同じ春を踏む 01


 殴られた頬が痛む。歯の根が合わず真っ青な唇が震える。
 血がこびりついた唇を雑に拭うと、乾燥して元々荒れていた下唇が裂け、新たな痛みを感じた。顔も身体も傷だらけだ。出かける前は柔軟剤と太陽の匂いを纏っていた服も血と泥、あとは汗の臭いがしてうんざりする。
 人によってはその姿を野蛮と形容し、大多数が近寄りたくない、視界にも入れたくないと思うであろう。少年を取り巻く眼差しが好奇や侮蔑、警戒などの感情に満ち満ちていることは本人もよく自覚していた。
 やはり、大きなショップウィンドウに映る姿は薄らと雪化粧を施した冬の街には似つかわしくない。なんとなく、透明なガラスから逃げたくなって足早に去った少年は自然な仕草で振り返り、十五歳の幼さを残した瞳をうしろに向けた。
 年末らしい白いキャンドルがぼんやりと光るショップウィンドウがやけに眩しい。街一番のケーキ屋は大勢の客で賑わい、外にまで漏れ出た灯りが煉瓦造りの地面を照らして冷たい雪ですら温かそうに見えた。たったの数歩で店の前を通り過ぎた少年に気づいた客は一人もいなかったらしく、みな陽気に笑っている。五歳ほどの少女なんて、ケーキ選びに夢中になるあまりショーケースに両手をついて張りついているではないか。
 誰かの返り血がこびりついた手の甲を見下ろし、しかし汚れを落とす気にもなれずにぷらりと腕を下げる。あの少女の、痛みも汚れも知らない無垢で柔らかな手と比べたら、とても哀れで惨めなものに見えたからだ。
 焼き菓子特有の甘い匂いと口内に残る鉄の味が合わさり、綺麗に溶け合うこともなく互いが互いを引き立てて主張する。気持ちが悪い。朝から絶不調だった少年の気分は更に落ち込み、回復はもはや見込めなかつた。
 少年は冬が嫌いだ。いつから嫌いになったか、どんな理由があったか、思い出そうとしたことも考えたこともない。いつの間にか嫌いになっていて、毎年、イルミネーションが雪を照らす時期が来るとその光から逃げるようにこの街を歩いた。陰を探して葉を伸ばす植物のように、暗くてひとけのない場所を探して道をゆく。少年の彩度の低い髪色も相俟って、居心地の良い場所を探し彷徨う様子は夜に消える黒猫にも似ているかもしれない。
 店と人通りが少ない狭い道を選ぶと、建物も人も密集していないせいか先ほどより寒く感じた。かじかむ両手をポケットに突っ込み、明滅を繰り返すボロの街灯の下を通る。吐き出した白い息が、暗い奥に進むにつれて徐々に濃くなっていくのが妙に面白かった。
 薄暗い道は酒と煙草、香水の匂いがした。血なまぐさい出で立ちにはこちらのほうがよっぽど相性がいいらしい。服に染み付いていた焼き菓子の甘い匂いは容易く塗り替えられ、より物騒に、野蛮になっていく。
 人が少なく、真っ当な店もやっていない場所には必然的に悪い奴らが集まる。そこらじゅうから聞こえるはみ出し者たちの喧騒を耳に入れながら空を仰げば、なんの変哲もない夜空が少年を見つめ返す。
 有り体に言えば、少年は何もすることがなく暇だった。一年前の今日、一晩中遊び回った悪友たちは彼女だのクラブだので忙しい。一人で喧嘩をする気にも、家に帰る気にもなれない。もう喧嘩はしたし、仕事で忙しいはずの母は今日に限って帰りが早い。どちらにせよ居場所はなかった。

「だから、違うってば!! 離せクソジジイ!!」

 冬の澄んだ空気を引き裂いた高い声に、キン、と耳が痛んだ。ただでさえ少ない通行人たちが足を止め、揃って同じ方向を見ている。少年も彼らに倣って視線を落とし、マフラーも巻いていない剥き出しの首をぐっと伸ばした。
 歳は少年よりも三つか四つは上だろうか、髪の長い女が男数人と睨み合っている。遠目でも美人だとわかる若い女は男たちに腕や手首を掴まれ、今にも連れ去られそうだった。
 どうせ痴情のもつれか、くだらない理由の言い合いだろう。そう言い聞かせて、通行人たちはどうでもよさそうに素通りしていく。こんな場所ではいつでも見かける有り触れた光景だから、歩くスピードを緩めたり立ち止まったりする者はいても、男女のあいだに割って入る猛者はいない。
 それが不思議と苛立たしくて、街灯の下に立ち止まっていた少年は駆け出した。女とどうにかなりたいという下心があるわけでも、大衆の面前で正義漢ぶりたいわけでもない。朝からずっとむしゃくしゃしていて、当たり散らせるなら相手は誰でもよかった。

