キリング・セオリー 17


 新しい家は公国のほど近く、近隣の国にある。年が明け、一週間もしないうちにロイヤルソードアカデミーの教員職を辞職した父はひと月ほどのホテル住まいを経て、ナマエと暮らし始めた。一人で暮らしていた期間が長いからか、彼は炊事洗濯に掃除とあらゆる家事を手際よくこなす。ナマエと話す時間を何よりも楽しみにしているらしいので彼女はそんな父の家事を手伝いつつ、キッチンで並んで食事を作り、隣で洗濯物をたたむ、絵に描いたような穏やかな日々を送っている。
 他に、望むものはなかった。明日を心配せずとも暖かいベッドで眠ることができる。父は穏やかで優しく、今まで離れていた年月を取り返すように二人の時間を大切にしてくれている。他に、何を望めというんだろうか。欲しかったものがここにある。リビングルームに寝室が二つあるシンプルな造りのこの家に、すべてが詰まっている。優しい色合いのパイン材の床も、暖かい日差しが入り込む大きな窓も、侯爵邸にいた頃の狭くて埃臭い部屋とは比べ物にならない。贅沢すぎるくらいに居心地がいい。
 港町らしく開放的でのびのびとした人柄の住人が多いこの土地は、新参者であるナマエと父を快く迎えてくれた。近所にはハイスクールやミドルスクールがあって、毎週日曜にはストリートで朝市が催される。彼らの隣に住んでいる老夫婦は朝市で買いすぎた魚や果物、野菜を時おり持ってきては基本的に家にいるナマエと話したがった。曰く、もう巣立ってしまった娘を思い出して懐かしくなるからと。綺麗なこの町で優しい人たちに囲まれている。真昼の海は白く輝き、真夜中の海はまるで月が砕けて落ちたような光を受けながら輝く。朝日が顔を出す前に多くの漁船が海を渡り、子どもたちは船に乗る顔も見えない漁師たちに大きく手を振る。そういう、たわいのない穏やかな日々は変わらず続いていくんだろう。
 海が見える出窓に腰掛け、空に浮かぶ満月を見上げたナマエは壁に背中を預けながら嘆息する。唇から漏れた呼気は夜を震わせ、窓を曇らせた。手元にある携帯電話は、ぼんやりとした光を出しながら暗闇で存在を主張している。父に買い与えられた携帯電話のアドレス帳には、父の電話番号のみが入っていた。

「ばかみたい」

 打ち込んだ十一桁の数字をすべて消す。あとひとつボタンを押せばコール音が響いて、学園にいるであろうクルーウェルに着信が入るだろう。ナマエが暮らす国と学園がある賢者の島との時差は十二時間もある。日付を跨いだ今頃電話をかけても、ナイトレイブンカレッジの学生たちは昼休み前の授業を受けているはずだから彼が出られるわけがない。
 仮に時差がなかったとしても、電話をかける勇気はなかった。クルーウェルはそろそろ四年生に進級して、教師になるための準備を進めていくだろう。彼はナマエが思うよりも忙しない日々を送っているに違いない。何より、あんな離れ方をしておいて、どんな言葉を尽くせばいいのかもわからなかった。
 想いはこのまま朽ち果てて死んでいくんだろうと思った。思い出も恋心も色褪せて、いつかは過去になる。なってくれなければ、忘れてくれなければ困る。そう思うのに、クローゼット奥の小箱に隠したはずの香水はナマエの足元に寂しげに置かれていた。抱きしめた薄い布からは大人びた匂いがする。

「痛い……」

 ナマエは下腹部を手のひらで押さえ、窓に頭を預けた。数年ぶりに来るようになった月のものにはまだ慣れそうにない。
 久しぶりに体調を崩したのは、この町に来たばかりの頃のある日のことだ。いつものように夜にもぐり、ベッドで目をつぶって――ある日、満月を見た。星の鈍い光は月には敵わない。光り輝く月はナマエを爛々と見下ろし、夜に抱かれる女王然として暗闇を独占していた。ただの人間からしてみれば永遠に近い時間を生きている彼女は、色恋ごときに悩む人間の小娘を嘲笑しているようだった。
 青白い光が海にも落ちている。雲に隠れていた月が見えた瞬間、身体が燃えるように熱くなった。もう燃えているのではないかというくらいに熱く、胎のなかが痛かった。シーツの上でこぼした呼吸も信じられないほどに熱い。下腹に走る激痛に涙が滲んだ。その夜は異変に気づいた父によって切り立った崖の上にある診療所に担ぎ込まれ、仙人のような魔法医術士の治療を受けたが、聞けば性別転換薬の副作用による異変らしかった。

