キリング・セオリー 16


 まだ朝日が昇っていない頃にバスルームに放り込まれたナマエは温かいシャワーを浴び、袖口にインクが染みついたシャツに袖を通した。下には金のラインが入った質のいいスラックスを履いている。シャツの襟を正す前に白と黒のネクタイを締め、紫のベストを着込むと大きな鏡には見慣れた姿が映った。学園にいた頃は実践魔法で手早く済ませていた着替えも、今ではこんなに時間がかかる。マジカルペンは学園に返却し、その代わりとなる魔法石も持ち合わせていないナマエは一年生のときと同じように魔法抜きで着替えるしかなかった。別に面倒だと思っているわけではない。学園にいた頃の姿に少しずつ近づいていく自分の姿がどうしても懐かしくて、何度も手を止めてしまったのだ。
 クルーウェルの後輩。鏡に映るナマエはそう(、、)だった。鏡から目を逸らし、ジャケットを着込んだ左腕に腕章をつける。最後の仕上げに小瓶を煽ると口の端からどろりとした液体がこぼれた。

「う゛ぇ……!」

 ヘドロのように喉にへばりつく生ゴミのような風味。饐えた生臭い肉のような後味。吐き気がして口元を押さえる。最低最悪な悪臭と不味すぎる味はやはり強烈だ。いやな汗が頬骨を伝い、息を整えようと大きく口を開けるも身体中を襲う激痛のせいでそれもままならない。なんとか吐き出した喘ぎは低くなり始めている。久しぶりに味わう痛みに耐え抜くと、胸はたいらになり、指先や手は少年らしくなった。手の甲に浮き出た太い血管を見下ろしたナマエは息を吐き、洗面台に手をついて目をつぶる。前髪を濡らす汗が玉になって白い洗面ボウルの中に落ちていくのが感覚でわかった。熱くて息苦しい。コックを捻ると冷たい水が出た。手のひらで掬い、蛇口から迸ったそばから凍りつきそうになっている水を一口飲む。泣きたい気分ではないのに乾ききった喉に水が染みて、とっくに枯らしたと思っていた涙が出てきて鬱陶しい。目を擦り、鼻を啜ると奥がツンと痛くなった。
 このバスルームを出てしまえば、ナマエはクルーウェルの恋人ではなく後輩に戻る。一呼吸置いて扉を開けると、バスルームの外では彼が待っていた。

「……あ。先輩、ありがとうございました」
「来客用だから気にするな」

 クルーウェルの首が緩く動き、小さな顔が揺れる。灰色の海を閉じ込めた宝石のような瞳には後輩に向ける以上の熱量はなく、その色の通りに凍れる鋭さを湛えていた。クルーウェルはプライベート用のバスルームでシャワーを浴びたらしい。ナマエと同じくナイトレイブンカレッジの制服に袖を通している彼からは香水ではなくシャンプーの匂いがした。

「行くぞ」
「ご家族にお礼は……」
「そんなの必要ない。どうせ親戚の子どもの相手で忙しかったからな」
「でも」
「礼なら俺から伝えておく」

 クルーウェルはナマエの赤くなった目元に気づいているだろう。しかし何を言うでもなく、ナマエに鞄を持たせた彼は無地のショルダーバッグを肩にかけ、間接照明に照らされている玄関に向かった。先輩としての線引きが心地いい。クルーウェルはナマエの望みを叶えようとしている。また泣きそうになって、ナマエはかぶりを振る。

「ありがとうございました」
「律儀だな」

 家を出る間際、小さな声で呟いたナマエの頭をクルーウェルがとんでもなく大雑把に撫でた。学園にいたときと同じ撫で方だ。晴れて、彼女は「デイヴィスの犬」に戻ることができたんだろう。昨夜、ナマエが眠ったあともクルーウェルはしばらく起きていたのかもしれない。寝不足なのか赤く充血している両目は酷く悲しげで、思わず凝視してしまったナマエに今朝の彼は「見るなよ」と肩を竦めて笑った。
 玄関から出て、どちらともなく歩き出した二人は暗い道に紛れるような色の制服を着ている。お揃いの制服に身を包む彼らは、同じ学校に通う学生同士であると誰もが思うに違いない。人通りも車通りも少ない道は、アスファルトを蹴る革靴の乾いた音がよく響く。学園を出て十日と経っていないにも関わらず、ナマエの胸中に身を切るような懐かしさが静かに押し寄せた。夜明けの冷たい空気に潜む静寂は時おり通り過ぎる自動車やトラックに押し殺されながら、何度となく蘇る。

