キリング・セオリー 15


 煙草をふかす女主人に電話を借りたナマエは、ホテルのフロントからクルーウェルに電話をかけた。数日前は脂ぎった小太りの男が店番をしていた。トマトやアボカド、溶けたチーズがはみ出た手のひら大のハンバーガーを頬張りながらベースボールのテレビ中継を眺めていた男に声をかける勇気はなく、その日は諦めて公衆電話を使ったのだ。
 どちらにしろ、あの男も今日の店番らしい女主人も愛想の悪さに関してはいい勝負だろう。さっさとしろ、という視線を隠すこともなく投げつけてくる女主人のおかげで妙な踏ん切りがつき、ダイヤルを押す指は震えていても受話器を元の位置に戻すことはなかった。その代わり、この電話でクルーウェルが出なければ潔く諦めようと思っていた。手汗で滑り落ちそうになる受話器を両手で握り締めたナマエは甲高いコール音に耳をすませる。

「《もしもし》」

 ワンコール目で音が途切れ、ナマエが思うより早く出たクルーウェルの声はいつもより低く感じられた。彼は騒がしい場所にいるのか笑い声やリズミカルな音楽が聞こえてくる。もしもし、ともう一度言った彼はやや間を置いて確信したようなはっきりとした声を出した。

「《ミョウジか?》」
「……はい。すみません、忙しいときに」

 年末だから家族や友人と集まっているのかもしれない。そんなタイミングで電話をしてしまったことを申し訳なく思っていると、クルーウェルは大きな溜息をついた。

「《忙しかったらわざわざ電話に出ないだろ》」

 上着でも羽織っているらしい。布同士が擦れる音がしたかと思えば「デイヴィス、どこ行くの」と呼び止める女性の落ち着いた声が聞こえた。おそらく、クルーウェルの母親だろう。携帯電話から顔を離したらしい彼の声は遠のいて、誰かに向けて「……うるさい黙れお前ら。妙な勘繰りをするな」と酷く不機嫌な声で告げた。その場には子どもが数人いるらしく、囃し立てるような幼い声はナマエにまで聞こえている。

「《どうせホテルも変えていないんだろう。そこにいろ。今から行く》」
「俺は電話で話がしたいです」
「《綺麗事だけなら聞くつもりはない》」

 ブチリと容赦なく切られ、通話は一分にも満たないうちに終わってしまった。開いた口が塞がらない。電話をかけるべきか迷ったあの時間はなんだったんだろう、と無言のまま受話器を見つめる。購入された当時は最新式だったであろう電話機は劣化し、黒いコードには埃が付着していた。トントン、と苛立たしそうに地面を蹴る音にハッとしたナマエは受話器を戻し、煙草の強い匂いから逃れるようにフロント奥の階段を駆け上った。三階の部屋に着く頃には息が乱れて肺が痛み、日頃の運動不足を恨んだ。
 疲れている足を無理やり動かし、ナマエは紺色のパーカーを脱ぎ捨てる。ここ数日のあいだは本来の姿で過ごしているが、学園から持ち込んだ衣服はすべて男性向けのものだ。屋敷で時おり着ていたワンピースはナイトレイブンカレッジ入学前に処分し、学園には女性向けの服は一枚も持参しなかった。当然ながら、あの頃のナマエはそういう服が必要になるとは思ってもいなかったのだ。好んで着るのと仕方なしに着るのとでは根本的に訳が違う。メンズの服を好んで身につけている女性たちを否定しているわけでも馬鹿にしているわけでもなく、スラックスの裾を幾重にも捲りサイズの合っていないシャツやパーカーを着ているナマエは単純に不格好だった。少女が無理に少年の格好をしているような、そんなアンバランスさがある。
 それは父も同様に思うところがあったらしく、別れる間際には「これで服を買いなさい」と数万マドルを渡された。お金が足りないとなっては大変だからと十万マドル以上の大金どころかクレジットカードを十七歳の娘に渡そうとしていた父は、おそらく金銭感覚と危機感が狂っているんだろう。そんなわけで、心配そうに眉を下げる父を押しきる形でなんとか逃げきったナマエは街中のアパレルショップで数着の服と下着を買った。商品が入った紙袋は部屋に置きっぱなしである。機能性を重視して購入した服はナマエの手持ちの服を男性向けから女性向けに変えただけのようなものばかりだ。
 久しぶりに身につけた女性用の下着は窮屈に胸を締めつけ、一旦その着け心地に慣れると下着なしでは心許なく思えてくる。白い布に包まれた平均的なサイズの胸を見下ろして溜息をついたナマエは新しいシャツに袖を通した。腕時計が指し示す時刻は午後十五時過ぎだ。クルーウェルに電話してからすでに二十分以上経っている。あとどのくらいで来るかわからないとはいえ、待たせたくはない。
 人に見られてもおかしくない格好に着替え、クルーウェルのコートを引っ掴んで部屋をあとにしたナマエはロビーまで戻り、見慣れた姿がないのを確認すると肩の力を一気に抜いた。狭いロビーにぽつんと置かれているソファの背もたれは刃物で切りつけられたかのように破けている。そこに座る気にはならず、相変わらず煙草を口に咥えている女主人の険しい視線から逃れるようにしてナマエはサイドテーブルの近くに立った。テーブルに置かれた灰皿には煙草の吸殻が山ほど積まれ、白っぽい灰が大量に散っている。
 先ほどまでさして感じていなかった不安が胸中で膨れ上がり、壁にかかった丸時計が刻む秒針の音はナマエの焦燥を更に駆り立てる。あれこれと準備をしているあいだは心に余裕があった。けれど、手持ち無沙汰に待っているだけの今はクルーウェルのことを考える時間が十分にある。どんな顔をして会えばいいんだろうか。時間をくれと言った手前、そしてナマエに会うための時間を作ってくれた手前、逃げることは許されない。
 カラン、と侘しい音がする。錆びたドアベルは、綺麗に閉まりきらなかったスイングドアの揺れに合わせて鳴っていた。鈍い青色の塗装が剥がれかけている扉は落書きだらけで、スプレーで書かれたらしい口汚いスラングが踊っている。