「おい姉ちゃん、言うこと聞かねえと――ゔ!!」

 踏み込んだ勢いをそのまま使って一人を殴った。面白いくらいに飛んでいく身体を視界の端に認め、次いで細面の男に飛びかかる。どうやら、喧嘩慣れしている者はいないらしい。格闘ゲームの敵キャラのようにバタバタと倒れていく。拳に走った激痛に眉を寄せたのもほんの一瞬のことで、両足を地に落ち着ける頃には少年と年上の若い女だけが立っていた。

「な、なんてガキだ……!」
「まともじゃねぇ!!」

 戸惑い、おののく瞳が少年を見上げる。ミドルスクールで、家の近所で、明るいストリートで、数えきれないほど向けられてきたその目が語りかけてくる。お前なんか、

「テメェらなんか社会のゴミだ!!」
「あ゙? んだと?」

 一番最初に殴った男が声を枯らさん勢いで叫んだ。しょせんは負け犬の遠吠えだ。耳を傾けてやる価値もない。けれど、素早く広がった怒りと悲しみの収拾の仕方なんて幼い少年にはわからなかった。

「もう一回言ってみろよ、オッサン」
「……お、お前らなんか消えちまえって言ったんだよ!!」

 ――社会のゴミ。生きる価値もない。恐ろしい。消えてしまえばいいのに。
 見慣れた目。聞き慣れた言葉。もう飽き飽きだ。なのに無性に腹が立って、律儀に傷ついている。凍てつく寒さに晒される皮膚の内側で、暗い感情が理性を飲み込みながら燃えていく。泣きたくもあったし、気が済むまで殴りたくもあった。
「ねえ」拳を握りしめる少年の腕を、女が掴んだ。驚き振り返った彼を見つめる瞳は思いのほか優しく、手のひらに入っていた力が抜ける。

「助けてくれてありがとう」
「別に……」
「ありがとう」

 何も言うな、と言いたげに愛想良く笑った彼女はするりと手を解くと、座り込んだままの男の胸ぐらを引っ掴んで細い右腕を振り上げた。小指にはめられたピンキーリングが残像を残しながら軌道を描き、誰もが予想できた、もはやそこしかゴールはないだろうと思わざるを得ない終着点へと向かっていく。一瞬前まで、見惚れるような笑顔を見せていた女のそれとは思えない乱暴で粗雑な身振りだった。

「死ね、クソエロジジジイども!!」
「いッ……!?」
「ゴミはお前らだよ!!」

 女は日焼けとたるみが著しい横っ面に平手を力の限り叩き込むと、説明するのも憚るようなスラングで追い打ちをかけた。痛快で胸がすっと軽くなるような音がきっかり人数分、星一つない夜に轟いては消えていく。
 えげつない女だ。単純に怖い。
 女の変わりように戦慄を覚えた少年は数歩後退り、すっかり傍観者の一員に成り果てていた。少年のそんな気配に目敏く気づいたのか、女が涼しげな顔で振り返って彼の手を握った。

「逃げよっか」
「え!?」

 女の手のひらの柔らかさに驚き引っ込めようとした手に華奢な指が絡みつく。ヒールの音に遅れてスニーカーの靴音が響き、冷えきった唇に白い吐息が熱を乗せる。少年は状況も理解できないまま走った。冷たい空気で満ちる肺が痛い。一体どこへ行くのだろう。
 もつれる両足をなんとか前へ進め、女の長い髪が揺れるのを少年はただ見つめていた。

「ねえ! 君、名前は?」
「名前?」

 声が弾んだ拍子に少年も女も息が途切れ、呼吸音が一際大きくなった。女の唇の動きに合わせて白い息がこぼれて広がっていく。いつもならなんてことはない距離のはずなのに、どうにも息が上がって苦しい。
 ここはどこだ? 見知らぬ場所まで出たか?
 どのくらい走ったのか確認しようと周囲を見渡せばそこそこ馴染み深い風景が目に入り、やはり思うより距離を稼げていないことだけがわかった。人通りが多くて明るいストリートを駆け抜け、そこでようやく、明るい場所にまた出たのだと気がついた。ショップウィンドウを見る余裕も、街とイルミネーションの明るさに目を眇める時間もありはしない。痣だらけの手を力いっぱいに握りしめられてもいやな気はしなくて、それどころか、笑いたくなるほど爽快だった。すべてが立ち止まった世界で、ちぐはぐな自分たちだけが自由に動き回っているようで。
 ついに女が振り返った。様々な店から漏れ聞こえる音楽と笑い声に邪魔されて声は聞き取れない。けれど、名前は? と無邪気に聞かれている気がした。
 少年は生来真面目な質である。典型的な不良にしては素直な性格の持ち主であったので、反射的に口を開いた。

