同じ春を踏む 02


 女は、一切の個人情報を口にしなかった。だからデュースは彼女を“お姉さん”と呼んだ。
 見慣れたフラットハウスを訪れれば、見上げた先の窓は暗かった。目当ての人物は留守らしい。彼女がストリート沿いのカフェでウェイトレスをしていることは知っている。もうじき帰ってくる頃合だということも知っている。階段を上がり、扉の前の壁にもたれると背中全体に硬い壁の冷たさが伝わってきた。建物の中でも廊下は寒く、アウターのポケットに両手を入れてもなかなか暖まらない。
 同じ階の住人が自分の前を通る度に紺色のマフラーに顔を沈め、住人が立ち去るのを確認してから顔を上げる。恐ろしい風貌の少年に自ら近づく強者はそういないが、じろじろと見られるのはさすがに気分が悪い。角部屋から出てきた神経質そうな細身の男に訝しげな視線を寄越され、デュースは不快に思いながらも俯いた。デュースが口煩い大人に嫌悪を覚えるように、ああいう勤め人といった雰囲気の男もデュースのような不良は嫌いだろう。
 いつもこうなるからいやなんだ。
 いやそうな、憎々しそうな、お前の居場所はここにないと言いたげな大人たちの表情が嫌いだった。似た者同士でつるんでいるあいだは何をされても何を言われても気にならない。同じレベルの悪友たちと馬鹿をしているあいだは何も考えずに鈍感なふりをしていられる。だからこそと言うべきか、一人になった途端に突き刺さる言葉や視線が気になり出す。
 とうとう居た堪れなくなったデュースは踵を返し、ここにはいつでも来れるからと言い聞かせた。広くも狭くもない廊下は嘘みたいに心地が悪くて、たった扉一枚の向こうにあの女のあたたかい部屋があるだなんて信じられないくらいだった。もしかしたら、廊下と彼女の部屋はまったく別の世界にでもあるのだろうか。
 角部屋の男を乗せたエレベーターは一階に下りたらしい。まさかそれを使う気になれるはずもなく、エレベーターのボタンを何気なく一瞥し、全体的に暗い階段を一段ずつ下りるとデュースの足音のみが響いた。階段に残る泥や水溜まりは、外で遊んだ子どもたちが残したものだろう。今日も雪が降っているから、靴にくっついた雪が溶けて残ってしまったに違いない。
 ジーンズの裾から冷気が入り込み、身体が震える。こんなに寒いなら大人しく家に帰ったほうがよかったかもしれない。もはや、家に帰りたくなくてここに来ているのか、その他の理由――下心があってここに来ているのかデュースにはわからなかった。

「あ」

 階下から聞こえるヒールの音に思わず足が止まり、心臓が勢いよく跳ねた。戸惑いよりも期待と緊張のほうが勝っているのは、この音に聞き覚えがあるからだった。
 お姉さんかもしれない。
 あまりの寒さで感覚を忘れかけていた末端に熱が灯り、指先に汗が滲んだ。いつもと変わらない表情を浮かべようとするほどに表情筋が力んで変になっている気がする。
 足音を立てるか立てまいか、至極くだらないことを数秒だけ考えたデュースはにやりと笑い、物音一つ立てずに階段を下りた。どうせなら、あの女を思いきり驚かせてやりたかった。相手が他の住人であればさっさとすれ違ってしまえばいい。
 靴底のすり減ったスニーカーが滑らないように細心の注意を払い、息まで潜めるデュースの狙い通り、彼の存在に気づいていないらしい階下の人物は高い音を鳴らしながら階段を上っている。間抜けな顔をしたら笑ってやろう。そう心に決めて踊り場に足をつけたデュースの目に信じられないものが飛び込んだ。

「なんだそれ」

 声も髪も瞳もいつも通り、のはずなのに、両目を見開いている彼女の頬は真っ赤に腫れていた。なんだそれは。なんだこれは。考えることはただでさえ苦手なのに、あまりにもな光景にデュースの思考力が削がれていく。ぎこちなく動く右手を伸ばせば、彼女はひどく怯えた表情を見せた。涙はない。けれど震えて怯えている。

「……デュースくん」
「……」
「ごめん、今日は……」
「これ、どうしたんすか」
「なんでもない」
「なんでもねぇわけねぇ。誰にやられたんすか」
「ほんとに違うから」

 言ったそばから彼女の両目から水滴がこぼれた。

「お、俺のせいっすか?」

 泣かせるつもりは、とデュースのほうが弱々しい声を出し、ついさっきまでの強硬な態度が一気に軟化する。行き場のない怒りは急速に引っ込み、険しかった表情がどうしようもなく情けないそれに入れ替わっていた。

