獅子雷王伝 06


 鮮明で支離滅裂な夢を見ているようだった。指先に鋭い痛みを感じて目覚める。右手が柔らかい布に当たるだけで激痛が走り、飛び起きると涙が落ちた。その涙が痛みによるものか、悲しみや恐怖によるものか、夢から覚めた今ではわからない。
 身体が熱く、重い。胸の前へ動かした両手は白いガーゼに覆われ、さらにその上からテープで固定されているせいで指の関節を曲げられない。出血は止まっているらしい。熱を伴うじくじくとした痛みに唇を噛み、状況を把握しようと周囲を見渡した。広い部屋にいるようだ。頼りになるのは窓から差し込む月明かりのみで、視認できる範囲が限られる。ローテーブルに置かれた花瓶、それから透明なグラスと水差ししかわからない。
 自身が横たわっていたベッドらしきものに手のひらを置き、慎重に足を下ろす。足裏が硬い床に接触した瞬間、その冷たさに驚き爪先が跳ねた。ここに来るまで履いていた靴はどこにもなく、暗色のタイルに置いた素足が次第に冷えていく。身体に負担がかからないよう緩慢に立ち上がると膝が震え、努力虚しく腰が抜けた。垂れ下がる腕と力を失った脚は、糸を切られたマリオネットの四肢のようだ。未だに夢の世界に浸っているのか、もしくは現実世界から目を逸らしているのか、全身の反応は鈍い。月に照らされるか細いふくらはぎは筋肉の付きが悪く、死人のように白い。青白い肌の質感は生命力を感じさせず、無機的な蝋のようにも見える。覚束無い足取りながらもなんとか立ち上がり、ぐらつく足を前へ前へ動かした。窓辺から見える景色に見覚えはない。ここは帝国から途方もなく離れた場所なのだろう、この城の建築様式や、夜空に瞬く星の見え方は薄明のものとはまったく違う。崖の上に建てられているらしい城の遥か下方には平坦な土地が広がり、大小の建物がぽつぽつと点在している。暗闇と距離のせいでそれらの細部までは観察できないが、おおよその外形だけはわかった。
 どこだろう。わたしはどこにいるのだろう。自問したあとになって、眠りにつく前の、この学園に辿り着く前の記憶が細切れの映像となって脳裏によぎった。不吉な黒煙、ランプの明かり、くるぶしを撫でる冷気、目の前で割れた鏡の破片。心臓が凍りつくような痛みを感じ、空洞になった心の内側を虚しさと悲しさが埋め尽くす。
 ――この鏡はナイトレイブンカレッジに繋がる。
 ――避難先としては上々だ。
 そうだ。ここは、ナイトレイブンカレッジだ。兄があの鏡を壊したあと、否応なしに闇が明け、ナマエは見知らぬ場所にいた。薄暗い、この部屋とは違う不気味な部屋だ。天井に届きそうなほど大きな窓が壁一面に並び、その中央では強力な魔力を帯びた鏡が浮いていた。茫然自失。そんな言葉がお似合いの少女を、鏡の中にいる奇妙な仮面は見下ろしていた。どのくらいあの部屋にいたのか、どうやってこの部屋にまで来たのか、ナマエは覚えていない。治療された指を見れば、誰かが彼女を運び、治療を施したと考えたほうがより自然だ。しかしその人物に心当たりはなかった。ここが本当にあの(、、)ナイトレイブンカレッジならば、その誰かは学園関係者だろう。

「だれか……」

 誰でもいいから、誰かに国のことを聞きたかった。顎から滴る涙もそのままに足を踏み出し、手探りで扉を探す。するとガーゼで覆われた指先に壁の感触が伝わって、そこから広がる痛みが朦朧とする意識を無理やり呼び覚ました。ひどい、悶えたくなる痛みだった。
 このまま死ぬかもしれない。いや、今死ねるなら本望だ。
 耐え難い息苦しさで咳き込み、壁に頭や肩を預けながら考える。死にたいわけじゃない。死ぬのが怖いと思わないわけじゃない。ただ生きていたくなかった。窓の外で風が心底楽しげに唸っている。手を伸ばすと、なぜかそこに窓ガラスはなくて外へ外へ引っ張られるような引力を感じた。

