獅子雷王伝 04


 ――黄金の土地にて守護の使徒が蘇り、後継者の血潮により安寧が訪れる。星座は導く。気高き黎明へと。
 濃紺色の表紙をめくると、まず最初に大々的に描かれた魔法陣が目に入った。司書からこの一級禁書を借りて久しく、レオナは謎めいた記述に頭を悩ませていた。
 手袋を外した指先に伝わる羊皮紙の感触は硬く、カーボンインクで記された文字は現代人でも読める程度には整っている。走り書きのメモのようなものもあれば小難しい古代語を用いられたものあるが、一際目を引くのは二つの三角形が重なり合った図形だろうか。一つは上を、もう一つは下を向き、その真ん中で鳥らしき生き物――架空の幻獣か、古代に絶滅してしまった生物の一種かもしれない――が翼を広げている。
 禁書の随所に現れるこの図形の正体さえ突き止めれば手がかりになるのはまず間違いない。むしろ一発解決の可能性さえ浮上しているというのに、何も掴めずお手上げ状態だった。
 図書室で新たに借りた本は役に立たなかった。ダメ元でネット検索してみたがこちらも撃沈。一度目ですべてのページに一通り目を通し、二度目で見落としがあるかもしれないと読み込み、三度目で本やスマホ片手に一文字ずつ辿った。それでも新しい情報は得られず、調べてダメならこの本自体に仕掛けがあるのかと考えて使えそうな魔法を使い、最終的にはありとあらゆる呪文をかけた。魔法で熱してみたり濡らしてみたり光に透かしてみたりと様々に試してみたものの、それらしい成果は依然得られていない。フィクション作品でよくある、火で炙ったら文字が浮き出る、ということももちろんなかった。

「めんどくせぇ……」

 解読は一旦諦めてベンチに寝転がると、眠気が襲ってきた。太陽の光が瑞々しい葉の色素を透かし、レオナとラズ以外には誰もいない中庭は溶けきっていない雪が未だ残っている。空を見上げるレオナの顔近くに小ぶりな花びらが舞い落ち、華やかな甘い香りが鼻腔をくすぐった。花を落とした犯人はマジカルペンを握りしめ、難しい表情で地面を睨んでいる。一気に力を込めすぎて、必要以上に花びらが飛んだようだ。

「無駄打ちすんな。馬鹿みてぇに出力上げてねぇでコントロールしろ」

 レオナは視線ひとつ動かさずに言った。彼のそばで魔力コントロールの練習をしているラズは律儀に「はい」と返して、また静かになった。集中し、魔力を練り上げているのだろう。
 レオナが彼女の面倒を見るようになって一ヶ月が経った。真っ白な雪が降り積もるナイトレイブンカレッジは三日前からウィンターホリデーに入り、学園には一部のオクタヴィネル生と事情があって帰れない生徒たちのみが残っている。
 つい数ヶ月前のマジフト大会でプライドをへし折られたレオナに、王宮に帰る選択肢は最初からなかった。あそこには天敵(ファレナ)がいる。帰省など、地雷原に軽装備で自ら飛び込んでいくようなものだ。
 とはいえ、喧しい兄夫婦の猛攻と三歳になる甥の「おじたん帰ってこないの!? なんで!?」攻撃を切り抜けてどうにか帰省を見送ったはいいが、次のホリデーはさすがに顔を見せてやらなければ面倒なことになるだろう。すでに憂鬱だ。頭に浮かぶいやな想像を振り切り目を閉じると、ネコ科の獣人には冷たすぎる風が吹き付けた。シャツとベストの上から着込んだコートだけではまだ肌寒い。やはり寮にいればよかったと後悔しながら、レオナは魔力がぱちぱちと弾ける音を聞く。
 手のかかる後輩とともに中庭にいる理由は、この後輩が「お礼をさせてほしい」と言って聞かなかったからである。曰く、食堂のゴーストと話をつけて食材を分けてもらう予定だから寮長がいやでなければ食事を作ってくると。
 ホリデー期間中は購買部の店主であるサムも休暇に入る。当然、店主がいなければ店は開かない。店が開かなければ都度食べ物を買いにいくこともできない。サバナクローにも最低限の設備と道具が揃ったキッチンはあるが、一国の王子であるレオナは包丁やフライパンなどの調理器具を持ったこともなく、今まで王宮の大厨房に足を踏み入れた記憶もない。腹が減ったら専属の料理人に作らせる。それがレオナだけではなく兄や義姉の常識だった。そもそも料理する気が端からなかったレオナは、サムが店仕舞いしてしまう前に大量購入した肉の加工品や飲み物で腹を満たしている。ハムやウィンナーなどの加工品はいかに雑に調理しても大抵はおいしいままだ。しかし味が濃いので三食続けて食べるぶんには飽きが来る。加えて、長い王宮生活で舌が肥えているレオナにとって、安物の量産品は舌に馴染まない。国中の料理人の中から選び抜かれたプロ中のプロが食材にもこだわって丹精込めて作る料理と、工場のベルトコンベアに乗せられて作られる市販品とでは、味にも見た目にも天と地ほどの差があることは誰にでもわかることだ。
 一般的な家庭向けに流通しているハムやウィンナーは味が濃いだけではなく、無駄に脂っぽくて後味がしつこい。二日も経てば口にするのも億劫になった。そこで、不満げに揺れるレオナの尻尾に気づいたらしいラズが言ったのだ。

