三千世界の鴉を殺し君と朝寝がしてみたい 13


※モブキャラによる倫理観に欠けた行動あり
※未遂






 新年を迎え、一月、二月と月日は流れていく。
 十二月のあの夜以来、シルバーとは一切話していなかった。廊下ですれ違っても視線が交わることはなく、かつて二人で決めた逢引の合図をすることもない。──わたしが首元を触ったら部屋に来て。そんな合図も、ただの他人に成り下がったわたしたちにはもはや必要なかった。
 今年の夏前に卒業を迎えたシルバーは城に戻り、お兄様のおそばにずっと控えている。廊下や中庭、広間でしばしば見かける彼は妖精族の少女によく囲まれていて、彼女たちからアプローチを受けていることは一目でわかった。人の子とは言え、あの若さで次期妖精王の付き人を仰せつかっている前途有望な白皙の美青年となれば、引く手あまたなのだろう。
 あの中に、シルバーと結婚する子がいるのかしら。そんなことを考えて、嫉妬に狂いそうになる。

 シルバー様、わたくしとお出かけいたしませんか?

 朝一番に見てしまった光景が生々しくよみがえり、胸のあたりがむかむかしてくる。気持ち悪くなって下を見ると、痩せ細った指が見えた。ストレスと精神的な疲労で以前よりも食事量が減ってしまったせいか、ドレスを着せられる度に手直しを加えてもらわなければならない。
 今朝の少女はいかにも恋をしていますという顔で、熱に浮かされた頬を赤く染めて、彼を見つめていた。すぐにその場を離れたわたしは彼が彼女になんと答えたかを知らないけれど、なにかを言える立場ではないことは確かで、彼が誰かの手を取った時には祝福しなければならないことは明らかだった。
 おめでとう、と言える自信はない。シルバーのように耐えて、祝える自信が。
 辛気臭い表情を浮かべている鏡の中のわたしから目を逸らすと、ちょうど声をかけられ、振り返るように指示された。

「お綺麗ですわ、ナマエ様」
「……ありがとう」

 式を挙げたら、わたしは城を出てあの富豪の屋敷に住む。式は今年中に執り行われるため、城内はいつも以上に騒がしく、ウェディングドレスを作る役目を負った国一番の仕立て屋はドレスの準備に明け暮れていた。
 フリルがふんだんにあしらわれたドレスも、きらびやかなネックレスもいらない。丹精込めて作られたであろうドレスを引き裂きたい衝動に駆られ、裾を握りしめた。
 彼女がわたしの頭にティアラを載せたと同時に、ノックの音が響く。今日は専属の護衛には暇を出しているため、その代わりに衛兵の誰かが来たのかもしれない。どうぞ、と部屋の主として応えると、扉が緩慢に開いた。
 開かれた扉の隙間から覗いた銀色の髪に、心臓がきゅうっと絞られた気がした。
 よりにもよって、どうして彼が来てしまったのだろうか。

「失礼します。マレウス様のご命令でナマエ様の警護に参りました」
「……そう、ありがとう」

 お兄様に裏切られたような心地がした。わたしとシルバーの関係をご存知だった彼が、あえてシルバーを護衛として宛てがった理由がわからない。わたしの気持ちを慮ってくださっているとばかり思っていただけに、そのショックは大きい。
 シルバーは硬い表情のまま室内に入り、わたしから数メートル離れた壁際に立った。
 なにが嬉しくて、好きな人にこんな姿を見られなければならないのだろう。お兄様に八つ当たりしたくなる己の幼さが嫌になり、シルバーのほうを見ないようにと鏡を見つめる。早く終わってほしい。ただでさえ、衣装合わせのこの時間はいつも苦痛しか感じられない。彼までいたら狂気に染まってしまいそうだ。

