キリング・セオリー 18


「は、え? デイヴィス、先生なんの?」
「ああ」
「え〜! どういう心境の進化?」
「元から夢だったんだ」

 くるり、と手の中で器用にペンを一回転させた青年は目玉が飛び出そうなほどに驚くクラスメイトを見上げると、進路希望を書いた紙を摘んで立ち上がった。

「大学編入すんの?」
「まあな」
「また勉強すんのキツくねー?」
「俺をお前と同じにするな」
「はい出たよデイヴィスの毒舌」

 ナイトレイブンカレッジ三年生のデイヴィス・クルーウェルは「研修行きたくね〜」と駄々をこねる友人を一瞥し、教室を出た。開放的な廊下には夏らしい風が吹き込み、シャツが汗ばむ。寒いのも嫌いだが暑いのも好きではない。細い眉をつり上げた彼は、廊下を歩く一学年下の後輩たちを何気なく見やった。
 四年制を取っているナイトレイブンカレッジでは、大学進学希望者は志望の大学が行っている編入学試験を受ける。生徒のほとんどが就職の道を選ぶ中、大学進学を選んだクルーウェルは研修に加えて試験準備も進めていかなければならない。尤も、ツイステッドワンダーランド屈指の名門校で常に上位をキープしていたクルーウェルである。いつも通りに勉強していれば余裕でパスするだろう。
 研修先は輝石の国の名門魔法大学を選び、先方からも「是非うちに」という返答をもらっている。将来への投資になる選択を。そう考えて選んだかの大学では錬金術の権威たる学者が教鞭を執っている。クルーウェルは堂々と書いた将来の夢を見下ろし、続けて、将来のことなど何も考えていなさそうなお気楽な後輩たちをもう一度見やった。抱きしめたくても抱きしめられなかった後輩の姿が頭によぎり、溜息の一つや二つ吐きたくなる。
 どうせ、あいつはいつか論文を出す。それを手がかりにすれば簡単に見つけられる。
 クルーウェルは例の賭けに勝てる絶対的な自信があった。それこそ、百パーセントだ。自身が提出する論文に並々ならぬ自信を持っていた後輩の言葉を借りるならば「九割九分」でもいいかもしれない。教師になれと言われなくともなってやる。だが、もうひとつを諦めるつもりは欠片もない。
 ナマエ・ミョウジが学園を去ってから、すでに半年以上の月日が経っている。生徒一人が消えたところで学園は何も変わらず、時間ばかりが過ぎていく。学園長であるクロウリーだけはクルーウェルとナマエの関係がただの先輩後輩としてのそれではなかったことくらい気づいているのだろう。あんなちゃらんぽらんでも、名門校の学園長を任せられるほどの力を持っている魔法士だ。最盛期の頃はツイステッドワンダーランドきっての高名な魔法士だったと聞く。クロウリーにとっては子どもでしかない彼らの青臭い感情など、どれだけ隠そうとしても遅かれ早かれバレていただろう。さすがに、薄らとした含み笑いを浮かべたふざけた面構えで「ミョウジくんがいなくなってしまって寂しいですねえ」と意味ありげに囁かれたときは思わずマジカルペンを抜きかけたが。

「なってやるさ」

 ついでに、お前も見つけてやる。

 ◇

 その日は雪が降っていた。研修先の大学で錬金術関連の実習に参加していたクルーウェルに、とんでもない偶然が落ちてきたのである。人によっては、奇跡とも運命とも呼べる代物かもしれない。

「クルーウェル君、よかったら魔法薬学のほうも見学してみないか」

 研究を主導するヘミングヘッズ教授にいたく気に入られたクルーウェルは、錬金術だけではなく魔法薬学関連の研究室も見学可能になったのだ。あくまで見学のみであるものの、専門機関で見識を深められる機会はそうそうない。ゆえに断る理由はなく、二つ返事で頷いた。前提として、それが数日前のことだ。

