獅子雷王伝 09


 灰色の薄い雲が夜空に広がっている。月明かりが一際強い今宵は星々の輝きが弱く、全体的に暗い。
 ナイトレイブンカレッジの入学式当日だというのに、陰鬱な表情を浮かべている少年は大きな扉の前で立ち竦み、室内の窓から見える夜空を見上げていた。やがて、立派な椅子に腰掛けている人物に「こちらに来なさい」と手招きされて、少年――ナマエは危なげな足取りで歩み寄った。

「まずは、入学おめでとうございます。ミョウジくんが無事にこの日を迎えられたことを、私は嬉しく思いますよ」
「……ありがとうございます」
「ミョウジくんに与えられたモラトリアムは四年間です。『たかが四年』と思うかもしれませんが、限られたこの時間を有意義に活用するか、無意義に浪費するかは君次第だということをお忘れなきよう」

 クロウリーが大目に見てくれるのは入学から卒業までの四年間であり、ナイトレイブンカレッジを卒業したその瞬間からナマエはこの学園とは無関係の誰か(、、)にならなければならない。そもそも、彼はナマエの親族でも後見人でもなく、ほんの二ヶ月前までは面識もなかった赤の他人だ。本当はナマエが死のうが生きようがどうでもいいはずで、「厄介事を背負い込んだ」とでも思っているだろう。言うまでもなく、ナマエ・ミョウジは招かれざる客であり、学園の秩序を乱す厄介者でしかないのだ。
 薄明の帝国の情報は依然として入ってきていないが、司祭派が次に狙うのは帝国最後の皇族(仕留め損なった生き残り)に違いない。皇帝の血筋を根絶やしにするまで、彼らは際限なく、地の果てまでナマエを探し続ける。彼女の父親と契約を結んでさえいなければ、クロウリーは、国を追われ、おまけに命まで狙われている姫君を匿うなどという危険で馬鹿げた真似はしなかったはずだ。

「このご恩は、いつか」

 お返しします、と言いきる前にナマエは唇を閉ざした。恩を返す前に無様に死ぬかもしれないのに、不確定なことを口走るのは気が引けたのだ。

「……」

 声が出ない。クロウリーに見つめられている。グレート・セブンの肖像画に一挙一動を観察されている。いずれも、悪意を含んでいるように思えて居心地が悪い。他者との触れ合いに慣れておらず、自分が場違いな存在であるということを自覚しているナマエにはこの沈黙がつらかった。

「おや」

 不意に、クロウリーが生白い首をかすかに動かした。先ほどの沈黙を苦としていない様子の彼の視線の先には、細やかな装飾が施された扉がある。

「キングスカラーくんが来たようです」

 直後、大きいとも小さいとも言えないノック音が学園長室に響いた。



 レオナ・キングスカラーを一言で言い表すならば、“美しい”だ。秩序も、整然も、慌てふためいて逃げ出すほどの美貌を持ちながら悪感情を惜しみなく曝け出し、その美しさが崩れてしまうのも厭わない。神様が一からつくった。神様に愛されて生まれてきた。そう形容したくなったのは、ナマエが無知だからではない。他に、相応しい表現を見つけられなかったのだ。
 そして、彼は恐ろしい人でもある。皮肉っぽく笑ったときに見える鋭い牙も、左目を縦断する傷跡も、かわいげのない低い声も、威圧的なくらい大きな身体も、全部、恐ろしい。初対面のときだって、レオナはニコリともしなかった。立場を考えれば邪険にされて当然だったとナマエ自身も思うものの、それにしたって恐ろしかった。
 声をかけて次に出てくるのは舌打ちか、「あ゙?」という不機嫌な声で、しつこく引き止めようものなら肉食獣らしい唸り声を出す。けれど、レオナを苦手だと思ったことはなかった。確かに怖い。恐ろしい。でも、彼はナマエの歩く速さに合わせてくれる。ナマエが泣きそうになると耳と尻尾が力なく萎れて、それとなく見逃してくれる。夕焼けの草原に根付いている文化や風習、習慣がレオナにそうさせているのであってナマエだけが特別なわけではない。それを理解していても、自分の本当の性別を知っている人間が身近にいて、僅かでも心を砕いてくれるだけで心持ちは軽くなり楽になった。
 出会ってから数ヶ月経ったといえど随分と態度を軟化させたレオナのことを思い、ナマエの唇から笑みが漏れる。すると一人ぶんの笑い声が妙に大きく響き、自分で笑ったくせに驚いてしまう。誰にも見られていないとわかっていても、周囲を確認せずにはいられなかった。
 朝方まで降り続けていた雪は溶けてしまったらしく、この教室からよく見える運動場に雪は積もっていない。生命の躍動を感じられない雪景が夕焼けに染められる様は自身の吐き出す白い吐息が鬱陶しく思えるほどに美しいが、残念なことに雪の季節は終わりを迎えようとしているようだ。いきなり始まったナマエの学園生活は怒涛のごとく過ぎ去り、気がつけば秋が終わり、冬が始まり、次は春が訪れようとしている。