「あらやだ、私ったら……」

 お綺麗ですわぁ、と手を合わせていた仕立て屋の彼女は不意に呟き、裁縫道具が入っている革張りの鞄の中を漁り始めた。嫌な予感がして、心臓が不穏に響く。

「ナマエ様、少々お待ちくださいませ。イヤリングを裁縫室に忘れてしまいましたわ。戻らせていただいても?」
「ひ、必要ないわ。ここにいてほしいの」
「いいえ、あれがなければイメージに違いが出てきてしまいます」
「ダメよ、お願い。ここにいて」

 シルバーと同じ空間にいるだなんて耐えられない。
 シルバーと同じ空間にいたら頭がおかしくなってしまう。
 しかし、わたしの懇願など歯牙にもかけなかった彼女は部屋を出ていき、扉が閉まる虚しい音だけが反響した。裁縫室までは西廊下を渡り、厨房の更に奥まで行かなければならない。往復して帰ってくるには、精々十分はかかるだろう。どんな顔をしていればいい? どんな風に笑っていればいい? 妖精のあの子とお出かけするの、と聞けばいい? なにをいえば正解なのかわからず、下唇を噛んで閉口する。

「……ナマエ様」

 数ヶ月ぶりにわたしを呼ぶ声に、胸を貫かれた気がした。
 この身を焦がすほどに好きになった人がいたとしても、この身が滅びそうなほどに愛した人がいたとしても、何も持ち得ない者には望まないバッドエンドがやってくる。

「ご成婚おめでとうございます」
「ええ、ありがとう」

 わたしは、好きじゃない人と結婚する。花嫁のドレスは愛する人のために着るのだと信じて疑わなかった幼いわたしがこの現実を知ったらどう思うだろう。泣くか、喚くか、仕方がないと諦めるか。
 姿見に映るわたしは婚前の花嫁とは思えないほどに冴えない顔をしているくせに、今にも泣き出しそうだった。

「似合う? シルバー」
「はい」

 その場でくるりと回るとドレスの裾がふわりと揺れ、シルバーは無感動そうな表情を崩さないままに頷いた。もしも──もしも、わたしが王の妹ではなく完全な人間だったなら。わたしはシルバーとの約束を寸分も違わずに果たせていたのだろうか。この左手の薬指にはダイヤの悪趣味な指輪ではなく、控えめでいとおしい光をこぼす指輪をはめていたのだろうか。
 すべては何年も前に描いた夢物語だ。王族に生まれていなければシルバーと出会うことすらなかっただろうに、わたしは叶わぬ高望みばかりを繰り返している。
 少しも似合わない口紅をつけて笑う鏡の中のわたしはどこまでも滑稽で、無駄に飾り立てられた髪とドレスは重苦しくて邪魔だった。鏡に向き直って自身の姿をせせら嗤っても、歪んだ微笑みだけが赤い唇に乗るだけだ。

「……ぁ」

 ふと、鏡に映るシルバーが唇を強く噛んでいることに気づいた。どれだけ手を伸ばしても届きはしない鏡の中で、わたしの目を盗んで泣きそうな顔をするなんて。わたしを連れ去ってくれないのなら、すべて上手に最後まで隠し通してほしかった。そんな願いすらも、独り善がりなわがままになってしまうだろうか?

「シルバー……」

 か細く漏れる震え声はすぐに消え入り、この痛みもわたし自身も一緒に消えてしまえばいいのにと思った。わたしの呟きを拾ったらしい彼は無表情に戻り、一切の感情を殺したような声で機械的に答えた。

「誰よりも、綺麗です」

 シルバーはきっと、その言葉がどれだけ残酷な響きを持っているのかを知らない。ありがとう、と返す言葉を涙で湿らせないようにするのが精一杯で、鏡の中の彼であってもその両目を直視することなんてできなかった。
 聞きたいことも、伝えたいこともたくさんある。昔みたいに彼を困らせて、口を大きく開けて笑ってしまいたくなる。
 意味がわからないくらいに苦しい今から逃げ出したくなり、わたしは彼の言葉に救いを求めた。求めて、しまった。

