獅子雷王伝 07


「キングスカラーくんと同じ寮がいい? 正気ですか? サバナクロー寮は獣人属の生徒が多いだけに喧嘩も絶えません。君が生活するには危なすぎます」
「お願いいたします。殿下と同じ寮に入れてください」
「そう言われましても……」
「どうか、お願いいたします」

 ナマエは決して折れなかった。学園長としてナイトレイブンカレッジを管理してきたクロウリーが「危ない」と真剣に言うくらいだ、冗談抜きで短気な寮生が多いのだろう。もちろんナマエ自身にも不安や恐怖はある。しかし、レオナ・キングスカラー(夕焼けの草原の第二王子)との繋がりは他の何にも代え難かった。
 あの国ほど、薄明の帝国の手本になる国はない。土地の特性上、ヒトよりも獣人属が多く住まう夕焼けの草原は他のどの国々よりも革命やクーデターを経験してきたにも関わらず、幾多の暗黒期を乗り越え、幾多の混乱を克服し、大国にまでのし上がった。一時は不可能とも言われた“ヒトと獣人の共生”を成し遂げ、世界トップクラスの軍事力を持つに至った彼らはまさに、“皇帝派と司祭派の共生”を志した父の理想でもあったのだ。だから、ナマエは夕焼けの草原に対して友愛の情を持たずにはいられない。同盟国だからという理由だけで、顔も名前も知らないであろう薄明の民のために多くの支援を施してくれた夕焼けの草原を、あの地に生きる国民を、愛さずにはいられない。

「キングスカラーくんに、君のお手伝いをさせるおつもりで?」

 クロウリーが問う。ナマエは彼を見据え、答えた。

「いいえ。わたしは、わたしの復讐に誰も巻き込みたくありません」

 この自己満足に殉ずるのは自分自身だけで十分だ。第二王子、ひいては夕焼けの草原の王室に、分を弁えずにあれこれと頼るつもりは更々ない。ただ、ナマエは知識が欲しかった。一国の統治という大仕事をその目で見てきたであろうレオナの、知識と経験を利用したかった。
「ならば、こうしましょう」ナマエは一歩も譲らないと悟ったのか、クロウリーは焦燥の混じる声で言った。

「闇の鏡に寮を決めてもらうのです。そうすれば、公正です」
「……闇の鏡、ですか?」
「通常、寮の選別は鏡が行っています。それでもやはり、どうしてもサバナクローがいいとおっしゃるなら、選別後に転寮することも可能です。いかがですか? 悪い話ではないでしょう?」

 クロウリーの言う通り、悪い話ではない。試してみて、結果が気に入らないのであれば寮を変えてもらえばいいだけのことだ。クロウリーにも何かしらの思惑があるのかもしれないが、両者ともに引かないとなれば公平な立場の第三者に委ねるしかない。ナマエはあまり迷うこともなく彼の提案を飲み、その日は、倒れ込むように眠りについた。
 疲れ果てていたのだろう。三日三晩の高熱にうなされ、再び目覚めたときにはナマエは細長いチューブに繋がれていた。今度は、ソファではなくベッドに寝かされているらしい。天井のある一点を見つめていた目を動かし、右と左を確認する。壁でもカーテンでもない黒い何かが、ナマエの横たわるベッドを取り囲んでいる。不思議と恐ろしさは感じず、触るために指を動かすと前腕部の皮膚が引き攣り、微塵も予想していなかったその感覚に驚いた。指のみならず全身を静止させ、視線だけを怖々と動かし違和感の正体を探る。医療用のテープが貼られている右腕から、薄黄色のチューブが伸びている。チューブを辿れば透明な液体が半分ほど入った容器が目に入り、身に危険を及ぼすものではないと理解したナマエは全身から力を抜いた。点滴なら、幼い頃に塔で打ったことがあった。
 条件反射のように、思考する前に勝手に流れ出た涙が肌を伝い、耳の中に入る。身体は倦怠感に包まれ、先ほどから吐き気と頭痛が治まらない。やがて、泣きすぎて泣けなくなり、何かにぶつかって立ち止まるかのように涙はぱたりと流れなくなった。重たく感じるまぶたを下ろし、自ら現実から逃れると瞳に溜まっていた最後の一滴がこぼれ、耳や髪をまた濡らした。
 今は何時だろう。
 目覚めてから三十分は経ったかもしれない。何もかもを遮断されている狭い空間は時間の流れすら掴めず、今が朝なのか夜なのかもわからなかった。