「はじめまして、君がデイヴィス・クルーウェル君か」

 ヘミングヘッズ教授とともに研究室を訪れたクルーウェルを出迎えた男は、人のよさそうな若々しい笑みを浮かべていた。研究室を一任されているらしいその男の白衣からは魔法薬学独特の刺激臭がする。

「はい。よろしくお願いします」
「これはこれは……面白い子が来てくれたようだ。私の目に狂いはなかった」

 何がどう面白いのか生憎とクルーウェルにはわからなかったが、研修先で暴れる気はない。当たり障りなく会話をしながら作り笑いを浮かべていると、カラーレンズ越しに目が合った気がした。なんとも、見透かすような表情をする男だ。

「私の娘も君と同じ香水を使っているよ」
「……重めの香水ですが」
「娘も重々承知だろう。つけ始めた頃は落ち着かないようだった」

 ふと、ナマエのことが脳裏に蘇った。あの後輩はあの香水をつけているのだろうかと。
 会話そっちのけで思案するクルーウェルを見やった白衣の男は、ヘミングヘッズ教授に視線を移した。固く閉ざされた両目は彼がどこにいるのか正確に捉えているようだ。

「チャーリー。少しクルーウェル君と話したい。席を外していただいても?」
「おやおや、ナイトレイブンカレッジの生徒が気に入らないか?」
「そうじゃない。態度を豹変させないでくれるかい」
「冗談さ。お嬢さんの自慢話ならナシだからな」

 学園対抗戦で私たちに負けたことを今でも恨んでるんだ、と笑った男は、教授が退出した瞬間に魔法で鍵をかけた。他者干渉を防ぐ魔法まで使ったのか、先ほどまで聞こえていた廊下側のざわめきひとつ聞こえない。話すだけならば施錠と魔法は必要ないだろう。いやこいつなんで鍵かけたんだ、という思いは上手く隠しつつ、クルーウェルはそれとなく数歩離れた。近くには窓もある。いざというときは窓から逃げればいい。

「チャーリーはナイトレイブンカレッジの卒業生でね。私はロイヤルソードアカデミーに通っていたのだけれど、入学した年が同じだからか何かとよくしてもらっている」

 わかりやすい警戒を気に留めてすらいない男は左手を持ち上げると、ビーカーやフラスコなどの実験道具が適当に乗せられている実験台を数秒で片付け、紅茶の入ったカップを二つ置いた。湯気をくゆらせる濃い鮮紅色が蛍光灯の下で輝いている。細かい実践魔法が得意なのだろう。

「君には自慢話に付き合ってもらおうかな。チャーリーには秘密だよ」
「自慢話、ですか」

 なんとも面倒くさい。正直聞きたくもなかった。時間の無駄だ。そんな暇があるならレポートを仕上げたい。何が嬉しくて顔も名前も知らない女の話を聞かなければならないのか。だが相手は研修先の大人である。従っておかなければ後々面倒なことになるかもしれない。愛想笑いを作りながら、実験台の下から引きずり出した丸椅子に腰掛けたクルーウェルは仕方なしに話を聞くふりをすることにした。

「私は娘の成長をそばで見ることができなかった」

 ああ判断を間違えたかもしれない。早々、クルーウェルは後悔した。他人の身の上話ほどつまらなくて、情を動かされないものはない。そんな話を聞くくらいならば部屋で錬金術の論文を読んだほうがいい。

「父として娘に会えたのはちょうど一年近く前だったか……。あのときの娘は憔悴しきって、酷く悩んでいる様子だった。クルーウェル君は『夜明け』という絵画をご存知かな?」
「ええ、まあ……」

