に仕える以上、こうなることも覚悟していた」

 シルバーがこんな状態になっているのはわたしを守ってくれたからだ。わたしは彼を苦しめてばかりでいる。
 場違いなくらいに優しく笑った彼は、その眦をとろけさせ、矢を受けていないほうの腕を上げてわたしの頬に触れた。この目をわたしはよく知っている。いつも、抱きしめてくれる時の目、キスしてくれる時の目。言葉にしろ行動にしろ、そのどちらかで愛を囁くには、シルバーはいつも同じ表情をしていた。
 まるで悲劇のラブストーリーみたい。彼が口にしようとしている言葉はこの数ヶ月間、わたしが欲しくて欲しくてたまらないものだろう。

「ははっ、本当にお姫様と騎士様がいたぞ」
「あいつの言う通りだったな」
「ラッキー、仕掛けた毒でやられてんのか。殺さなくても勝手に死ぬぞ」

 けれど、シルバーの言葉を聞く前に、見知らぬ第三者が現れた。ぬらり、とゴーストのごとく音もなく登場した彼らは城の者ではないだろう。まして、わたしたちの仲間であるはずもない。男に踏まれた水たまりが大きな音を立て、降り注ぐ雨が更に体温を奪っていく。城外からは侵入できないように結界が張られている森にどのようにして入り、どこから来たというのか、こんな状況ではわかるはずもない。
 震えている腕で剣を抜いたシルバーはわたしの前に立ち、怪しい男たちを睨みつけた。

「……何者だ」
「名乗る必要があるか? お前らはここで死ぬのに」

 男たちがブルースの仲間であることは確かだった。三人のうちの一人が持っている手鏡から新たに人影が出てきて、一人、二人と対峙する人数が増えていく。ブルースが言っていた、鏡を用いた転移魔法とは髭面のあの男のユニーク魔法に違いない。
 シルバーがわたしを助けに来ても余裕綽々に笑っていたブルースの表情が脳裏によぎり、恐ろしくなった。仲間の増援があるとわかっていたから、わたしを殺しそびれても少しも焦っていなかったのだ。

「その毒は三時間と持たずに身体中に回って死ぬ。その前に、手足が痺れて満足に動かせないだろうが──そっちの姫さんにはなにをしてもいいと言われてるんだ。うっかりお前を仕留めそびれて、見たくないものを見せちまうかもなあ」

 下種が、と吐き捨てたシルバーは明らかに油断している男たち目がけて魔法を放ち、ターリアに素早く跨った。わたしを引き上げた彼は魔法の威力を緩めないままに手綱を握りしめながら、凍てつく北風のような呼吸音を漏らしている。

「……抜かった。危険な目に遭わせてしまってすまない。お前だけは、絶対に守ってみせる」
「逃げよう。二人で、逃げようよ、やだよ、シルバー」
「……ああ」

 三時間で人を死に至らしめる猛毒に蝕まれている身体に鞭打って、シルバーは暗闇を疾走する。

「ごめん、ナマエ。ごめんな」

 いつも、いつも、そうだ。ああ、そうだな──そうして首肯するくせに、あたかも同意したようにふるまうだけで、こちらの意見には少しも耳を傾けてくれない。シルバーの顔を見なくてもなにを考えているかわかってしまうわたしは、嗚咽を漏らすしかなかった。どこまでも優しい彼は、きっとわたしだけを逃がそうとする。──いや、必ず、わたしだけを逃がしてしまう。自分自身を盾にしてでも、その貴い命を落としてでも。
 愛することは、守ること。それが彼の愛のかたちだとずっと前から知っているけれど、今はそんな愛情さえも憎たらしい。

「やだ……やだ、やだよ」
「ごめん」
「シルバー……ひとりにしないで」

 お互いが幼かった頃みたいに「ごめん」と謝るシルバーの声があまりにも穏やかで、静かで、あったかくて、陽だまりの歌みたいだった。

「小さな頃に、一緒に入った木があっただろう。幹に穴が空いていて、二人で昼寝をした」
「やだ、やだ……っ」
「夜明けまで、隠れていろ」
「やだ……!!」
「ナマエ。聞き分けてくれ」
「あなたが死ぬくらいならなにをされたっていい!!」

 シルバーは黙り、片手をわたしの腹の前に回した。ちょうど、酔いしれるほどの幸福と死にたくなるような絶望を受け入れた場所の真上で、彼の温もりが雨の冷たさを忘れさせてくれている。