「ミョウジくん、起きましたか」

 上か、横か、はたまた下かもしれない。どこからか男性の声がした。誰だろう、としばらく考え、「ミョウジくん?」と訝しげに呼ばれたあたりでナマエはクロウリーとのやり取りを思い出した。

「……クロウリーさん」
「『学園長』で結構ですよ。皆さんそう呼ばれるので。開けてもよろしいですか?」

「はい」答えると、ベッドと外界を仕切っていた幕のようなものは一気に消失し、外の明るさに目が眩んだ。クロウリーが魔法をかけていたのだろう。窓から差し込む白い光を浴びる彼はナマエを見下ろし、「こんにちは」と笑った。

「少しは回復したようで何より。万全でない君に言うのもどうかと思ったのですが、念のため今後のことをお伝えしようと思いまして」

 首や顔を動かすのも億劫だった。無礼を承知で目だけを動かしたナマエはクロウリーの唇の動きを眺め、続く言葉を待った。

「我が校は毎年九月に入学式があります。ですので、今から二ヶ月後ですね。今の時期は生徒候補の少年たちのもとに入学案内が届いている頃ですが――そのほとんどが、ミドルスクールで然るべき教育を受けた少年たちです」

 私が言いたいことはわかりますね? クロウリーは右手に持っていた杖の先端を床に下ろすと、教育者らしい厳かな口調で宣った。

「君は、十六歳の少年たちと同程度の知識と知能を身につけなければならないということです。学生の出自や人種を問わないナイトレイブンカレッジは入学時点での学力差については口出しいたしませんが、努力をしない者には何も施しません」

 見えもしない彼の双眸に心臓を射抜かれたような心地がした。肋骨の奥で、心臓が鳴っている。烏の、すべてを見透かすがごときあの瞳を見ているような気分になって、ナマエはクロウリーを見上げたまま、瞬きもできないまま、唇を引き結んだ。由緒正しい血筋の姫君と言えど、十四年余りの年月を塔で過ごしてきたナマエは専門的な知識を持つ人物から何かを学んだことはなく、どのあたりまで学習が進んでいるのか、どのくらいの知識を習得できているのか、彼女自身にも見当がつかない。教師役として塔を訪れていた兄は様々な学問を丁寧に教えてくれたが、それはあくまでナマエの年齢を基準にした学習だっただろう。

「……二ヶ月で追いつけるでしょうか」
「ええ、ええ。君ならばそう言うと思っていました!」

 クロウリーは待っていましたと言わんばかりに指を鳴らし、右手の手のひらを天井側に向けた。魔力の粒子が散り、空中に溶けるようにして消えていく。それらの光がすっかり消えてしまう前に現れた数冊のノートは緩やかに下降し、クロウリーの手のひらに行儀よく乗った。

「それは……?」
「各科目の先生方が作った手作りの参考書です。事情があって教育を受けられなかった生徒のために、有志を募って作ったそうですよ。いやあ、すべての科目が揃うとは……学園長として誇らしい限りです」

 他人事のように話し、誇らしげに胸を張ったクロウリーはナマエの枕元にノートを置いた。

「稀に、先生方への嫌がらせで破壊しようとする困った生徒がいましてね。こちらのノートには強い保護魔法がかけられています」

 魔法を使っても使わなくても、このノートを破いたり濡らしたり、燃やしたりすることはほとんど不可能らしい。有益な情報だが、魔法を暴発させ窓ガラスを割ったナマエとしては耳の痛い話だ。「とはいえ窓ほどの耐久性はありません。取り扱いには十分注意してください」と念押しされ、ナマエは決まり悪く思いながらも頷いた。

「手狭で申し訳ないですが、入学式まではこの部屋で過ごしてください」
「わかりました」
「元は宿直室として使っていたので一通りの設備は揃っているかと。あとはそうですね……定期的に伺うようにしますから、困ったことがあればそのとき言うように」

 ああ、あと。
 今しがた思い出したと言うように、クロウリーが人差し指を上に向けた。

「養護の先生が診察に来ます。彼に怪しまれたら少々厄介ですので、認識阻害魔法をもう一度かけます。君は腕だけをベッドの外に出して、言葉を発さず、彼の声や魔法に反応せず、寝ているふりをしていてください」
「寝たふり、ですね」

