非言語の領域で 03


 ラギーがナマエを認識する前からナマエはラギー・ブッチという少年を知っていた。おそらくは、学園の中庭の花壇に植えられたコスモスが蕾を咲かせた頃だ。
 人の往来が多い場所を苦手とするナマエはその日も例に漏れず中庭の片隅で昼食を取っていたが、秋雨前線が賢者の島の上空に留まっていることもあり生憎と風が強く、どこかに飛んでいったお気に入りのランチクロスを探していた。そう遠くには行っていないはず、と希望を込めながら手当り次第に探す彼女は花壇の植え込みや周囲の木々、若々しい色合いの芝生の上を見渡すと、太い木の幹に寄りかかって眠る誰かに気づいた。ふわふわの大きな耳の先端で、モンキチョウが羽を休めている。蝶の黄色い羽が視認できるほどの距離まで近づいても獣人の少年は起きなかった。
 長い睫毛の下には濃いくまが刻まれていて、幼い顔立ちに影が差しているように見え、あどけない寝顔の中に似つかわしくない疲れが鮮烈に滲んでいた。

「んん……」

 少年は母親に起こされてむずがる子どもみたいに眉を寄せた。それでも起きる気配はなく、瞼は閉じたままだ。寒いのか、彼は時おり身震いしては自分自身を抱きしめるように身を丸める。ひゅう、と風が吹いて木漏れ日に溶け込みそうな色の前髪が攫われて、少し焼けた肌が淡い日光の光に晒された。
 秋、晩夏はすでに移ろいでいた。夏の気配は入道雲と共に去り、もう肌寒い時期だというのに彼は白いシャツ一枚で寝ている。
 獣人はそのほとんどが夕焼けの草原出身であるから、極端な寒さを好まないというのが通説だ。生まれてからずっと陸で生活しているとは言っても海の魔物の血を引くナマエが暑い夏を好まないように、彼もまた凍える冬を好まないだろう。遮蔽物が一切ない広々とした中庭には風が吹き込み、地面を撫であげる風は落ち葉や散った花弁を天高くへと運んでいる。このままでは風邪をひいてしまうかもしれない。
 けれど、少年の名前を知らないナマエには見知らぬ男子生徒の肩を叩く勇気はなく、ましてや意味をなさない言葉で声をかける勇気もなかった。
 あのときの男の子は風邪をひかなかっただろうか。数ヶ月が経って冬が訪れた今もタンポポのようにやわらかそうな髪を覚えているのは、入学以来、男子生徒をまじまじと見たことがなかったからだろう。



 海底に広がる砂礫が細かな金や銀のように水の世界を彩った。藍色に息づく無数の生命はナマエの目にも入らないスピードで生きては衰える。

「ナマエさんには申し訳ありませんが、人目につくところでは泳がないでくださると助かります。まあ、誰かに見られたこともないあなたなら大丈夫だと思いますが……」

 1年生にして入学数ヶ月でオクタヴィネル寮の寮長の座についたアズール・アーシェングロットは神経質そうな手つきで眼鏡のブリッジを押し上げた。モストロ・ラウンジのシフト表と帳簿を手元に置き、新メニューを考えているらしい彼は必要な材料やコストを計算している。ペンがノートを滑る音が軽快に響く中、ナマエは青っぽいインクが綴る端正な文字を見下ろした。
 ついとアズールの目が動く。

「よろしいですか?」

 ナマエはアズールを他所にポケットからスマートフォンを取り出し、使い慣れたメモ機能アプリを開いた。ト、トト、と指先が液晶画面を滑る音が聞こえる。礼儀や礼節に手厳しいアズールの目が非難に光ることはなく、ナマエが文字を打ち終えるのを静かに待った。

「〈わかってます。ありがとう。〉」
「お礼を言うのはこちらのほうですよ」

 アズールがわかりやすくほっと息をついたのを見て、ナマエもスマートフォンをしまう。朝から意思疎通の手段として使っていたからか、充電は30%を切っていた。
 ちらりと室内のカレンダーを見やる。実用的なものを好むアズールらしいシンプルなカレンダーは所々、誰かの落書きで汚されている。今日の日付が出席番号と同じナマエは一限目の錬金術の授業からずっと当てられ続けていた。個々の実力を重んじるナイトレイブンカレッジの教師陣は贔屓しない。それは唯一の女子生徒であるナマエも例外ではなく、性差を加味した上で彼女が男子生徒のあいだで孤立しないように気を回してくれているということはよくわかっていた。ナマエが授業中に当てられた際には彼女がノートの端っこに書き込んだ文字を隣の生徒が代わりに読み上げてくれるのも、他の生徒と彼女を差別せず、ただ甘やかさずに同じように扱ってくれた教師たちのおかげだ。