「何か作ってきます。寮長がよろしければですが……」

 有難い申し出ではあった。彼女がレオナに対して感謝の気持ちを向けていることはレオナ自身知っているし、実際、彼女は事ある度に「お礼がしたい」と言ってレオナの雑用や手伝いをしていた。思いのほか頑固な彼女には何を言っても無駄だとレオナもとっくにわかっているが、問題は彼女の腕前だった。日頃の様子を見るに、あまり器用なほうではないだろう。やる気を出してくれるのは構わない。ただ、出過ぎた真似をして怪我でもされたら面倒だ。

「おい。そろそろ戻んぞ。冷えてきた」
「はい」

 放置するかどうか天秤にかけた結果は、見ての通りである。校舎まで付き添って、挙句に魔法の練習をさせているレオナも大概甘い。
 従順に頷いた彼女は大きな紙袋を抱えてレオナの元に駆け寄った。消費期限が差し迫る生鮮食品や保存がきく野菜を中心に詰め込まれているそれは、厨房のゴーストが「わざわざここまで来るのは大変だろうから」と気を利かせて持たせてくれたものだ。これでもかと食材が詰まった紙袋は二つ用意され、一つはレオナが、もう一つは彼女が持っている。

「お前、家でも料理してたのか」

 レオナの予想に反し、彼女の料理はなかなかうまかった。出来上がった一品は夕焼けの草原の郷土料理に似ていて、しっかりと煮込まれた豚肉は甘く柔らかい脂の味がした。

「……たまにですよ。お母様が教えてくださって」
「物好きなもんだ」

 意外と楽しいですよ、と笑った彼女の唇から白い吐息がこぼれる。唇をすぐに引き結んだ彼女をちらりと見て、レオナは呆れた。この子どもが何を背負い何を考えているのかをレオナは知らないが、自然に生まれた感情まで制御しようとする意味がわからない。
 中庭から校舎内に入ると、火の妖精によって暖められた空気が頬に広がり、冷えきった肌がびりびりと痺れた。どこからか聞こえてくる肖像画の話し声は束の間の静寂を楽しんでいるのか寂しがっているのか、どちらとも言えない声色だった。
 鏡舎への扉がある東校舎までは早歩きでも十分はかかるため、ただでさえ歩幅が小さい彼女のペースに合わせていたら倍の時間がかかる。レオナの一歩は彼女の二歩か、三歩だ。

「寮長」

 ついと動いた目が、レオナを見つめた。

「寮長はいつも何を読んでいらっしゃるんですか?」
「どっかの国の建国神話だ。意味不明な部分だらけだが、かけられているのは高度な魔法だろうよ。……宗教がどうたらこうたらの話はややこしくてかなわねぇ」
「宗教ですか……?」
「お前らはどうして神を崇拝する。全知全能だっつーわりには、出来上がった世界はあまりにもお粗末じゃねぇか」