「幸せだった。親父殿とマレウス様にご恩を返せなかったのは悔やまれるが、それでも、俺は幸せだった。偉大な父に育てられ、素晴らしいお方のおそばに仕えることができた」

 祝福と呼ぶにはあまりにも昏く、呪いと呼ぶには眩しすぎて、幸福と呼ぶにはさびしくて、不幸と呼ぶにはいとおしすぎる。それから、と言う声が。腹をやさしく包む手のひらが。夜半を駆ける星屑みたいに湧き上がって、こぼれて止まらない衝動が。枯れを知らない涙をあふれさせている。

「初恋の女の子と、笑い合えた」

 わたしが初恋だったなんて、知らなかったよ。
 思い出すのは、わたしより少し背の低いシルバーだった。小さな手をまめだらけにしていた男の子は見上げないと目が合わないくらいに成長していても、中身は出会ったあの時から少しも変わっていない。
 わたしは、闇を切り裂くような光を持つシルバーに何度も救われていたのだと思う。そうしてわたしを染めた彼の善性は、毒になるか薬になるか。その結論を知りたいとも思わないけれど、恋を知ってからは世界が鮮やかに輝いて見えた。どんなに些細なことも、なにもかもが愛おしく感じられた。彼に全部を変えられても、嫌じゃなかった。
 一番幼くて、澄んだ想いを寄せ合っていた幼いわたしたちは、大人になりそびれた恋心を抱えたまま生きることになるなんて思いもしなかっただろう。
 スピードを緩めてターリアから飛び降りた彼はわたしを見つめ、わたしの左手に手を添えると場違いなくらいに穏やかに笑った。研ぎ澄まされた五感は、目の前の彼のためだけに働いている。

「愛している。今も、今までも、これからも」

 ずっとだ、と。
 シルバーの口付けが手の甲に落ち、彼はすぐに唇を離した。立つのもやっとだろう、剣を握るのもやっとだろう。なのに彼は、わたしの大好きなやさしい笑顔を決して絶やさない。

 ──いばらのたにのおひめさまは、しあわせになりました。
 ──めでたし、めでたし。

 かのおとぎ話は、騎士から姫君へと贈られる手の甲への口付けのシーンで幕を降ろす。笑顔を浮かべる騎士の「共に幸せになりましょうね」の一言を最後に、ハッピーエンドを迎える。

「幸せになってください、姫君。俺の……私の願いはそれだけです」
「や、だ……一緒に、逃げようよ、ねえ、おねがい」
「なりません。あなたは幸せにならなければならない」
「シルバーがいない幸せなんて……!!」

 いらないのに、あなたなりのハッピーエンドはいびつすぎる。
 わたしは彼がいてくれるだけでしあわせだった。華やかなドレスも、貴重な宝石も、彼と手を繋いで走るには邪魔な踵の高い靴もいらなくて、ワンピースの裾を掴んで城の廊下を走り回ったあの頃みたいに笑い合えるだけでよかった。

「おねがい……いっしょに、そばにいて」
「どうか、振り向かないでください。……ターリア、ナマエ様を頼んだぞ」
「待って!! シルバー!!」

 離れた指先は空を切り、宙に所在なく漂った。シルバーの命令を受け入れたらしいターリアは鳴き声をあげ、入り組んだ大地を疾走する。雨に揺さぶられる木々は恐ろしい闇に息を潜める魔物のようで、どこを見ても大木に囲まれている森は冥界への入口のようだった。
 走る、揺れる、景色が変わる。手綱を引いても、止まってと言っても、ターリアは一心不乱に走り続ける。走って走って、開けた場所に出る頃には、シルバーと離れてからどれほどの時間が経っているのかもわからなかった。
 気が遠くなるほどの修練を積んできたシルバーでも、毒を盛られた状態では命を落としてしまう可能性のほうが高い。彼自身、悪党たちに殺される覚悟を決めた上でわたしに愛を告げた。頑なに、なにがあっても言おうとしなかったそれを、言葉少なで口下手な彼なりに尽くした。

