獅子雷王伝 05


「おまえの瞳はラピスラズリのようだね」

 父の、柔らかい声を覚えている。剣やペンを持ちすぎて硬くなってしまった指の腹が目尻に触れるときの優しさも。
 十四年前、薄明の帝国で産声を上げた第一皇女は母譲りの銀の髪とラピスラズリの瞳を持って生まれた愛らしい姫君だった。日の光も知らないであろう柔肌は未だ踏み荒らされていない雪原のように真っ白で、ふっくらとした唇の色は鮮やかな血潮を思わせる。童話に出てくるお姫様のように美しく可憐なお姫様。虫すら殺したこともない心優しいお姫様。そんな皇女に、父と母は言った。

「外の世界は怖いから、ここから出てはいけないよ」
「あなたはここにいなくてはいけないの」

 彼らの言うここ(、、)とは、大きな城の西の端、こぢんまりとした塔のことだった。彼らは、生まれてから三日か四日、一週間も経たない赤ん坊を大きなお城の小さな塔に閉じ込めたのだ。
 日の光も知らないであろう柔肌。太陽を知らぬ、雪のように白く透き通った肌。皇女は、比喩でも例え話でもなく、塔の外に出たことがなかった。そこから出てはならない理由は知らない。ある時は司祭派の連中に襲われるからと言われ、ある時は恐ろしい魔法使いに攫われてしまうからと言われた。口裏を合わせたかのように告げられる言葉たちを不思議に思わなかった、疑問に思わなかった、と言えば嘘になる。けれど彼女は問い詰めようとはしなかった。(皇帝)が率いる皇帝派と宗教的な権力を有する司祭派の分断は数百年前から続いている問題であったし、何より、世界は家族という存在だけで事足りていたからだ。嘘偽りのない愛を与えてくれる両親と兄さえいれば幸せで、塔の小さな窓から見える景色があればそれだけで満足だったからだ。だからこそ、意図的に隠された真実を知るのは恐ろしかった。少女にとっての幸せの輪郭を作った人々が奥底に追いやった何かに気づくのは、恐ろしかった。そして、

「髪が伸びたわね。とても綺麗」
「本当ですか?」
「ええ。今度、髪飾りを持ってきましょうね」

 毎日塔を訪れてくれる家族との時間を失いたくなかった。
 母のたおやかな指先が髪に触れ、慈しむように髪を梳く。ランプの明かりが部屋を灯し、本棚やテーブル、ベッドの影を落とす。指を伸ばしたら温もりすら感じられそうな穏やかな時間がそこにはあった。

「あなたは何色が似合うかしら。青色? 赤色?」
「お母様が選んでくださるならどんな色でも嬉しいです!」
「あら、嬉しいわ」

 皇女はいつも、家族と会える夜明けを待っていた。太陽が目覚める東の空には星が浮かび、水彩絵の具で塗りつぶしたような藍色が四角い窓いっぱいに広がる。日によって印象も色合いも異なる景色は、気まぐれな画家が何度も描き直して完成させた絵画のようで美しい。けれど皇女は丹念に描かれたそれには目もくれない。寝癖のついた髪もそのままに小さな身体を精一杯伸ばして窓を覗き込み、地上に誰かいないかと目を凝らした。懸命に背伸びする彼女に気づいて柔らかく笑ってくれる誰かがいないかと。
 かのグレート・セブンに引けを取らない人気を誇る伝説の魔女は娘とともに塔で過ごし、毎日のように娘の髪を梳いたと言う。偉大なる魔女が愛情と優しさの象徴とされている所以は“血の繋がらない娘を深く慈しんだ”という逸話にあるが、娘の髪こそが魔女の愛情の深さを示す最たる証であるのは言うまでもない。魔女は決して手入れを怠らなかったのである。傷みのない艶やかなその髪は塔の下にまで届くほど長く、光沢のある飴細工のように美しい。月の光を垂らした絹を思わせる唯一無二の髪――魔女の、母親の愛があってこそ生まれた美しさに皇女は憧れた。
 娘と同じくらい髪が伸びたら両親と兄はもっと会いに来てくれるかもしれない。だから皇女は健気に髪を伸ばし、手入れを欠かさなかった。

