獅子雷王伝 08


 その日の夕食の温かいスープとともに出されたのは、不気味な色のドロドロとした液体だった。まさか自分が口にするものではないだろうと配達人のクロウリーを見上げたナマエであったが、彼は「クルーウェル先……理系担当の先生が作った栄養ドリンクです」どうぞ、とその液体を差し出し、ナマエの期待を粉々に打ち砕いた。十代の若者に必要な栄養がたっぷり入っていますよと言われても、味は保証しませんが効果は抜群ですよと言われても、異臭漂うそれを飲みたいと思うはずがない。本音を言えば飲みたくなかった。けれど、与えられた厚意を蔑ろにはできなかった。クルーウェル(件の教師)になんと伝えてこの栄養剤を作らせたのかはわからないが、多忙な立場にあるであろうクロウリーも、上司に依頼されたからとはいえ栄養剤を手ずから作ったクルーウェルも、彼らの時間を割いてくれたのは間違いないだろう。この一杯を作るためにかかった時間と労力を思うと、「飲みたくない」と突き返すこともできなくなったナマエは栄養剤がなみなみと入ったグラスを一気に傾けた。見た目や臭いに反して美味。という願ってもない奇跡は起きず、“悪魔の飲み物”たる所以を強制的に理解させられたナマエは涙目になりながらそれを一思いに完飲すると、大慌てでスープに口をつけた。あのときほど、トマトの酸味と野菜の甘みをおいしいと思ったこともないだろう。

「今日も食べないのかい? 成長期の男の子なのに……こんなんじゃ倒れてしまうよ」

 クロウリー直々にナマエの世話係を仰せつかったと言うゴーストは、皿に残った料理を眺め、眉を下げた。皿の中身は大して減っておらず、メインの牛肉の赤ワイン煮込みに至っては口すらつけていない。

「申し訳ありません……」

 ナマエが謝ると、気のいいゴーストは「気にしないで」と頭を振り、「頑張って食べようとしてくれてるのはわかってるから」とも続けた。
 大きいとも小さいとも言えない木製テーブルの上には、サラダ、スープ、バケット、メインとなる煮込み料理が中途半端に残されたまま並んでいる。食材にも調理方法にもこだわって作られたであろう絶品料理は冷めきって色あせ、おいしそう、とはお世辞にも言えなかった。

「次は果物を持ってくるね。果物なら食べられるかな?」

 いやな顔一つせずに世話を焼いてくれている心優しいゴーストに迷惑をかけてしまうのが申し訳なくて、ナマエはテーブルの下で手を握りしめた。本当はもっと食べたい。栄養をつけて、貧弱な身体を強化したい。しかしそんな気持ちとは裏腹に、いくら食べたくても食が進まず、湯気が立ちのぼる料理たちをいざ前にすると手が止まる。ナイトレイブンカレッジに来て一ヶ月が経った今でも食欲が戻っていない彼女は、朝昼晩と毎食欠かさず用意される食事を完食できずにいた。空腹感や飢餓感がないわけではない。自分だけが生きていることを、自分だけがおいしい料理を食べていることを、ただ後ろめたかったのだ。
 だが、このまま、今までと同じように過ごして得られるものはなんだろうか。安寧か、幸福か、歓喜か? 違う。永遠に癒えることのない、深く強い絶望だ。
 現状維持していても復讐は成せないのだと、一度地獄を見たナマエにはわかる。塔で過ごしてきた十四年間のように何も考えず、何も感じず、馬鹿で愚かに生きていけば、国の再興どころか両親と兄の仇すら討てないだろう。帝国中に散らばった司祭派どもを付けあがらせ、のさばらせてしまうだろう。
 俯いていたナマエは顔を上げ、艶のない髪に触れた。美しさも瑞々しさも失ったこの髪は、何も知らずに両親や兄に守られていた日々を思い出させ、彼女を感傷に浸らせる。母に「綺麗ね」と褒められた自慢の髪は以前の見る影もなくパサつき、手櫛で整えようにも指がすぐに引っかかり、絡まってしまう。まるで、死にかけの老人のそれのようだ。色はくすみ、根元から毛先まで傷んでいる。
 しばらくして、ナマエは髪に触れていた手を離した。
 変わろうとしなければ、成長しようとしなければ、彼女は亡国の哀れな姫君のまま、一生を過ごすことになる。それは、それだけはいやだった。

