獅子雷王伝 03


 王になりたかった。民からも家臣からも尊敬される国王であった父に、レオナが憧れるのも仕方のない話だった。
 第一王子のファレナが八歳の頃に習得した魔法を、四歳になる前のレオナが完璧に習得すると、両親は手を叩いて褒めた。難しい問題ばかりが並ぶテストで満点を取ると、家庭教師は喜んだ。城で一番頭が切れる大臣にチェスで勝つと、その大臣は悔しがりながらもレオナを称えた。
 王宮がレオナの居場所になり得ていた頃は、レオナに向く視線や言葉は温かいものだった。それが一変したのは、レオナのユニーク魔法が発現した頃だったかもしれないし、城仕えの魔術師たちを魔法の力のみで捩じ伏せたときだったかもしれない。
 大抵のことは一度で理解し、見聞きしたものは忘れない。魔力コントロールと魔法を扱うセンスに長け、箒を与えられた一週間後には立ち乗りできた。学問、魔法、スポーツ――あらゆる分野において才能を発揮するレオナが、第一王子を信奉する者たちに軽んじられ、疎ましがられるのも時間の問題だったのだろう。まず、召使いたちの表情が変わった。次に家庭教師、そのまた次にレオナの護衛、と幼いレオナを取り巻く環境は彼の知らないところで変わっていった。
 弱者は淘汰され、強者が生き残る。獣人の根底にある本能が、レオナを生き残らせることを許さなかった。このまま生かしておけば第一王子の立場を脅かす、このまま健やかに育てば第一王子派の地位が危ぶまれる。けれどもレオナは第二王子で、第一王子の身に何か起きたときの保険でもあったので。

「レオナ王子は恐ろしい」

 一番初めに言ったのは第一王子付きの召使いだった。王子という立場に憧れ、嫉妬する者たちはその言葉に賛同し、幼いレオナの能力を貶したい者たちはさらに悪意を含んだ言葉を吹聴した。やがて城中に「第二王子は軽んじられて然るべき存在なのだ」という雰囲気が出来上がり、蔓延すると、誰が言い始めたことなのかもわからなくなった。
 終息することなく、消えることなく、レオナの噂は波状に広がっていく。広大なようで狭い王宮は悪意と思惑とに埋め尽くされ、レオナの耳にも届いた。
 レオナは生まれて初めて、人が生み出した悪意に晒された。幼い彼には何もわからず、自分が悪いのだとさえ思っていっそう努力した。すると、向けられる視線はより冷たくなり、囁かれる言葉は刺々しくなった。レオナの頭に浮かんだのは、どうして、その一言のみだった。
 第一王子である兄は何をしても褒められ、第二王子であるレオナは何を成し遂げても、何をできるようになっても嫌われていくばかり。ならば王になればいいと考えて、唯一そばにいてくれた召使いの女に「どうしたら王様になれるの」と聞いた。

「なぜそのようなことを……!!」

 それが、口にしてはならない質問だったとは知るはずもないレオナの小さな肩に女の爪が食い込んだ。笑顔を消し、表情をサッと変えた彼女はレオナの肩を揺さぶりながら叫んだ。
 恐ろしい魔物を、汚らわしいものを見るような目だった。
 まだ変わるはずだ。変えられるはずだ。変わらなくても、元に戻るはずだ。そう信じて諦めなかったレオナの心はそのとき折れて、粉々に壊れた。王への純粋な憧れは消え去り、両親や兄に対する怒りと憎しみが渦巻いた。
 誰からも認められる王になりたかった。
 やがて、兄が父に代わって国王代理の座につき、妃を娶り、甥が生まれた。兄への称賛や慶事への喜びの声が増えるに比例して、煩わしい声が増えていく。レオナは部屋に閉じこもり、一年前に入学を拒否したナイトレイブンカレッジへの入学が認められると、兄や義姉の心配を無視して王宮を出た。十七歳だった。そこに迷いはない。窮屈な呪縛や兄夫婦の干渉から解放されて清々した。
 サバナクローはレオナの王国になった。二年生に進級する前に前寮長との決闘に勝利すると、格下の寮生たちはレオナを群れのボスと認め、歯向かう雑魚は圧倒的な力の差をわからせてやれば黙った。誰もがレオナに平伏し、腹を見せ、許しを乞う。寮長の座を手に入れたレオナを満たしたのは征服欲による充足感ではない。彼はただ、己の実力を認めてもらえたことが嬉しかった。そこには成熟しきれていない幼さと、待ち侘びていたものを手にした喜びが僅かでもあっただろう。
 実力こそが重視されるナイトレイブンカレッジにおいて、実力と才能だけで頂点に上り詰めたレオナを邪魔する者も、誹る者もいなかった。廊下に張り出される順位表のトップにはレオナ・キングスカラーの名が君臨し、成績表には常に「A+」が並ぶ。ようやく一番になれたと思った。長い生涯のうちの、一瞬で過ぎ去る学生時代の栄光だとしても。
 また頑張ってみよう、などという反吐が出るような青臭さはない。認められ、受け入れられるのなら取り組んでやってもいい。同学年の生徒たちに比べれば些か熱意のない心持ちであったが、単位や進級に関わらない程度に授業に出席し、所属しているマジフト部の練習にもそれなりに出た。王宮での怠惰な生活を考慮すると、信じられない変化だ。
 ここにはレオナが作り上げた王国がある。居場所がある。その安心感は、レオナが二年生になってから崩された。