 ──幸せになってください、姫君。

 たとえ、わたしを守ったその先に自分自身がいなかったとしても。己が命を賭して幸せをこいねがう。
 それは、シルバーが表現しうる最大限の愛情表現だっただろう。愛することは、守ること。離れていても、遠くから見守ること。マイペースなようで献身的な彼らしくて、寒さも忘れて手綱を強く握ると指の先が白くなった。
 死は、過去も今も未来も一度に奪う。
 だからこそ、最大の罪とされている。
 胸に落ちた闇はわたしの心を呑み込もうとしていた。彼を失う未来はひとりで眠る夜よりも恐ろしく、広大な海をひとりで漂うよりも寂しい。シルバーの声や温度、匂いを忘れ、いずれは思い出までも忘れるかもしれないと思うと、息もしづらくなった。愛したひとの記憶が完全に忘却される時、わたしは果たして、わたしのままでいられるだろうか。シルバーは狭い箱庭で生きてきたわたしの世界そのものだった。わたしから世界が消えたなら、それはもうわたしではない他の誰かだ。肉体は生きていても精神は死に絶えて、未来永劫の暗闇に閉ざされる。
 綺麗な花を見る度にシルバーに見せたくなる。おいしいものを食べる度に彼に食べさせたくなる。美しい色の雲が空を覆う度に彼に教えたくなる。この世の森羅万象にシルバーを想うわたしは、シルバーの死と共にきっと心を殺してしまう。

「ターリア」

 お兄様もリリア様もいらっしゃらない今、彼のもとに行けるのはわたしだけだ。しかし、お兄様たちには遠く及ばない少量の魔力しか持っていないわたしはなんの役にも立たない。けれど、シルバーが死んでしまったらわたしはわたしを絶対に許せないだろう。この夜を一生後悔して、臆病な心を一生恨むだろう。
 走馬灯のように蘇る思い出が、紡がれていた記憶の糸が、清く正しい彼に染められた心に絡みついて、本当にいいのか? 後悔しないのか? と耳元で囁いている。
 ──いいはずが、ないでしょう。
 理性も悟性も必要ない。今、この刹那に必要なのは勇気だけだ。

「ターリア。わたしのお願いを聞いて」

 わたしも、戦わなければならない時が来た。
 愛していると告げるなら、わたしの幸せを望むなら、なにがあってもそばにいてほしい。ずっと守ってきてくださったお兄様が、父のような愛情を注いでくださったリリア様が、わたしを姉のように慕ってくれたセベクが、悲しみに暮れるなら。
 悲観するわたしはいなかった。
 弱々しいお姫様みたいに泣くわたしはいなかった。

「ターリア!! 言うことを聞きなさい!! お前だってシルバーを助けたいでしょう!! ……っ、きゃ!?」

 なにをしても言うことを聞かなかったターリアが急に前足をあげた。わたしの願いは彼女自身の願いでもあったらしい。あんたのためじゃないわ、シルバーのためよ。そう言いたげに鼻を鳴らした彼女は来た道を引き返し、より速く走り始めた。
 雨は止み、おぼろげな月の光が顔を出す。風を切りながら走り抜けるターリアのたてがみが湿った風に靡いて、艶やかな毛並みが揺れている。立ち上る雨と土の匂いに混じり、鉄の匂いが漂い始めていた。
 近い。足音と怒号と、剣同士が交わる甲高い音。魔物が出そうな、妖しい夜。いや、この森の雰囲気こそが魔物じみている。生ぬるい息を弾ませる獣みたいに、生死をかけた剣戟と血の香りに森全体が歓喜しているようだった。
 この喧騒は、シルバーが生きてくれている証だろう。彼が数十メートル先の暗闇で戦っていることに、胸をなでおろした。

「こいつ、バケモノか!? なんでこんなに動けんだよ!!」

 ターリアから降りて木の影から様子を伺うと、魔法を使いながらも凄まじい一撃を繰り出すシルバーの姿が際立っていた。しじまが横たわる不気味な森でさえも彼の独擅場だったが、流麗な動きで男たちをなぎ倒しては肩で呼吸を繰り返し、剣を握り直しては苦しそうな表情をしている。
 毒矢が刺さった腕からは血液が吹き出し、動く度に赤黒い鮮血が散っていた。素人のわたしから見ても、その肉体を限界まで酷使していることは明らかだった。
 ついに、胸元を抑えたシルバーが地面に膝をつく。地に刺さる剣を支えにして俯く彼の姿に、奴らは喜びの声をあげた。これ幸いとばかりに飛びかかる様は蜜に群がる害虫のようで、作物を食い荒らす害獣のようだ。
 殺させない、死なせない。お兄様の家臣だからだとか、幼馴染だからだとか、関係ない。わたしは助けたいものだけしか助けられないけれど、不公平で不平等にしかなれない弱いわたしはわたしのためだけにシルバーの手を握る。