「ゴーストさん」
「うん? なんだい?」

 食器をテーブルからトレーに移していたゴーストが振り返った。皿やフォーク、陶器のカップがぶつかる音がやけにはっきり聞こえるのは、気のせいではないだろう。

「髪を、切ってください」

 伸ばした髪は、弱さの象徴だった。だから、切り捨てた。


 ◇


 毛先が、ナマエの生白い頬を掠めた。髪が顔に落ちてくるのが鬱陶しく思えて耳にかけると、隣に立つクロウリーが「随分と様変わりしましたね」と驚き混じりに言った。その言葉に苦笑を返し、自らの真正面に佇む鏡へと目を動かしたナマエは何かを告げるでもなく、鏡を眺めた。
 ナマエとクロウリーが立っているのは、彼女が最初に迷い込んだ場所――鏡の間である。いくつもの棺桶が浮遊し、神秘的で静謐でありながら不気味さまでも孕んでいるこの空間は地下のように暗く、妙に落ち着かない。薄暗い、“死”を象徴する棺に囲まれた鏡の間はかつての薄明の帝国で用いられていた地下墓所を連想させ、厳粛な雰囲気に圧倒されるナマエは口を噤んだ。
 宗教が生まれて間もない頃、神による最後の審判を待つ人々は地下に墓所を作り死者を埋葬した。数十年、数百年もの歳月をかけて葬られた遺骨の数は約五〇〇万体近くにものぼり、時代を追うに従って拡大を続けたその地は歴史家たちによってこう呼ばれた。
 “全知全能の神が生み出した知恵の輪”。
 墓所を作り、埋葬地確保のために地中を掘り続けたのは古代の人間たちで間違いないが、墓所の存在が誰からも忘れ去られ、再び日の目を浴びたとき、人々はその広大さと難解さをそのように表したのだ。巨大な迷宮のように入り組んだ空間は、神の見えざる手によって作られたのだと。
 時の為政者からの迫害を恐れた信者たちの礼拝所としても機能していた地下墓所は、今は観光地とも聖域ともされずに放置され、歴史的な遺構が残るのみとなっている。塔で過ごしていたナマエは訪れたことがないが、幼い頃の兄が頻繁に遊びに行っては日が暮れるまで帰ってこないことも多かったらしい。

「ゴーストからも話は聞いています。寝食も惜しんで勉強に励んでいるそうで」

 今度はクロウリーが苦笑を浮かべる番だった。彼は「無理に食事を詰め込むのはいただけませんが」と続けると、あっさりとナマエから視線を外した。

「ただ今より寮分けの儀式を行います。準備はよろしいですか?」
「はい、先生」

 頷き、鏡を見る。やはり、鏡はナマエの姿はおろか何も映さない。鏡面が波を打ち、濃いイエローグリーンが炎のように湧き上がる。鏡は強い魔力を発しているのか、シャンデリアの、静止していた装飾が僅かに揺れた。暗闇の亡霊のように音もなく姿を現した闇の住人はナマエを見つめ、作り物じみた白い唇を動かした。

「汝の名を告げよ」
「……ナマエ。ナマエ・ミョウジです」
「汝の魂のかたちは……」

 指を握りしめると、滲んでいた汗が手のひらを濡らすのがよくわかった。耳鳴りすら聞こえてきそうな沈黙が深く広がり、自身の心臓の鼓動が鼓膜に響く。
 当然だが鏡の仮面に眼球はない。何も入っていない眼窩は不気味で、そのくせじっくりと観察されているような気がして心地が悪かった。

「サバナクロー!」

 数秒、闇の鏡の言葉を理解できなかった。ハッとしたナマエは傍らにいるクロウリーを見上げ、早口に聞いた。

「サバナクロー……? わたしはサバナクローに入れるのですか?」
「……信じたくありませんが、そのようですね。まさか、あなたが本当にあの寮に選ばれるとは……」
「レオナ・キングスカラー殿下がいらっしゃる寮に……サバナクローに、入れるのですか?」
「ええ、そうですよ」

 何度も同じ質問を繰り返すナマエに、困惑気味の声で頷いたクロウリーは細く尖った顎先に指を当て、ついに溜息を吐いた。クロウリーの思惑は外れ、ナマエの望み通りの結果になったのだ。内心では「こんなはずでは……」と思っているに違いない彼の表情はわかりやすく狼狽え、佇まいもいつになく忙しない。