「何泊だい」
「一泊」
「三千マドルだよ」

 ホテルの入口から入ってきたのは薄汚い格好の男だった。男はちらりとナマエを見やり、ポケットから出したしわくちゃの紙幣をゴミでも捨てるかのようにカウンターに投げ捨てる。

「景気が悪いね、どこも。三千マドル払う余裕なんて本当はねェんだ」
「フン。払いたくなきゃ出ていきな」

 宿泊客の相手をする女主人はやはり愛想が悪く、吸いかけの煙草を人差し指と中指の付け根あたりに挟んだまま腕を組んでいる。若い頃は、切れ長の気の強そうな瞳が印象的な大層な美人だったんだろう。深く考えずに彼らの会話を聞いていると、受付を済ませたらしい男は客室や階段のあるフロント奥ではなくナマエのほうへとやって来た。浅黒い皮膚は小皺と出来物が目立ち、血色の悪い唇は乾燥している。

「お嬢ちゃん、このあいだ色男といた子だろう」
「……はい?」
「品のいいお坊ちゃんでもこんな所で女を買うんだねぇ」
「違います」
「どこの店の子だい? いくら?」
「だから、ちが――」

 ナマエは生まれ持った顔立ちの美しさを理解している。侯爵家の馬鹿息子が向ける意味ありげな視線や、外界と隔離されるあまり同性に恋愛感情を抱くようになったナイトレイブンカレッジ生たちからの猛アタックはそれを確固たる自覚に変えるには十分だった。ナマエが思うに、サマーホリデー前に「本当に女の子みたいだよな」と言って髪を触ってきたサイエンス部のあの先輩もナマエ・ミョウジという男子生徒≠ノ気があったんだろう。その点で言えば、ナマエはこの手の絡みに慣れている。

「二万マドルでど……うッ!?」

 節くれ立った手を伸ばしていた男はナマエの前に倒れ伏し、急所を押さえて身悶えている。一部始終を見ていた女主人は顔をしかめ、赤い口紅が塗られた唇から煙を吐き出した。有難いことに、面倒くさそうに肩を竦めるだけで咎める気は更々ないらしい。非情にも金的を蹴り上げられた男の額には脂汗が滲み、かさつく唇の端からは涎が垂れている。ナマエを睨みつける眼光は射殺さんばかりに鋭く、彼女の足首を掴む手には怒りがこもっていた。