「いけませんよ、お嬢さん」

 黒い手が、外気に晒されていたナマエの右手首を掴んだ。革手袋の爪先についた鉤爪は鋭く、月下で爛々ときらめいている。優しげな声と丁寧な口調のわりに、随分と凶暴そうな指先だと思った。白いガーゼから滲み始めた血液を理由もなく見つめていた目を動かし、自身の手首を掴む人物を見上げる。男は、彼はナマエの予想より上背があった。

「どなた……?」
「ああ、これは大変な失礼を。私はナイトレイブンカレッジの学園長、ディア・クロウリーです。あなたは、」

 クロウリーは一息置いた。

「あなたは、薄明の帝国のナマエ・ミョウジ皇女で間違いありませんね?」
「……なぜ」
「私がなぜあなたの身分を知っているのか、そしてなぜ保護したのか、ということであれば、皇帝陛下とそういう契約(、、、、、、)を結んでいるから、と言わざるを得ません」
「契約……? お父様とお母様は……お兄様は……」

 その先は言葉にできず口ごもったナマエをクロウリーの仮面が見下ろす。烏のような嘴の下にある人間らしい口元は血色が悪く、生々しさや血の通いを感じさせない。精巧に作られたビスクドールよりも非人間的な雰囲気は未知の恐怖を駆り立て、血管すら透き通りそうな肌の下には赤い血ではなく青い血が流れていると言われたほうが納得できそうだった。

「皇女殿下のご家族の安否はわかりません。私は倒れているあなたを見つけ、ここに運んだだけですから」
「な、なら……生きているかもしれないと……?」
「ええ、有り得ます。しかし、可能性は限りなく低いでしょうね」

「……そんな」ナマエの顔に僅かに表れた喜色はすぐに消え、両目に新たな涙が浮かぶ。父がディア・クロウリーと契約を交わしたという話の真偽はわからないが、身一つでナイトレイブンカレッジにやって来たナマエはこの男を信じるしかない。クロウリーが悪人であれ善人であれ、祖国に帰れるのなら一縷の望みに賭けるしかないのだ。

「帰る、方法はありますか」
「もちろんありますとも。帰る帰らないはあなたが決めることです。帰りたいならば、どうぞご自由に。私は引き止めません」

 ですが、とクロウリーの唇が動く。血の気の引いたその唇は驚くほど艶やかだった。

「契約内容に則った結果としてあなたがこの学園に来たのなら、帝国は危機に瀕していると考えて間違いありません。……それでも、どうしても帰りたいですか?」
「……いつ、どんな契約をされたのですか」
「皇太子殿下がご誕生なさった直後でしたかねえ。あの頃は、世界的な大不況が続いていましたから。司祭派がそれに(かこつ)けていつ暴走してもおかしくない状況だったそうですよ」

 ナマエも、第一子となる兄イリヤが誕生したときの話は両親から聞いていた。当時、兄を身ごもっていた母は度重なる不安や緊張から何度も流産しかけたのだと。
 政権奪取を目論んでいる過激派たちは、相手が身重の妊婦だろうと、まだ生まれてすらいない赤ん坊だろうと、皇帝の血筋を途絶えさせるためならば手段を選ばない。表向きは神の代理人として皇子や皇女の誕生を祝福するが、肚の中には身の毛もよだつような魔物を飼っているのだ。人々の薄れつつある信仰心を呼び起こし、宗教の権威を高めるために、内政に介入できる機会を今か今かと窺い、隙さえあらばその魔物を解き放つ。
「次は契約内容についてですが」ナマエの腕からようやく手を離したクロウリーは両腕を組み、爪先で床を蹴った。

「有事の際にナイトレイブンカレッジの闇の鏡を開放し、皇子、ないし皇女に四年間の猶予期間を与える――言わば、この学園はあなたの最後の砦と言えるでしょう」
「わた、わ、わたし、は」
「ああ、はい。落ち着いて。話なら聞いて差し上げますので」
「わたしは、帰らないと……でも、でも……」
「素晴らしい愛国心ですね。いいえ、この場合は家族愛でしょうか。……そのお気持ちに水を差すようですが、皇女殿下?」

 年齢が出やすいと聞く首筋すらなめらかだった。クロウリーはナマエのほうへと白く長い首を伸ばすと、彼女の顔を覗き込んだ。黒いカーテンが夜風を孕み、ふくらみ、やがて翻る。その風が向かい合う彼らの髪を梳き、撫でていく。
 割れた窓ガラスを一瞥し、クロウリーが不思議そうに首を傾げた。