「《ディアソムニア、一ポイントも譲りません! 昨年優勝に輝いたサバナクローは今年の優勝候補でもありましたが、ディアソムニアに手も足も出ない状態です……!!》」
「《今大会大活躍のマレウス・ドラコニア選手、圧倒的な力を見せつけております!! ドラコニア選手は茨の谷の次期王だということで、世界中から注目を集めていますが――》」

 寮対抗のマジフト大会で、サバナクローはディアソムニアに大敗北を喫したのだ。寮生たちがディアソムニアに好きに蹂躙される様を俯瞰するレオナは、妙に冷静だった。風に乗って巻き上がる土の匂いや飛び交う大声は膜一枚向こう側に遠のき、実況のアナウンスだけが耳に入っていた。太陽が近い。じりじりと焦がされる身体の表面だけが熱を持ち、内側は静かに、急速に冷えていく。
 ああ、俺はなんでこんなことやってんだ。
 唐突に、レオナは現実を見た。ナイトレイブンカレッジで一番になったところで、レオナの運命は変わらない。王室に飼い殺され、忌み嫌われながら生きて、兄一家の繁栄を引き立てる舞台装置にされる。学園で認められようが称賛されようが、王宮にいた頃と同じように何も変わらないのだ。
 作り上げたものが音を立てて崩壊していく。すべてを失い、すべてを否定された気分だった。

「レオナ・キングスカラー。このままいけば、お前は留年だぞ」
「は、それがどうしたよ」

 課題の未提出や欠席が目に見えて増え始めたレオナを気にかける教師は多かったが、それすら煩わしかった。三度目はない。もう信じない。期待しなければプライドが傷つくことはない。レオナは王宮にいた頃よりも怠惰になった。
 教師からの小言でただでさえ苛立っているというのに、サバナクローに紛れ込んだ雌に防衛魔法を教えてやらなければならないレオナの余裕は底をついている。それを察しているらしい雌――ラズは、昼食の時間にパンや飲み物を持ってレオナの元を訪れるだけで、以前のように何かをねだることはしなかった。無駄に関わればレオナの神経を逆撫ですると理解して、昼食を食べるとすぐにどこかへ行く。空気のようなものだった。もしくは、景色の一部だろうか。空気や景色にいちいち文句を言う者はいない。彼女が大人しくしているあいだは、傍らにある気配をレオナも許した。
 それを二週間繰り返した頃に、彼女はぱたりと来なくなった。校舎内にも、寮内にも、頼りないその背中はなく、かすかに残る匂いだけが鼻を掠める。見かけなくなったからと言って、虚しさや寂しさを感じるレオナではない。礼儀正しく真面目な彼女が一言もなく姿を見せなくなったことに違和感を覚えたが、苛立ちの原因が勝手にひとつ消えてくれて楽だった。