 あの絵画の話題を振られるとは思っていなかった。僅かに驚いたクルーウェルの手が揺れる。

「娘とともに見たとき、あの絵とはつくづく縁があると思ったよ。普通とは違う家に生まれたばかりに愛する人と離れた。その気持ちは悲しいほどにわかる」

 何か、決定的な何かを見過ごしている気がした。大きな違和感ではない。指先に小さな棘が刺さっているような、気にしなければ忘れてしまいそうな僅かな違和感だ。常によく回るはずの口がなぜか動かず、クルーウェルは気分を変えようと窓の外に目を動かした。雨のような雪が降っている。曇った窓ガラスには研究室に所属している学生が書いたらしい公式が浮かび上がっていた。暖房が効いている室内は気持ちが悪いほどに熱がこもり、クルーウェルの手に汗が滲む。

「夜明け前が一番暗いとも知らずに、私は愛する人の元を去ったのだ」

 淡々とした声で宣った男が再び左手を上げると、実験台に用意されたティーカップは浮遊し、よく躾けられた犬のように大人しく男の手に収まった。
 現在使われている文法よりも若干古めかしいその一節をクルーウェルは知っている。一年前に、王立博物館で後輩に教えた言葉だ。小さな違和感が形を成して膨れ上がり、見過ごせなくなったところでついに気がつく。男のアクセントの置き方や発音の仕方が共通語のそれとはほんの少し違うのだ。薄々感じ取っていた違和感の原因は男の話し方にあったのだろう。ナイトレイブンカレッジでは珍しい、柔らかく感じられる話し方をしていた後輩のそれに似た、柔らかいアクセントや発音は懐かしさよりも焦燥を覚えさせる。

「失礼ですが、サー。あなたのお名前を伺っても?」

 クルーウェルはこの男の名前を知らない。否、名前を聞かないようにそれとなく誘導されていたのかもしれない。回転椅子に優雅に腰掛けている男はカップを傾け穏やかに笑った。

「失礼。自己紹介がまだだったかな」
「ええ」

 カップを実験台に置いた男は足を組み直すと、背もたれに背中を預けた。ボルトやネジが緩んでいるのか、椅子が軋む。たった数秒の沈黙は耐え難いほどの永遠に感じられた。

「学生諸君にはミョウジ先生と呼ばれているよ。この大学では講師をさせてもらっている。半年前に娘とこの街に来た」

 思わず言葉を失った。もしかしたらと思っていた。だが、本当に予想が的中すると途端に信じ難くなる。事実、これは夢ではないかと疑ったクルーウェルは自身の頬を抓った。ちゃんと痛みを感じたので夢ではなかったらしい。
 クルーウェルとナマエが王立博物館を訪れたのは約一年前。そして、ミョウジと名乗ったこの男が娘と会ったのも約一年前。ほとんどの人間が知らないあの一節を、ミョウジに教えたのが娘だとしたら。クルーウェルと同じ香水を使っているというその娘は、もしかしたら。

「お嬢さんのお名前は?」
「おや。驚いた。君も私の娘に興味が?」
「ええ。ありますね。とても」

 ふふ、と笑ったミョウジはクルーウェルの言葉を軽く受け流し、窓の外に視線を流して肘置きを指先で叩いた。楽しそうな表情だ。いくつも年上のこの魔法士に弄ばれている気分になり、苛立ちを隠すのも面倒になってきたクルーウェルは整った顔を思いきりしかめた。

「娘は男子生徒諸君から人気があるらしい。つい先日も、ランチボックスを届けにここまで来てくれた娘を口説く学生がいた」
「へえ……」
誰かさん(、、、、)からもらった香水のおかげで大抵の学生は諦めるけれどね」

 クルーウェルに顔を向けたミョウジは相変わらず両目を閉ざしている。しかし、苛立ちや動揺といった目まぐるしく変化する感情はミョウジに筒抜けだろう。なんらかの魔力障害によってミョウジが視力を失ったのならば、その代わりとなるものを持ち得ている可能性が高い。それは第六感であったり魔力による能力であったりと様々だ。或いは、強力な補助魔法によって空間認識を行っているのかもしれないが。あながち間違ってはいない仮説を立てたクルーウェルはその真偽を確かめるでもなく、何を考えているのかわからないミョウジの一挙一動を見逃すまいと観察した。