「デュース! デュース・スペード!」

 張り上げた声が少し裏返った。言ったからにはやり直せない。ただでさえ女性には不慣れだというのに、自身の喉から飛び出た間抜けな声が格好悪くて仕方ない。別に緊張していたとかそんなんじゃないと説明したいのに会話の仕方がいまいちわからず、結局一言も発せないまま諦めた。

「ふうん、よろしくね」

 鼻先だけではなく頬まで赤くさせて恥じるデュースを小馬鹿にするでもなく、気さくに笑った女はフラットハウスの前でようやく立ち止まった。どこにでもある造りのその建物はほとんどの住人が留守にしているか、すでに眠っているのか、どの家の窓も暗かった。

「デュースくん、こっち」
「どこ行く気……すか」
「わたしの家」
「はあ!?」
「手当しないと。お礼もしたいし」

 それ、結構痛いでしょ、とデュースの手に視線を落とした彼女は綺麗に微笑み、続けた。

「取って食ったりしないよ」
「取っ……」
「未成年に手を出したら警察行きなんだからね。変なことは誓ってしないから安心して?」
「あんた、いくつなんすか」
「十八。最近成人したの」
「……そんなに変わんねえじゃねえか」
「デュースくんは? 十三歳とか?」
「十五だ!!」

 誰が相手だろうと子ども扱いは気に食わない。デュースがしかめっ面で噛みつくと、おかしそうに笑われて居心地が悪くなった。変な女におかしそうに笑われるほど、変な男になったつもりはないのだ。

「何がおかしいんだよ!」
「んーん、何も。若いなって思っただけ」
「俺とそんなに変わらねぇだろ!!」
「そうかな? わたしは大人だけど、君は守られるべき子どもだよ? 大人は子どもを守らなくちゃ。特に……寒い夜に一人で出歩いてる十五歳の男の子とかね」

 一点の曇りもない瞳は強い光を放ち、疑う余地もない強い言葉はデュースの心を震わせた。彼女とは血の繋がりも信頼関係もない。そのあたりの三文小説や流行りのラブソングよりもベタな出会いを経ただけの、見ず知らずの赤の他人のはずだ。そんな女が、せいぜい一時間程度の付き合いしかない子ども相手にここまで情を寄せる理由がデュースにはまったくわからなかった。理解不能、理解しようとしても理解できない。

「おいで。ここは寒いから」

 不意に伸ばされた手がデュースの頬に触れる直前で下ろされ、悲しみと優しさに満ちた瞳だけを向けられる。その双眸を見ると、なぜか、彼は否と言えなかった。


 ◇


「家に帰りたくないときはここに来てもいいよ」

 温かいアップルジュースを差し出されながら告げられた言葉にも驚いたし、事もなげに宣った女の平然とした態度には更に驚いた。
 警戒心はどこに置いてきたというのだ。母親の腹の中か? それとも最初からなかったのか? 大真面目にそんなことを考えながらも、連日喧嘩に明け暮れていたデュースの足は自然と女の家に向かっていた。
 ここに来るのは何回目だろうか。いい加減、やめなければと思っている。思っては、いる。

「……何回目だよ……」

 実際にノックできたのは三回程度。家の前まで足を運んで結局何もできずに帰った回数ならばおそらく十を超える。
 十って。十はないだろ。気持ち悪すぎる。
 デュースの胸中に自己嫌悪と罪悪感、羞恥がよぎった。彼女への下心はない。これは断言できる。綺麗な女だとは思うが、見るからに素行が悪そうな十五の少年を自宅招き入れるような変人だ。デュース自身、己はそういった人間に熱を上げて入れ込むほどの馬鹿ではないと思っているし、そうだと信じたい。
 赤色の扉の、ドアノブあたりまで上げた右手を静止させたまま考える。無償の優しさなんてあてにできない。いかにも人畜無害そうなあの女にも裏の顔はあるだろう。巧みに本心を包み隠しているだけで本当は、そこらの大人たちと同じようにデュースを見下し、馬鹿にしているかもしれない。
 やっぱり帰ろう。可能か不可能かではなくて、さっさと帰るべきだ。こんなストーカー紛いのことをしてないで、悪友たちとつるむほうがきっと楽しい。