「おまえの髪はお母様によく似ている」
「お兄様の髪もそっくりですわ」
「いいや、僕のは少しくすんでいるだろう? ほら」

 よく見て、と指先で前髪を摘んだ兄は「やはりおまえの髪のほうが綺麗だ」と微笑んだ。母よりも父に似た怜悧な顔立ちは笑うと年相応に幼くなり、柔らかくなる。歳を重ねれば父と同じ冷たさも孕むようになるのだろうが今はまだ頬や顎に幼さが残り、どこか未熟さを感じさせる。
 皇女は兄との二日ぶりの会話に声を弾ませ、そんなことはないと力強く首を振った。彼女は母の髪も兄の髪も好きなのだ。必死に否定する妹の姿がよほどおかしかったのか、兄が口元を弛めながら立ち上がった。彼が見つめる先には四角のあの窓がある。

「そろそろお母様がいらっしゃる。今日は髪飾りを、」

 不自然に途切れた言葉の続きを探して兄を見やった目に異物が映った。
「あの煙は一体なんですか……!?」皇女は叫び、上品とは言い難い乱暴な動きで立った。木製の椅子は蹴り上げられ、タイル張りの床の上にけたたましく倒れ込んだ。

「……まさか……」

 兄の返事は求めていたものではなかった。愕然とした呟きだけが鼓膜を打ち、皇女はわけがわからないまま窓に駆け寄った。皇城の大きな窓から立ちのぼる黒煙が青い空を侵食していく。そもそも、どうしてあの窓が割れているのかもわからない。鮮やかな青に漂う黒色は雑に切り貼りされたコラージュのようで現実味に欠けているが、皇女と兄がいる部屋にまで臭ってきた焦げ臭さは本物だった。

「お兄様! お父様とお母様のところに行かないと……!! お兄様ッ!!」

 兄の虚ろな瞳がぐらぐらと揺れ、空高くへとのぼっていく煙だけを一心に見つめている。妹の存在を一瞬で忘れてしまうほどに動揺しているらしい兄の腕を掴めば、彼の手が条件反射で跳ねた。
「お聞きくださいませ……!!」皇女の声はすでに枯れそうだった。懸命に吐き出した言葉は聞き取りづらいくらいに早口で、真っ白になっている思考とただ動き続けているだけの唇は少しも感覚がリンクしていない。みぞおちあたりが急激に冷えて、喉元に何かがせり上がる。突然置かれた状況に混乱しこぼれた涙が床に落ち、わなわなと震える唇からは嗚咽が漏れ始めた。

「行かねば」

「両親を助けたい」という純粋な正義感ではなく、昔から与えられていた使命感に突き動かされるような声だっただろうか。禍々しい煙から妹へと両目を滑らせた兄の目には光が戻り、ぶれていた焦点は一つに定まっていた。彼は「怖がらせてすまない」と謝ると、皇女と手を繋いで部屋の外へと出た。壁掛けの燭台に置かれている蝋燭はすべて溶けてしまっていて、あたりを照らしてくれるのは兄が持っている手持ちのランプだけだった。暗く肌寒い、密室のような螺旋状の階段が部屋をぐるりと囲っている。下に行かなければ当然塔の外には出られない。しかし兄は皇女の手を握りしめたまま階段を上がった。

「おにい、」
「僕たちは行かなければ」
「どこに? でも、でも……お父様とお母様が……」

 兄は答えず、無言で階段を上り続ける。その二歩うしろを歩いている皇女には、彼が歯を食いしばっているということしかわからない。暗い空間に広い背中が溶けて消えてしまいそうで恐ろしくなり、皇女は兄の隣に並んだ。先はやはり見えない。オレンジ色のランプ以外の光源はなく、暗闇が続いている。二人の足音が石階段に反響し、隙間から入り込む冷気がくるぶしのあたりを冷やした。

