同じ春を踏む 03


 殴られた頬が痛む。歯の根が合わず真っ青な唇が震える。カチカチと鳴る歯の音を聞きながら、デュースは薄暗いストリートを友人と歩いた。
 スプレーで描かれた落書きは手の込んだものから短い文字を綴っただけのものまで揃い、煤けた街を僅かなりとも鮮やかにしている。ふと道端に目をやれば注射器や小さな袋が目に入り、昨日か一昨日、薬物中毒者たちがドラッグパーティーでも開いたのだろうと当たりをつけた。数週間前にも、そしてそのずっとずっと前にも、デュースはそのパーティーに遭遇したことがあった。
 薬物中毒の若者はつまらなくて面白みのない人生に飽きて、或いはありとあらゆるストレスから逃げたくて薬物に手を出すそうだ。往々にして映画にされがちな彼ら社会不適合者の姿や生き様は映画のようなスタイリッシュさはなく、素晴らしい音楽がつくわけでもない。リアルは酒と煙草の臭いがする薄暗いストリートに詰まっているのだ、この場所は世間の人々が追い求める豊かさ――健康、家庭、愛情、出世、環境にいい新車、薄型の大型テレビ、保険、固定金利の住宅ローン――からかけ離れている。
 隣を歩く同い年の友人も注射器に気がついたらしく、なあ、とデュースに声をかけた。

「ユアン、やってるらしいぜ」
「……薬を?」
「そ、マジカルドラッグ。やべぇよな」

 やべぇよな、と言いつつも少年は笑っていた。危機感の薄いへらりとした笑顔だった。次にやるとしたらこいつだなと思いながらも相槌を打ち、適当に話を合わせてやると上機嫌な笑い声が一帯に響いた。お喋りな友人は話の半分以上を聞き流されているとも知らずに喋り、話題を変えてはまた喋っている。「へえ」と「ああ」を繰り返すデュースが唇に親指を這わせると乾き始めていた血液が皮膚についたが、それを拭うのも面倒くさく思えてそのままポケットに突っ込んだ。
「そういや」半歩先を行く友人が少し振り返った。

「お前、最近付き合い悪いよな」
「そうでもねぇだろ」
「いやいや、あるって。彼女ができたとか?」
「違ぇよ!!」

 彼女という単語に肩を跳ね上がらせ、見るからに動揺して見せたデュースに生あたたかい目が向く。疑ってくださいと言わんばかりの反応は面白さよりも呆れをもたらしたのか、少年はからかう素振りすら見せずにデュースのほうへと乗り出した。

「美人? かわいい?」
「だからちげーよ!!」
「隠さなくたっていいだろ。俺にも紹介して」

 やましいことを隠してなんかいない。確かに最近は仲間とあまりつるまなくなったし、付き合いが悪いと言われてしまった理由に心当たりもあるにはあるが、友人が想像しているようなことは億が一にもない。否定しようと躍起になっているせいか、それとも思いがけない指摘を受けて照れたのか、デュースの顔は真っ赤だった。

「女と話せないデュースに彼女かあ。キスとかできんのかよ」

 何が楽しいのかゲラゲラと笑っている友人の言葉にデュースは今度こそ立ち止まった。雪が降るような寒さだというのに身体中が暑くて溶けてしまいそうだった。喧嘩で大立ち回りするのに邪魔になるからと厚着はしていない。暑がりでもない。それなのに暑い。雪が降れば、自分の周りの雪だけが溶けてしまうのではないかと思うほど。
 あの女の笑顔が頭の真ん中に浮かんで胸が苦しい。苦しい? いやなんでだよおかしいだろ。あの人はキスだとかにはちっとも関係ない。
 考えないように意識を切り替えようとしても頭の中から彼女が消えてくれない。それどころかモルド・アップルの味や香り、彼女がつけている少し背伸びした香水の匂いを思い出してしまう。そのことにデュースは苛立つよりも戸惑った。
 下心はない。ないよな?