「夕焼けの草原のほうが綺麗だ」

 ウィンターホリデー中、レオナは言った。雪が積もった足跡一つない運動場を見つめ、故郷をその唇で褒め讃えたわりには抑揚も感動もない声で言ったのだ。自慢げでもなく、悔しげでもなく、ナマエに綺麗と称された光景を不必要に貶すでもなく、客観的な事実を述べるような、静かな声で。
 まっさらな白銀が燃える太陽に侵食され、赤く染められる。前人未到の大地のように、銀河に浮かぶ四番目の惑星のように、神秘的でありながら寂しげにも見えるこの場所の光景は、夕焼けの草原のそれにも似ているのだろう。
 鋭く輝くレオナのエメラルドの瞳には、やわらかい何かが流れていた。それはナマエが初めて目にする穏やかさであったかもしれないし、痛みであったかもしれないし、他への無償の愛であったかもしれない。ナマエは世界やレオナのことをあまりにも知らないが、彼の両目に居座る感情に胸が締めつけられ、その瞳の美しさに魅了された。

「ラズと申します。ラストネームはありません」

 学園長室でレオナと出会ったあの日、特別な理由があって「ラズ」と名乗ったわけではなかった。生前の両親と兄が、この両目を「ラピスラズリのようだ」と褒めてくれたからそれを選んだだけだ。鉱石のラピスラズリから取って、ラズ。なんて安直な偽名だろう。
 この名前を名乗ることもこの名前で呼ばれることにも慣れたが、輪郭の失せた、漠然とした恐怖は息を殺して彼女の隣に横たわっている。本当の名前が思い出せなくなるような、世界から“わたし”という個が少しずつ消えていくような、自分が自分ではなくなっていくような、そんな恐怖が。
 ラズ。
 ナイトレイブンカレッジに通う劣等生。ラストネームもない哀れな孤児。特別でもない普通の男の子。偽りのその肩書きに、自分自身すら惑わされて、いつの日か本物(、、)のほうが飲み込まれるのではないかと思う。
 ノートの表紙に書いた名を目でなぞり、そんな暇潰しにも飽きてノートを開く。罫線を無視して描いた実験器具のイラストは線が歪み、教師の言葉を聞き逃さないように急いで描いたと一目でわかった。
 教科書を開けば、ページをめくれば、知らない単語が必ず出てくる。その単語の意味を調べて、理解して、覚えて、次に進んでも、知らない単語にまた出会う。何度同じことを繰り返したらわかるようになるだろう。何度辞書をめくったら躓かずに教科書を読めるだろう?
 力を入れすぎたせいでペン先から少量のインクが滲み、書き殴った文字が並ぶノートに小さな穴が空いた。まだ、今日のうちに終わらせなければならない復習が残っている。大事なノートを駄目にするわけにはいかないのに。