「おいラズ。今日も練習付き合ってやるよ」
「あ、ありがとうございます……」

 姿を見かけなくなってから丸々ひと月が経った頃だ。空腹を覚えたレオナが気まぐれに食堂を訪れてみれば、ガラの悪い生徒に絡まれる彼女を見つけた。赤いベストを身につけているその男は背が高く、ガタイもいい。乱暴そうな風貌のわりに成績優秀で素行も良いと評判の三年生。マジフト大会に備えて集めていた情報がレオナの脳裏をよぎり、ついでに名前も思い出した。ディアソムニアに惨敗した今では思い出したくもない情報だが、大会での活躍が期待されていた彼をレオナも警戒していたのだ。
 あの男は後輩に手を出す質の輩ではない。ならばレオナの手出しは不要だろう。

「おいお前、肉取ってこい」
「ひっ!! は、はいっ!!」

 近くにいたサバナクロー生に命令すると、薄茶色の丸い尻尾を硬直させた彼は何度も頷いて走り去った。

「お前、最近そいつ気に入ってるよな」
「ああ……魔法を教えてるんだよ」
「ふぅん。あ! オレも教えてやろっか?」
「馬鹿、お前は大雑把だろ」

 聞こえてくる声が鬱陶しい。男の友人らしいハーツラビュル生の声がレオナの頭に響く。どんなタイミングで、どんな繋がりがあって彼女と三年生の男が親しくなったのかは知りたくもないが、胃のあたりがむかついている。空腹感が薄れ、みぞおちのあたりを焼かれるような感覚を覚えた。嫉妬ではない。ただ、裏切られた気分だった。
 王宮では、レオナではなく兄のファレナのほうに人と信頼が集まる。それまでレオナの周りにいた者でさえ、兄が姿を見せた途端に「ああ王様」「我らが王」と駆けていく。邪気のある悪意より、無邪気な言葉や行動のほうが随分と応える。悪気もなくレオナの真横をよぎった人々は、レオナが一生得られないものをいとも簡単にファレナに与え、うしろを振り返りもしない。レオナが立っている場所は常に日陰で、兄が立つ場所はいつだって日向だった。レオナと兄のあいだにあったのは、分厚い壁ではなくガラスだ。見たくもないものが、聞きたくもないことが、透明な隔たりの向こうにある。
 いつも、己のそばから立ち去る誰かの背中を見送っていた。だから見なくなった。背中を向け、レオナのほうから立ち去ってやった。
 そうして生きて、レオナの庇護がなければ呆気なく死んでしまうであろう生き物に出会った。
 こいつは、この女は、俺がいないと生きていけないだろう。無意識下で思っていた。レオナの怒りを買うのを恐れた生徒が誰一人として植物園に寄りつかなかったあのとき、彼女は怯えながらもレオナのそばに来て、静かにそこにいたから、レオナはより強くそう思っていた。
 この女は俺がいないと生きていけないだろう。この女は俺のそばにいるだろう。――この女は、俺から離れていかないだろう。
 形もない。匂いもない。色もない。けれど温もりはある。それは、無意識のさらに下に潜り込むような、透明の安寧だった。

「りょ、寮長……に、ににに肉、チキンソテーとハンバーグ持ってきました!! じゃあボ、ボクはこれで!! 失礼します……!! ボクをお使いになってくださりありがとうございましたッ……!!」

 ガタガタと震えているウサギの獣人はレオナの前に皿を置くと、見事な脚力を駆使して逃げた。あの様子だと、敬語が若干おかしいことにも気づいていなかったらしい。ウサギは典型的な被食者だ。自然界に天敵が多い種の本能とも言うべきか、かすかな物音ひとつに反応して逃げる個体が多い。ウサギの血を引く彼が、日頃から素行が悪く、見るからに機嫌も悪いレオナに怯えても仕方がない話なのだろう。
 まあ、さっさと退散してくれて助かった。無駄に長居をされても、この機嫌の悪さだと手出しをしないとは言いきれない。
 こんがり焼かれたチキンソテーに行儀悪くもフォークを突き刺すと、柔らかい繊維がほぐれ、肉汁があふれた。フォークが皿にぶつかる甲高い音も掻き消えるほどの雑音で埋め尽くされている食堂は、レオナには騒がしすぎる。
「そういや、新しいゲーム発売されたよな」「どっかの国の王様が殺されたって話、聞いたか?」「次の試験で成績落ちたらスマホ解約されるわ」「なあなあ、今度街に行こうぜ」飽きもせずにギャーギャーピーピーと。恋人がどうだの試験がどうだの、どうでもいいことでよくもまあそんなに話せるな。
 レオナは味気ない料理をよく噛みもせずに飲み込んで、うるさすぎる食堂を出た。午後の授業にはもちろん出ない。今日は、クルーウェルも植物園を使う授業の予定はなかったはずだ。