「自分自身の魔力もろくに制御できない少女に、一体何ができると言うのですか」
「……それ、は」
「この窓ガラスは要人警護や凶悪な犯罪者の護送に用いられる特殊な強化ガラスです。大抵の魔法では傷一つ付けられない。それを、あなたは瞬間的に壊したんですよ」

 なぜか、最初から窓ガラスがなかったのではない。ナマエが無意識のうちに魔力を暴走させ、魔法を放ってしまっていたのだ。

「あなたは確かに凄まじい魔力を持っています。これはその証左でしょう。ですが、豊かな魔力があっても知識と経験がなければ犬死にするだけです」
「ならばどうしろとおっしゃるのですか……!! わたしは、ただ守られて生きていくしかないのですか!?」
「そうは言っていないでしょう。あくまで事実を……おっと失礼。失言でした」

 ナマエがさらに泣いてしまうと思ったのか途端に静かになったクロウリーの手を、彼女は掴んだ。なだらかな形が際立つ幼い手は震え、その甲に水滴が落ちては滑っていく。ナマエが息を整えようとしても、呼吸する度に赤い唇から小さな小さな嗚咽が漏れて苦しい。泣きすぎて、自分自身の涙の匂いがわかるほどだった。
 十四年ものあいだ、外の世界を知らず、家族に守られているとも知らずに生きてきたナマエには司祭派と戦うだけの力も知識もない。クロウリーの言う通り、祖国に戻ったところであっという間に殺されるだろう。痛みもなく殺されるならばまだいいが、司祭派の中には皇家に積年の恨みを募らせた者もいる。そういった者たちに拷問され、苦しみ悶えながら無様に殺されるかもしれない。そう考えると、両親と兄に死以上の苦痛を与えたかもしれない彼らをより許せなくなった。ナマエの家族が殺される正当な理由があったのか。尊厳を奪われる正当な理由があったのか? 彼女には、わからない。

「……お兄様は、復讐や、祖国の再興は考えるなとおっしゃいました」

 心に空いた空洞を埋めてくれる何かをずっと探している。最後まで妹の幸せを祈った兄も、我が子のために避難先を用意した両親も、その空洞は愛情や幸福といった温かな希望で埋めてほしいと願うだろう。太陽を知らぬこの両手が永遠に血に染まらぬことを願うだろう。
 しかし皮肉にも、ナマエの心の空洞を埋め尽くしたのは怒りと憎悪だった。家族を愛する情のぶんだけ、いや、きっとそれ以上に司祭派が憎い。

「どうか、わたしに魔法を教えてください。もう誰にも、何も、奪われないくらい強くなれるように」

 瞳に浮かぶ涙すら凍りつきそうな冷たい眼光に、仄暗い熱が共存していた。神を拝む信者のように清廉でありながら少女らしい幼さはどこにもなく、恐ろしいほどの――父譲りの冷酷さがその表情に垣間見える。

「わたしはわたしのために復讐します」

 両親を殺し、兄を殺した者たちを地獄に落として神に裁かせたならば、ナマエもまた地獄へと落ちるのかもしれない。だがそれでもよかった。神に愛されなくなったとしても、悪魔に嘲られても、この手で復讐を遂げられるのなら。
 誰かの命を奪い、誰かの魂を傷つけていいのは殺される覚悟がある者だけだ。ナマエにはその覚悟がある。だからこれは正しい復讐だ。間違っていない。間違っているはずがない。
 父が守り母が慈しみ、兄が憂いた国を逆賊どもに易々とくれてやるつもりはない。慈悲も、慈愛も、欠片としてやるつもりはない。

「国も、民も、わたしが守りたいのです」
「……どうしても、そちらの道を選びますか?」
「はい」
「よろしい。ならば私はあなたに……いえ、君に、四年間のモラトリアムを与えましょう」

 微笑を湛えたクロウリーは胸元に右手を添えると、恭しく屈んだ。肩口の黒い羽は水に包まれているかのような艶を見せつけながら揺れ動き、腰元や帽子に飾られた鏡が月光により反射する。
「ようこそ。我がナイトレイブンカレッジへ」私は君を歓迎しますよ、ナマエ・ミョウジくん。その一言で、一国の皇女としてではなくただの生徒として迎え入れられたのだと理解した。