「先輩」
「ん」
「俺、ちゃんと頑張ります」
「ミョウジなら、どこに行ってもやれるだろ」

 言葉ひとつで泣いてしまいそうになった。ナマエは藍色が混ざる空を見上げ、震える歯を噛み締めた。クルーウェルから欲しかった言葉はこんなに簡単に与えられ、隣を歩くことを許されている。ナマエの生まれた環境が違えば、人混みの中ですれ違うことも、まして恋に落ちることもなかった。もしもどこかの国でどこかの場所でどこかの博物館ですれ違ったとしても、彼らは視線すら交わさないだろう。当たり前に、景色の一部として見なして存在すら認識しないのだ。
 見上げた空が白み始めている。ともすれば地面に落ちる前にとけてしまいそうな儚い雪が降っていた。頬に落ちた雪はナマエが指でなぞる前にとけ、彼女の肌を滑る。何気なく見たクルーウェルの白い指先は赤く、ピアスのついた耳朶なんて真っ赤になっていた。彼は、やはりコートを着ていない。

「先輩、寒く」

 ないですか、と言いかけて、ナマエは黙った。訝しげな目が彼女を見る。

「寒くない」
「なら、いいです」
「変な奴」

 笑った拍子にクルーウェルの薄い唇から白い吐息が漏れた。年齢にそぐわないほど大人びた彼には、煙草の白煙のようなそれがよく似合う。同じことを一年生のウィンターホリデー前にも思った気がする、と懐かしい記憶を手繰り寄せたナマエは呆気なく消えていく吐息のかたちを見つめた。あのとき、オクタヴィネル寮に遊びに行こうとしたナマエに彼が「立場を弁えろ」と言ったのは彼女の本来の性別を知っていたからだろう。サイエンス部に入ったときだって、薬品庫でよくわからない忠告を受けた。あれも、言葉少なにナマエを守ろうとしてくれていた証拠だろうか。知らず知らずのうちに見守られていた。そう思うと、目の奥が熱くなる。

「親父さんと暮らすのか」
「まだ決まってないです。いきなり同居なんていやだろうって気を遣ってくれて……とりあえず、ホリデー中は父が借りてくれた家で過ごします」
「そうか。戸籍は?」
「そのあたりはまだ話し合ってないです。父がどうにかするって言ってくれましたけど、俺にもわかりません」

 ナマエにすべてを与えてくれようとする父の優しさは有難く、それと同時に申し訳なかった。行く宛てのないナマエは父に引き取られ、ラストネームも正式に父のものをもらう。父親のことは死にそうになったときの最終手段として考えていたのでナマエにとっては願ってもない申し出だったが、血の繋がりがあったとしてもすぐに親しくなれるわけではない。お互いの準備期間も兼ねて、ホリデー中は顔を合わせるだけに留めている。
 ただ、父はロイヤルソードアカデミーの教師だ。本拠地はもちろん賢者の島であるし、自宅もそこにある。父とともに暮らすなら、ナマエは必然的に賢者の島に逆戻りすることになるだろう。しかしながら、ナマエはナマエでナイトレイブンカレッジに不正入学をした退学者であるので賢者の島での生活はできれば勘弁願いたいところだ。それは父も理解を示してくれているらしく、ぽやんとした朗らかな表情で「仕事辞めようかな」と呟いていた。さすがに、そこまでしてもらう義理はない。その呟きを聞いたときは申し訳なくて首を振ったものの、父は善意の塊のような人間だ。ナマエの思いが届いたかどうかはわからない。「仲がいい教授に声をかけてもらっているから」と言っていたのですでに職場に辞職表を出している可能性は十二分にある。ナイトレイブンカレッジ生からすればロイヤルソードアカデミー生はどこかずれているというのがナマエやクルーウェルを含めたナイトレイブンカレッジ生の共通認識であれ、それはたとえ親子間でも通ずるところがあるんだろう。