「大丈夫……。ごめん、大丈夫だよ」

 慌てて涙を拭う女の左手で愛らしいピンキーリングが光り、デュースは直感した。彼女がSNSのアプリで男とやり取りをしていることも、その男からメッセージが来る度に憂鬱そうな表情を浮かべることも、知っているからこそわかった。彼女には付き合っている男がいて、その男に日常的に暴力を振るわれているのではないかと。
 すでに冷えきっている芯の更に内側が冷えていく感覚と頭に血が上っていく感覚が合わさって奇妙な気分になる。なぜ、こんなに優しい女を大事にできないのか少しも理解できない。

「手当しないと」
「いい。気にしないで」
「よくねぇ」

 可憐なピンキーリングを覆い隠すように彼女の左手を握りしめ、その冷たさに驚いた。氷みたいだ。どれほど外にいたらこんなに冷たくなるのかと考えながら指先に力を入れると、触れ合う肌に僅かな温もりを感じて安堵した。
 これ以上、寒い思いをさせたくない。握りしめた手を緩く引き、階段を上る。すると、抵抗のつもりなのか女は首を振って立ち止まった。強引に腕を引いてもいいのか、己が身を引くべきか逡巡し唇を引き結ぶ。今ここにいるのがデュースではなくて女遊びに慣れた先輩であれば、彼女の目尻に浮かぶ涙を掬い、そっと抱きしめてやるのかもしれない。もっと女性に慣れていて、もっと器用で、もっと大人だったなら、彼女を泣かせることなく慰めて笑顔にすることもできたかもしれない。

「手当、しないと」

 かもしれない、と可能性をいくつ考えてもここで譲りたくなかった。頑固だと思われても面倒だと思われても構わない。もはやお願いするような声だった。手当をしてほしい。手当をさせてほしい。今は、彼女に暴力を振るった誰かを殴り飛ばすよりただ彼女のそばにいたかった。

「行こう、お姉さん」
「……うん」

 デュースの思いが少なからず伝わったらしい女は抵抗を諦め、階段を上った。ヒールとスニーカーの靴音は重なり合わず、不協和音が二人の沈黙を強調している。これといって役目も果たしていない電灯近くに止まっている蛾の模様が人間の目玉のように思えて気色悪い。塗り替えられたばかりの壁のペンキの色が毒々しい。さっきは気にならなかったものがやけに目に入るのはこの沈黙から少しでも逃げたいからだろうか。
 最後の一段を上り、フロアの真ん中あたりにある女の部屋に入った。当然と言えば当然だが彼女の部屋は静かで、細長い部屋の奥から夕日が差し込んでいる。随分と前に脱色した髪が両目にかかり、その隙間から届いた夕日を眩しく感じた。
 右手で涙を拭った女は「デュースくん」と呼びかけ、繋いだままの手を解いた。彼女の小さな手が離れただけで、ようやく熱を帯び始めていた指先が冷えていく。

「付き合ってる男にやられたんすか」
「……彼氏がいるの知ってたんだ。鈍感だって思ってたのに」
「はぐらかさないでください!!」

 デュースの叫びに女は身を竦ませた。血の気の引いた唇が震えているのがわかって、やり方を間違えたと悟ったデュースの顔色も青ざめた。

「……すみません……」
「……大丈夫。ごめんね」
「あんたが謝る必要なんてないじゃないですか」
「……」
「何があったんすか?」

 慰め方も励まし方も知らない。わからないなりに考えて、身を屈めたデュースは彼女の顔を覗き込んだ。こうしていると幼い頃に母と野良猫を保護したときのことを思い出す。なんとか引き出せた知識なんて、その程度のことだけだ。
 ――いい? 猫に触りたいなら驚かせちゃダメ。猫は警戒心が強いんだから。

「……ごめんね」
「だからあんたのせいじゃ……!?」

 デュースの瞳から逃げられず先に音を上げた女は大粒の涙を流しながら彼に抱きついた。突然のことに右に左にと手を彷徨わせていたものの、勇気を振り絞って華奢な背中に腕を回せば背中側からも心臓の鼓動が手のひらに伝わってきた。
 いつも大人ぶっている彼女の姿は跡形もなく、化粧が落ちてしまうのも気にせずに声を上げて泣いている。母以外の異性と抱き合うのはプリスクール以来のことで、なんと声をかければいいのかわからないまま途方に暮れてしまう。