「レオナ君」

 欠伸をこぼし、お気に入りの縄張りに向けて緩慢に歩いていると、誰かに呼び止められた。レオナを気兼ねなく呼べる人物はそう多くない。声色に悪意は感じられなかったので振り返ると、ナイトレイブンカレッジの関係者の中では比較的若年の校医が立っていた。

「んだよ」
「よかった。ずっと君を探していたんだ。最近、校舎にもいないから困っててね。授業には出ないとダメじゃないか」

 この校医は、話に無駄話を挟む傾向がある。聞いてもいないことをぺらぺらと喋るのは、そのあいだに相手の思考や感情を量るためだろう。

「さっさと用件を言え」
「まあまあそんなに怒らないで。ラズ君のことだよ」
「あ?」

 ラズ? 言葉にはせず、頭の中だけで名前を呼んだ。

「あの子、保健室によく来るんだ。二週間前くらいからかな? 先輩で寮長のレオナ君は何か聞いたかな?」
「……さあな」
「この学園ってやんちゃな子が多いでしょ? 喧嘩も怪我も日常茶飯事だし。俺も大きな怪我を診るぶんには慣れてるわけね?」

 だから結論だけを話せ、と言いかけたレオナは口を噤んであたりを見渡した。彼らの周囲に魔法がかけられ、昼休みらしい喧騒が遠くに追いやられている。食堂から漂っていた匂いも完全に遮断されているようだ。
 視線を忙しなく動かすレオナに、校医が笑った。嫌味たらしい笑顔と口調がここまで似合う男もそういないだろう。

「気づいた? お察しの通り、ここから先は俺と君以外の耳に入れたくない話だよ」

 ――魔法医術士の中には、無菌状態かつ不可侵の領域をゼロから構築する天才がいる。元は戦場で生まれた魔法であったが、現在は離島や山奥の集落などの十分な医療を見込めない地域で重宝されている魔法だ。魔法薬による魔法事故や飛行術による落下事故が後を絶たないナイトレイブンカレッジでは、簡易的なオペ室を作り出すそれはお誂え向きの魔法だった。
 空気よりも口が軽いこの男が隠したがるなど、いやな予感しかしない。レオナはエメラルドの瞳を眇め、片眉を上げた。

「大怪我ってほどでもないけど、喧嘩のわりには怪我をする頻度が多すぎる。話を聞いても『先輩に魔法を教えてもらっているだけです。先生には言わないでください』の一点張り。でも、あの怪我を放っておくにはちと気がかりでね。他の子らはえげつない仕返しとか報復を仕掛けるけど、ラズ君は気が弱そうだしそうもいかないでしょ? だからレオナ君が代わりに黙らせてやってくんない?」

 ハーツラビュルの三年に絡まれ、肩に腕を回されていた彼女の姿が浮かんだが、その表情だけは思い出せない。いや、見る前に目を逸らした。仮に校医が言っていることが事実で真実だとして、レオナから離れた彼女が助けを求めるだろうか? そんなわけねぇだろと、レオナは胸のうちで嗤う。

「なぜ俺に言う。担任に言えやいいだろうが」
「え? だってあの子、君のブレスレットしてるじゃん。何より、先生には言わないでくださいって言われてるしね。俺はねえ、約束は守る男なんです。知ってるでしょ?」

 だからこの男は好きになれない。小賢しく、鋭い。
 ナイトレイブンカレッジ出身者に、ろくな大人がいた試しはない。所属していた寮については聞いていないが、どうせオクタヴィネルだろう。俺は慈悲深くて頭が良いイケメンなんでね、といけしゃあしゃあと声高に宣言し、復讐の肩代わりをしろと生徒に言うような男だ。当然まともではない。

