非言語の領域で 02


 校舎内ですれ違ったらどうしようか。
 テキストとノート代わりのざら紙を片手に欠伸をしながら古びた木製の椅子に腰掛けると、椅子が迷惑そうにぎしりと軋んだ。おざなりに投げ出したテキストに並ぶ「魔法薬学入門」の文字を目で追ったラギーは意味もなく息を吐き出して、机に突っ伏し額をぐりぐりと押しつける。
 ありえないことを考えている自覚はある。1年生のラギーが2年生であるナマエとすれ違う可能性なんて限りなく低い。そうでなくとも世界各国から優秀な学生を数百人と集め、一国の宮殿並に広大な敷地を有しているナイトレイブンカレッジにおいて、知人ですらない生徒とばったり出くわすことなんて滅多にない。そもそも、名前を知りこそすれ入学してから3ヶ月近く経った今になって初めて互いの顔を見たナマエと、偶然校舎で会ったとしても会話らしい会話もできないだろう。
 加えて、わざとではないにしろナマエを盗み見していた負い目もある。荒くれ者が多いこの学園の紅一点であるナマエは男に警戒心を抱いているはずだ。まことしやかに囁かれている、大の男嫌いという噂が事実であるなら人魚姿の彼女を凝視していたラギーのことを変態だと思っているだろう。変態とまではいかなくても、気持ち悪いと思われているに違いない。
 だからこそ、校舎で顔を合わせたときに気まずい思いをするのはいやだった。
 けれどラギーは会いたくないと思いながらも、あの瞳をもう一度見たいと思っている。そこにはひりつくような恋愛感情は一切ない。確かに綺麗な人だと思うが、ナマエは「美人な先輩」という印象で留まっている。有り体に言えばその程度の感想であるし、おそらく大多数の生徒がラギーと同じように思っているだろう。「鑑賞用にぴったりだよな」とサバナクローの寮生が言っていたのを思い出し、ラギーはなんとなく彼の言わんとすることがわかるような気がした。
 ナマエは人間味がない。海で泳ぐ姿は高名な画家が丹精込めて描きあげた絵画のようだ。作り物じみていて、彼女の姿形は生き物らしい熱量をまったく感じられない。彼女の学年にはヴィル・シェーンハイトという圧倒的な美貌を持った生徒もいるが、ナマエはヴィルとはまた違ったうつくしさがある。

「ミョウジ先輩ってあの人だろ」
「あれだけ美人でも化け物なんだもんな」

 ラギーの大きな耳がぴくりと動いた。内緒話をするかのように声を潜めているクラスメイトの視線を辿ると、一人で廊下を歩くナマエがいた。彼女の手元のテキストを見るにこれから動物言語学の授業があるらしく、後輩たちの視線に気づくこともなく廊下を進んでいく。
 まさかこんなに早く校舎で見かけるとは思っていなかったラギーは面食らい、口をぽっかりと開けたままナマエの後ろ姿を目で追った。ひとつにまとめられた長い髪が彼女の歩みに合わせてゆらゆら揺れている。
 残念ながら淡い瞳は見えなかった。惜しいとは思うもののナマエを一目見ようと廊下側に押し寄せているクラスメイトたちのようにわざわざ立ち上がるのは気が進まなくて、瞳の色を思い出しながら頬杖をつく。なぜこういうときに限ってすぐに見つけてしまうのだろう。考えながら、ラギーは熟考する必要すらない愚問の答えを導き出した。
 オクタヴィネル寮で出会うまで、ナマエに対する興味関心がまったくなかったからだ。常人より容量の多い優秀な頭を持っているラギーでも、彼の心配の種である金と学業の二つのことを考えるだけで頭はいっぱいいっぱいになる。つまり、異性かつ上級生であるナマエに興味を抱く余裕はなく、「彼女になってくんねーかなあ」と言うクラスメイトたちの下世話な話に耳を貸すこともなかったラギーが今の今まで校舎やグラウンドでナマエを見かけたことがなくても、別段おかしくはない話なのだ。

