三千世界の鴉を殺し君と朝寝がしてみたい 14


「お待ちください、ナマエ様」

 ブルース・クルーズはわたしを追いかけることを楽しんでいるようだった。おどろおどろしい、耳の奥にへばりつくような声はわたしの背中を追い続けている。
 足を上げる度に跳ねる泥で滑りそうになっているというのに、ついには雨まで降り出していた。天にも運にも見放されてしまったわたしにできることは、ただひたすら逃げ惑うことだけで、どんな魔法を使うかもわからないブルースに真っ向から挑めるはずもない。
 足を止めたら、犯された末に殺されるだろう。あの男は、性的な興奮を覚えて、欲情して、わたしを犯そうとしているわけではない。純粋に──シルバーを絶望させたいだけだ。そしてその瞬間を、シルバーの表情が凍りつくその刹那を、盗み見てほくそ笑むに違いない。
 自身にとって憎たらしくてたまらない青年が、これまた憎たらしい女の死を悼み涙するかもしれない。潰したくてたまらなかったその両の目が憎悪と憤怒、そして殺意に濡れるかもしれない。仮に本当にそうなったとしたら、ブルースにとってこれほど愉快なこともないだろう。彼は被害者である姫君の死を悼むふりをしながら、歪んだ笑みを恍惚と喜びに染めるのだ。
 わたしが死ぬだけならまだいい。でも、辱められた泥だらけの身体を、残酷なほどに痛めつけられた身体を、わたしを抱いたことを後悔していないと言ってくれたシルバーにだけは見られたくない。一夜だけでも最愛のひとに愛してもらえたこの身を、穢されたくはない。
 強ばり始めている足の筋肉を無理やり振り上げ、太い木の根を飛び越えた、ら。

「お遊びはもうおやめください」

 ねえ、と囁いた、声が。

「健気なものですね。あの男は来ないというのに」
「いや……!! お願い、やめて!!」
「そんなに怖がらなくてもいいではないですか」
「お願いよ、もう殺して!!」
「なぜですか? シルバー様にもっと悲しんでいただけるチャンスですよ」
「……っ、今すぐ死んでやるわ!!」

 いやだ、いやだ。
 お遊び半分で追いかけていたらしいブルースはわたしを容易く捕まえ、乱暴に地面に突き飛ばした。わたしの上に馬乗りになった彼は引きつった笑い声を漏らし、泥だらけの手でわたしの首を絞めている。背中を濡らす地面の冷たさが気持ち悪い。手足を懸命に動かしても、爪のあいだに泥が入り込むだけだった。
 いやだ。
 犯されるくらいならと舌を噛み切ろうとしたが、それよりも先に布を捩じ込まれ、声すら出せなくなった。

「んん……!! ん゙ーっ!!」

 生きる価値もない娘を殺すだけなら、ただ殺せばいい。だと言うのに、目の前の男はわたしに愛されているからという理由で、人間だからという理由で、シルバーまでも傷つけようとしている。
 わたしがなにをしたと言うのだろうか。わたしはただこの世に生を受けただけなのに、人の子を愛してしまっただけなのに、なにもかもが許されない。

