非言語の領域で 01


 ラギーがモストロ・ラウンジでアルバイトを始めたのは、ちょうど生活に困窮していた頃だ。豊かとは言えない、むしろ、貧民街(スラム)という社会の最下層からナイトレイブンカレッジへと進学した彼に金に困らない日などあってないようなものだったが、そのときはいつにも増して生計を立てるのに苦労していた。
 入学当初のラギーはジャケットすら買えず、決して安価ではない教材とたった一組のシャツとスラックスを買うので精一杯だった。
 淡雪がちらつく真冬にシャツ一枚で過ごせば貧乏と笑われる。試験でいい点を取れば所詮ハイエナはハイエナだと揶揄される。誰かの貴重品がなくなれば決まって真っ先に疑われる。
 その度に、ラギーはへらりと笑った。
 プライドなんて、生きるためにはなんの役にも立たない。弱肉強食のこの世の中、誇りや矜恃を後生大事に抱えていたところで、生き残れるはずがないのだから。
 クラスメイトたちがソーシャルゲームに興じ、放課後や休日に遊び呆けているあいだも、ラギーは学園生活を送る傍らで働き続けた。
 いくつものバイトを掛け持ちし、値切れる商品は極限まで値切り、1マドルの浪費すら惜しみ、とことん生活を切り詰め、必要最低限なものだけを手に入れる──そんな生活でも、毎日どこかで誰かが殺され、毎日誰かが人攫いに遭うスラムに比べれば、人死や誘拐のないナイトレイブンカレッジは天国だった。
 清潔な寝床、綺麗な水、ここにいれば命を狙われないという安心感。人々が当たり前に享受するそれは、ラギーにとっては当たり前ではない。だからこそ、一生分のとんでもない贅沢をしている気分になるのも、今もなお貧しい生活に喘いでいるであろうスラムの仲間たちに申し訳なく思うのも、仕方のないことだった。
 ナイトレイブンカレッジで綺麗なものを見る度に、ラギーは複雑な気持ちになる。ここにはこんなにも綺麗なものが溢れているのに、ラギーの故郷はそうではない。掃き溜めのようなあの場所にはいつも、下水の臭いと腐臭が漂っていた。

「それ、最新の機種じゃん」
「親が買ってくれたんだよね」
「うーわ、ずりぃ」

 ナイトレイブンカレッジの大多数の生徒は、綺麗なものを持っている。高価な装飾品であったりブランドの衣服であったりを、当然のように。彼らにとって、それらは恩恵ではない。日常に有り触れたモノにしかなり得ない。ラギーからすればひどく綺麗なものもぞんざいに扱われ、消費され、要らなくなれば簡単に捨てられる。そんな風に、誰からも見向きもされないガラクタへと成り果てる。
 モノを簡単に消費し、なんとも思わずにゴミ箱に投げ捨てる彼らをずるいと思ったことはない。
 常のラギーであれば「オレなら高値で売り捌くのに」と考えるし、その売買で手に入れた資金をどこに、どんな風に使うかまで考える。ところが、本当にごく稀に、心の片隅に浮かぶほんの少しの劣等感に溜息をつきたくなるときもあった。
 生まれ故郷から遠く離れた土地も、様々な人種がサラダボウルのように混ざり合う寮生活も、あまりに違いすぎる価値観も、16歳の少年の心を僅かばかり曇らせるには十分で、そういうときにはいつも、なぜだか祖母の声が聞きたくてたまらなくなった。
 ナイトレイブンカレッジに入学したばかりの頃のラギーには、未だ飲み下せない複雑な感情があったのだ。


  ◇


 同級生のアズール・アーシェングロットがカフェを経営するにあたって人手を求めている、という噂を聞きつけ、見事にバイトとして雇われたラギーがオクタヴィネル寮で見たものは正しく衝撃そのものだった。
 壁と天井はアクリルガラスで覆われ、緩やかなカーブを描く天井の近くを魚の群れが泳ぐ。どこを見てもガラスの外には海が広がっており、遥か上にあるであろう海面からは太陽の光が伸び、白く揺れていた。魚の大群が銀色の体を翻し、鱗に反射した日光が散り散りに輝く。
 優に2メートルはあろうかというエイが白い腹を見せながら、ラギーの立っている場所の真上を悠然と過ぎていく。波の揺らぎすら感じられない雄大な静謐に言葉を失ったのも束の間、大きな目を瞬かせたラギーは四方八方に目をやり、そして盛大に溜息をついた。

 ──なんだこれ。金かけすぎだろ。

 率直に、ラギーは見蕩れるでもなく呆れ返った。一体いくらつぎ込んだんだよ、と。アズールにモストロ・ラウンジを案内されたときも同じようなことを考えたが、あのラウンジとは違い、ラギーが現在立っているのは非常時に使用するための廊下だ。毎日使う場所ではない。