「そういえば。今日は必要な書類を忘れてね。娘が届けてくれることになったんだが――」

 私はこれから用事がある。代わりに受け取ってくれないかな、と。人のいい笑顔ばかり浮かべていた口元が、まさか断るわけがないよな? と言わんばかりに歪む。ミョウジがクルーウェルのことをどこまで知っているのかはわからない。だが、一つだけ明らかなのは俺たちの関係を知っている(、、、、、、、、、、、、)ということだ。そうでなければ、こんな試すような真似はしないだろう。仮に、すべてを知った上で自己紹介もせずに娘の話を唐突に始めたのだとしたら、どこまでも狸だ。厄介すぎる。ロイヤルソードアカデミー出身なんて嘘だろう。クルーウェルは口の端を引きつらせた。

「娘とは学長の銅像前で待ち合わせをしている。くれぐれも口説かないように」
「ええ、心に留めておきます」

 口説く必要もない。そこで初めて愛想笑いをしまい込んだクルーウェルは無彩色の瞳を猫のように細め、勝気で生意気な笑みを貼り付けた。

「素晴らしい。いい返事だ」
「ありがとうございます。よく言われます」

 皮肉っぽい言葉に見事な皮肉で返したクルーウェルは席を立ち、暑苦しく感じていたネクタイを緩めた。鍵が外された扉から廊下へと足を踏み出すと、熱くなった頬を冷たい空気が冷まし、足首のあたりから冬の冷気が入り込む。階段の踊り場から見える芝生広場には学生一人いない。日頃は昼寝や昼食を取る学生たちで賑わう広場も、こんな天候ではさすがに閑散としているようだ。雨のように降り注いでいた雪は雨に変わり、風に煽られながら地面を濡らしている。広場の片隅に立てられている初代学長の銅像前には誰もおらず、大学の正門から広場へと続く通りを赤い傘をさした人物だけが歩いている。背格好から考えれば女性だろう。
 瞬間、冷え始めていた身体が熱を持つ。歩き方が、記憶の中の彼女と少しも変わっていなかった。小さな歩幅で懸命に自分の隣に並ぼうとしていた後輩と。
 らしくもなく焦っている。階段を数段すっ飛ばして駆け下り、廊下を走り抜けるクルーウェルは走りづらい革靴に舌打ちしたくなった。
 いつもの涼しげな表情や態度を保つ余裕がない。
 どうせ、格好悪いところも見られているのだ。今さら取り繕ったところで何も変わりはしないだろう。そう吹っ切れた彼は、ひとけのない白い廊下を走った。



 彼女は銅像の前に立っていた。暖かそうなコートを身に纏い、赤い指先に白い吐息をこぼしている。寒さに身体を縮こまらせる姿は思い出に眠る彼女よりも小さく、華奢に見えた。
 足元の水が跳ね、スラックスの裾を濡らす。傘をさしている彼女はクルーウェルに気づくこともなく手を温めている。

「ナマエ・ミョウジ」

 一度、呼んでみる。しかし彼女は気づかない。父に渡す書類を確認しているらしい彼女はファイルの中身を確認し、再び鞄にしまい込んだ。

「この俺を無視するとはいい度胸だ」

 もどかしさにとうとう耐えかねたクルーウェルは彼女の手を掴んだ。大きな瞳が揺らぎ、瞳孔がきゅっと小さくなる。小さな手から滑り落ちた傘はアスファルトの上で何度か跳ね、ころんと転がった。鞄も地面に投げ出され、小雨に打たれている。この際、書類なんてどうでもよかった。

「せ」

 先輩。と呼ばれる前に抱きしめた。ナマエの身体が小さくなったのか、それともクルーウェルの背丈が伸びたのか、わからない。鼻腔を擽る香りは確かに、一年前にあげた香水の匂いだった。