「ふーん。マジで好きなんじゃん」
「好き……? 違う、俺は――」
「うわ、なんだ?」

 別に惚れてなんかない、と続こうとした言葉が甲高い声に遮られ、移り気な友人の両目は更に奥まった狭い通りへと動いた。トラブルだろうか、灯り一つないか細い道で若い女と男が言い合いをしている。こちらからでは内容を聞き取れないものの女の姿かたちや服装には見覚えがありすぎた。
「おい、デュース!?」考えるよりも先に身体が動いた。友人の声も無視して突っ走ると白煙のような吐息が唇から漏れて、裂けた唇がほんの少しだけ湿りを帯びる。早く走りたい。どうしたらもっと速く走れる? 今は、とにかく彼女のそばに行きたかった。

「もう近づかないでよ……!! あんたとは別れたんだから!!」
「別れるもんか! オレらはどうせ変われねえんだ!!」

 十八歳の彼女よりも年上であろう上背のある男は立っているだけで相応の威圧感があった。女は声を張り上げ顎を上げて男を睨みつけているが、あまりに無謀だと思った。平均的な身長といえども華奢で細身な彼女では力負けしてしまうだろう。
 痛々しい姿を見るのはもういやだった。デュースの足音に気づいた女は両目を見開き、デュースを凝視している。
 ぺらぺらと喋る男はその様子に気づきもせずに続けた。

「なあ、ナマエ。言うこと聞けよ。オレらみたいなクズはクソみてえな場所にしかいられないんだ」

 一変して気持ちが悪いほど穏やかになった男の声が耳に入り、デュースはそこでようやく女の名前を知った。お姉さんでもなくあんたでもない本当の名前は彼女の口から聞きたかったと思う自分のことがよくわからなくて、わからないままに地面を蹴った。
 ナマエの左手にピンキーリングはない。視界の端で捉えたそれになぜか安堵して、けれども力は抜かずに拳を振りかぶる。すると男は軽やかに飛んでいき、重い音を出しながら地面に叩きつけられた。

「立てよ、テメェ。だらだら寝てんな」
「誰だお前……?」
「女に手ェ上げる奴に教える名前なんてねぇよ」

 馬乗りになって胸ぐらを掴み上げ身体を揺すると流れ出た鼻血が手元に落ちてきた。不快なその温度に顔を歪め、デュースは怯えた表情の男を見下ろす。たとえ子どもだとしても、たとえ年下だとしても、女相手にしか強く出られない小心者に喧嘩慣れした少年が負けるはずもなかった。

「あの人に近寄んな」
「なんだぁガキ。ナマエに惚れてんのか」

 嘲るような、小馬鹿にするような顔だった。だが馬鹿にされる謂れはない。無性に腹が立ち、だというのにナマエの前では男の言葉を否定できない。ここまで来るともう、様々な屁理屈をこじつけても心を誤魔化すことはできなかった。
「そりゃあいい!」デュースの無言を肯定と捉えたらしい男は高らかに笑った。

「かわいそうになあ。この女は少し優しくしたらホイホイついてくるようなビッチだぜ? そのくせろくにヤらせてもくれない!」
「テメェ……!!」
「やめて!!」

 デュースが振り上げた腕にナマエが縋りついた。泣いているかと、悲しんでいるかと思った。もしくは、この男にまだ情があって、庇っているのかと。

「ごめんね。あとで怒って」

 デュースの予想を裏切り、囁く声が鼓膜を掠めた。顔と顔が近い。近すぎて、彼女の唇が耳たぶに触れた。まるで、身体中の熱が左の耳に集まっているようだった。なんに対しての謝罪なのかわからず、そしてどうしてこんなに距離が近いのかわからず、男を殴ろうとしていたことも忘れてただ混乱する。
 きっと一秒にも満たない。瞬間に等しい時間のあいだに冷たい手のひらがデュースの頬を包み無理やり顔を動かされた。