「完璧なくせに悪魔なんておっかねぇもんを生み出したんだろ」レオナには、人間の信仰心そのものが理解できない。目に見えないものを信じ、愛し、他者からの救済を求める心が。
 目を伏せた彼女の、緩やかに曲線を描くまぶたがはっきりと見えた。長い睫毛のあいだから見える深いマリンブルーは憂いを孕んでいるようにも思えたが、レオナを見上げたときには懐かしむような慈しみがあった。

「父が……言っていました。人間は嘘をつく疑い深い生き物だけれど、そんな生き物に愛してほしくて、信じてほしくて、神は我々に試練をお与えになるのだと」
「愛、ねぇ。そんなもので試練とやらを肯定すんのかよ」
「絶望したときに縋れるものがあれば心は休まりますよ」

 うなぞこを切り取って、そのまま流し込んだような瞳にレオナが映る。その瞳を見ていられなくて不自然なくらいに素っ気なく目を逸らすと、会話はそこで終わってしまった。話題はない。笑い話や冗談もさして好きではない。他人のために間を繋ぐ努力などしたくもないレオナは気まずさを感じることもなく、寮までの帰路を辿った。
 ようやく寮の自室に戻ると、置きっぱなしにしていたスマートフォンに兄嫁からの着信が十件ほど入っていた。好きでもなんでもない相手の声を間近で聞きたくはない。しかし無視を決め込んだらより面倒なことになるのは間違いない。義姉の性格を本人よりも把握しているレオナはすっかり板についた舌打ちに恨みを乗せつつ、スマホのロックを解除した。
 どうせ馬鹿みたいな内容だろう。チェカが大泣きして大変だったとか、今日の晩餐はレオナの好物が出たとか、あまりにもくだらなくて中身のない話を延々と聞かされるのだ。

「もしもし? 何度かけてくりゃ気が済むんだよ。お后様は暇だってか?」
「《レオナ! よかった、ようやく折り返してくれたか……!》」
「……なんでテメェが出る」
「《お前は私からの電話には一切出てくれないだろう!》」

 男の低い声が聞こえてきた瞬間にレオナの顔つきが変わった。電話の相手――ファレナは暑苦しく鬱陶しい兄ではあるが、妻と偽ってレオナに電話をかけるほど狡猾ではないし暇でもない。善性と良心が服を着て歩いているような男が意味も理由もなく、騙し討ちのような形で弟にコンタクトを取るはずがないのだ。
 ファレナが義姉を騙ってまでレオナに連絡を取らなければならなかった理由は一体なんだろうか。長らく病に伏せている父の死の報せではないだろう。万が一、亡くなっていたとしたら今頃はネットニュースのトップを飾っていたはずだ。

「《電話で話すべき内容ではないが、お前の耳に入れておきたい話がある》」

 らしくもなく焦りを滲ませた声に聞き入りながら、レオナは思考を巡らせた。大事な政策で失敗したか、他国との関係に亀裂が入ったか、大規模な自然災害が発生したか。とにもかくにも、ファレナの厳かな声から察するに良い知らせではないのは確かだ。

「《同盟国の皇族が殺された。皆殺しだ。暗殺されたとの噂は長らくあったが――》」
「……穏やかじゃねぇな。電話でペラペラ喋っていい内容とは思えねぇが?」

 ファレナの話はただの世間話ではない。皇族殺しが起きたということは、どこかで陰謀が動いていると見て間違いないだろう。たとえ当事者でなくとも、夕焼けの草原側がその陰謀に巻き込まれる可能性は十分にある。

「《問題ない。我々の調査結果は近く公表される》」
「そうかよ。……どこの国の皇族が殺された?」
「《薄明の帝国だ。どうやら、司祭派がクーデターを起こして皇帝一族を……ああ、すまない……。こんなにも惨い話をお前に……》」