「少し前に教えたことの復習をしようか」
「え?」
「この国について。即興だが、特別授業をしよう」

 突拍子のない話だ。けれど兄の横顔は真剣そのもので、額や頬には僅かに汗が滲んでいた。極度の緊張状態に入っていると容易にわかる異常なさまに、皇女の手のひらもじわりと汗ばむ。口内の乾きを感じて唾を飲み込んだものの、結局言葉は発せなかった。

「この国は呪われている」
「……呪われている? どういうことでしょうか?」
「呪われているんだ。大昔から大きな戦争に負け続け、疫病や飢饉に打ち勝つ力もなかった。他国が商業革命や産業革命で豊かになる中、帝国だけは貧しいままだった」

 なぜかわかるか。
 言語化されなかった兄の言葉が光となって皇女の瞳を貫いた。しかし、彼女は答えられなかった。脳裏をよぎるあの黒煙に思考を塗りつぶされているのだ。あれは一体なんだったのだろうか。この城で何が起きようとしているのだろうか? 城内にいるであろう両親を思うと、今にも気が狂いそうだった。
 引き返したい。早く塔から出たい。それだけを兄に伝えようとしたが、彼は止まらない。もしかしたら、皇女が手を離そうとしていることに気がついていたのかもしれない。華奢な手をより強く握りしめ、彼女を引き寄せた兄は息つく暇もなく口を開けた。

「魔法を使えない者が多いからだ。一億人に一人、多くて二人。それ以下の確率でしか、潜在的な魔法士は生まれてこない」
「そんな話より、お父様たちのほうが大事ではないのですか!!」

 兄は黒目だけ動かして、がなる皇女を一瞥した。

「おまえの出生にも関わる話だ。なぜ、自分は塔に閉じ込められているのか不思議に思ったことはないか」
「それは……。今は関係ないでしょう!?」
「なぜ、僕は魔法が使えないのか不思議に思ったことはないか」
「そんなの、そんなの……気にしたこと――」

 ほんとうに?
 嵐が来る前の海辺のように静かで寂しげな表情だった。兄は眦を下げて笑い声をひとつ落とすと、次の段差に片足をかけたまま立ち止まった。

「なぜ、おまえだけ(、、)が魔法を使えるのか、不思議に思ったことが一度はあるだろう」

 皇女の手首についているブレスレットが火花を散らし、力なく落下した。赤色の小さな石は外れ、砕けている。それだけではない。チェーンは無惨にちぎれて糸くずのようになっていた。もう使いものにならないだろう。その残骸を拾い上げた兄は焼け爛れている箇所を見下ろし、「これも駄目になったか」と苦笑した。
 魔法を使える子どもは魔力を暴発させることがある。それは精神面が育ちきっていないからであり、魔力のコントロールができないからでもある。感情の発露と魔力の放出を切り離せない未熟な子どもは、些細な出来事でオーバーブロットを起こしやすく、自身が放った魔法によって大怪我を負うことも珍しくない。ゆえに、なんらかの方法で――たとえば、特別な魔法がかけられたアクセサリーなどで――魔力放出を抑えなければならない。
「おまえが何度壊したか、僕はもう覚えてない」兄の手のひらを滑った残骸は空気抵抗にも耐えきれず、再び床に落ちる前に大破した。

「おまえは神に祝福されて生まれてきた子だ」
「……そんなはずありません」
「帝国の礎を築いた初代皇帝は凄まじい魔力を持ち、万民を救ったと言う。幾星霜の時を経て、初代皇帝の血を引く我が一族に魔法を使える者が誕生したことの意味も、価値も、賢いおまえにはわかるはずだ」
「わかりません!! 魔法が使えるからなんだと言うのですか!!」

 甲高く幼い声があたりに跳ね返る。ランプから漏れる光が、肩で息をする皇女の影を濃く、強く、明瞭に映し出している。細長く伸びたその影を跨ぎ、もう一度階段を上り始めた兄はいつもと変わらないように思える調子で宣った。