「は……!?」

 ナマエの唇は柔らかかった。あまりのことに仰け反るデュースの身体を引っ張った彼女はデュースの背中に腕を回すと、唇と唇がぴったりくっつくように何度もキスをした。逃げても逃げても唇が追ってくる。伏せられた長い睫毛を見ていられなくなり目を閉じたものの、視覚が失われたことで触覚がより鋭敏になっただけで心臓が破裂しそうだった。
 男の胸ぐらを掴む手から力が抜け、厚手の布が手のひらをすり抜けていく。頭を強かに打ち付けた男の呻く声が聞こえたような気もするが、そんなことは気にしていられない。
 唇を軽く吸われたのを最後にようやく離れてくれたかと思えば、今度は手のひらで口元を覆われた。甘えるような仕草でデュースの首元や耳に擦り寄った彼女は小声で「何も言わないで」と言うと、眉を吊り上げて叫んでいる男を見下ろした。

「わたし、この子と付き合ってるの。こんな風に何度もキスもしたしエッチもしたし、あんたにはさせないプレイもたくさんした」
「嘘をつくな! 浮気だ!!」
「浮気? 笑わせないでよ。わたしとヤれないからって他所に女作ってたくせに」

 違う! と喚く男を見下ろすナマエの眼光は鋭く冷たい。キスのあとに続いた衝撃的な言葉の数々によって放心に近い状態に陥っているデュースを置いて二人の会話は進み、いつの間にか彼らのそばに来ていた友人もナマエとデュース、男の三人の顔を見比べては混乱しているようだった。

「なに、どういうこと。お前、やっぱ彼女いるんじゃん。クソ修羅場でウケるわ」
「ちが……くねぇ、けど」

 反射的に飛び出しかけた否定を押し込み友人とともに事の成り行きを見守っていると、ナマエが腕を振り上げて男の頬を叩いた。突然の出来事に呆然としている男はぽかんと口を開け、鼻血も垂れ流したままナマエを見上げている。反撃されるとは夢にも思っていなかったのだろう。間抜けな醜態を晒す男を見つめ返すナマエは射殺すような光を瞳に乗せ、口紅が落ちても艶やかなままの口をゆっくりと開いた。

「くたばれ、クズ野郎」

 笑えてくるほど痛快な一言だった。強烈なスラングを浴びせたナマエはふんと鼻を鳴らすと、デュースの友人に「この子、借りていい?」と笑った。相変わらずの変わり身の早さにある種の尊敬すら覚えそうだ。綺麗なお姉さんの愛らしい笑顔にすっかり鼻の下を伸ばしている友人は素早く何度も頷き、このおっさんは僕に任せといてください! と凛々しく胸を張ると、雑な手つきで男の胸ぐらを掴んだ。齢十五にして一八〇センチを超える長身と鍛え上げられた肉体を前にして反抗できる猛者はそういない。それをわかっているらしいナマエは満足げにまた笑い、石のように固まっているデュースの腕に細い手や腕を巻きつけた。微妙に当たっている柔らかさについて思い当たらないほど鈍くはないが、女性に対する免疫がほとんどないデュースはやはり固まるしかない。

「殺さないでね」
「まさか! 殺しませんよ!」
「殴るのもダメ。死んじゃうから」

 じゃあ叩くのは? とにこやかに聞くサイコパスな友人に顔を真っ青にさせた男はみっともない叫び声を上げ、両足をふらつかせながら立ち上がるとふらふらと酔っ払いのような足取りで走り去った。ぽたぽたと落ちた鼻血の血痕が狭い路地の奥まで続き、取り残された三人はあっという間に消えた男の足音を聞き届けた。

「あいつ、本当はすごいビビりだって知らなかった。なんでわたしは怖がってたんだろ。デュースくんがいなかったら、ずっと言いなりだったのかな」

 悲しげにナマエが呟き、ようやく平常心を取り戻し始めたデュースは唇を噛んだ。今まで彼女が受けた苦痛と恐怖を考えて、とてつもなく悲しくなったからだ。
 彼ら二人の雰囲気で自分は邪魔者だと悟ったらしい友人は無言で立ち去り、今はもう二人きりだ。老朽化した街灯が唸り、ジジジ、と音を鳴らす。先ほどキスをされた唇が目の前にあるのは心臓に悪い。目を逸らし続けているデュースをからかうこともなく、ナマエが腕を引く。