「今夜、動物たちはこの森からは出られない。されば、あの男をここに導くことも不可能だ」

 こんなにもおぞましい生き物がいていいものか。
 
「ああ、そんなに怖がらないで。痛いのは嫌でしょう」
「んんっ!!」

 首元からその下へと伸びていく手からは、ゆっくりと痛めつけ、長ったらしい苦痛を少しでも多く与えてやろうという意思が透けて見えていた。
 ──ナマエ・ドラコニアをようやく始末できる。二十年近く待ち望んでいた願いが叶う今夜、彼は少なからず興奮しているようだった。積年の仇であるわたしと、かの青年を一度に害せる一夜。それは目の前に唐突に落とされたプレゼントのような、垂涎もののサプライズに違いない。わたしが強姦された末に殺害されたと知ったシルバーが絶望し、慟哭する様を想像しては悦に入り、殺害衝動と恨みつらみが入り交じる激情すべてをわたしにぶつけようとしているのだ。
 目を爛々と輝かせている怪物は、負の感情だけで生きてきたのだろう。主に命じられ、憎くて仕方がない小娘の世話をし続け、特別やりたくもない仕事をやり続けた。ただ、わたし一人を殺すためだけに。
 視界が涙で滲む。わたしを守ってくださったお兄様にも、厳しくも優しくも接してくださったリリア様にも、純粋に慕ってくれていたセベクにも、なにも言えていない。朝、わたしがいないことに気づいた時、わたしの遺体を見つけた時、彼らは一体どんな顔をするだろうか。身ぐるみを剥がされた、女性としての尊厳を奪われた哀れで無様な姿を、見つけたら。
 わたしは死んでも楽になれないらしい。
 まるで悲劇のヒロインね、と頭の中で嗤う声が邪魔だった。思い出すのが繊細な光に包まれたあたたかくてやさしい記憶だけならば、今よりもっと絶望しているに違いないのに。

「あの男が恋しいですか? あの男は閨ではどうやって触れますか?」

 黒く、暗く、目の前が霞んでいく。底の見えない真っ暗闇の海の底に、鉛と一緒に沈んでいくような気分だった。
 ブルースはわたしの手を地面に押さえつけ、サバイバルナイフの切っ先を鎖骨の上にひたりと添えた。

「ナマエ、と呼ぶのでしょう、あの男は」

 目を瞑ると、なにも受け入れたくないわたしの耳は世界から音を消し去った。
 わたしを呼んでくれるシルバーの声が好きだった。時おり、甘えたように力を抜ききるところも、意外とくっつきたがるところも。
 つまらない理由で喧嘩をしても、それでも嫌いにはなれなかった。わたしの当たり前の中に彼がいた。きっと、彼の当たり前の中にもわたしがいた。自惚れでも自己陶酔でもなく、わたしたちはただそばにいられたらそれだけで幸せだった。
 だけど、人生はフィクションよりも残酷なのだ。

「し、うあー……」

 十数時間後には耐え難い苦しみをもたらすであろう男に、他でもないシルバーを重ねようとしているわたしを許してほしい。そうでもしないと、耐えられない。
 悲しみと、罪悪感と、諦め。
 すべて地獄に持っていく。落ちていく涙の温もりも、冷たい雨でかき消された。衣服が引き裂かれていく音も、どこか遠くの、窓の外から聞こえてくる雨音のように小さく感じる。

「この期に及んで、名前を呼ぶのですか」
「……」
「愚かな女だ。呼んだところで、意味はないというのに」

 身体は震えもしない。抵抗もせずにブルースを見上げると、彼はその顔をいっそう怪訝そうに歪め──そして、呻き声をあげながら上半身を揺らした。苦悶に満ちた表情が真っ青になったかと思えば、勢いよく立ち上がって後ずさった。

「なぜここにいる……」

 ブルースはどこを見ているのかわからない。暗い森の中を見渡し、姿の見えない敵に怯えているようだった。異様な雰囲気の中、馬が疾走するような独特な足音が響いている。
 新たな乱入者が敵か味方かはまだわからないものの、ブルースからは逃げたほうがいい。気が狂ったように頭を掻きむしり、奇声をあげている彼から離れて口に詰め込まれた布を吐き出す。

「なぜここにいる!!」

 二度、同じ言葉を吐いたあと、激しい雨が降り注ぐ向こうから黒馬──ターリアが姿を現した。ターリアは決して扱いやすい馬ではない。限られた者しか乗りこなせない、この城で一番気難しい雌の馬だ。現に、彼女の機嫌を取り、巧みに乗りこなせる人物をわたしは一人しか知らない。
 烏の濡れ羽色のごとく黒々と輝く毛並みを揺らして疾駆する彼女に騎乗しているのは、ハッと目覚めるような銀の髪を持つ青年だった。彼がどうしてここにいるのか、わかるはずもなく、わたしは呆然とするしかない。突然差し出された救いの手に安心するよりも先に、都合のいい夢ではないかと思った。