「お、こっち見た」

 大きな耳がぴくりと動く。思考に耽り俯きがちになっていた顔を上げると、クラスメイトの言う通りだった。ナマエはこちらを振り返って僅かに口を開けている。思いがけないものを見つけたときの──昨日、廊下に立ち尽くすラギーに気づいたときと同じような表情を浮かべてほんの少しだけ笑った。きっと、彼女が笑っていると気づいたのはラギーだけだ。
 困ったように眉を下げるその仕草があまりにも人間らしくて、逆に戸惑ってしまう。

「すげー美人」
「怪物に見えねー」

 再び歩き出したナマエの後ろ姿をしばらく眺めていたクラスメイトの呟きを聴きながら、ラギーはとうに彼女のいなくなったその場所を見つめ続けた。急に興味を失せさせたクラスメイトの声が耳の奥でやけに響いたが、予鈴が鳴りトレインが教室に入る頃にはナマエのことだけが頭にあった。



 ナマエ・ミョウジは賢者の島の反対側──この惑星をそのままひっくり返した位置にある国の生まれだ。つまりナイトレイブンカレッジの裏側に存在するその国はツイステッドワンダーランドの共通語を使用しない数少ない土地のうちのひとつで、母国語を話す人間が大体数を占めていた。

「ナマエって、なに言ってるかわかんないよ」

 ナマエは意味の通じる言語を話せなかった。一族の他の者よりも魔物の血が濃い彼女は発声器官が人間の言語習得に不向きであったから、正しく発音しているつもりでも相手には正しく聞き取れなかったのだ。通っていたエレメンタリースクールでは心ない子どもたちに「エイリアン」と揶揄され、何度も馬鹿にされた。話せなくても言葉の意味と言葉の裏に隠された真意は理解できる彼女にとってスクールでの日々は苦痛でしかなく、母国語が駄目ならば共通語を習得するしかないと共通語に一縷の希望をかけたが、言葉を聞き取り理解することはできても話すことはついぞできなかった。努力をしてもすべては水泡に帰すと思い知らされるようで、ページが擦り切れるまで読み込まれた単語帳や文法書は目の届かないところ──彼女の部屋のクローゼットに隠している。手元に残していても悲しいだけだと思いつつ、胸に残る未練が処分させてくれなかった。

「ナマエちゃんって無口だね」

 ナマエとの距離を測りかねて、当たり障りなく呟いた同級生の表情を覚えている。ナマエを無邪気に傷つけるその言葉が忘れられない。
 ミドルスクールに上がる頃には言葉を発する行為自体が恐ろしく思えて、ナマエはどこにいても声を出さないようになった。しかし生まれつきの容姿と優れた魔力は彼女がひっそりと過ごすことを許さない。
 あえて話さないナマエは男子生徒のあいだでは高嶺の花に、女子生徒のあいだでは嫉妬の対象になっていた。あれだけ頭がいいのに話せないなんて、きっと気を引きたいだけなのよ。同じエレメンタリースクールからの同級生はナマエの事情をよく知らない生徒たちにそう吹き込んだ。それが幼さゆえの言葉だったかはわからない。きっと彼女に悪気があったわけではないのだろう。ただ純粋に、彼女がナマエのことをそういう女の子(、、、、、、、)と思っていただけだ。

「ナマエは愛想がないよなあ」
「女の子は笑顔のほうがかわいいのに」
「愛嬌がないのはお父さん譲りかしら?」

 ナマエの親戚たちは困り顔で、あるいは呆れ顔で言った。冗談めかして語られる言葉にはいっそ怖いくらいに悪意がなくて、彼らはナマエの両親が気を悪くしたのに気づくと酔った赤ら顔で誤魔化すように笑った。
 笑わないと嫌われるのだと彼らは言う。
 自分を取り巻く環境が少しでもよくなるのならとナマエは笑おうとした。すると、どうだろう。無責任な大人たちはちっとも悪びれていない顔で「いつもへらへらして」と言った。愛想が、愛嬌が、笑顔が、ナマエにもたらしたのはたったそれだけの言葉だった。
 あなたたちが言ったから笑ったのに。あなたたちが後ろ指差すから笑ったのに。大人は無責任に自分の理想を押しつける。
 ナマエは笑うのをやめた。