「ま、よろしくお願いしますよ。寮長殿」

 レオナの肩を二度、軽く叩いた男は「昼飯昼飯〜」と独り言を呟きながら立ち去った。音や匂いはすっかり元に戻り、レオナの五感を刺激している。だというのに、その場に足を縫い付けられたかのように身動きひとつ取れない。
 いや、俺には関係ねぇ話だ。食って寝りゃ忘れるだろ。
 らしくもなく、たった一匹だけを気にかけそうになった思考を一蹴して、レオナは植物園で眠った。しかしすぐに目が覚め、大したものが入っているわけでもない胃のあたりが重くなる。感覚的には時間の経過が遅く感じるが、ガラスの天井の向こうに見える雲の流れはそうでもない。寒くもなく暑くもなく、適温が保たれている植物園はいつになく心地悪い。
 今は何時だ。スマホの画面は十五時過ぎを示している。スマホをポケットに押し込み、レオナは頭をかいた。

「……クソが」

 なぜ俺が。
 ほとんどの学年の授業が終わっている時間帯に、校医の言葉を思い出したのが運の尽きだった。色々と理由をつけても、校医のシナリオ通りに事を運んでいる気がして気に食わない。
 レオナが植物園を出るのと、ハーツラビュルの一年が植物園に入るのは同時だった。深緑の髪に黒縁眼鏡の、害のなさそうな少年は幾分サイズが大きい実験着を着ている。こいつは確か、と考えたときにはもうレオナは少年の腕を掴んでいた。大きく揺れた腕を離さず、レオナはさらに力を入れる。

「おい、ラズはどこにいる」
「は……?」
「さっさと答えろ」

 動揺していた蜂蜜色の目はレオナの剣幕に怖気づくこともなく、すぐに冷静さを取り戻した。あのウサギよりはよほど骨があるらしい。

「ラズなら運動場にいると思いますよ」

 ラズの世話を焼いてやっていた少年――トレイは、レオナを見上げて曖昧に笑った。何かを知っているか、察している表情だ。

「必要なら案内しますが」
「いらねぇよ。それよか、テメェんとこのクソ野郎をどうにかしろ」

 言い捨てると、できたらしてますよ、と言いたげな幼い表情のみで訴えられる。大人びたトレイが見せた幼稚な素振りを鼻で笑い、レオナはその腕から手を離した。
 一国の王城並みに敷地が広いナイトレイブンカレッジで探している人物を見つけるには、人伝ての情報が一番正確で、信用できる。「ラズを見たか」「ハーツのガラ悪い野郎といたっすよ」「お前んとこの三年を見たか」「その人なら運動場にいました」すれ違うサバナクロー生やハーツラビュル生に確認を取りながら運動場に向かうと、確かに彼女の匂いがした。
 しばらく歩けば、彼女は存外すぐに見つかった。やはり、昼に見たハーツラビュルの男といる。
 魔法を使えば確実に仕留められる距離に音もなく忍び寄り、林檎の木に軽やかに登ったレオナは生い茂る枝葉に身を隠した。聴力に優れたネコ科の獣人といえど限界はある。会話を盗み聞くことは早々に諦めて、鋭い光を孕む双眸を細めたレオナは野生の肉食獣らしく身を屈め、男の出方を伺う。年中実をつけている林檎の甘酸っぱい匂いが漂い、葉のあいだから透ける日の光がレオナの頬に落ちていた。
 バチッ! と火花が散るような音を捉えたレオナの耳が真っ直ぐ立つ。強い魔法と弱い魔法がぶつかり合って弾ける音だ。宙を舞ったマジカルペンの、黄色の魔法石が太陽の下で照らされている。
 男のマジカルペンから飛び出した魔法の光が小さな身体にぶつかり、抵抗の術を持たない彼女は地面に座り込んだ。傍目には親切な先輩に見えるかもしれないが、一年生への指導にしては度が過ぎている。レオナは男が彼女に向けて魔法を発動する前に呪文を唱え、林檎の木から飛び降りた。この距離で、狙いを外すはずがない。寝起きだろうが食事の最中だろうが余所見をしていようが、レオナは必ず仕留められる。

「ギャッ!」

 男の顔面めがけて飛んでいった閃光は見事直撃し、みっともない叫び声がレオナの耳にも届いた。尻尾を踏んづけられた猫の叫び声に似ているだろうか。笑える。後輩を痛めつけていると気づきもしない鈍感のくせに、自分は痛みに敏感らしい。
 青々とした芝生を踏み分け、顔を両手で押さえている男にマジカルペンを向けてやると、レオナの存在にようやく気づいた男は間抜けな顔でレオナを見上げた。ハーツラビュルの、名前はなんだったか。アンドリューだったか、アレックスだったか? 生憎、くだらない人間の名前を覚えといてやるだけの優しさはレオナにはない。