「うわっ……!? なんだ!? こいつ、まだ魔法が──」

 身体がふわふわしていた。疲れも痛みも感じない。神経だけが過敏になり、目の前に迫る敵の動きが遅く見えた。
 いつの間にかシルバーの前に立っていたわたしは、男たちに向けて火魔法を放っていた。肌が焦げ、髪が燃えると酷い臭いがするんだなと思いながら、今度は水魔法を使った。お兄様と同じ移動魔法が使えるようになったことに驚くよりも先に、憎いこいつらを殺してしまいたくて仕方がなかった。
 よくもシルバーを。許せない。憎たらしい。わたしの、大切なひとを。肚に蟠る仄暗い負の感情が業火に薪をくべ、陽の光さえも忘れた水の底に沈んでいるようだった。

「ああああああ!!」
「もうやめてくれ!! ぎぃあああああ!!」

 苦痛に滲む叫び声をあげる彼らをこれ以上痛めつけたら死んでしまう。わたしに痛めつけられている男のうしろに突っ立っている者たちは怪物を見るような目でわたしを見つめている。だけどもう、陽だまりへの戻り方がわからなくて、シルバーに塗り替えられたはずの心が黒くてどろどろしたなにかに侵食されていく。
 わたしだって、知らなかった。こんなに強力な、人の命を簡単に奪える魔法を使えたなんて、知りたくもなかった。
 力を制御できない自分が恐ろしくて、ドラコニアの血をしかと引いていた自分が恐ろしくて、うまく息ができない。

「ナマエ」

 不意に、腕を引っ張られてシルバーの両腕に抱きしめられていた。先ほどよりも毒が回ってしまったらしい熱い身体は、くっついているだけでじっとりとした熱気を孕む。

「ナマエ……もういい」
「……」
「戻ってこい」
「……シルバー」
「そうだ、俺だ」
「……ごめ、んなさい、わたし……」

 人をあやめようとした。シルバーの前で、命を摘み取ろうとした。怖い。偶発的であっても、恐ろしい魔法を使えてしまったことが怖くて怖くて、涙が落ちた。
 彼に泣き縋るわたしを見てか、何人かが性懲りもなく襲いかかってくる。あんな魔法はもう使いたくない、だけどシルバーを守るためには使わなければならない。もういい、よせ、と言う彼の声を無視して、前を見据え──それから、聞こえるはずのない笑い声が聞こえてきた。

「よくやった、お前たち。あとはわしらが引き受けよう」

 少年の化けの皮を被った歴戦の猛者は、くふふ、と妖しげな笑いを落とす。ほんの少し前まで騒がしかった森は、肌の表面をナイフで切りつけられているような緊張感に包まれていた。リリア様のお隣にはお兄様が、そしてお二人のうしろには感情という感情を削ぎ落とした表情のセベクが控えている。

 おやおやおや、そんなに怯えてどうしたんだ?
 若様、逆賊共は今ここで斬り捨ててしまいましょう。
 ふふふ、久々に楽しめそうじゃのう。

 誰も動けなかった。指先を動かせば殺される、瞬きすれば次の瞬間には死んでいる。そう思わずにはいられない、絶対的強者の風格が森の空気を一変させていた。怒りに満ちている表情、声色に、みなが怯えきっているのだ。怒り狂っている彼らには、天地がひっくり返ったとしても勝てない。救いの手を差し伸ばされているわたしでさえ、本能的な恐怖心で冷や汗が止まらなくなっている。

「僕の妹に手を出した罪は重いと思え。セベク、ナマエとシルバーを頼んだぞ。この痴れ者たちは僕とリリアで片付ける」
「はっ!!」

 お兄様に指示され、わたしたちのもとに駆け寄ってきたセベクはわたしを見るなり泣きそうな顔を浮かべ、シルバー見るなり顔をしかめた。一言二言文句を言ってやりたいが、ぐったりしている彼に小言を言える状況ではないと判断したらしいセベクは口を噤み、酷い有様の部屋着を身につけているわたしに上着をかけた。

「ナマエ様、こちらをお召しになってください」
「……ありがとう」

 シルバーがわたしを抱きしめていることに対してセベクがなにも言わないのは、わたしたちの関係を察していたからかもしれない。気まずそうに視線を逸らすセベクの様子に居た堪れなくなり、シルバーから離れるとセベクは彼の近くにしゃがんだ。

「立てるか」
「ああ、無理だな」
「……肩を貸してやるのは今だけだからな」
「恩に着る」
「ふん。若様に命じられたからな」

 セベクは自身が泥だらけになるのも気にせず、シルバーを支えた。すでに気を失いかけている彼がわたしの名前を囁いても聞こえないふりをしてくれたセベクはそっとわたしを見つめ、哀しそうに、苦しそうに、どこか煩わしそうに呟いた。

「この人間ほど、一途な男もそういないでしょう」


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