 言葉を詰まらせたファレナは込み上げる思いを飲み込むかのようにしばらく黙っていた。薄明の帝国といえば、特別豊かでもなく特別貧しくもない国だ。魔法を使える者が限りなく少なく、皇帝派と司祭派による分断が続いているその国は夕焼けの草原の近隣国でもあり、陸路が整備された数百年前には流通の要衝として栄えていた。現在も、夕焼けの草原はビーズ工芸品やバオバブオイル、赤ワインなどを薄明の帝国に向けて安価で輸出している。
 暗殺されたという皇帝は、以前から親交のあった夕焼けの草原との関係のさらなる緊密化を図り、独自の経済政策を打ち立て、国の発展を促した有能な男だった。レオナは何年も前に顔を合わせた記憶がある。ファレナが国王代理として即位した際にも、后を連れて夕焼けの王宮を訪れていたはずだ。背が高く、賢そうな男だったと思う。生まれつきなのだろう、右の口角が僅かに上がっていて、どこか挑発するような、人を見下すような、そんな風にも見える顔立ちの男だった。歴史上に稀に登場する暴君のような荒々しさはなく、その一挙一動に皇帝としての絶対的な自信と風格を纏わせていた。
 そんな男が、殺されるとは。最も死にそうにない類の人物が亡くなったことへの驚きはある。だが悲しみや寂しさは湧かない。しばらくのあいだは夕焼けの草原も落ち着かないだろう、そのくらいのことしか考えられなかった。
 大きな戦争が終結して久しい。世界が話し合いのテーブルについて以降、内戦やその他の小さな小競り合いを除いて国と国の武力による衝突は起きていなかった。だからこそ、とレオナは考えた。戦争を知らない若者が増えた今だからこそ、先人が築き上げた“平和”を揺るがす“暴力”はより際立つ。一国の元首が暗殺されたという前代未聞の事態は国際社会の関心を集め、醜聞までも集めてしまうだろう。まして、皇帝だけではなく一族郎党滅ぼされたのだ。メディアはセンセーショナルに報道するに違いない。

「《皇帝派の騎士や国民は表面上は大人しくしているが……いつまで続くか……。夕焼けの草原への亡命希望者もあとを絶たない》」
「相変わらずお優しいこった。反吐が出る。亡命した奴らの衣食住はどうすんだよ。そいつらは夕焼けの草原の国民として働いて、税を納める気はあるんだろうな? 国民に食わせるだけでも精一杯だってのに、他国の人間まで世話をしてやるつもりか? 兄貴が計画性もなく受け入れるってんなら」
「《レオナ。落ち着きなさい。言いたいことはわかる。だが、彼らは私たちの国に長居するつもりはないだろう。国を奪い返す気だ》」
「革命かクーデターでも起こす気か?」
「《それに近いかもしれないな》」

 間を置かず、ファレナの声が響く。祈り、願うような声だった。

「《第一皇女の生存が囁かれている》」

 胸のあたりがぞわりと粟立つのを感じた。刺客は皇帝の娘を殺し損なったのか? ならば、その娘はどこにいる?

「《今になって怖気づいたのだろう、司祭派の一人が情報を漏らした。現場に皇女の遺体はなかったとその人物は言っているが……今回行動を起こした過激派は皇女の生存を否定している》」
「はぁ、なるほどなァ。何が真実かはわからねぇが、その過激派ってのはオヒメサマが生きていたら困るわけだ。どっちにしろ、身内がゲロるなんざ、お粗末な奴らだな」

 暗殺された皇帝の血を引く正当な後継者。両親や親族を殺された哀れな皇女。人間は悲劇に弱い。もしも皇女が生きていて、もしも皇女が声を上げたら、世論は一気に傾く。彼女こそが“正義”で、司祭派こそが排除されるべき存在だと。
 そして、薄明の帝国の民衆は第一皇女を旗頭に革命を起こすに違いない。そうなったとき面白くないのは司祭派だ。殺しという手段で国を掌握した以上、国際社会からの非難は免れず、それまで大人しかったはずの民衆が暴政に耐えかねて一気に押し寄せてくる――仮に、皇女を殺し損なったのが事実ならば司祭派の人間にとってはかなりの痛手だろう。