「あなたは、後悔している?」
「……なにをですか」
「わたしと寝たこと」

 たった一夜に捧げた愛はいかほどか。
 宗教にも、祈りにも、憎悪にも似たいびつな愛情を喰らって育ったバケモノは胎に巣食っている。わたしは妖精の娘らしい執着心を飼っていた。シルバーはわたしのものだと、彼のその人生ごと縛りつけたがっている。
 こんなわたしとの思い出なんて、最悪だったと言ってくれたほうがいい。
 一瞬だけ目を見開き、そうっと目を伏せた鏡の彼は、頼りげなく眉を下げてほんのかすかに笑った。

「いいえ」


  ◇


 気がついたら真夜中の森の中にいた、という経験をしたのは、初めてだった。食事と入浴を済ませ、ベッドに潜り込んで──そこからの記憶がない。裸足で地面に立っているわたしの頭上では、天高く伸びている木々に遮られそうなおぼろげな月光だけが輝いている。
 混乱する頭をどうにか落ち着かせようと木の幹に寄りかかると、夜の冴えた風が吹きつけ、木々と草花が揺らいだ。足の裏に感じる泥の冷たい感触から夢ではないと思ったけれど、ブルースに連れられて森に入った夜のことを思い出さずにはいられなかった。あの時はお兄様からのお叱りを受け、シルバーにも怒られた。
 状況はよくわかっていない。でも、不思議と恐怖心はない。
 神様が用意してくれた、絶望に満ちている現実から逃れるための夜だとさえ思えた。今なら、崖から落ちて死んでも楽に死ねそうだ。獣に食われても、毒草を食らっても、死ねるならそれでもいいかもしれない。突発的な希死念慮に駆られ、泥で汚れるのも気にせずに歩を進める。
 目的もなくさまよっていると、パキリ、パキリ、という音のあとに泥水が跳ねるような粘り気のある音がした。

「ナマエ様、こんな時間にいかがいたしましたか」

 小枝を踏みしめる音と一緒に夜闇から姿を現した男は、にっこりと笑ってわたしを見下ろしている。

「ブルース……あなたこそ」
「僕はどうしてもやらなければならない仕事があって」
「……大変ね」
「おや、詳しくはお聞きにならないのですか?」

 ぺちゃ、と泥が跳ねてふくらはぎが汚れる。夜間の出入りが禁じられている森の中にブルースがいる理由なんて、どうでもよかった。正常な精神の状態だったならそれなりに恐怖を感じたかもしれないが、今は歩みを止めるのも面倒だった。

「……僕の仕事、教えて差し上げますよ」

 やけに饒舌なブルースは、薄気味の悪い夜半には似つかわしくない快活な笑い声をあげた。不気味、奇怪、異様。心底楽しげな、腹の底から出たような笑い声はまったく別の生き物のもののように思えた。
 楽しいパーティーの幕開けだと言ってはばからない、そんな声。

「ナマエ・ドラコニアの始末──それが僕の仕事なんです」
「……」
「なんです? 驚かないのですか?」

 鈍い光を放つサバイバルナイフが顔を出した。あんなに鋭い刃物で切りつけられたらひとたまりもないだろう。
 足を止めてブルースを見つめ返すと、彼は今までの好青年ぶりをかなぐり捨てて下卑た笑みを浮かべた。今さら、「裏切られた」と思えるような感性はない。たとえ二十年近く城に仕えてきた男が暗殺者だったとして、ああ彼もそっち側だったのか、としか思わない。
 愛したひととは一緒になれず、信じていた者からも命を狙われている。これ以上、なにを思って泣けばいいと言うのだろう。血を吹き出して泣いていた心ならもう死んでいる。肉体までも殺してくれるなら願ってもないことだった。