「以前も申し上げましたが、サバナクロー寮は弱肉強食の気風が強い寮です。本当に、よろしいので?」
「はい。こんな幸運を逃すわけにはいきませんから」

 サバナクロー寮に入れば、第二王子と接触する機会が得られるかもしれない。クロウリーの提案にも一切揺れないナマエの瞳は、力強く前を見据えていた。

「君の覚悟には完敗ですよ。……ちなみに、キングスカラーくんはサマーホリデー前に寮長に就任しています」
「やっぱり、素晴らしいお方なのですね」
「素晴ら……いや、う〜ん……素晴らしい……生徒だと思いますよ、はい。授業態度は悪いですが。ああいけない。話が逸れました。私が伝えたかったのは……そうそう、ミョウジくんの安全や我が校の治安維持のためにも、寮を総括する立場にある彼には君の本来の性別を伝えておく必要があります」
「え……っ」
「戸惑うのはわかります。ですが、私も学園の管理を任された身ですので。いざというときに寮長と情報共有ができていなければ困ります。君がサバナクローではない他の寮へと振り分けられていたとしても、私は君の性別を寮長に伝えていたでしょう」

 クロウリーの意見ももっともだった。のっぴきならない事情があってナイトレイブンカレッジに保護されたナマエの身に、いつ、どんなトラブルが起きるかは誰にも予測できない。
 ただでさえ、多感な時期の少年が集まって寮生活を送るのだ。ナマエがなんらかのトラブルに巻き込まれる可能性は大いにある。そもそも、彼女の場合は存在そのものが火種のようなものだろう。
 ナマエは同級生となる少年たちよりも二歳も幼く、身体は未熟で華奢な上に、他人と接することにも慣れていない。独善かつ不遜、加えてプライドも高い生徒ばかりが選ばれるこの学園において、見た目の弱々しさは致命的な弱点となる。彼女は、性別以外の、そういったハンディキャップまでも背負わなければならないのだ。

「寮長であれば、寮生の面倒を見るのは当たり前のことです。私が関わるより、そちらのほうがより自然に見えるでしょうし」
「自然……ですか」
「他の生徒に、私とミョウジくんの関係を怪しまれてはおしまいです。私たちの関係は“学園長と生徒”以上になってはならないのですよ」
「学園長がわたしを気にかけすぎては他の方々が不審に思うかもしれない、ということですね?」
「その通り。話が早くて助かります」

 ナイトレイブンカレッジには、他人の弱みを握りたがる性悪が掃いて捨てるほどにいる。学園長であるクロウリーが一介の生徒に過ぎないナマエを特別扱いすれば、関係性を詮索され、干渉されるかもしれない。生まれを公言できないナマエにとって、それはかなりの痛手となるだろう。
 かと言って、一国の王子かつサバナクロー寮の寮長を務めているような目立つ人物の庇護下に入ったとしても、やはり詮索は免れない気もするが。

「殿下には、わたしの身元もおっしゃいますか?」
「ミョウジくんの判断にお任せします。いかがしますか? 私は言わないほうがいいと思いますけどねぇ」

 ナマエとて、レオナを完全に信用しているわけではない。レオナが秘密を言いふらすような男だとは思いたくないが、信じる信じない以前に、ナマエは彼と会ったこともないのだ。そんな相手に、こちらの手札すべてを見せるのはどう考えても悪手だろう。
 さらに、ナマエは国を追われた姫でもある。無闇な情報開示はナマエの命を危険に晒すだけでなく、彼女に関わった人々の人生までも破滅させてしまうかもしれない。誰かを巻き込めば、必ず誰かを傷つけ、悲しませてしまう。ここは、死んでも生き返るような、好きなようにやり直せるゲームの世界ではないのだ。もっと鮮明で、もっと残酷で、もっと痛みがあって、昨日まで生きていた人々が簡単に死んでいく世界だ。
 ナマエの選択一つ、言葉一つで、誰かが死ぬかもしれない。見知らぬ誰かの家族を、恋人を、友人を、恩師を、ナマエが奪ってしまうかもしれない。それは恐ろしいことだ。許されないことだ。
 大切な人がいなくなった世界には幸福も希望もない。知っている。理解している。わかっている。だから、国を奪われたときと同程度、もしくはそれ以上の血が流れるであろう戦いに、誰も巻き込みたくなかった。

「言いません。言ったら、わたしも、彼も、危険な目に遭うかもしれませんから」

 この復讐はナマエのためにある。ナマエが生きるためにある。
 本懐を遂げるまでは、家族の仇を討つまでは、死ねない。死にたくない。その思いだけが彼女を生きながらえさせ、生命を維持するための活動を淡々と続けさせた。


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