「《皇女が本当に生きているとしたら、司祭派よりも先に見つけ、保護する必要がある。……彼女はまだ十四歳だ。逃亡を手引きした協力者がいるはずだ》」

 珍しく、レオナはファレナの意見に賛成だった。お人好しで能天気な兄は善意のみで「保護する」と言っているのだろうが、夕焼けの草原は皇女の捜索に手を貸すことで薄明の帝国やその他の国々に対していい顔ができ、自国民からの安心と信頼を得ることもできる。これは言わば外交戦略だ。外交上のパフォーマンスでありポーズに過ぎない。
 薄明の帝国と同盟を結んでいる夕焼けの草原は皇族殺しの一報が公表され次第すぐに立場を表明するだろう。それが表面的なものであれなんであれ、国際的な平和条約に批准している現王室は暴力によって政権を奪取した者たちを容認できない。そもそも、裏切り者集団である司祭派を支援したところで「二枚舌の薄情な国」というレッテルを貼られて痛手を負うだけだ。どう考えても、得られる恩恵はないに等しい。
 皇帝派と結んだ同盟関係を反故にしてもいいと思えるほどのカリスマ性もなく、手を組むほどのメリットもない。連中を批判する以外の選択肢があるならば、レオナは教えてほしいくらいだった。

「どっちが先に姫さんを見つけるかで戦況は変わるわけだ」

 重要な鍵を握っているのは皇女だ。戦争が始まるか、始まる前にすべてが終わるかは彼女の存在にかかっている。皇帝派も司祭派も互いに様子を伺い牽制し合っている現状で、事態が動くとしたらそれは、どちらかの陣営が第一皇女を見つけたとき(、、、、、、、、、、、、、、、、、、、)だ。
 人は理由で自己を肯定しなければ行動できない。宗教を理由に大虐殺が起きたように、独裁者の理想を理由に特定の民族が住処を追われたように、人は己を肯定できる理由さえあればどんなに残虐なことも為せる。皇帝派に皇女が渡れば反旗を翻す理由に、司祭派に皇女が渡れば国家を統一する理由になる。ただ、後者の場合、皇女は司祭派たちの都合にいい操り人形にされると見て間違いないだろう。

「《長くなってしまったが、しばらくのあいだは国も落ち着かない。私も妻も忙しくなる。幼いチェカには寂しい思いをさせてしまうだろう。たまにでいい、どうかチェカの話し相手に》」
「悪いな。用事思い出しちまった。じゃあな」

 兄が言い終える前にレオナは電話を切った。本題までが長すぎる。長々とした経緯を話されたところで意味のわからない言語を喋る毛玉と話してやるつもりはない。切る直前の焦った声はしばらくは笑いのネタになるだろう。レオナは悪どい笑みを浮かべたままベッドに座り、スマホを持ち直した。

《薄明の帝国 皇女》

 検索エンジンに打ち込んだ単語はなんともレオナらしくなかった。
 パーティーや国際的な行事などで第一皇子と会話をした覚えはある。皇帝と皇后の顔立ちもぼんやりとだが覚えている。けれど、皇女自身と挨拶を交わした記憶がない。近隣国、まして同盟国の皇族の顔や名前をレオナが忘れるはずがない。だというのに何も思い出せず、それどころか彼女に関する情報のすべてが抜け落ちている気さえした。断片的な記憶すら思い出せない不自然な忘却に気味の悪さを感じ、眉間に皺が寄る。なんらかの理由で意図的に記憶を消されたのだとしたら、レオナが覚えていたら困るような出来事が過去にあったのかもしれない。
 とにかく、今は考えても仕方のない話だ。意識を切り替えるために目当てのサイトをタップすると大量の文字が表示され、レオナが欲している以上の情報が並んだ。