「そろそろ年が明けますね」

 無理やり出した明るい声が冷気に凍える。開店前の書店の前を通り過ぎると、店内に並べられている様々なデザインのホリデーカードが視界の端でちらついた。シャッターの下りた小さなケーキ屋にパン屋、遊具がたくさんある公園にエレメンタリースクールの立派な建物。そのどれもが、人の気配を感じさせない。クルーウェルが生まれ育った街の朝は静かで、もう二度と来ることはないんだろうと思うと目に焼きつけたくなる。

「あっという間だったな。いつの間にか三年になってた」

 感慨深そうに、クルーウェルは目を眇めた。もうすぐ年が明けて、来年にはナマエは彼から遠く離れた土地で生活しているだろう。

「先輩、は」
「なんだ」
「なんでもないです」

 駅が見えた。意味もなくクルーウェルを呼んでしまった口を閉ざし、券売機で切符を購入する。画面をタップする指が情けないくらいに震え、一万マドル紙幣二枚を呆気なく吸い込んだ投入口をナマエはただ見つめた。ピー、と軽やかな電子音を響かせながら吐き出された一枚の切符はその小ささのわりにやたらと重たく感じられる。

「レッドコースト本線に乗るのか」
「はい。海を越えます」
「随分遠いな」
「許可がないから連合加盟国にしか住めないんです。俺は公国籍なんで、近隣の加盟国に行かないと。不法滞在で逮捕されたくないですし」
「そういえば、お前はあの国の出身か」
「……ド田舎ですよ。サマーホリデーなんてわざわざ就労許可証もらいました」

 ナマエの出身地である公国は薔薇の王国や輝石の国などの先進国ほど大きくない。これといった資源もなく、熱砂の国のように潤沢な地下資源が湧き出ているわけでもない。農業が盛んな東部と工業が盛んな西部では未だに経済格差も残っている。そこで、公国含めた発展途上国同士をよりよく発展させるために周辺諸国で連合を作ったのだ。通貨を統一し、移動や居住、労働の自由を認めることで経済の活発化を目指しているらしい。その効果が実際に出ているか否かはナマエの知るところではない。苦い思い出しかない公国に戻らなくてもいいのは有難いが、非加盟国に住む場合は公的機関で得た正式な許可証がなければ不法滞在者として逮捕されてしまう。紛争や戦争状態にない一定の安全性が認められている国への渡航許可は下りていても、居住や労働が認められているわけではないのだ。当然、薔薇の王国には残れない。サマーホリデー中にリゾートホテルでバイトをしたときも、公的な書類の準備で大変な思いをした記憶がある。

「確かにお前のアクセントと発音は俺たちと少し違うな。道理で」
「変でしたか?」
「いや、別に?」
「含みのある言い方ですね」

 ふは、と空気の抜けるような笑い方をして、クルーウェルはナマエの頭を撫でる。一年前はすぐに引っ込めていたその笑い方も、知らないあいだに隠さなくなった。

「先輩、ここまでで大丈夫です」
「ホームまで行く」

 ホームに行くには改札を通らなければならない。最初からホームまで見送るつもりだったらしいクルーウェルはカードを通し、一足先に改札を潜った。益々離れ難くなるじゃないですかと、言えるはずもない文句が頭の中でこだまする。なんでもなさそうに、そういうことをしないでほしかった。彼は振り向くこともなくホームに続く階段を上っていく。

「……ずる……」

 独りごちた声はクルーウェルには届かない。風に乱された前髪をどかすふりをして、ナマエは滲んだ涙を拭った。



 朝六時前のホームは人っ子一人見当たらない。等間隔に並んでいる冷たいベンチに腰掛け、雪が残る線路を何気なく見つめた。数百メートル先にあるトンネルから真っ直ぐ伸びるレールはどこまでも続いていそうな気がして、別れの寂しさを強調する。

「切符、失くすなよ」
「わかってます」

 彼らの目の前に停車している八両編成の列車は六時十分に発車する。ナマエはあの電車に乗って海を越え、他の列車に乗り換えて輝石の国も越えて行く。文化も、言語も、空気も、何もかもが違う場所でナマエは生きていく。口を開いて喋っていないと我慢していた涙がこぼれそうで、ナマエはいつもより饒舌になった。