「おいで。新しい家に案内してあげる」
「新しい家……?」
「別れるために引っ越したの」

 電車に乗ったらすぐだよ。
 モルド・アップル飲もうか、といつもみたいに笑うナマエに抵抗できるはずがない。出会った頃より僅かに背が伸びたデュースは前を向いて歩く彼女のつむじを見下ろし、突然に、唐突に、胸のなかに湧き上がった痛みに息を飲んだ。小さな背中を見ていると、強くあろうとする姿勢を見ていると、心臓を押し潰されるような痛みを感じる。
 下心はない。ないはずだった。
 ナマエの新居は電車に乗って三十分ほどの場所にある。以前の住処からは遠く離れたその街は、遅い時間帯でも人出が多く賑わっていた。

「あいつね、人が多いところは本当にダメだったからここにしたんだ。治安も良いし」
「……そうなんすか」

 ソファに座り、マグカップを手にするデュースは緊張した面持ちで頷いた。もはや、スパイス入りのアップルジュースの味すらわからない。色つきの温かい水でも飲んでいる気分だった。
 ナマエをそれとなく見やり、後悔する。ティーカップの縁に当たっている唇があの感触を思い出させて、恥ずかしさと気まずさで死にたくなった。ホットティーを見下ろしながらもデュースの視線には気づいていたらしい、ナマエがぽつりと聞いた。

「キス、初めてだった?」
「な……っ」
「そっか。ごめんね」

 まだ何も言ってねぇだろ! と心の中で叫んでもナマエにはもちろん聞こえない。申し訳なさそうに眉を下げ、デュースのマグカップと自分のティーカップをローテーブルに置いた彼女は壁掛け時計を一瞥し「日付変わったね」と言った。
 もう、終電もない。誰もが寝静まるそんな時間だった。

「わたし、この時期が嫌いだった」
「……」
「みんなが幸せそうだから、なんだか、惨めになっちゃって」

 指先が頬に触れた。

「逃げてもいいよ」

 逃げられるものなら、と訴える瞳にデュースが映る。自然な仕草で、映画やドラマの主人公とヒロインのように、言葉を通わせることもなく唇が重なった。

「冬は誰かといたくなって苦しくならない?」
「……ナマエ、さん」
「いい響き。デュースくんはかわいいね」

 唇を離した合間にどうでもよくてくだらない会話が続く。やがてデュースの膝の上に乗り上げたナマエは彼の手を彼女自身の胸の上に置くと悪戯のようなキスを繰り返した。

「それ、以上は」
「興味ない?」

 興味がないと言えば真っ赤な嘘になる。答えを探して逡巡するデュースを見つめる瞳は熱っぽく、少しうるんでいる。押し黙ったデュースの上に完全に座ったナマエは柔らかい胸が彼の胸板に当たるのも気にせずに抱きつき、悪魔の甘言をそっと囁いた。

「おいで」

 彼女の「おいで」を拒む方法は知らない。しかし知っていたってどうにかなったとは思えない。悪魔だと思った。十五の、何も知らない未熟な少年を巧みに誘い出す悪魔だと。
 立ち上がったナマエは寝室の扉を開けるなりワンピースを脱ぎ捨て、慌てて背中を向けたデュースに抱きついた。彼の心臓の音より、ナマエの心臓の音のほうがずっと速かった。

「興味、ないの」

 不安げな声を出されて、我慢できる男がいるだろうか。いるわけがない。むしろ、デュースはよく耐えたほうだった。ソファを跨いでナマエをベッドに押し倒せばベッドが迷惑そうに軋み、シーツに皺が寄った。

「……もっと、優しくして」
「……すいません」

 ナマエは「んーん」と頭を振り、下着のホックを外した。もったいぶるような動きで肩紐から腕を抜き床に落とすと、ナマエの肌を見つめるデュースの手を柔らかな乳房の上に乗せた。

「わたし、逮捕されちゃうかも」

 最後の最後に大人ぶった年上の彼女は悪戯が成功した子どものように笑い、デュースのぎこちないキスに応えた。


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