「面白くないですねえ、あなたのほうからそれを望むなんて。二十年待ち続けた結果がこれとは……」

 殺して、と言ったわたしの首に彼の手がかかった。唇にかかる呼気は生ぬるく、気持ちが悪い。

「僕は知っていますよ。あなたはあの男のつがいだ」
「……」
「人間同士でつがうなど……笑わせてくれる。しょせんは穢らしい生き物なのだというのに。あの方のご命令さえなければ、人間の血が流れている小娘などの世話なんてしたくもなかった」
「……そう」
「高貴なる王の娘が、生まれてきた娘が、人間の血が流れる穢らわしい女だとお知りになったあの方の気持ちがわかるか?」

 ブルースは聞いてもいないことをぺらぺらと喋り、事の全貌は自ずと詳らかになった。
 事の始まりは十九年前。わたしが生まれる前から、王の娘と茨の谷有数の富豪の婚約の話が何度か持ち上がっていた。しかし、王の娘として生まれてきたのは下等な人間の血が流れる小娘だった。半人間のわたしと結婚すれば、誇り高き妖精族の血に──歴史ある名家に穢らわしい人間の血が混ざることになる。それが許せなかった富豪一家はわたしとの婚約の決定を先延ばしにし、暗殺の機会を伺っては悪の根源であるわたしを始末しようとしていた。つまりは、ブルース・クルーズという人好きのする使用人はわたしの婚約者様に雇われて城に送り込まれた刺客だったのだ。
 しかし、何度も企ててきた暗殺計画はひとつも成功せず、婚約決定の先延ばしにも限界を感じ始めていた富豪一家は苦渋の決断を下した。

 ──結婚する前に、ナマエ・ドラコニアを殺してしまえばいい。

 茨の谷を代表する一家としての体面を保ちつつ、穢らわしい血は入れさせない。そのためには手段も選んでいられなかったのだろう。今回の計画は杜撰さが目立っているように思えた。何年も前に失敗した暗殺計画と同じような筋書きで、わたしを殺そうとしているのだから。誰もが恐れる夜の森で、わたしを。

「あの時に崖から落ちて死んでおけばよかったんですよ」
「わたしもそう思うわ」

 数年前の毒矢の暗殺者は虚構であり、事の発端からなにまで、すべてがブルースの自作自演だったのである。毒矢を自ら用意し、何者かに操られていたふりをすることで自身に事件の嫌疑が向かぬよう取り計らった。あの夜、わたしが崖から落ちて死んでいれば読んで字のごとく完全犯罪となっていたことだろう。あの崖は、幼い子どもが近寄ればなにかしらの事故に確実に巻き込まれる危ない場所でもある。わたしが解毒するための花を探しにいくと予見し、前準備としてわたしを懐柔し、仕上げとして情に訴えていたのだ。そもそも、死なない程度の毒の量を事前に計算して利用すれば己が死ぬという間抜けな事故は間違っても起こらない。
 猛毒を受けた被害者が謀を計画した張本人だとは誰も思うまい。実際には、身長体重、体質から計算した致死量ギリギリの毒を矢に塗り、時間と共に完全消失する魔法道具──特殊な弓を用いた計画的な犯行だったのだが。

「どうやって、わたしをここまで連れてきたの?」
「転移魔法ですよ。鏡と鏡を繋げれば簡易的な道になる……古代魔法の類ですが、やろうと思えばいくらでもやれる」
「転移魔法……」
「本当はあの男もついでに処理してしまいたかったのですが、なにせ隙がなくてね」
「……っ」
「おやおや、そんなに大切なのですか? 人間の、シルバー様が?」

 頬を掴んだ手に上を向かされ、薄汚い川底のように澱んでいる瞳と目が合った。

「人間の男の味はそんなによろしかったですか? 陵辱されたつがいの遺体を見たら、あの男はどんな顔をするでしょうかねえ」

 死ぬことより、シルバー以外の男に犯されることのほうが恐ろしかった。好き勝手に踏み躙られ、尊厳を奪われるほうが、ずっとずっと恐ろしい。

「この顔ならば高く売れるが……どこから足がつくかわからないからなあ」

 ブルース・クルーズの化けの皮を被った怪物は、わたしとシルバーの──きたならしい生き物の絶望が見たくてたまらないのだとのたまった。


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