「先輩」
「ん」
「先輩は口うるさいし、厳しいし、すぐ怒るしで苦手でした」
「なんだ、俺は喧嘩を売られてるのか?」
「怖かったんですよ。冗談抜きで」

 声はみっともなく震えていた。このひとに、もう会うことはない。年が明けて春が来て、夏が来て秋が来て、凍えるこの季節が来年もやって来る。そのときに、ナマエとクルーウェルはどれだけのことを覚えているだろう。

「でも、すごくやさしいって思ってました」

「やさしい」と言ったら、クルーウェルは「おめでたい奴だな」と心底馬鹿にした表情で鼻で笑うと思っていた。けれど予想とは裏腹に、彼は僅かに目を見開いて困ったように笑うだけだった。今、瞬きをしたら涙が落ちると思った。必死に目を開けて、シルバーグレーを見上げてもぼやけていてよく見えなかった。

「馬鹿だ、お前は」
「……せんぱ」
「俺は微塵も優しくないのに」

 酷く、掠れた声を出すから。底のない海に溺れているみたいな声だった。なりふり構わずに誰かを探すみたいな声だった。

「クルーウェル先輩」

 大丈夫。悲しくない、笑って。
 自分で自分を励ます言葉を心の中で並べ立てた。一瞬目の表面が熱くなって、頬を伝いもせずに涙が落ちた。さっきよりもはっきりと見えたクルーウェルの双眸に驚く。そこでようやく、ナマエは自分が泣いていることに気づいた。

「ごめんなさい。大丈夫です」

 慌てて涙を拭ったナマエはベンチから立ち上がり、足元に置いていた鞄を掴み取った。唇の隙間から入り込む涙はしょっぱい。次から次へと流れる涙が見えないようにと目元を手の甲で隠し、距離を取ったナマエの腕をクルーウェルが掴んだ。

「ミョウジ」
「いやです、見ないでください」

 クルーウェルに拘束され、涙を拭き取ることもできない彼女は俯くしかない。心臓がひりつくように痛い。上手く酸素を取り込めない肺が苦しくて、頭が真っ白になっていく。

「あ……そうだ、先輩が使ってる香水の名前教えてください」

 しゃくり上げながらなんとか絞り出した言葉は精一杯の強がりだった。涙も凍りつきそうな風が吹いて、ナマエとクルーウェルの髪を揺らす。あと十分もせずに列車はこの駅を発車するというのに、何も伝えられていないもどかしさが彼らを焦らせる。雪とともにどこからか飛んできた枯葉は強い風に巻き上げられ、くるくると回りながら飛んでいった。静かに泣きじゃくるナマエをしばらく見つめ、ショルダーバッグから小さな瓶を取り出したクルーウェルは「やるよ」と言ってナマエの手にそれを握らせた。四角い瓶の中で透明な液体が跳ね、あの匂いが僅かに漂う。

「もらえません」
「俺はこの匂いに飽きた」

 わかりやすい下手な嘘をついたと、クルーウェル自身も思ったのかもしれない。舌打ちをこぼしそうな表情で眉を寄せた彼は「俺からの餞別だ」と告げると、ほら、と列車を指差した。先頭車両から顔を出した車掌が眠たそうな目を擦り、欠伸を漏らしている。

「もう乗らないと間に合わないだろ」
「は、い」
「そんなに泣くな」

 犬を撫でるような手つきで頭を撫で回され、更に涙がこぼれる。仕方なさそうに笑う声が、耳の奥にこびりついてどうしても涙を誘う。列車に乗り込むために顔を上げれば、澄んだ瞳と目が合った。すべてを見透かすような、ナイフのように鋭い慧眼に何度救われてきただろうか。

「クルーウェル先輩」

 乗車し、ドアの前に立つクルーウェルを振り返ったナマエは彼の手を握り締めた。その手に手袋はなく、どちらの手も氷のように冷たかった。

「絶対。絶対絶対、先生になってくださいね」
「……ああ。なってやるさ」
「俺のことも忘れてください。あなたの人生に俺は必要ないですから」
「は、言うと思った。お前は臆病すぎる」

 彼は鼻で笑った。皮肉っぽい、冷たい笑みだ。

「お前も忘れてくれて構わない。忘れられるならな」

 言って、クルーウェルは繋がれていないほうの手で思いきりナマエのネクタイを引っ張った。踏ん張ろうにも、力の差は歴然としている。為す術もなく倒れ込んだナマエを難なく受け止めた彼は、香水の瓶ごと彼女の手を握っている。

