三千世界の鴉を殺し君と朝寝がしてみたい 12


 あたたかいものに包まれている。
 朝日にしては熱すぎて、微睡みから抜け出したら目の前でシルバーが眠っていた。思わず飛び上がりそうになる身体を理性で押さえ込み、わたしを抱きしめている彼の顔を見つめる。髪と同じ色の睫毛は、積もったばかりの雪を思わせるすべらかな肌になじむように伏せられている。カーテンの隙間から射し込む朝焼けの光で室内の埃がきらきらと輝き、彼の銀髪は黄金に滲んでいるように見えた。なんと美しいひとだろう。職人が幾星霜もの月日を費やして作り上げた彫刻のような、完成された美はひときわ目を引く。
 その胸に頭を預けると、穏やかな心音が聞こえてきた。きめの細かい肌の奥、そっと息づく命の音。わたしよりもずっと短い寿命でしか生きられない彼のこの音が、ずっと先の未来まで永く続けばいいと思う。彼に家族を与える役目がわたしのものじゃなくても、心の端っこにはわたしを置いておいて、少しでも長生きしてほしかった。

「シルバー」

 午前零時の魔法はとうに解けている。
 手を伸ばした先にある頬には触れられなかった。下半身に残る違和感と痛みは偽物ではない。あいした。あいしあった。だけどそれは冬の夜の奇跡だった。一晩だけ恋人同士になった、それだけ。

「あいしてる」

 この痛みごと、全部。どれだけの言葉を尽くしてもこの愛は伝えられないとわかっているのに、もどかしくてたまらなかった。シルバーのために育てた愛情を心の中から取り出してみたら、それはどんな色をしていて、どんな形をしているだろうか。あんなに綺麗にしまっておいた初恋を育てた結果が醜いなにかだったとしたら、こんなに面白い皮肉もないだろう。
 攫ってほしい。
 奪ってほしい。
 でも、わたしはお兄様とリリア様のおそばにいるシルバーに恋をした。いつかはご恩を返したい、と言って前を向き続ける彼を愛した。彼がお二人から離れること、それはわたしの恋と愛までを否定する。
 ままならない感情を吐露してしまいたくなる弱い心を叱責していると、わたしの背中に回っているシルバーの手が動いて閉ざされている瞼もわずかに震えた。思わず目を閉じる。どんな顔で「おはよう」と言えばいいのか、ちっともわからない。起き上がったらしい彼はわたしの傍らに手をついたのか、ベッドが沈んで布と布が擦れた。彼の気配はそのままベッドから離れ、金属音と服を着込むような音が聞こえてくる。
 今頃、わたしを抱いてしまったことを後悔しているのかもしれない。やっぱり抱かなければよかったと、そう思いながら。彼の顔を見たくても、怖くて目を開けられなかった。
 さっきまであんなに温かかった身体が冷えている。シーツを握る指が心許なく震えて、爪先が氷みたいに冷たい。奥歯を噛んで寒々しさに耐えていると、頬に見知った温度が触れ、喉の奥で息が詰まった。

「……ナマエ」

 声を拾えるのが不思議なくらいに弱々しい、かなしい響きだった。一拍置いて、心臓のあたりから広がった衝動が、ひとつひとつの血管を通って指先へと伝わり、やがて頭の中が真っ白になっていく──そんな心地がした。

「愛してる」

 紡いで、編んで、ほつれた想いが乗せられていた。言葉を飾るのは得意でもないくせに、わたしを抱いている時は絶対に言おうとしなかったくせに、こうしてわたしが狸寝入りしているあいだに贈るなんて狡いでしょう。このままでは泣いてしまう。あふれてしまう。ここから、早くいなくなってほしい。シルバーに対してこんなにも願うのは初めてだった。

「好きだ、大好きだ」

 知っているから、早く一人で泣かせて。
 昨日のわたしが吐いた言葉をなぞらないで。
 もう泣いてしまう、と思ったその刹那、彼はわたしの頬に触れるだけのキスを落として部屋から出ていった。静かに閉ざされた扉の音を聞き届け、彼が眠っていた場所に身を寄せると、冷たいシーツの感触だけが手のひらに伝わってくる。確かにここにいた。確かにここで──、

「わたしもだよ」

 ここで、一生癒えない傷を作り合った。




 そろそろマチルダが来る時間だ。けれど、起きる気にもなれない。
 こうなることも覚悟の上だったはずなのに、裸のままシーツにくるまって泣いているわたしは救いようのない馬鹿だ。シルバーのあの声が忘れられず、身体に走る痛みに顔をしかめる度に思い出してしまって涙が止まらなかった。
 マチルダに色々と頼んでお兄様やリリア様とはお会いしないようにしないと、わたしとシルバーになにがあったか勘づかれてしまいそうだ。どっちみち、酷い顔をしているだろうから広間には顔を出せないけれど、不義を働いたと誰かに知られたら、折檻を受けるのはシルバーだ。それだけは避けなければならない。
 誰よりも優秀な彼女ならば上手く誤魔化してくれるだろう、と痛む頭で考えていると、控えめなノックが聞こえてきた。今は午前八時、訪問者はマチルダで間違いない。声を出すのも億劫に感じられ、机上のペンを魔法で大きな扉に飛ばすと、数秒後に重々しい扉がゆっくりと開かれた。礼儀作法に城で一番厳しい彼女に、ペンを飛ばしたと知られれば咎められるかもしれない。でも今は、大きな声すら出したくなかった。