「あっ」

 慌てて動かした腕に当たったペンケースが中身をぶちまけながら落下して、消しゴムやカラーペンが転がった。椅子から離れてその場にしゃがむと足元に置いている鞄の隙間から今日返却されたテストの答案用紙が見えて、何も成し遂げられない現実に無力感が一気に押し寄せた。
 アベレージ70点のテストで、ナマエが取ったのは33点。当然ながらクラス最下位である。教師に「努力が足りない」と苦言を呈され、クラスメイトに「すげーバカ」と揶揄され、彼らとの距離を測りかねているナマエは言い返すこともできず曖昧に笑い、見たくもない答案用紙を鞄に押し込んだ。テストを受けたときから“いい点”なんて諦めていたけれど、いざ実際にその点数を見ると気が滅入る。インプットとアウトプットの不足、短期間では決して埋められない二年の差――それらを数字で可視化してしまうテストが、ナマエは常に憂鬱だった。
 まるで、出口のない迷宮に迷い込んでいるようだ。ゴールをめざして彷徨い歩いてもただ同じ場所を行ったり来たりして、精神と肉体が疲弊していき、ある日突然「どうしてこんなことをしているんだろう」と泣きたくなる。ナマエは、勉強しないと、国のために何かをしないと、安心できないようになっていた。焦燥や、自分自身への失望が人の手の形をして己の心臓を掴んでいる気がして胸が苦しくなり、眠ろうとしても目も冴えるような強迫観念に駆られて真夜中に起きてしまう。ナマエが穏やかに眠ることを許さず、心のままに笑うことも許してくれない不安は日に日に肥大化していき、彼女の寝不足に拍車をかけていく。
 傾いた太陽が教室を赤く染めている。目にかかった前髪は著しく傷み、燃えるような夕日が透けていしまいそうだった。

「ラズ? まだ帰ってなかったのか?」

 意識の連続性がふと途切れる。己を心配するトレイの声によって我に返ったナマエは何事もなかったかのように立ち上がり、トレイくん、と笑った。

「復習が終わらなくて」
「復習? ラズは本当に真面目だな」
「トレイくんもでしょう」

 トレイは、得手不得手関係なしに復習する真面目さがある。俺は普通だよ、と常々口にしながらもほとんどのテストで90点以上をマークしている彼が並の人間よりも優秀であることは明らかだが、その成績が地道な努力によってもたらされていることもまた明らかな事実だった。

「そういえば、キングスカラー先輩がお前のこと探してるっぽいぞ」
「どうして?」
「俺に聞かれてもなあ。あの人も『探してねぇよ』とは言ってたが……理由もなく一年のところに来る人じゃないだろ?」
「探しているのは僕じゃ――あ」
「どうした?」
「十七時までに帰ってこいって言ってた……」

 トレイが教室の前方に掛けられている丸時計を見やり、あちゃあ、と言いたげに苦笑した。時刻は十七時半過ぎを指し示していた。

「約束でもしてたのか?」
「ううん、何も。じゃあトレイくん、また明日」
「ああ。……って待て。ペン忘れてるぞ」

 会話を続けながらも荷物を素早く鞄に押し込み、立ち去ろうとしたナマエの二の腕をトレイが掴んだ。友人同士なのだからこのくらいの接触に驚くナマエではないが、トレイの手のひらは彼の身長相応に大きく、二の腕全体を包み込む温もりにはまだ慣れそうにない。

「ごめんなさい、ありがとう」
「……見た目のわりに柔らかいよな」

 運動着のときは筋肉質に見えるのに、と続けたトレイはナマエの腕から手を離した。彼の表情は訝しげではなくただ不思議そうで、悪意があるようには見えない。太っていると遠回しに言いたいのだろうか。いや、相手が友人であっても礼儀を弁えるトレイに限ってそれはないだろう。執拗に追及したり無意味に憤慨したりすることでもないので受け取ったペンをカバンに放り込むと、頭に何かが乗っかって重くなった。

「この俺を待たせておいて無駄話とはいいご身分だなァ? そこの眼鏡も、俺が近くにいるとわかってて話を続ける根性だけは買ってやるぜ?」
「いや、わざとじゃなかったんですが……」
「わざとだったら噛み殺してるところだ」