「なんで……?」
「ナマエ」
「ん」

 冷えていた唇が重なり、一気に熱を持った。クルーウェルを押し返そうと胸元に置かれた両手は大した役目を果たすこともなく縋りついている。

「まって、まってください。なんでせん」

 説明するのも面倒くさかった。言葉を吐くのも惜しかった。息ができなくて死にそうになっているナマエがひとつ呼吸したのを確認すると、クルーウェルは再び唇を塞いだ。ナマエの声が鼻から抜け、息苦しさからか目尻に涙が滲む。それでもクルーウェルは離してやれなかった。唇が深く交わりすぎて、互いの頬に互いの鼻先が沈み込む。

「せん、ぱい……くる、し」

 ナマエの瞳から涙が落ちたのを合図に唇を離すと、苦しそうに吐き出される白い息が彼の充足感を満たし、腕の中にいる存在が愛おしくて喉元に温かいものが込み上げる。赤い耳の裏に差し込んだ指でまるい頭を撫で、長くなった髪を指先で持ち上げた彼は混乱しているナマエを見て笑った。

「髪、伸びたな」
「……い」
「いや、は言わせないぞ。見つけたら逃がさないと言ったはずだ」
「なんで、ここに」
「研修だ。で、偶然お前の父親に会った」
「そんなこと有り得ます……?」
「あるんだよ、それが」

 天文学的確率だとは思うが。
 しれっと付け加えたクルーウェルは未だに固まっているナマエを見下ろし、離れたときよりも幾分まるみを帯びた白い頬に触れた。想像よりも遥かに女性らしくなった後輩は彼の指先が触れた瞬間に息を呑み、冷たいその温度から逃れようと顔を逸らして、しかし逃げることもできずに目だけを伏せる。

「賭けは俺の勝ちだな」
「駄目……」
「俺が渡した香水をつけておいて何を言う」
「ちが」
「違わないだろ。お前は俺を忘れられたか?」

 冷たい雨に濡れた頬に涙が落ちる。非難するようにクルーウェルを睨みつけるくせに、ナマエの瞳はどんどん充血して赤くなっていった。今にもこぼれ落ちそうな新たな雫が目の縁に溜まり、下睫毛を湿らせている。

「先輩が、忘れさせてくれなかったのに」
「そうだよ」
「なんで? ひどいです」
「俺が善意だけで大切な女性を手放すと思うか」

 一夜だけ恋人になったとき、先輩として別れを告げたとき、ナマエが忘れてしまわないようにわざと傷つけた。生憎と、善意と優しさなんて持っていないのだ。そんなものが欲しいなら他の男を選べばよかっただけだ。クルーウェルは過去の自分自身を最低だとは思わない。欲しいものは欲しいと声を上げなければ手に入らない世の中だからそうしただけだ。

「私は、諦めたかったのに」
「諦めなくていいだろ」
「だって」
「俺は教師になる。絶対になれって言ったのはお前だ。なら、そのくらい見届けてくれてもいいんじゃないか?」

 ナマエの両目がきらりと光り、大粒の涙が落ちていく。瞳の奥から白波のように押し寄せる衝動が、ひとかけらの星屑になってこぼれてはまた新たに生まれる。透明な涙は凍える星のようで、彼女の頬に添えているクルーウェルの手にも静かに落ちた。
 いつの間にか、身体を濡らす冷たい雨は哀しみを包み込む粉雪に変わっていた。誰からの視線からも、世界からも遠ざけるように白い雪が降り続ける。髪や肩に雪が落ちては幻のようにとけ、また落ちて、またとけた。涙でうるむ瞳にクルーウェルが映り、冷たい指の腹が彼の頬を恐ろしげにゆっくりと撫でる。目を閉じてやると、ようやく怖くなくなったのか手のひら全体で頬を包み込まれた。