「わたし、まともじゃないの」



 女はまともな家に生まれ、まともに育てられなかった。兄と妹に挟まれて三人きょうだいの二番目として育てられた彼女は、長男のように一番目の子どもだからと大切にされることもなく妹のように末っ子だからと甘やかされることもなかった。
 真ん中の子どもが親からの愛情に飢えるというのは、よくある話だ。そんな子どもが親を疎ましく思うようになるのもまた、いつでもどこでも耳にする有り触れた話なのだろう。

「十五のときに家を出て、初めて彼氏ができた。でも、そいつは浮気ばっかりする最低な奴だった」

 家出をした十代の少女に行き場なんてない。流れ着いた先は揃いも揃って行き場のない人間が集う不良グループで、未成年の飲酒や喫煙が当たり前に行われる場所だった。スポーツウェアや安物のアクセサリーを身に纏い毎夜騒ぎ立てる若者たちが行き交うストリートはこの街の汚点と言っても過言ではなく、そこは、今日に至るまで華々しく栄えてきた薔薇の王国の最下層であり、薬物中毒やアルコール依存になった病人であふれる掃き溜めでもあった。
 あんなところにいたら自らの倫理観や道徳が破壊され、崩壊していく。
 暴力。無秩序。怠惰。野蛮。若くしての妊娠。そんなステレオタイプなイメージとともに向けられる侮蔑は差別的で非常に冷酷だった。けれど、同じレベルの人間しかいないあの場所は安心できた。自分よりも終わった人間を見ていれば、自分はまだ終わっちゃなんかいない、大丈夫だと心底安心することができた。

「グループを抜け出せないままずるずるここまで来て、抜けようと思ったときにはあいつが邪魔をするようになって……ほんと、馬鹿だよね」

 変わりたいと思った彼女を引き止め、挙句に暴力を振るったのは恋人だった。その男もどうしようもない若者で、未成年のうちから薬物や酒、女に溺れるような典型的な嫌われ者だった。

「だからね、デュースくん。悪い人たちと一緒にいたらダメだよ。人って弱いから、楽なほうに流れちゃう」
「それは……」
「安心できるでしょ? 自分よりダメなヤツ見てると」

 そんなんじゃ変われない、と言った女はデュースから離れた。

「……お姉さんはどうするんすか」
「どうしようもないよ。この街が救いようのない人間を助けてくれることがあった?」

 いくら手を伸ばしてもその手を取ってもらえなければ意味がない。勧善懲悪の象徴である警察官ですら、相談にやってきた女の恋人が社会の最下層と知るや顔を顰め手を引いた。デュースと彼女が出会ったときもそうだ。悪漢に絡まれる彼女を助けようとする者は、偶然通りかかったデュース以外にはいなかった。
 オレらみたいなのが変われるもんか。オレらはクソみてぇな人生がお似合いなんだ。お前も、オレも、絶対に変われない。変われないんだよ。
 女の恋人は口癖のようにそう言う。必死に働いて真っ当に生きようとしても、人々のゴミを見るような目は何があっても変わらないのだと。

「……そんなの、諦めてるだけだ」
「そうだよ。だから言えるの。君は諦めないでって」
「殴られても、泣かされてもいいのかよ」

 諦めないでってなんだ。どうして他人事なんだ。
 大人びたその瞳がデュースは嫌いだった。知り合いでもなんでもない子どもに居場所を与えておいて自分のことは容赦なく捨て置いてしまう優しさが、己の母を見ているようで苦しかった。
「わたしは、わたしがしてほしかったことを君にしているの」そう言った彼女が、誰かにしてほしかったことはなんだろうかとずっと考えていた。ここにいてもいいと言ってほしかったのか、ただ優しくしてほしかったのか、色々と考えて、結局、単純な思考回路では明確な答えを出せなかった。けれどわかる気がしたのだ。十五歳で家を出た彼女が何をしてほしかったのか、何を言ってほしかったのか、同じく十五歳のデュースにはわかる気がした。

「あんたは助けてほしかったんじゃねぇのかよ。ゴミなんかじゃねぇ、こんなでも生きててもいいって言ってほしかったんじゃねぇのかよ」

 誰でもいいから。
 誰か、誰でもいい。目の前を通り過ぎていく人でもい。気まぐれでもいい。ただ言ってほしかった。こんな自分でも、この世界に存在していてもいいよと。
 誰かから褒められるようなことはしていない、嫌われているとわかっていても、はみ出し者の自分たちがそれを願うことはわがままだとしても、「消えてしまえ」と言われたくなかった。思われたくなかった。

「生きてください」

 女の顔を見る前に抱きしめた。すると彼女はデュースの背中に手を回し、幼い子どもみたいにすがりついて泣きじゃくった。


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