「シルバー!! なぜお前が……!!」

 シルバーはターリアのスピードを緩めないままに警棒を振り、彼の魔法が直撃したブルースは木の幹に身体を打ち付けた。大木が揺れるほどに強い攻撃を受けたブルースの身体はふらつき、地面に膝をつく。
 ターリアから降り、のたうち回る男を見下ろすシルバーの顔はよく見えない。

「茨の谷にはこんな法律がある」

 それがシルバーの声だとは思えなかった。だから、他の誰かの声だと思った。地を這うような、という表現があるけれど、今の彼の声は形容できないほどに静謐で、手負いの獣の唸りのように低い。
 音もなく訪れた死神の顔を見てしまった子供みたいに、ブルースは震えている。

「王族に危害を加えた者は反逆を謀る大罪人として厳罰の対象となる。そして、これは特例中の特例だが──両陛下または王子、及び姫君に仕えている騎士は反逆者に手を下すことも許される」
「そんなもの、あるはずが……!!」
「親父殿のお教えだ。いずれは必要になるかもしれぬと、一番に教えてくださった」

 わかるか? と続いた声はどこまでも平坦で、ただ聞いているだけのわたしでさえも歯が震えた。

「お前は今、俺に殺される正当な理由がある」

 すらりと抜かれた剣は、雨の中でも鈍く光っている。彼は、シルバーは、魔法ではなく剣でブルースを始末しようとしていた。

「まさか、殺される覚悟もなくナマエに手を出したとは言うまいな」
「ナマエ……? ナマエだと……? ははははっ!!」
「なにがおかしい」
「ははっ!! これはこれはロマンチックなラブストーリーだ!! まさかここまで来てお目にかかれるとは!! 随分と笑わせてくれる!! つがいの女がそんなに大切か!!」
「……」
「お前のお姫様は必死にお前を呼んでいたぞ!! 犯される間際に!!」

 声高らかに笑うブルースに、シルバーは剣を振りあげた。反射的に目を逸らして泥だらけの手で耳を押さえると、雨の音だけが聞こえてくる。
 止めたくても、臆病なわたしは止められなかったのだ。緊張を司る糸がぴんと張り詰めたような、緊迫している雰囲気に気圧され、声すら出てこなかった。しかし、聞こえてきたのはブルースの元気そうなそれだった。

「……はっ、しょせんは腰抜けか?」
「お前のためじゃない、ナマエのためだ。あいつは俺が人殺しになることを望まない」

 鋭い銀色の剣は、ブルースの顔の真横に刺さっていた。

「ナイト様は綺麗事がお好きなようだ。本当は殺したくて殺したくてたまらないんだろう? その顔であの女を見つめたら、きっと怯えられるぞ」
「黙れ」
「ふっ、ははは!! 酷い顔をしている自覚はあるようだ!!」
「黙れと言っている……!」

 鈍い音と共に、ブルースは静かになった。シルバーに思いきり殴られて気を失ったようで、真っ赤な鼻血が噴き出ている。胸倉を掴み、仕上げとばかりに数回殴ってから立ち上がったシルバーはわたしに背を向けたまま剣を引き抜き、呟いた。

「……ナマエ」
「は、はい……」
「俺が、怖いか」

 言葉に感情をちっとも乗せてくれない彼になにも言えなくて、裸足のまま近づいた。それでも頑なにこちらを見てくれない背中に抱きついて胸元に腕を回したら、彼は泥の汚れも気にせずにわたしの手を握りしめた。

「怖くないよ、シルバー」

 不安がるその声を聞いて、怖いと思うわけがなかった。シルバーの手にあった剣が落ちて、細かな傷がたくさん入っている刃が泥の中に沈む。ぱしゃん、と響いたあと、振り返ったシルバーの両腕の中にわたしはいた。わたしの肩に顔をうずめる彼の顔は、やっぱり見えそうにもない。

「無事でよかった」

 身体の骨が軋みそうなほどに強く抱きしめられ、踵がわずかに浮いている。雨に濡れている彼の衣服からは懐かしい匂いがして、目頭が熱くなった。久々に、生きた心地がした。脳に刻み込まれている匂いが懐かしくて懐かしくて、心が震える。