「それでは、僕はここで。ナマエさんもお帰りの際はお気をつけて」

 ナマエが小さく手を振るとアズールも仕方がなさそうに振り返す。いつも一緒にいる双子の兄弟よりも幾分華奢な背中を見送って、非常口の扉を開けると目の前には真っ青な海が広がる。
 時々、ナマエはオクタヴィネル寮の海を借りている。寝泊まりや入浴といった私生活は教職員用の寮で過ごしているが、ナイトレイブンカレッジには尾びれを伸ばして泳げるような場所は学園の池以外にはない。しかし彼女は女性の身であるので、魔法薬学室の前にある藻だらけの池で泳ぐなど以ての外だ。

「なるほど。どこでもいいからどこかで泳ぎたい、と……。確かに、あなたは海との繋がりが強いでしょうからねえ」

 ナマエからの相談を受けた学園長のディア・クロウリーは代替案として「オクタヴィネルの海ならば都合がいいでしょう」という言葉を口にした。鋭い爪がついた手袋で顎先を撫で、ニッコリと笑った彼は続けざまに「私、優しいので」と恍惚とした表情で宣うと、次の日には寮長の許可を取り付けてきた。慈悲深い魔女の精神に基づいた寮であるからなのか、単にナマエ一人が寮に入っても問題ないと思ったからなのか、拍子抜けするくらいにあっさりと許可されたことに驚いて、彼女はオクタヴィネル寮に本当に入ってもいいのか迷ったほどだ。
 それから一年が経つと気兼ねなく海を拝借するようになったが、人間ではない姿を他人に見られることをひどく厭う彼女は決まって早朝か深夜にだけ海に潜る。今年から営業を開始するモストロ・ラウンジの責任者たるアズールに釘を刺されなくても人の目に触れる場所で泳ぐつもりは毛頭なかった。
 だから、タンポポのようなあの少年と目が合ったときにはどうして、と思った。
 手を伸ばしたら届きそうな距離にいた少年は今度は絶対に届かないところにいた。彼が透明なガラスの向こう側で「あ」と声をあげたであろうことはナマエにもわかり、頭の中を整理できないままに混乱する。
 彼は、まるで綺麗なものを見るみたいにナマエを見つめていた。水に浸された冷たい身体が少しだけ熱くなったのは気のせいではないだろう。あんなにも無邪気に輝く瞳を見たのはきっと初めてで、彼女はどんな風に彼の視線から逃れたらいいのかわからなかった。
 名前もクラスも声も知らない。一度、中庭で眠りこける彼を見ただけだ。印象に残りこそしても友人でも知人でもない彼らはお互いのことをあまりにも知らない。

「ああ、それはおそらくラギーさんですね。どちらで会ったんです?」

 1年生ながらに膨大な情報を手中に収めているアズールに聞いたときも特別な感情はなかった。人を狂わせ壊すほどの激情はなく、ただ気になっただけだ。
 帳簿に視線を落とすアズールは何の気なしに答え、細い片眉を不可解そうに持ち上げた。

「まあ、ここは聞かないでおいてあげましょう」

 大して興味はなかったらしいアズールが帳簿をめくる。ナマエは気づかれないように息を吐き、海よりも深そうな追求から逃れられたことに安堵した。もしもナマエが当たり前のように話せたなら追求の手は緩まなかっただろう。

「ラギーさんなら月曜と木曜にシフトに入りますよ」

 帳簿の細々とした数字と睨めっこしている彼は細く長い脚を組み替えると、インクだらけのページから目を離して彼女を見つめた。オクタヴィネル寮の談話室には二人しかいない。レンズ越しの瞳に試すような光が灯るのを見てナマエは訳もなく肩身が狭くなる。悪いことをしていないのに悪さをしてしまったような心地になるのは、有無を言わせぬ彼の雰囲気がそうさせているのだろう。年上として不甲斐ないと思いながら、ナマエはニコニコと人のいい笑顔を貼り付けるアズールを見やる。

「取引でもいかがです」
「……」
「そんなに身構えないで。悪いようにはしませんよ」

 アズール・アーシェングロットがナマエに対して少しばかり優しいのは、利用価値が十分にあるからだ。人当たりのいい態度の裏に策略を隠しおおせ、ナマエのユニーク魔法を虎視眈々と狙っている。契約(、、)を結んだのが前寮長ではなくアズール本人であったなら、まず間違いなく等価となる条件を出していたはずだ。それゆえに実に惜しく、勿体ない。
 ナマエは気まずげに視線を逸らす。くすくすと笑うアズールは内緒話でもするかのように悪どく囁いた。