「あ……?」

 素早くスワイプしていたレオナの指がある特定のページで止まる。液晶の中にいた少女は、ラピスラズリのような瞳でレオナを見上げ、皇女らしく上品に微笑んでいた。
 スマホを握りしめた手のひらに汗が滲んでいる。そんなはずはない。あいつではない。そもそもあいつは十六のはずだ。レオナは頭によぎった可能性を否定するために記事を読み込み、しかしすぐにスマホを放り投げた。

「まさか、有り得ねぇ」

 有り得ない。それが、もはや有り得ないのだと頭ではわかっている。
 薄明の帝国の国民が信仰する宗教、夕焼けの草原の郷土料理と似通った料理、上流階級の子息子女を彷彿とさせる所作や言葉遣い――ラズと交わした会話や、彼女が時おり浮かべる表情が蘇る。入学式の日に泣いていたのは国と家族を奪われたからだとしたら? 魔法を学んでいるのはいずれ国に帰るためだとしたら? 年齢を偽っているのは、髪が傷むほど無理やり染めているのは、追手から逃れるための偽装だとしたら?
 すべてを失ったと泣き叫ぶラズの姿を、いやにはっきりと思い出してしまう。考えれば考えるほど合致する情報が増え、レオナは一つの可能性を導き出した。
 親夕焼けの草原の皇帝は、レオナが在学していることを知った上で一人娘をナイトレイブンカレッジに逃がしたのではないか。一縷の望みをかけて、レオナの保護下に入れようとしたのではないか。想像の域を出ない推察だ。政治的な思惑があったのか、愛娘を守るための判断だったのか、すでにこの世を去った死者に正解を聞く術はない。けれど、正真正銘のお坊ちゃんが集うロイヤルソードアカデミーではなく乱暴者揃いのナイトレイブンカレッジをあえて選んだのはやはり、己がいるからではないかとレオナは考えた。

「……クソが」

 独り言は乾いた空気に消えた。妙に喉が渇いている。頭が痛む。水浴びでもして寝ようかと部屋から出れば、寮生がいないだけに静かで、男臭さが薄れているおかげか涙の匂いがした。どこかで泣いていたのかもしれない。
 今すぐ兄に電話して、皇女を見つけたと報告すれば明日にはラズは保護される。そうすれば彼女は本名や性別を隠して過ごす必要も、艶やかな銀色だった髪を無理に染める必要もなくなる。悩むまでもない。保護してやるべきなのだ。けれど、レオナはポケットにしまったままのスマホを取り出せなかった。
 この数ヶ月で、レオナは絆されていた。
 夕焼けの草原に保護されれば、彼女は皇帝派の旗頭として先頭に立たざるを得ないだろう。両親と兄の命を奪った司祭派を打倒し、血塗れた玉座に腰を据え、傷を癒す間もなく生きていかなければならなくなる。国が、国民が、年端のいかぬ少女には耐え難いであろう運命を背負わせるのだ。それは、あまりにも残酷すぎる。
 初めて会った日、彼女は誰も過ごしたがらないような狭い部屋での生活を望んだ。物置よりも狭い一室だ。小さなベッドと机を置いたらスペースなんてなくなる。本人は「あんまり特別扱いをされても目くじらを立てられるでしょうから」と言っていたが、あれは、広い部屋で伸び伸びと過ごすことを彼女自身が避けたがっているように見えた。
 罰を与えているのだろうか。一人、生き残った自分に。
 レオナの足は自然と彼女の部屋に向かっていた。音もなく扉を開けて耳を澄ますと、かすかな寝息が聞こえてくる。狭すぎる部屋はレオナが二歩踏み出すだけで小さなベッド前まで辿り着き、泣き疲れて眠ったらしい彼女の寝顔が目に入った。魔導具は外しているようだ。先ほど見た写真と同じ顔の少女が眠っている。

「可哀想な女」

 薄明の帝国の第一皇女。年齢まで偽り、逃げるしかなかった哀れな子ども。頬を流れた一筋の涙を拭ってやると、彼女はレオナの手のひらにすり寄った。
 レオナは気づかないふりをした。彼女の本当の名前も、涙の理由も、知らないふりをして、兄には一切電話をかけなかった。


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