「そうだ。それでいいんだ。魔法が使えたって、使えなかったって、本当はどうでもいい。そこに意味も価値も見出さなくていい」

 兄は、魔法が使えるからなんだ、と皇女と同じ言葉を繰り返すと、続けざまに話した。斜め下から伺えるほっそりとした輪郭が歩みに合わせて揺れている。

「お父様とお母様は亡くなられた」
「……なく……?」
「司祭派に殺された」
「嘘ですよね……? だって、だって今日も来てくださると」

 兄は答えない。前を向いたまま、足を動かしている。機械のように一切の乱れもない規則的な動きが不気味で、おかしかった。
 皇女は血の気の引いた冷たい手のひらで兄の腕を掴んだが、いくら待てども言葉が出てこない。打ち上げられ喘ぎ苦しむ魚のように唇がはくはくと動くのみで、次第に息苦しくなっていく。息ができない。空気を吸い込めばさらに苦しくなり、目尻に涙が浮かぶ。

「すまない。苦しい思いをさせてすまない」

 皇女の呼吸音がおかしいことに気づいたのか、ようやく振り返った兄は身をかがめて彼女を抱きしめた。彼の柔らかな髪が頬や首に当たり、父と同じ香油の匂いが漂う。
 兄の胸元に寄った皇女の頬に水滴が落ち、肌を滑る。指先で触れてみるとそれは温かく、若干のとろみを帯びた透明な液体だった。

「何があっても、おまえたちだけは生きろと」
「お兄様……、嘘……嘘と言って……」
「お父様とお母様は」
「いや……お兄様……。聞きたくない……」
「僕たちを、ただ愛していると」

 兄の引き攣るような嗚咽が耳の真横から聞こえてくる。ひくり、と自分の喉元が震えるのがわかった。わかって、どうすることもなく兄と同じように涙があふれた。防衛本能だろうか、胸の痛みもわからなくなるほど感情も感覚も麻痺している。やがて皇女の涙が止まり、彼女は上擦る声を途切れ途切れに絞り出した。

「わたしもお父様たちと死にたい……」
「……」
「もう、生きたくありません」
「……それは駄目だ」
「どうして」
「お父様とお母様の、最後の、一世一代の願いだからだ。……行こう。僕たちは、行かねば」

 兄は妹から身を離し、妹と手を繋いで歩いた。もう歩けない、お父様たちのところに行きたいとごねる妹を諭すわけでもなく、彼女の言葉をただ受け止めた。

「行きたくない」
「行かなければ」
「お兄様……」
「生きなければ」
「わたしは生きたくありません!!」

 階段の終点は近く、最後の一段を超えた先にある扉は随分と古びていて劣化が進んでいた。兄は泣きじゃくる妹をその部屋に押し込むと、部屋の中央にある巨大な鏡の前に立った。窓一つない部屋は長いあいだ誰も立ち入っていなかっただろうに、黴や埃の臭いもしない。
 兄が鏡に手を伸ばす。指先は表面にぶつかりもせずに、そのままあちら側に突き抜けた。こちらの姿さえ映らないそれは夜の水面のように暗い。

「この鏡はナイトレイブンカレッジに繋がる。避難先としては上々だ」
「いや……行きたくない……」
「行くんだ。お父様とお母様のために」
「行きたくない……!!」
「最後の親孝行だとわからないか」

 皇女は丸く小さな肩を揺らした。ろくに親孝行もできなかったことを悲しみ、憂い、とうとう立てなくなった彼女はうずくまって泣いた。短い悲鳴のような、引き攣った笑い声のような、どちらとも取れる嗚咽が細い喉を震わせ、唇からあふれる。いつかは大人になって、いつかは何か恩返しできたらと、漠然と考えていた未来はもう潰えたのだ。
「これをおまえに」兄は己の首から外したペンダントを皇女に握らせると、若々しく逞しいその両腕で彼女を抱きしめた。先ほどと同じように兄の髪が頬や首を擽り、香油の優しい匂いが肺に満ちる。彼の肩越しには黒い鏡面がやけにはっきり見えた。真夜中の、グラスに入った水の表面を見ているようだった。