「たとえば、恋の妙薬なんて」


  ◇


「あの人、いつも一人なんスね」
「あ゛? あー、あいつか」

 ラギーの視線を追ったレオナは鼻で笑った。冷淡に小馬鹿にしているようにも見えるその笑い方は必ずしも相手を見下しているわけではないのだと気づいたのは、レオナにお古のジャケットを与えられたときだった。おそらくただの癖だ。幼い頃から尊大であることが許される王族の子息らしい態度でもある。いつも王子様らしさの欠片もないが、どことなく気品を感じられる振る舞いを見る度にラギーはこの人も曲がりなりにも王族だったわと思い直す。
 大きな一口でデラックスメンチカツサンドを頬張ると、レオナは口の端についたソースを指先で拭いながらナマエを見やった。彼女は植物園で薬草の世話をしているらしい。ラギーとレオナに気づかないまま、彼らに背を向ける形で水をやっている。しゃがんでいる彼女の手はステンレス製のジョウロを握っていた。あの空間だけを切り取ると、男子校の植物園にはとても見えない。

「口説いてんのがクロウリーどもに見つかったらダルいからな」
「口説くって」
「女に飢えた馬鹿がどれだけいると思ってんだよ。あいつは野生動物の檻に放り込まれた兎も同然だろ」

 ナマエ・ミョウジが入学した当初、ナイトレイブンカレッジはそれはもうお祭り騒ぎ状態だった。一度目の3年生をしていたレオナのクラスメイトたちもナマエを一目だけでも見ようと下級生のクラスに顔を出していたほどだ。レオナ本人は女に熱を上げる彼らを心底くだらないと思っていたが、校舎を歩くだけで見世物にされるナマエのことはそれなりに哀れに思っている。
 上級生に言い寄られるナマエを何度も見てきた。新学期に入ってようやく落ち着きを見せ始めているとはいえ、彼女の話はいつも男子生徒たちの話題の中心になる。
 自分の名前が出る下世話な話は、いやでもナマエの耳に入っているだろう。
 クロウリー含む教師陣が尽力しても、彼らも人の子であるからどこかで隙は生まれる。その隙を突いてナマエを口説く輩が山ほどいるのだから厄介この上ない。

「おい」

 レオナはカツサンドを地面に置いて突然立ち上がると、ナマエに声をかけた。まさかあのレオナがわざわざ立ち上がって声をかけるとは思ってもいなかったラギーは瞠目して瞬きを繰り返しながら、不機嫌そうなレオナを見上げる。知り合いだったんスかと聞く前に、ナマエの近くでコソコソと話している男子生徒二人に気づく。自分でも、うへえと顔をしかめたのがわかった。
 ああやって、何度も告白されたり言い寄られたりを繰り返してきたんだろう。

「こっち来い」

 間を置かずに振り返ったナマエは声の主がレオナだと気づくと、わかりやすく緊張の糸を弛めて素直に立ち上がった。淡い瞳はラギーを捉え、やはり困惑気味に眉を下げている。
 ナマエと顔を合わせるのは三度目だ。ラギーは唾を飲み込み、動揺しているとレオナに気取られたくなくてなんとも思っていなさそうな表情を作った。肋骨の奥がどくどくと鳴っている。どこからどこに血が巡っているのか手に取るようにわかるような気がして、手に汗が滲む。

「気をつけろよ。ハーツラビュルの眼鏡にも散々言われてるだろ」

 ナマエは本当に理解しているのかわからない表情でこくこくと頷いた。どうやら二人には、ラギーの預かり知らぬところで交流があったらしい。意外にも女性には優しいレオナのことだ、今までもナマエを放っておけなかったのだろう。二人のあいだには友情未満の気安さが感じられ、ラギーはなんとも気まずく思いながら肩を竦めた。

「知り合いだったんスね」
「こいつは危機感がねえんだよ」

 まあそれは、わかる。
 否定も肯定もせずにラギーは苦笑を浮かべた。

「ラギー・ブッチっす」

 レオナはこの場でラギーを紹介してくれるほど優しくない。やりづらさを覚えながらへらりと笑うと、ナマエはこくりと頷いてスマートフォンに文字を打ち込んだ。もう片方の手には相変わらず銀色のジョウロがぶら下がっているが、幸い水は入っていないらしい。
 なんでスマホ出したんだ? と思いつつ、平然としているレオナに倣ってラギーもナマエの素早く動く手元を眺めた。

「〈ナマエ・ミョウジです。言葉が話せません。〉」

 え、と声を上げなかったのは奇跡だった。反射的に見上げた先でナマエはやはり眉を下げていて、その不安を表すかのようにスマートフォンを握りしめている。強く握り締めすぎて白くなっている指先が震えていて、自分でも理解できていないうちにラギーはなぜか悲しくなった。