「この、クソガキが……ッ!」

 少しも本気を出していないサバナクロー生よりもずっと脆弱な威嚇だ。ナマエはマジカルペンを出そうと迷いなくポケットに手を突っ込み、目当てのものがないことに気がついて思わず舌打ちした。マジカルペンは退学時にルームキーとともに部屋に置いてきた。ナマエは格闘技には優れていないし身体能力も高いわけではない。肉弾戦に持ち込まれたら勝算はなくなる。マジカルペンのことをすっかり失念していた彼女はそこでようやく顔を歪め、逃げ道を探すためにロビーを見渡し――にやにやと笑いながらこちらを見つめている男の存在に気づいて肩を跳ね上がらせた。

「一発目でそこを狙うか」
「……いつから見てたんですか」
「さあな」

 答える気がないらしいクルーウェルはひっそりと笑っている。グレーのハイネックと細身のスラックスを身に纏う彼は首を僅かに動かし、夏よりも伸びた髪を耳にかけた。小さなピアスが薄暗い明かりに照らされてチカリと光る。クルーウェルは倒れ込んでいる男に近づくと、獰猛な獣を思わせる犬歯を僅かに覗かせながら笑った。男を見下ろす双眸は凍りついた湖のように冷たく、人間らしい感情がごっそりと抜け落ちている。極悪人のようなその表情に男だけではなくナマエも竦み上がり、彼女の首裏を冷たい風がさっと撫でた気がした。クルーウェルはソファに置き去りにされている錆びついた折りたたみ傘を掴み、それを宙に放り投げて惨たらしいほどに恐ろしい笑みを深くする。随分と長いあいだ放置されていたんだろう。傘の赤い布は虫食い状態だった。

「俺は魔法が結構得意でな」

 最高点に達して再び落下を始めた傘が燃えた。火の粉が舞い、焦げていく。火魔法に加えて風魔法も使っているのか、燃え盛る火の塊は宙に留まったまま黒い煙を上げている。属性が異なる魔法の同時発動を難なくこなしている時点でかなり優秀なのに、「結構」なんて微塵も思っていないだろう謙遜はむしろ嫌味たらしい。クルーウェルが指を鳴らした瞬間に炎が激しく爆ぜ、一辺一センチほどの立方体型に凝縮された折りたたみ傘だったもの≠ヘ風魔法に操られながら灰皿に落下した。原型もなく溶けて液状化した骨組み部分は吸殻を巻き込みながら広がっていく。煙を上げ続ける残骸からは錬金術室と似た臭いがした。

品のいいお坊ちゃん(、、、、、、、、、)なら何もしないと思ったか?」
「ひ……」

 クルーウェルは最初から聞いていたんだろう。彼の言葉がとどめの一撃になったらしい男はふらふらと立ち上がると、フロント奥の階段に消えてしまった。床を踏み荒らすような慌ただしい足音はすぐに聞こえなくなり、上階からの振動だけが伝わってくる。細かな埃を輝かせる白熱電球の光は揺れ動き、くすんだ色の埃被ったランプシェードがギイギイと音を鳴らした。

「面倒事を起こすんじゃないよ」

 事の目撃者かつホテルのオーナーである女主人が黙っているはずもなく、彼女はマニキュアで彩られた鋭い爪でカウンターを激しく叩いた。一瞬だけ面倒くさそうに眉を寄せ、すぐに余所行きの顔を取り繕ったクルーウェルは女主人を振り返る。彼の本性を知らない人間が見れば、安心感すら覚えてしまいそうな見事な仮面だった。

「申し訳ありません。つい熱くなってしまいました」
「二枚舌な男だね。そういう男は昔っから信用できないんだよ」

 女主人は細い眉をつり上げ、にこやかに笑うクルーウェルを睨んだ。灰皿に押しつけられた煙草が薄い煙を上げる。琥珀色の液体が入ったショットグラスを一気に煽ると、女主人は大きな酒瓶を掴んでグラスになみなみと注いだ。安物の酒だろう。噎せ返るようなアルコールの強い臭いが漂う。

「女泣かせの男だ」
「まさか」

 あれだけ本性を晒け出しておきながら今さら好青年ぶっても手遅れだろうに、対教師用の笑顔を作り、ナマエの腕を掴んだクルーウェルは誰からも好かれそうな顔で笑っている。

「さっさと出ていきな。そこのお嬢ちゃんもだ。若い女がここにいたら馬鹿どもが群がって仕方ない。今日のぶんの宿代なら要らないさ」

 しっし、と野良猫を追い払うように手を払った女主人は慣れた手つきで新たな煙草に火をつけた。目を白黒させるナマエになど気づいていないと言わんばかりにそっぽを向き、魔女を思わせる真っ赤な唇から白煙を細く吐き出している。