「俺のとっておきの秘密を教えてやる」
「先輩」
「俺は賭けが好きでな。大抵の賭けには勝ってきた」

 昨日、恋人同士だったときは教えてくれなかった秘密を今になって暴露するクルーウェルは悪役ですら青ざめそうな悪どい表情を浮かべていた。

「もしも、いつかお前をどこかで見つけられたらそのときは」

 逃がさないからな、と続けたクルーウェルの唇がナマエの額に触れた。一瞬触れただけの熱が顔中に広がっていき、彼女はもはや可哀想なほど真っ赤になっている。得意げに笑った彼は間髪入れずにナマエの顎に手を這わせ、少しでも動けば唇同士がぶつかりそうな距離で両目を細めた。

「このくらい、大切な後輩(、、、、、)になら誰だってするよな?」
「し、ないです」
「どうだろうな」
「ひどいです。先輩、ひどい」

 忘れさせてもくれないなんて。
 鼓膜の奥の更に奥、クルーウェルの声が脳細胞にこびりついて、自嘲気味に歪んだ唇の端から見えた犬歯が彼に抱かれた夜を思い出させた。本当はずっと言いたくて堪らなかった言葉が喉に引っかかって、呼吸をするだけでも飛び出しそうになっている。止まったと思っていた涙がまた溢れ、前が見えなくなった。酷いことをするくせに、ナマエだけをひたむきに見つめる眼差しはあまりにもやさしい。

「またな、ミョウジ。あんまり泣くなよ。お前ならどこにいたってなんにでもなれる」

 ふらりと手を振った彼の手は、呆気なくナマエを離している。寝不足らしい瞳は赤く、その笑顔は硬かった。今すぐこの列車から飛び降りて、抱きついたら余裕たっぷりに抱きしめてくれるに違いない。もしも受け止めきれずに一緒に倒れ込んだら「しょうがない奴だな」と笑ってくれるに違いない。それでも、今のナマエはナイトレイブンカレッジに通っていた少年で、クルーウェルの後輩なのだ。ただの後輩として見送ってもらうためにここにいて、後悔なく「さようなら」を言うためにここにいる。だから、絶対に想いは告げない。

「《間もなく列車が発車します》」

 別れを知らせる機械的なアナウンスがホームに響いた。もうすぐ、ドアが閉ざされる。目をゆっくり上げたら、とうに見慣れて、見慣れすぎて、好きになった色があった。

「先輩」
「ああ」

 自信に満ちた言葉も、瞳も、表情も、好きだった。
 呼べば仕方なさそうに振り向いてくれるシルバーグレーの瞳が、面倒くさそうに差し伸べられる手が、当たり前のように名前を呼んでくれる声が、すべて大事に抱えていたくなるほど好きだった。

「またね」

 好きです、なんて、言えなかった。
 最後だけは笑えていたと思う。やがてドアが閉じ、蛇のように長い列車はゆっくりと走り出した。大きな音を立てながらホームを抜け、ナマエを遠いどこかに連れていく。
 クルーウェルがどんな表情をしていたかなんて、見てすらいない。
 強く握り締めている香水の瓶にナマエの体温が少しずつ移っている。声にもならない音が喉の奥で引きつり、ドアの前にずるずると座り込んだ彼女の目からとめどなく涙がこぼれた。
 後輩として見送ってほしいという気持ちに嘘偽りはない。ナマエは先輩としてのクルーウェルを誰よりも慕っている。それでも、そんな思いは理由のひとつでしかないんだろう。ナマエが傷つかないための防衛策でしかなかったんだろう。ただ怖かった。十代の彼らには遠すぎる物理的な距離がいつかこの恋を壊してしまうと思うと恐ろしかった。離れても好きでいてもらえる自信がなかった。クルーウェルには教師になるという夢があっても、ナマエの将来はどうなるかわからない。未来を見据えている彼の隣にいるには、先行きの見えない未来しか見えていないナマエにはあまりにも苛酷で、情けなくて、逃げたかった。

「好きでした、先輩」

 最後まで言えなかった言葉が、揺れて遠のく列車で消えていく。窓から差し込む朝日は眩しく、愛したひとが生まれ育った街を優しく照らしていた。


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