「姫様、そろそろご朝食のお時間ですが──」

 聞き慣れた落ち着いた声が途切れ、彼女にしては珍しい慌ただしい足音が室内にこだまする。わたしを包んでいるシーツを控えめにめくった彼女は息を呑み、わたしと目が合うと口元に手を当てた。ふしだらだと思われてもいい、婚前に性交渉をする軽薄な女だと軽蔑されてもいい。だから今は、なにも聞かないでほしい。

「避妊薬を、ちょうだい」
「姫様、まさか」

 丸め込んだ身体が寒い。ぼろぼろと落ちる涙まで凍りつきそうだ。もしもこのまま、避妊をしなかったらシルバーとの子を望めるのかしら、と考えてしまう自分が卑しくて、そんなことまでしたくなる自分が虚しくて、胃からせり上がってくるものをすべて吐いてしまいそうだった。

「なにも」
「……姫様」
「なにも、きかないで」

 ああ、なんてこと。
 震える声でのたまったマチルダはわたしを起き上がらせてシーツを巻きつけると、どこにそんな力があったのかと聞きたくなるほどあっさりとわたしを抱きあげた。

「お風呂に入りましょうね。今日は姫様お気に入りの入浴剤をお使いしましょう」
「……おこらないのね」
「シル──あの方ならば早朝に訓練に向かわれました。今はしっかりと休むべきです」
「……ありがとう」

 マチルダは小さな子どもみたいにぐずるわたしの背中をぽんぽんと叩き、わたしをスツールに座らせた。浴槽に湯を張り始めた彼女はわたしになにかを聞くでもなく、淡々と準備を進めている。シルバーとの関係を知っていたから、見逃してくれたのだろう。もわもわと立ち上る湯気を見つめながら取り留めもなく考えて、鬱血痕や噛み跡ひとつない身体を見下ろす。わたしは彼の首筋にも背中にも傷を残したけれど、彼はわたしにはなにも残さなかった。いっとう優しい彼らしい、切ないくらいに甘やかな抱き方に笑みが漏れ、それから涙がこぼれた。
 入浴の準備が終わったらしい。マチルダに手伝ってもらいながら浴槽の中に入ると、ちょうどいい温もりが末端に広がった。肘のあたりまでブラウスを捲っている彼女はわたしの腕を持ち上げてやわらかな白い泡で洗い始めた。お気に入りの甘い匂いも、今はあまりわからない。

「わたしね」

 ぽろりと落ちた声を、マチルダは無言で受け止める。

「シルバーと結婚したかったの」
「……存じておりますよ」
「子どもだって、欲しかったわ」
「……はい」
「シルバーに似たらね、絶対にかわいいだろうなって、おもってたの」

 彼譲りの綺麗な髪を揺らして、彼譲りの奇跡の色の瞳を輝かせて。わたしにも彼にも似ている、お互いの愛を半分ずつ受け継ぐ子どもを抱きしめてみたかった。愛は分け合うものだと聞いたことがある。仮に、本当にそうなのだとしたら、お互いの遺伝子を半分ずつ持っている新たな命は、この世界にあふれている多種多様な愛のうちひとつの形だと言ってもいいのだろうか。

「ねえ、マチルダ。どうしてあなたが泣くの?」

 鼻を啜る音がしたので顔を上げれば、マチルダまで泣いていた。鉄の女、と城内で恐れられている彼女が泣く姿を見るのは初めてだ。その涙に、同情心が含まれていないことはわたしが一番わかっている。

「いいえ……いいえ、姫様。石鹸が目に入っただけですよ」
「……そう」

 石鹸なんてよっぽどのことがない限り目には入らないだろうに、彼女は随分と下手な嘘をつく。泡からひとつ飛び出したしゃぼん玉は天井近くまでふよふよと浮かび、霧のような湯けむりの中で弾けた。わざわざ口を開いて話す気にもなれず、天井から目を逸らして腕を浴槽の中に沈めると、心地いい温度に浸される。

「さあ、そろそろあがりましょうか」

 わたしの髪や身体をさっと洗い終えたマチルダはまた鼻を啜り、太陽の匂いがするバスタオルでわたしを包んだ。あたたかい。きもちがいい。わたしが気づいていなかっただけで、肉体的な疲労と精神的なストレスはかなりの負担になっていたらしい。ベッドで髪を乾かしてもらいながら、閉じそうになる瞼を無理やりこじ開け、本棚に並んでいる本の背表紙を意味もなく眺める。その中には、今よりも幼かったシルバーが読みたがっていた茨の谷の姫君と騎士のおとぎ話が載っている本もあった。タイトルの印字すら読めないくらいに古ぼけて、日に焼けて色褪せてしまっている。

「お薬はあとでお持ちしますから、今はお休みくださいませ。お薬を飲む前になにか食べましょうね」
「食べたくない」
「食べないと身体に悪うございます」
「……」
「姫様。お身体を大事にしてくださいまし」
「……ええ」

 食べたら吐いてしまう気がする。けれど、真剣な声色には逆らうこともできずに、まともに口も聞けないほどに疲れきっているわたしはただ頷いたのだった。


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