「そんな……」

 かくして、ナマエはホテルを追い出されたのだ。



 数十分前まで悲壮感に満ちていた顔は今、違った意味で真っ青になっている。お互いのあいだに横たわっていた気まずさすら忘れて首を振り続けるナマエを半ば引きずるようにして歩くクルーウェルは「諦めろ」と言った。彼の実家は目と鼻の先にある。

「俺、ホテルに泊まりたいです」
「このあたりはホテルなんてない。見渡す限り住宅街だ」
「野宿でいいですから」
「それを俺が許すと思うか?」
「本当に心配しないでください」
「言い方を変えよう。俺が大切な後輩を放り出す男に見えるか?」

 臆面もなく言うのはどうかと思う。平時であればとんでもない殺し文句になっていたであろうクルーウェルの言葉に動揺するだけの容量は生憎と残っていない。ナマエは必死に考えを巡らせた。この男がどれほど優秀かなんて、一年間ルームメイトだった彼女もよく知っている。だがしかしこのまま諦めるか最後まで抗うかはまったくの別問題だ。

「駄目です。ご家族との時間を邪魔するわけには……」
「母は歓迎していたが」
「駄目です、パーティの途中じゃなかったんですか」
「一人増えたところでどうってことはない」

 俺、先輩と話したいことが。なら俺の部屋でいいだろ。ナマエが反論する度にすげなく言い捨てるクルーウェルは容赦なく彼女の腕を引っ張っている。自分で抗議しておきながら、どんどん墓穴を掘っている気がしてナマエはいっそう顔を青くさせた。
 クルーウェルが運転するバイクに乗せられ、王立博物館や時計塔などの見どころ溢れる街を抜けた先には閑静な住宅街が広がっていた。デタッチド・ハウスが建ち並ぶ住宅街に差し掛かったあたりで何かがおかしいとようやく気づいたナマエに「俺の家に来い」と簡潔に宣ったクルーウェルは彼女を解放する気配もなく、かれこれ数分押し問答を続けている。道行く人々の視線が痛い。

「いやです……」
「わかった。すぐに俺の部屋に行けばいい」
「少しもよくない……」

 ガレージにバイクを駐車している隙に逃亡を図ったナマエは体力がないがゆえにすぐに捕まり、今は「だから運動しろと言っただろ」という小言付きで連れ戻されている途中だ。

「バイクの免許持ってたんですね」
「一年のサマーホリデーのときに取った。……言っておくが、話を逸らしても俺の意思は変わらないからな」
「でも」
「諦めろ」

 一度逃亡したナマエはクルーウェルに鞄という人質を取られている。中には日用品だけではなくナマエの全財産が入っているのだ、明け渡すわけにはいかない。
 いよいよ面倒くさくなったらしいクルーウェルは溜息をつくと、抵抗するナマエを抱き上げて緩やかな階段を上った。思わずしがみついたナマエの身体を受け止めている彼は器用に扉を開け、素早く鍵を閉める。長い廊下の先にリビングルームがあるのか、子どもたちの元気な声が聞こえてきた。ワン! という愛らしい鳴き声も聞こえてきたので、あちらに彼の愛犬がいるんだろう。この家はクルーウェルとは違う匂いがして、侯爵邸とも違う匂いがする。ようやく下ろされ、魔境に身ひとつで放り出された冒険者のような気分になったナマエは心細さと緊張とをか細い息とともに吐き出し、白い床タイルを踏みしめている足を見下ろした。