 ナマエが頷くやいなや、ノックの音が部屋に響いた。クロウリーの、彼自身の喜怒哀楽を反映させるらしい仮面の目がこちらを見やる。指示通りにやれ、ということだろう。チューブに繋がれている右腕をベッド上からそろそろと出せば、ベッドの周囲は再び黒い幕のようなものに覆われ、目覚めたときと同様に暗くなった。
「どうぞ、お入りください」クロウリーがわざとらしいくらいに潜めた声で入室を促すと、扉が開かれる控えめな音がナマエにも聞こえた。

「お疲れ様です。彼、目覚めました?」
「薬が効いているようで、この通り」
「もっと詳しく診せてくれてもいいんじゃないですか? あなたが秘密主義なのは今に始まったことじゃあないですが、この子は俺の患者でもあります。多少、知る権利があるのでは?」
「おや、珍しく医師らしい発言ですね」
「はあ……。ま〜たそうやって話を逸らす。まあいいです。容態が安定しているなら深入りしません。というか、深入りしたくないでしょ、こんなの」

 養護教諭は、若い男のようだ。声色や口調の節々にクロウリーにはない若々しさを感じられる。「じゃあ診察始めますよ」「お願いします」男の冷たい指がナマエの手首に触れ、危うく動かしそうになった。触れている部分に流れる魔力がナマエの魔力に混ざったらしい。上腕部にまで広がった、心地がいいとは言えない奇妙な感覚に思わず腕を凝視すれば、蝶の鱗粉のように細かい光の粒が皮膚の下に潜り込んでいた。

「熱は落ち着いていますし心音にも異常はありません。でも栄養がちょっと足りてないかな。目が覚めたら胃に何か入れたほうが……いや、しばらくはスープにしときましょう。そうだ、クルーウェル先生特製の栄養剤でも飲ませます? 死ぬほど不味いけど効きますよ」
「ああ、あれ……。悪魔の飲み物と言われた噂の……」
「作った本人が悪魔みたいなもんなので言い得て妙ですね」
「君はまたそんなことを言って……怒られても知りませんよ」

「クルーウェル先生にはナイショで」軽快にお喋りを続けている男はナマエの腕のテープを剥がした。

「そろそろ抜去しましょうか。起きてるなら点滴は必要ないでしょう。経口の薬で事足りますし」
「やはり気づいていましたか」
「魔力の抵抗があったので。彼に固形物は食べさせないでください。……君も、いいね? 三日も寝込んでたんだ。無理はしないこと。オーケー?」

 処置してくれた相手を無視するのは躊躇われ、ナマエは返事の代わりに指だけを動かした。男はそれに気分を害したわけでもないらしく、軽い調子で笑ってあっさりと退室した。
 ややあって認識阻害魔法がとかれ、白い光がナマエの顔に差す。

「食事はあとでお持ちしますね。ずっと部屋にいては気が滅入るでしょうし、気分転換は必要でしょうから、夜になれば――そうですね、案内役のゴーストが迎えに来たらこの部屋から出ていただいて結構です」
「ゴースト?」
「我が校のように魔力が強い場所ではゴーストが見えるようになるんですよ」

 実際に会ってみればわかるかと。
 それだけを告げ、クロウリーはナマエのいる部屋をあとにした。人が一人、いなくなっただけでこんなにも心細い。唐突に、この世界のどこにも存在し得ない端っこに置いてけぼりにされた気分になり、彼女は膝を抱えそのあいだに顔を埋めた。孤独に、音や、匂いや、手触りがあったなら、この寂しさも少しは紛れるだろうか。
 太陽が沈み、狭い部屋は斜陽に赤く染められている。ナマエは、塔のあの四角い窓から夜明けばかり見ていた。ゆえに夕日の眩しさも、力強さも、美しさも知らない。窓ガラスが溶かされてしまうのではないかと不安になった彼女は今に燃え尽きそうな太陽のほうへと手を伸ばし、窓に触れた。溶けるわけがない。わかっている。それでも、手を伸ばさずにはいられなかった。
 ナマエの乾いた唇から子守唄がこぼれる。薄明の帝国で広く愛されているそれではない。ずっと昔、どこかで聞いた異国の子守唄だった。


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