「幸運ですな。もう少し処置が遅ければ妊娠は望めない身体になっていたでしょう。女性は月に影響されやすいですから」

 脳が異常を来す前に本来の性別を思い出させる大きなきっかけがあったのでしょうな、と続けた老医師にナマエは何も言えなかった。実際に、ナイトレイブンカレッジにいた頃のナマエは薬の効果が切れて元の姿に戻る度に「なんで女の子みたいな胸があるんだろう」と思うことがあった。それは、自分の性別は男であると、脳が勝手に性別を勘違いしていた証拠だ。
 人間は思い込みだけで死ぬ、存外に脆い生き物だ。転換薬によって無理やり作り変えられた身体や声に慣れた脳はやがて「これが本来の身体である」と誤認し、その思い込みによって生殖機能を自ら破壊する。精神を司る脳がバグを起こせば次は肉体に異常が生じ、徐々にホルモンバランスが崩れていく。そうなればもう、子は――。クロウリーに取引を持ちかけたときに話した内容を思い出し、ナマエは薄い腹に手を乗せた。

「恋人がいました」

 ぽろりと、涙と一緒に言葉が漏れた。父がいない診察室だからこそ、相手が事情を知らない老医師だからこそ、そんな言葉が出てきたんだろう。ほう、と納得したように小さく頷いた彼はバインダーに挟んだ診療記録を見下ろし、白い顎髭を撫でた。

「このツイステッドワンダーランドには、いかなる魔術も呪術も破るほどの力を持つ偉大な魔法があります。なんだと思いますか」
「……防衛魔法の類でしょうか」
「いいえ、いいえ。お嬢さん。理論抜きで考えなさい。この世には(ことわり)のないものはいくらでもある。理屈も理論も殺してごらんなさい」

 年老いた瞳が訴えかける。魔導書や魔術書を数百冊と読んだことがあるナマエでも、そんな万能な魔法は知らない。降参して首を振ると、彼は笑って目元に小さな皺を作った。

「愛ですよ。気高い魔術師も、名のある呪術師も、愛の前には赤子のようなもの。近頃の若者には眉唾物に思えるのでしょうが……私は確かに、海の魔物に呪われて生まれてきた子どもたちが両親の深い愛情に守られ、逞しく育っていく様を何度だって見てきた。愛は福音であり祝福でありましょう。それは誰にも奪えず、侵すことのできないものです」
「愛なんて……」
「お嬢さんの身体が転換薬(魔術と魔法)に負けなかったことが、何よりの証拠ではありませんか」

 愛なんて。またひとつ、クルーウェルを忘れられなくなる理由が増えたと思った。ナマエは満月の夜に月のものが来る度に彼を思い出した。寂しくて苦しいときはクローゼットの奥から香水を取り出してブランケットにつけて眠った。あれだけ眠れなかった夜が嘘のようによく眠れて、その度に彼の夢を見た。
 ずっと。水の中で溺れているみたいだった。海底の泥が両足に絡んで陽の光が差し込む海面からどんどん遠ざかっているみたいだった。
 窓から見える海のさざめきに耳を傾けながら、ナマエには不釣り合いなほど大人びた匂いがする布に顔をうずめる。

「あいたい」

 ずっと。口からこぼれるあぶくが光の当たる場所に上昇していくのをただ見つめているみたいだった。

 ◇

 冬が明けて雪がとけ、春が来て夏が来て、物静かな冬が来た。回る季節はナマエを置いてけぼりにして追い抜いていく。心はどこかで行き止まり、伸びた髪と女性らしくなった身体だけが時の流れを感じさせる。
 春先に父が輝石の国の有名な大学に誘われ、講師として働くことになった。それについていく形で輝石の国のフラットハウスに引っ越したナマエは大学を受験するための試験勉強に追われ、父や父の友人であるナイトレイブンカレッジのOBに勉強を教えてもらっている。様々な気候帯を横断している輝石の国は地域によって気候がまったく違う。ナマエたちが暮らす地域は積雪が少ないらしく、道路の端に残る雪はほとんどとけて泥にまみれている。

「〈大事な書類を忘れたから持ってきてくれないかい。私の書斎にあるはずだから。ああ、それと……今日はうんとお洒落しておいで〉」

 思いのほか物忘れが激しいらしい父に頼まれ、駅から出ている大学行きのバスに乗り込んだナマエは窓に映る自分を確認した。薄らと化粧が施された顔は背伸びをしている子どものように見えて落ち着かない。父に言われるままお気に入りのワンピースを着てみたものの、ふわふわと揺れるスカートやローヒールの靴はどうしても似合っていない気がした。定員以上の人間が乗車しているであろうバスは暑苦しく、コートの中が汗ばむ。書類を折り曲げないように鞄を大事に抱え、ようやく着いた大学前の停留所で降りるとツンと冴えるような冷たい風がナマエの前髪を揺らした。
 ねずみ色の空から雪のような雨が降っている。
 ナマエは赤い傘をさし、大学の広場に続く通りを歩いた。一歩足を動かす度に何気なくつけた香水の匂いが傘の中で満ちて、雨の独特な匂いが薄れる。今年の九月に四年生に進級したであろう彼は、この世界のどこかで研修を受けているんだろうか。


 父の友人であるナイトレイブンカレッジのOB――ヘミングヘッズ教授が「母校から素晴らしく優秀な後輩が研修に来てくれた」と言っていたことを思い出し、ナマエは懐かしく思った。


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