「まだ逃げるか? 俺の恋人だと両親に紹介してもいいが」

 ナマエの背後の扉に手を添え、決して振りほどけない力で彼女の腕を掴んでいるクルーウェルは悪びれもせずに脅した。キッと睨みつけても、彼はいけしゃあしゃあと「おお怖いな」と怯えるふりをするのみで、口元には隠しきれない挑発が滲んでいる。一枚どころか何枚も上手(うわて)な彼に勝てるわけがない。逃げ道を絶たれ、もはや従う他ないナマエは項垂れた。警察に連行される犯罪者や、羊飼いに処理施設まで連れ去られる羊の気持ちが今なら痛いくらいにわかる。
 降参してすっかり大人しくなったナマエの手をクルーウェルが引く。二階へと続く階段の壁に飾られている写真の中には幼い彼の姿もあり、無邪気で元気な笑顔は眩しく感じられるほど愛らしい。十年後にはナイトレイブンカレッジの教師陣の頭を悩ませる問題児になっているのだから時の流れは非情だ。写真を見て気を紛らわせようとしたところで彼らの目的地はあまりに近く、現実逃避はすぐに終わってしまう。二階の一番奥の部屋前で立ち止まったクルーウェルはドアノブに手を乗せたままナマエを振り返り、彼女の緊張と怯えを見透かしているであろう瞳をすぐに逸らした。
 クルーウェルの部屋に入るなんて、ナマエにとっては一大事だ。絶え間なく鳴る心臓が肺を圧迫し、酸素すら上手く取り込めない。

「取って食ったりはしない」

 そう言って、何度騙されてきたかわからない。抵抗らしい抵抗もできずに部屋に連れ込まれたナマエはベッドに座らされ、部屋の主であるクルーウェルは椅子に腰掛けた。白い壁にはナイトレイブンカレッジの制服がかけられ、本や雑誌が並べられた棚には車の小さな模型が置かれている。それが意外で、ナマエは赤や白、水色の車たちを眺めた。丸いライトに角張った車体は古きよき時代を舞台にした映画やドラマに登場しそうだ。

「それで、話は」

 静かな落ち着いた声だった。あっという間に現実に引き戻されたナマエは心細そうに組んだ自分の指を見下ろし、噛まないようにと数回深呼吸してからクルーウェルの首元に目をやった。面と向かって、彼の顔を見る勇気はない。

「……父と、会ったんです」
「あの父親とか」
「本当のお父さんのほうです」
「すまない、意味がよくわからない」

 そういえば、この人には何も言っていなかったな。唐突にそんなことを思い出し、ナマエは椅子に座り直したクルーウェルの瞳を見つめ返した。信頼していなかったわけではない。すべて包み隠さずに言えるはずもなかった。それだけのことだ。

「俺は侯爵家の侍女の娘です。本当のラストネームはミョウジじゃない。母は俺が小さい頃に死にました。どこかにいる父に会う勇気はなくて、そのまま侯爵家で働きながら育って、大きくなってからある日突然言われたんです。『ナイトレイブンカレッジに行ってこい』って」
「……情報量が多すぎる。つまりお前はミョウジじゃないのか」
「いや、ミョウジであるのもある意味正解なんですけど……とにかく、俺は侯爵に戸籍を弄られて書類上は男になってます。侯爵の一人息子がとんでもない馬鹿で。コンプレックスを拗らせた侯爵が代わりに俺を入学させたんです」
「息子に恵まれなかった貴族が名声欲しさに娘を男子校に入学させたとばかり……」

「違いますね」とナマエが否定すれば、元より険しかった表情に呆れを浮かばせたクルーウェルは「馬鹿しかいないのか」と宣ったきり黙り込んだ。頭脳明晰で理論的な彼には納得できない話でも、処理はできるだろう。

「俺が入学した頃、先輩は『どうしてここに来た』って聞きましたよね」

 いやな静寂を打ち破るようにナマエは再び口を開き、滲んだ涙を拭った。

「こういう、くだらない理由なんです。いつかは学園を辞めてやろうと決めてました。何もできないと思っている奴らに復讐したかった。そこらで野垂れ死にするような子どもだと思っている奴らに、自由になっても生きていけると言いたかったんです」

 涙が落ちる度に意地やプライドが剥がれ落ちていく。自分は少しも可哀想なんかじゃないと言い聞かせなければナマエは生きていけなかった。この広い世界には親の顔も知らずに生きる子どもたちがいて、ペンの代わりに銃や刃物を持つ子どもたちがいて、泥水を啜り腐った食べ物を口にして精一杯歩く子どもたちがいる。最低だとわかっていながらも、そんな誰かの悲しみや苦しみと比べないと前を向けなかった。