「帰りましょう、ナマエ様」
「……ええ」

 離れる間際も、シルバーはわたしをまともに見なかった。
 縛り上げたブルースを木の幹に縄で巻き付けた彼はわたしをターリアに乗せると、わたしのうしろに座って手綱を握った。コテンパンにしたブルースはあとで回収するらしい。助けてくれてありがとう、と気軽に言える空気ではないため、気まずい沈黙が雨の中に広がっている。
 どうしてわたしが森にいるとわかったのか、どうやって森の中に入ったのか、わからないことだらけだったけれど、それも簡単には聞けそうにない。やはり、ブルースが立てた今回の暗殺計画には穴が多かったのだろうか。

「寒くはありませんか」
「ううん、平気」

 曇天から降り続ける雨が鬱陶しい。シルバーに抱きしめられて泣きたいほどに安心したのに、あの匂いと温度すら虚しく感じられた。
 一向に変わらないように思える景色、寒々とした悪天候。墓場にするには最悪なこの場所で死ぬとばかり思っていた。諦めたはずの命はシルバーに救われ、この心臓はまだ生命の音を刻んでいる。
 城に戻ったら、婚約者とブルースのことをお父様たちにお話ししてどうにかしなければならないだろう。わたしの話を信じてもらえるかどうかは置いておいて、やらねばならないことなら山ほどある。

「ナマエ!!」

 シルバーの声で、痛み始めていた頭が一気に冴え渡る。
 唐突に宙を舞った明るい光は一直線にわたしたちの方へと落ちてきた。空からこぼれる流れ星のようにキラリと光り、それは目前に迫っている。その先端が、スローモーションの映像のようにはっきりと見えた。

「くっ……!」

 鈍い音を立てながらシルバーの腕を貫通した弓矢は、何年も前に見たあの毒矢と同じ形をしていた。わたしの足に流れ落ちた生温かい液体は冷たい雨とは比べ物にならないくらいに熱く、噎せ返りそうな鉄の匂いが充満している。
 もしも、毒が塗られていたとしたら。弓矢を引き抜いた彼は、手網を握り続けている。

「……大丈夫です、ただの矢です」
「本当に……? 痺れは? 呼吸は?」
「大丈夫ですから。……おそらく、ブルースが仕掛けたものです。敵の気配はしませんが、気は抜かないでください」

 シルバーは、嘘をついたらいつもよりも喋る。矢を受けたほうの手はかすかに震え、くっついた背中から伝わってくる心音もいくばくか速くなっていた。毒の回りが早ければ早いほど致死率は跳ね上がる。ブルースがかつて使用した神経系の毒だったとしたら、わたしを本気で殺すつもりで仕掛けていたとしたら、先ほど捨てられた矢には人を呆気なく殺せる程度の量の毒が塗られていただろう。
 わたしはまたシルバーに守られたのだ。こんなにも大切な人を、わたしが弱いせいで傷つけてしまったのだ。
 ただの矢、だなんて嘘だとわかっている。ずる賢いブルースが普通の矢を準備するはずがない。

「見え透いた嘘をつかないで」

 そう言うと、シルバーはしばらく無言になった。

「…………俺は、あなたを送り届けなければならない」
「あなたはわたしのものじゃないでしょう。どうして一人で来たの」
「他の誰かに連絡する時間はありませんでした。これが最善だと──」
「ふざけないで。わたしは死んでもよかった」
「……本気で言っているのか」

 こんなこと、本当は言いたくない。でも、強がりな言葉ばかりが口をついて出て止まらない。みっともなく罵るわたしにシルバーはなにも言わず、腕の震えを必死に押さえつけようとしている。どんどん減速していくスピードも、半ばわたしに寄りかかるような体勢になっているたくましい身体も、毒が回り始めているなによりの証拠だった。

「シルバー……お願い」

 幸せになってほしい。家族に囲まれていてほしい。ただ、それだけなのに。

「お願い、ひとりにしないで」

 わたしの祈りも虚しく、すまない、と呟いたシルバーは滑り落ちるように落馬した。暗闇でも明るく輝く白銀は揺れ、水が跳ねる。
 足にこびりついた禍々しい赤色が、網膜に灼きついた。


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