「あァ、お前ら、そういう……」

 心得顔で目を細めたレオナは置きっぱなしにしていたカツサンドを拾い上げると、片手をポケットに突っ込んで歩き出した。「レオナさん!?」と叫ぶラギーをも無視して、レオナは欠伸を噛み殺している。ああ、ありゃ駄目だ──直感的にそう思ったラギーは首裏を掻きながら何度目かもわからない苦笑いを浮かべた。面白いことに、ナマエも同じような顔をしている。

「教室まで送ります?」

 ラギーが提案すると、ナマエはふるふると首を横に振った。態度から察するに噂通りの男嫌いというわけではないらしいことになぜか安心してしまった自分に戸惑う。

「〈発声器官が水中の魔物に近いので人の言語を話せません。〉」

 ぱくぱくと口を開けたり閉じたりしながら、ナマエはスマートフォンをラギーの前にかざす。淡い瞳に泣き出しそうな切実さが浮かび、二人の合間には気まずい沈黙が薄く広がった。
 マジで、なんで置いてったんだよレオナさん。
 心中でレオナに対して悪態をついているとナマエがまたスマートフォンに文字を打ち始めたので覗き込めば、エイリアン、という単語がやけに目についた。不思議に思いながらも「エイリアン?」と呟くと、はっとして息を呑んだナマエが顔を蒼くさせてもう一度かぶりを振り、途中まで打ち込んでいた文字を一気に消した。

「オレがエイリアンってことッスか?」

 可哀想になるくらい酷い顔色だからとわざと明るく振舞ったラギーをナマエの瞳が見上げる。なにか、必死に伝えようとしているのだ。スラムの動ける年長者として子どもたちの世話をしていたラギーにはよくわかる。今のナマエは「ラギーくん、あのね」「お兄ちゃん、聞いて」と言っては話しかけてきた子どもたちと同じだ。

「〈わたしはエイリアン。〉」

 衝撃的な文面に面食らい、二の句を告げられないでいるラギーを他所にナマエは力なく笑った。自虐的な諦念を笑みに含ませた彼女の腕を掴んだのはただの衝動だ。善意からでも損得勘定からでもない。

「どういうことッスか?」
「〈言葉が通じないから。〉」
「なんで? そんなこと言うなら、オレだってアンタからしたらエイリアンでしょ」

 ナマエはラギーに一目見て惹かれた。
 人は理由もなく恋に落ちることがある。理由も理屈もなく愛することがある。生物学の学者に言わせれば「より強い遺伝子を作るための本能的な前提に過ぎない」と色気もなく宣うだろう。子孫繁栄のためのシステムとして都合よく形作られた、恋や愛などの耳あたりの良い言葉の皮を被る本能は誰しもが秘めている。
 獣人族のラギーと人魚族よりもより原始の生物に近いナマエは人間よりも遥かに多くの本能を色濃く残している。男と女より、雄と雌という表現のほうが近いのかもしれない。

 ──たとえば、恋の妙薬なんて。

 アズールの双眸が脳裏に蘇り、背筋がひやりと冷えた。ナマエはラギーに恋なんてできない。言葉を話せない自分は「好き」も「愛してる」も言える他の女の子と同じ場所にすら立てない。言語の勉強をしても意味はなく、大人の言う通りに笑っても傷つくだけで期待したものはなにも得られなかった過去のことを思うと、最初から嫌われていたほうが楽だと思った。

「また会いに行っていいッスか」

 ナマエの腕を掴む手に力が入り、制服に皺が寄る。制服越しに掴まれているだけなのに触れられた部分が熱を持つ。ナマエは慌てて首を横に振った。

「なんでッスか?」

 目に見える形で存在する綺麗なものはすべて誰かに知られている。誰かの所有物としてそこに在る。ラギーしか知らない綺麗なものは、ナマエしかいなかった。
 ラギーは綺麗なものを持っていない。スラムの子どもたちはラギーに「優しい」と言うけれど、普通の環境で普通の生活を送ってきた者たちはラギーを「悪人だ」と非難するだろう。彼自身、自分を綺麗だと思ったことはない。盗みやスリを悪いとは思わず「生きるためなら仕方がない」と肩を竦める心はきっと常人よりも歪んでいる。誰かの価値観で測られた美があったとしても、形のない心がどれだけ美しくても生活の豊かさは手に入れられない。綺麗なものとは無縁の掃き溜めはそういう場所だった。

 ひとけのない廊下でガラスの向こうを見上げたときに見たうつくしさに、誰にも見向きもされず漂う凍えた美貌に、心が震えるほど引きつけられた。


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