「……金かけすぎだろ」

 日常的に使う廊下ならまだしも。ここは滅多に使われることもない。
 ラギーしかいない廊下は静まり返り、モストロ・ラウンジの事務室側へと続く扉の向こう側からは寮生たちの楽しげな声が響いている。この廊下に立つラギーを誰も見ていない。まして、誰一人として気にも留めていない。
 非常時にしか役目を果たさないような、しかも誰からも忘れ去られている廊下に、一体どれほどの価値があるというのだろうか。
 ナイトレイブンカレッジとて、ロイヤルソードアカデミーと双璧をなす名門校である。そこらの教育機関よりも王族や大富豪の子息が多く在籍しているという自負からか、権威者の機嫌を損ねないための忖度からか、それとも世間への見栄からか──この学園はあらゆるものにとにかく金をかけている。それは入学初日からわかりきっていたことだが、非常時用の廊下にまで多額の金を使う学園側の方針にラギーは引いてしまった。
 ジャケット一着すら買えない自分がバカバカしく思えてくる。ラギーは呆れ顔のまま踵を返し、なんとなくアクリルガラスの外を見やった。
 代わり映えのしない海があると思っていた。ただ青いだけの、青すぎる海があるだけだと。

「は……?」

 心が震えるとは、こういうことを言うのだと思った。
 銀のあぶくが生白い身体を覆うように躍り出る。海底の砂利を巻き上げながら、長くなだらかな尾びれを揺らす少女はラギーにも気づかぬまま泳ぎ続けていた。御伽噺の姫君のような愛らしさはない。ただ、海底に沈む石像のように、神に祈りを捧げる修道女のように、神秘的なうつくしさを湛えていた。
 ラギーは彼女を知っている。その名前と、女性でありながらこの学園に入学した理由だけならば知っていた。
 ナイトレイブンカレッジで綺麗なものを見る度に、ラギーは複雑な気持ちになる。所有者にすら見向きもされない、生徒たちの当たり前(、、、、)として存在するそれらを哀れに思う。
 けれど、彼女──ナマエ・ミョウジという少女は誰にとっても当たり前の存在というわけではない。
 廊下を横切るナマエの影をぼんやりと見つめた。姿形は人魚のそれに近しいが、顔や上半身は生身の人間らしい色をしている。水の浮力によって持ち上がった彼女のネックレスは海の中でチカチカと光り、海よりもずっと淡い色の瞳がやけに目立っていた。
 彼女は海の魔物と人間の血を引いている。
 その魔物にこれといった正式名称はない。海の怪物、と形容される彼らは美しい歌声に魔力を秘め、強大な力を有するがゆえに人間と魔法士によって住処を追われ、やがて陸へと上がった。すなわち彼らは尾びれと歌声を海に捨て、新たに手に入れた二本の脚で歩き、陸の人間と交わったのだ。大人から子どもへ、老人から若者へ。世代を経るごとに力を弱まらせ、そうして人の世に紛れながら生きてきた彼らの血筋は、消滅の一途を辿っている。そんな話を、どこかで聞いたことがあった。
 魔法史の教科書に出てくるような魔物を間近に捉えるのは初めてのことだ。不躾にも、食い入るように彼女を見つめるラギーは猫背の背中をぐっと仰け反らせ、数歩後ずさりした。

「あ」

 不意に、下を見たナマエと目が合った。
 彼女とて、獣人の少年が真下の廊下にいるとは予想だにしていない。白い肩が大袈裟なほどに揺れ、海にとけて消えそうな淡い色の瞳があっという間に見開かれる。人間らしさの滲む素振りと表情に、彼女と目が合い戸惑っていたラギーも驚いて、瞬く。

「……」

 なにを言おうとも、ガラスの向こうにいるナマエに声は届かない。ラギーとナマエはただただ見つめ合った。淡い瞳は、なおも彼を見下ろしている。
 時間にすればたった数秒の出来事だ。一日のうちの一瞬にすら満たない時間。だが、たった数秒間の出来事だとしても目の裏に灼けついてしまえば時間の経過など関係ない。自分の呼吸が止まったのか、それとも時間自体が止まってしまったのか──そんなくだらないことを考えてしまった。
 確かに、泡の狭間から瞳が見えたのだ。真正面から、ラギーだけを見つめる瞳が。
 遠くでオクタヴィネルの寮生たちの声が聞こえる。戻らなければと思っている。けれど足が動かない。ラギーはただ立ち尽くしている。
 ──この世には決して金では買えないものがあって、金では売れないものがある。幼いラギーにそう教えたのは祖母だった。
 うつくしさの価値を損得勘定で判断してきたラギーにとって、目の前の魔物はまさしく霹靂だ。吐息を奪うほどに綺麗なものがラギーの目だけに触れ、そこにある。ガラスを隔てた向こう側にある。それを、その衝撃を、言葉にしようものなら陳腐な表現しかできないだろう。

 ナマエは不安げに眉を下げたかと思えば、尾びれを揺らしてラギーの視界から姿を消した。誰もいない廊下で立ち竦む彼を残し、呑まれそうなほど深い青色の彼方へと。


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