「ぶっ……! いっ、て!」

 戻ろうと手を下ろしたデュースの顔面に勢いよく開かれた扉が直撃し、バランスを取ろうとした身体がうしろに傾いてとうとう倒れ込んだ。じんじんと痛む鼻頭を手で押さえながら顔を上げると、部屋着姿の女が玄関に立っていた。
 剥き出しの脚から目を逸らし、急いで立ち上がる。

「いらっしゃい」
「……違うんで」
「何が? おいで」

 小指にはめられたピンキーリングの感触が擦り切れた手のひらに伝わる。女性向けのアクセサリーブランドについては詳しくない。それでも、親しい男から贈られたものだろうと予想できた。

「窓からデュースくんが来てるの見えたの。でも全然ノックしてくれないからわたしが開けちゃった」
「見てたんすか」
「偶然ね」

 からかうように笑った女はデュースをソファに座らせて冷蔵庫を開けた。

「モルド・アップルでいい?」
「すんません」
「気にしないの。スパイスは苦手じゃない?」
「はい」

 モルド・アップルはアップルジュースとオレンジの果汁、スパイスを一緒に煮込んで作られる温かい飲み物だ。薔薇の王国では寒い時期に好んで飲まれ、ホリデーのマーケットなどでよく売られている。デュースも幼い頃に母と何度か飲んだことがあるが、ミドルスクールに入ってからはそんな機会もなかった。この女と出会った日に久々に飲んで、懐かしさを覚えたほどだ。
 キッチンに立って作業する女から壁に掛けられた時計へと視線を移す。時刻はまだ昼過ぎで、普通なら学生は学校にいる時間帯だ。彼女は、疑問に思わないのだろうか。不審に思わないのだろうか。

「なんで、ここに来ていいって言ったんすか。どう見たって不良なのに」
「聞きたいの?」
「……まあ、そりゃ……」

 女は冷蔵庫から取り出した瓶とオレンジを調理台に置き、小鍋をコンロの上に置いた。

「大人は『親御さんが心配してるから早く帰りなさい』って言うけど、わたしは、その言葉が大嫌いだった。恵まれて育ったから、帰りたくないなんて思ったこともないからそんなこと言えるんだって思ってさ」

 袖が捲られた細い腕に、治りかけの痣があった。どこかにぶつけただけではあんな痣にはならない。日常的に喧嘩をしているからこそ、普通の怪我ではないとデュースにもわかった。

「わたしはね、真面目に生きなさいとか親孝行しなさいとか、デュースくんに言える立場じゃないんだよ。不真面目に生きてきたから」

 カッティングボードの上で転がったオレンジは鋭い果物ナイフにあっさりと切られ、シナモンやグローブのスパイスの香りに柑橘類特有の匂いが上乗せされた。

「わたしは、わたしがしてほしかったことを君にしているの」
「してほしかったこと……」
「そう。だから、ここにいていいよ」

 誰からも嫌われて恐れられている自覚はあった。それがなんだと強がることにも慣れて、感情が麻痺して、ふとしたときに自身の内側にわだかまる孤独に気がつく。
 冬が嫌いなのは、そんな孤独が浮き彫りになるからだった。仲良くケーキを選び、プレゼントやパーティーの話をする人々を見ると、自分だけが惨めな気がしてきて馬鹿みたいに苦しくなった。けれど、女手一つで働く忙しい母に「寂しい」とは言えなかった。
 母に構ってほしくて髪を染めたのかもしれない。母を守りたくて喧嘩を始めたのかもしれない。父親がいないことを揶揄されたくなくて魔法でマウントを取ったのかもしれない。
 でも、無数の選択肢がある中でその道を選んだのは間違いなくデュース自身だった。誰かのせいでもなく、彼自身の意思で髪を染め人を殴り魔法を使えない奴らを馬鹿にした。だからこそ、社会のゴミと言われても消えてしまえと言われても「仕方がない」と思った。事実その通りだからと。

「誰かにとっては悪役でも、わたしにとっては君がヒーローなんだよ。あのとき、助けてくれてありがとう」

 女に握らされたマグカップからは湯気が立ち、琥珀色の液体が容器の中で揺れる。青色のカップから伝わる熱が冷えきった手を温め、指先の血色もよくなっていく。
 彼女の顔なんて見れるはずがなかった。
 泣きそうになったのは、スパイスの匂いがとてつもなくキツかったからだろう。胸の奥から込み上げる何かを飲み込みたくて、温かいアップルジュースを飲み干した。


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