「でもあの子は女の子だぞ。なにかあったら──」
「でも、あの子の安全のためなら……」

 転機はナマエが15歳になったある日訪れる。少しだけ開いたリビングの扉から漏れ聞こえる父と母の声に息を潜めながら、ナマエは両手を握りしめた。心臓の音がどくどくと鳴っている。指は冷たいのに汗をかいていた。

「それでも、男子校になんて」

 父は眉根を寄せたまま複雑そうに声を落とす。会話は「是非、お嬢さんをナイトレイブンカレッジかロイヤルソードアカデミーに」という政府からの提案が主たる内容だったが、ナマエの両親は男子校に入学させられるかもしれない一人娘を案じて、いまいち踏み切れなかった。
 歌であらゆるものを操るナマエのユニーク魔法は歌声だけで人を殺せる。海の怪物の先祖返りだと目されるその力は、なるほど確かに十代の少女が手にするにはあまりにも危なっかしい。未成年の未熟さと弱さにつけ入り、強力な魔法を犯罪に利用する悪人はいつの時代にもどこの国にもいる。そういった犯罪や事件から未成年者を守るために施行されたのが魔法教育省が定めるところの〈暴走及びオーバーブロットの頻発、または他者を危険に晒す可能性のあるユニーク魔法に関する法律〉である。この法律は、禁術相当のユニーク魔法を使用する未成年者が魔法教育省の指定した学校で魔法を学ぶための特別措置だ。個人の能力に応じて入学できる学校を変更することもできるが、共通語はおろか母国語も話せないナマエの場合は全寮制かつ厳重な警備体制が敷かれている学校への入学のみが許可された。
 言葉を話せないということは助けを呼べないということだ。それだけで犯罪に巻き込まれる可能性はうんと高くなる。
 生徒が自由に出入りできる通学制の学校は人の出入りが多いだけ部外者が入り込む隙が生まれ、僅かであっても警備が薄い学校では安全を考慮する意味すらなくなる。だからこその“全寮制かつ厳重な警備体制が敷かれている学校”なのだが、その条件を満たす高度な魔法を学ぶための学校はなかなかない。事実、そんなに都合のいい共学制の高等学校はなかった。
 しかし、政府が妥協した結果としてナマエの身になにか起これば、妥協を許した者が世間に痛烈に叩きのめされるであろうことは火を見るよりも明らかだ。つい先日起きた未成年者を利用した凶悪魔法犯罪にて魔法教育省と魔法執行官の失態が露呈し、「無能」と徹底的に叩かれたばかりである。一度地に落ちた評価をさらに落とすわけにはいかない政府はナマエに対して少しも譲歩しなかった。
 条件すべてを綺麗に満たす学校はもはや一校しかなく、陸海空の交通機関を使用しなければとても辿り着けない絶海の孤島に位置するナイトレイブンカレッジやロイヤルソードアカデミーはあまりにもお誂え向きだった。

〈行く〉

 ナマエはどうしたい?
 娘の意見を尊重しようとする両親に、ナマエは文字を打ち込んだスマートフォンの画面を見せた。でも、と母が心配そうに口を開く。「本当にいいのかい?」と問う父にナマエは大きく頷いて、二人を安心させるためにニコリと笑った。
 両親は大事な一人娘が故郷に残ることを望んでいるとわかっていても、彼女はそうしなかった。当時の彼女は、無責任な親戚や大嫌いな同級生と離れたくてたまらなかったのだ。

 たとえ、そこが男子校であっても。


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