「夕焼けの草原の第二王子を覚えているか?」

 皇女の肩を掴み、ゆっくりと引き離した兄の表情は強ばっていた。薄明の帝国の同盟国である夕焼けの草原についての知識は皇女も持っている。国土はどのくらいあって、民はどのくらいいて、どのような歴史を辿って現王室が国を統治するに至ったか――薄明の皇族に名を連ねる者の責務として、必要最低限の教養はある。しかし、皇女は塔の外に一度も出たことがなく、関わりがあったのはそれこそ家族と、世話係の召使い数人のみだった。にも関わらず、兄が一個人を特定して、まるで会ったことがあるような口ぶりで「覚えているか」と口にするのはおかしい気がした。

「……殿下にお会いしたのですか? わたしが?」
「言葉を間違えただけだ。気にしなくていい」
「はぐらかすおつもりですか……?」
「言葉選びを間違えただけだ。そう悲しむな。……さて、行こう」

 兄は座り込んでいる皇女の腕を掴み、強引に立ち上がらせた。兄ばかりが何もかもを知っていて、無知な皇女は何も知らない。それが悲しくもあり、悔しくもあり、苦しくもあった。自分自身への不甲斐なさから、或いはやり場のない怒りや悲しみから、生への希望を見出せない。だと言うのに、この塔から飛び降りる勇気はなく、兄を突き飛ばして両親のもとに走る気力も湧かなかった。力の入らない肢体は抜け殻のように軽々しく感じられ、こんな両足が全身を支えているのが不思議なくらいだった。

「おまえも知っている通り、そのペンダントは皇家に伝わる秘宝だ」
「大事なアミュレットをなぜわたしに? お兄様もともに行かれるのでしょう? わたしが持っている必要なんて」
「あるんだ。おまえが持っていなければならない理由が」

 言うが早いか、兄は皇女の背中を押した。脳裏に駆ける悪い予感が、最悪の直感が、兄のほうへと腕を伸ばさせる。しかし兄には届かず、力が抜けている体躯はいとも簡単に鏡の世界に沈み込んで暗い闇に閉じ込められた。鏡面を叩く。硬く、冷たい。なぜ、なぜ。なぜあちらの世界に戻れないのか、皇女にはわからない。

「お兄様……!! お兄様、いや……!! こんなのいや!!」

 何度も手のひらで叩き、指先で引っ掻き、兄を呼ぶ。けれど兄は場違いな笑みを見せるだけで、こちらには来ようとしない。声が枯れ、爪が剥げる。手のひらを滴るのは汗か、血か、もはや理解できなかった。

「おまえは豊かな魔力を持っていて、強い魔法だってたくさん使えるだろう。けれど、それがなんだ。誰かのために力を使わなくていい。誰かのために生きなくていい。自分を愛してくれない誰かのために心を砕かなくていい」

 兄は両目を伏せ、上着の内ポケットから護身用の短剣を抜いた。鈍く輝く切っ先が鏡へと、皇女へと向く。

「お兄様……! お兄様……どうして!!」
「おまえが、おまえのためだけに生きるだけでいいんだ。自分という個が、この世界に存在する理由も、意義も、考えなくていい。ただ」
「おにい、さま……!」
「ただ。いつか、生きていてよかったと思ってほしい」
「おにいさま、やめて……」
「前皇帝ラグレス・ミョウジに代わり、現皇帝イリヤ・ミョウジが命じる」

 大きな手のひらが鏡越しに皇女の指を撫でた。父と同じくらい大きくて、温かい指に直接触れることもできない。赤く染まった兄のまぶたが閉ざされ、けれどすぐに開いて、最愛の妹を見つめる。

「何があっても、レオナ・キングスカラー殿下には関わるな。彼はあの学園にいる。頭がいい人間に近づくのは危険だ。……そして、復讐だとか、祖国の再興だとか、大それたことを考えるんじゃない。ナマエ。おまえの幸せだけを考えろ」

 それだけを告げると、兄は短剣を振りかぶった。鏡に亀裂が入り、呆気なく割れていく。やめて、とナマエは叫んだ。爪が剥げた指を血が伝い、手のひらから手首、手首から地面へと垂れていく。

「ナマエ」

 鏡が完全に壊れる直前に、兄がまた微笑んだ。

「過去を振り返るな。生きろ」


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