「三秒くれてやる。失せろ」

 強い弱いに学年は関係ない。もっとも、年齢だけで言えば一年遅れで入学したレオナはこの男と同い年だが。
 グル、とレオナの喉が鳴る。手負いの獣のような低い唸りに本能的な恐怖を感じ取ったらしい男は、唇を震わせて早足に逃げた。状況把握もできていないだろうに、圧倒的な実力を持つレオナに反抗しないだけの理性と賢さは残っていたようだ。
 逃げ足の早い雑魚を見送り、うずくまっている後輩をレオナは見やる。涙の匂いはするものの、すんでのところで流れていない。

「おい」
「平気です」
「まだ何も言ってねぇ」

 ふらふらと立ち上がった彼女は飛ばされたマジカルペンを拾い、頭を振った。目立った外傷は見受けられないため、怪我をしているとしたら服に隠された部分だろう。骨っぽい腕を掴んだレオナは実践魔法で彼女のネクタイを解き、ベストとシャツのボタンを一気に外した。

「……やめてください……」

 今にも消え入りそうな声が聞こえたが、無視した。
 やめてください、と弱々しい声がまた耳を打つ。今ばかりは聴覚と脳みそが繋がっていなかった。頭は音を冷静に処理しながらも、思考にまでは届かない。レオナの手のひらに汗が滲んでいる。獣としての第六感がうわんうわんと警告音を鳴らしている。
 下着代わりらしいTシャツをめくり上げると、薄っぺらい身体には痣ができていた。レオナの想像よりは酷くない。肋骨や鼻の骨を折られる大喧嘩や病院送りも珍しくはないナイトレイブンカレッジでは、よく見聞きする程度の怪我だ。だが、彼女は、ラズは、女だ。
 子どもを産めなくなったらどうする。いや違う。あの男はこいつが女であることを知らない。
 少年らしい薄い胸に残る痣が痛々しい。鼓動に合わせて揺れているペンダントを眺め、これがこいつの魔導具か、と悟ったレオナの頭が一気に冴え渡った。なぜ、この子どもは魔導具を身につけているんだったか。彼女の性別自体は女だからだ。現実逃避をしようにも、あっさりと答えは見つかった。
 ラズという、少年に見える子どもは女だ。本来は傷ひとつなかったであろう白い身体が、今は男のそれに見えているとしても。
 己が何をしているのか瞬時に悟り身体を硬直させたレオナは恐る恐る目を上げ、死にたくなった。今にもこぼれ落ちそうな涙が、彼女の大きな目の縁に溜まっている。かつてないほどの罪悪感が、後悔が、レオナの背中を冷ややかに伝った。

「……悪かった」

 この愚行を、言い逃れできるなどと思っていない。Tシャツを下ろすと、ずび、と鼻を啜る音がした。首を横に振り、口を開いた彼女は言葉を発せなかった代わりについに涙をこぼし、途切れ途切れに「大丈夫です」と呟いた。
 頼むから責めてくれ。怒ってくれ。悪いことをした自覚があるだけに、より大きく膨れあがった罪悪感がレオナを襲う。
 十六歳の、いかにも箱入りといった雰囲気の女が十八の男に肌を見られて平気であるはずもない。魔導具の力を借りている彼女本人には、レオナと同じ幻覚は見えていないだろう。本来の自分の身体を、特別親しくもない男に凝視されたわけだ。泣いて当然である。

「……へ、へいき、です……驚いただけですから」

 平気ではないだろう。そんなこと、言われなくてもわかる。

「……お前、なんで来なくなった」
「……中庭で魔法の練習をしていたら、あの先輩が魔法を教えてくれるとおっしゃったんです。僕は弱いから、強くならないと」

 寮長に迷惑ばかりおかけしてますし、と心底申し訳なさそうに告げられて、レオナの罪悪感は限界値を超えた。もはや、王室への憎しみやディアソムニアへの恨みもこのときだけは忘れて、罪滅ぼしをしなければという、その思いだけがレオナを突き動かした。

「……これからは俺のところに来い。いいな」

 それは、譲らない男レオナ・キングスカラーが白旗を上げた瞬間だった。


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