「ここほど学びに適した場所はありません。学び、知りなさい。君が生徒として在学しているあいだは、手を貸して差し上げましょう。……なんせ、私はとっても優しいので」

 その台詞を最後にクロウリーは顔を上げ、長身痩躯の肉体をすっと伸ばした。そして、ナマエを爪先から頭のてっぺんまで眺め、顎に指を当てて何やら考え始めたかと思えばううんと唸った。

「……やはり、男子生徒と言い張るには無理がありますね。我が校は男子校ですのでそのあたりも話し合いましょうか。魔導具で姿を変えられていたようなので、外見については問題ないかもしれませんが」
「魔導具? 姿?」
「君が握りしめていたんですよ。魔導具自体の魔力は少しも感じられませんが、君の魔力に反応して光るようです」

 クロウリーは自身のポケットから取り出したペンダントを彼女に差し出し、「価値があるものですよ」と言った。大ぶりの石がはめ込まれたペンダントはとてもじゃないが高価なものには見えない。

「なんのための道具かご存知で?」
「いいえ……皇家に伝わるアミュレットとしか」
「私が君を見つけたとき、君は少年の姿をしていました。どうやら、触れているあいだは認識を変化させる魔法が発動するようですね」

 クロウリー曰く、ナマエの手から魔導具が離れた瞬間に彼女は本来の姿になったらしい。代々受け継いできた秘宝が魔導具だと知らなかっただけに、ナマエは手のひらに収まるそれを奇妙なものを見るような目で観察した。

「それを作った魔法使いもまた、自分自身の姿を変えなければならないほど窮していたのかもしれません。それにしても素晴らしい魔導具ですね。視覚や聴覚にも影響するとは」
「わたしの姿、変わりましたか?」
「ええ。声も少し低くなりましたよ」

 クロウリーの言葉を受けて手や胸元を見下ろしたが、身体が変化しているようには見えなかった。成長段階にある胸のふくらみはそのままだし、声だって高いままだ。納得できずに眉を寄せるナマエを見兼ねたのか、「使用者には効果が発揮されないのかもしれませんね」と付け加えたクロウリーは指を鳴らし、暗い部屋の明かりをつけた。ナマエが寝ていたのはベッドではなくソファだったらしい。革張りの立派なソファに乗っているブランケットは皺が寄り、半分ほど床に落ちていた。

「どうぞ座ってください。君が入る寮について話し合わなければ」
「寮、ですか」
「希望はありますか? ポムフィオーレ寮やイグニハイド寮は比較的落ち着いた雰囲気の寮ですし、この二寮の現寮長は」
「ま、待ってください……。この学園は本当に男子校なのですか? あ、いや、不満があるのではなく……」

 不安だった。家族やごく小数の召使いとしか話したことがないナマエがいきなり集団生活を送るだなんて、それも年頃の少年たちとともにだなんて、うまくいく自信があるはずもない。確かに、復讐すると決めた。この学園で学び、知識を蓄え、力を手に入れると誓った。けれども、心が不安定な今の状況では前向きに考えられない。
 この学園に、一人でも頼りにできる人がいれば――、

「……レオ、ナ……」

 いるではないか。薄明の帝国と同盟を結んでいる国の王子が。
「何があっても、レオナ・キングスカラー殿下には関わるな。彼はあの学園にいる」兄はそう言った。かの王子は、聡明な兄が警戒したほどの傑出した頭脳を持っている。軍事に優れた強国の第二王子であり、兄をして「頭がいい」と言わしめた人物。彼なら、あの人なら、ナマエの力になってくれるかもしれない。
 その名を舌先で転がし、唇で紡ぐとなんだか懐かしく感じた。夕焼けの草原の歴史や王族について、事細かに教えてくれた兄との時間を思い出すからだろうか。

「はい? もう一度いいですか? ああそうだ、サバナクローは特に血の気が多いのでやめておいたほうが」
「レオナ……レオナ・キングスカラー殿下がいらっしゃる寮にしてください」

 え、と短く答えたクロウリーの声を聞きながら、ナマエは考えた。国を奪い返すには、利用しなければならないものも、必要なものも、抱えきれないほどに多いのだ。


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