「怖かったんです」
「何が」
「先輩には、きっと私は相応しくないって」

 あのとき、海を越える列車に乗ったナマエを見送ったとき、臆病な彼女が何かに怯えていることにはクルーウェルも気づいていた。まさか相応しい相応しくないで悩んでいたとは思いもよらないクルーウェルは眉を寄せ、「俺の言葉を疑ったわけか」と怒ってみせた。だって、怒りたくなって当然だろう。先輩として彼女のそばにいたあの頃の苦悩や、こぼれそうな夜をわけあったあの晩の切なさは間違いなく本物だった。
 先輩、と懐かしい響きがまた耳を打つ。

「そばにいても、いいですか……?」

 あんまりにも今さらなことを聞くから、いいよ、と答える代わりにやわい唇を噛んだ。すると、もっと、と求めるようにナマエの両腕がクルーウェルの首に回り、彼女の今にも壊れそうな心音がクルーウェルの心臓に届いた。壊れそうだと、からかうようにしていつか笑った愛くるしい音は少しも変わっていない。

「先輩」

 縋りつくような、仔犬が親犬に甘えるような仕草だった。唇はもう離れている。両腕をほどいたナマエはクルーウェルの胸に頭を預け、何があっても離さないようにと甘える子どものように彼のジャケットを握り締めていた。
 甘い匂いがする。ナマエの肌とあの香水が混ざった匂いが。

「先輩」

 一年前のお礼だとばかりに、弱い力でネクタイを引っ張られたクルーウェルは甘んじて身を屈めてやった。子ども同士の戯れのようなキスをひとつ送ったナマエは慣れないなりに頑張ろうとしているのか、くっつけたまま何度か彼の唇を啄んでいる。は、と短く吐き出された二人分の吐息が混じり、瞬きの瞬間すら見逃すまいとぶつかり合う視線が熱を持った。

「好きです、先輩」

 初めて聞かされた想いはクルーウェルの指先を痺れさせる。彼の瞳は大きく見開かれ、親とはぐれた子どものように泣きじゃくるナマエを見つめていた。――駄目だ、とんでもなくだらしない顔をしてしまう。見られないようにと顔を逸らす前に、腕の中にいる彼女がまた愛を告げる。二の句を継げないでいるクルーウェルに抱きついているナマエは今まで言えなかったぶんを取り戻すように、覚えたての言葉を必死に口にする幼子のように、「好き」と「大好き」を繰り返した。言葉だけでは足りないと言いたげな小さな手が広い背中に回り、僅かに背伸びをしている彼女の頭がクルーウェルの首筋に当たる。

「だいすき」

 たどたどしい、幼いまでの純真な想いだった。
 白い息が想いのかたちを象って、二人の吐息が絡み合って消えていく。吐息が儚く消えてしまう前に想いを重ねるナマエには、クルーウェルがどんな表情をしてその声を聞いているかなど見えもしないだろう。

「好きです、ずっとずっと好きでした。多分、好きになったのは私が先でした」

 その言葉は、弱いところを抉って切り刻むとどめだった。やわらかいところに容赦なく突き刺して、跡形もなく弱らせる。健気で従順で、そのわりにはこんな風にまったく予想だにしない方向から牙を剥く。いつも、クルーウェルはナマエに負けっぱなしだった。それでもいいかと思えてしまうのは、両手を上げて降参しても構わないと思えてしまうのは、惚れた弱みというやつだろう。
 涙で濡れる瞳は甘い飴玉がとけ出しているみたいで心配になってくる。泣き腫らした赤い瞼に口付けると「好き」の言葉が恥ずかしげに消え入って、ついにナマエは口ごもった。今さら、恥ずかしくなったらしい。

「知ってる」

 堪らなくなったクルーウェルは無愛想で硬い声で答えて、けれど隠し通せなかった甘ったるい笑みを浮かべながら、かつて後輩だった少女を抱きしめた。


<< fin.

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