 不機嫌な声がいつもより近い。身体を強ばらせたナマエの顔色はみるみる真っ青になり、一瞬縮み上がった心臓がドッと悲鳴を上げる。

「俺が、キングスカラー先輩に歯向かうはずがないですよ」

 へりくだりながらも泰然自若としているトレイはさすがとしか言いようがないが、頭を肘置きにされているナマエの膝は天敵に食われる前の仔鹿のように震えている。

「言いつけも守れねぇのか、テメェは」
「も、もうし」
「あァ、もういい。テメェの謝罪なんざいるか。さっさと来い」

 申し訳ありませんと謝るのも許されず、レオナに引きずられるようにして教室をあとにしたナマエは彼の機嫌を損ねたくない一心で必死に足を動かした。レオナの歩くスピードは廊下の突き当たりを曲がった途端に緩やかになり、ナマエの首根っこを掴んでいた手もあっさりと彼女を解放した。手を離す間際に、少し皺が寄ってしまった襟まで正してくれたレオナからはさっきまでの怒気は感じられず、ナマエのほうが戸惑ってしまう。
 いつものように歩幅を小さくして、気怠そうに歩くレオナは無言を貫いている。苛立たしそうに素早く揺れる細長い尻尾だけが「話しかけるな」と静かに語りかけてくる。と、いうことは黙っておいたほうがいいのだろう。ナマエの選択は案の定間違っていなかったらしく、東校舎の鏡舎に辿り着く頃には彼の尻尾も落ち着いていた。

「気をつけろ」

 鏡からサバナクロー寮に入り、自室にナマエを入れたレオナは睨みつけるような真剣な眼差しで告げた。

「気をつけろ……?」
「あの眼鏡、めんどくせぇほど鋭いぞ」
「トレイくんのことですか?」
「そうだ。お前と仲良しこよしなトレイくんのことだ」

 言い方が刺々しいのは、ナマエがレオナの言いつけをすっかり忘れていたからだろう。やはり、根に持っているらしい。

「気づいてねぇようだから言っておく。お前の見た目は誤魔化せても、触られれば終わりだ」
「……」
「柔らかさが女なんだよ。匂いも男臭くない」

 レオナの指がナマエの髪を梳いた。頭を肘置きにされたときに乱れていたらしい。

「お前はあいつに触られても平気かもしれねぇが、もう少し警戒しろ。あいつだけじゃねぇ。男に気を許すな。不用意に触らせるな。二人きりになるな」
「どうしてですか?」
「……どうしてだと? 本気で言ってんのか? 箱入りのお嬢ちゃんは、女を襲う野郎がいることも知らねぇのか?」
「襲う?」

 レオナは両目を見開いて、お前、本気か、と独り言でも呟くように言った。今一つ理解できていないナマエは彼を見上げる。

「僕の性別は隠し通すつもりです。でも、万が一ここの生徒に知られてしまったら、僕は暴力を振るわれるんですか? 今でさえ叩かれたりしてるのに?」
「……どうやって生きてきたら、こんなにおめでたくなれるんだ?」

 普通、俺が言いてぇことくらいわかるだろ。
 レオナの声には困惑が入り交じっている。そう言われても、物心つく前から塔で過ごしてきたナマエは何も知らない。人間の欲深さからは程遠い場所で、家族に守られながら生きてきたのだ。

「わからねぇなら、教えてやる」
「っひ!?」

 ナマエの唇から短い悲鳴が飛び出た。思いがけない行動だったがために、レオナに組み敷かれた瞬間は頭が真っ白になった。彼の長い髪がナマエの頬に落ち、白い皮膚の表面をくすぐる。顔の横に置かれた大きな手のひらがマットレスに沈み、その手とシーツが擦れ合う音がナマエの鼓膜に直接流れ込んだ。

「寮長、」
「俺らは男で、お前は女だ。ましてここは魔法士養成学校で、お前よりも魔法を扱える奴らはいくらでもいる。発情期の猿の前で油断してみろ。弱みを握られてみろ。都合がいいように利用されるだけだ」
「……利用される?」
「好きでもねぇ男に抱かれたくなけりゃ、簡単に男を信用するなってことだ」

 いよいよ、ナマエの混乱は最高潮に達した。男女の身体の構造や妊娠の仕組みは知っているが、レオナが何を伝えようとしているのか少しもわからなかったのだ。だって、母から聞いていた話と何もかも違う。生前の母は「好きな人にだけ肌を見せなさい」と言っていたのに、レオナの主張はまるで真逆ではないか。

「想いが通じ合った人としか、肌を重ねてはならないのでしょう? お母様はそうおっしゃっていました。こちらの方々は大切でない人とでも触れ合うと?」
「……。……」
「夕焼けの草原の方々は、好きでなくても愛し合えるんですね」
「……俺が言いてぇのはそういうことじゃねぇよ。お前の意思とは関係なく、無理やり犯されるかもしれねぇってことで――ああ、クソ。もういい。めんどくせぇ。とにかく男には警戒しろ。それだけは守れ」

 とんだ箱入りだな、と最後に悪態づいたレオナはナマエの上から退き、盛大に舌打ちした。


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