「くだらなくてもつまらなくても、俺にとっては大事なことだったんです」

 復讐のためだけにナイトレイブンカレッジに入学した。誰かを信じたい、誰かに認められたい、誰かのそばにいたい。そんな純粋な思いを抱いてすらいなかったナマエはいずれ財産になるであろう研究だけを進められれば満足だった。あの学園で生きていくためについていた嘘がもはや嘘か本当かわからなくなりながら、男でもなく女でもない曖昧な存在になっていく身体にある種の諦念を覚えながら、いつかは本懐を遂げてやろうと思っていた。けれど、ナマエのルームメイトになったのは。
 男として生きるのが、中途半端な性になるのが、恐ろしくなった。恋をしたら世界が変わる。長ったらしい恋愛小説にありがちな、陳腐で馬鹿馬鹿しいそんな表現を理解できる日が来るとは思いもしなかった。

「あなたのおかげで人生変わりました」

 見える世界までもが変わった。湿り気を帯び、震えた声は階下から聞こえてくる喧騒に掻き消える。何を大袈裟な、と鼻で笑うクルーウェルの声が聞こえる気がした。それでもそうだ、変わったのだ。意地悪く入部届をナマエから取り上げ、得意げに笑う彼が振り向いてくれたあの刹那に、あの瞬間に、ナマエの世界は弾けてあたたかくなった。

「明日にはお父さんのとこに行きます。だから……最後は後輩として見送ってほしいです」

 信頼関係を壊したくなかった。クルーウェルの後輩として学園で過ごしたナマエは、彼女が学園を去るその日まで先輩として振る舞ってくれたクルーウェルと過ごした時間を何よりも愛している。二人で積み重ねたたわいない時間と関係を尊重したい。それが、最後の望みなのだ。長い静謐がゆっくりと肺に満ちていく。ようやくナマエを見やったシルバーグレーは存外にやさしい色を灯していた。

「そう言うと思った。お前だからな」

 穏やかに笑ったクルーウェルは近くの勉強机の上に手を置くと、机上のペンをペン立てに戻した。

「最後は、と言ったよな」
「はい」
「なら、今日だけは恋人になれ」
「え……」
「最大限の譲歩だ。これ以上は譲らない。お前の望みなら聞く。俺のも聞いてくれたっていいだろう」

 ぐ、と言葉に詰まるナマエの頬に手を伸ばしたクルーウェルはベッドに膝をつき、唇を押しつけた。流される。そう予感しながら、ナマエは突き飛ばすこともできずに両目を閉じた。



 虚しいことをしていると思った。ナマエを抱きしめているクルーウェルは彼女の腰に腕を回し、ベッドに寝転んでいる。彼が着ているグレーのハイネックは触り心地がよく、毛糸の感触が手のひらの中で馴染んだ。

「先輩」
「先輩じゃない」

 ナマエの涙で濡れた唇に笑みを乗せたクルーウェルはしつこく彼女を食んだ。

「ナマエ」
「いや」
「恋人に向かって随分な言い草だな」

 境目もないくらいに唇がくっつく。「いついなくなる」と問う声に、ナマエは口を開けた。

「あさ、になったら」
「駅まで送る」
「いいです」
「そういう約束だろ」

 ようやく終わった口付けに安堵する間もなく再び唇を噛まれ、舐められ、身体を抱きしめられる。明日には離れるというのにこんな戯ればかりしていたら悲しくて堪らなくなるだろう。クルーウェルの手が頬を撫でる。その手に触れると、寒がりなわりにちゃんと温かかった。細長い中指にひとつだけペンだこがあって、ナマエの指がそれに当たる。

「手、好きです」
「手?」
「ペンだこが好きです」
「いや、それはマニアックすぎないかお前……」
「袖のインクも好きです」
「インクって」
「たくさん書き直された実験用のノートも」
「はあ……?」
「付箋だらけの参考書とか」

 クルーウェルは意味がわからないと言いたげに聞いている。それでも聞いてくれるやさしさがナマエは嬉しかった。

「そういうのを誰にも見せないところが、かっこいいって思ってました」

 徐々に恥ずかしくなってきてクルーウェルの胸に頭を預けると、心臓の音が聞こえてきた。なんでもなさそうな澄ました顔をしているくせに、今にも破裂しそうな音がした。思わず笑ったナマエの心臓も同じくらいうるさい。

「好きな食べ物ありますか?」
「レーズンバター」
「意外」
「そうか?」
「そうですよ。カロリー高いもの嫌いそうだし」
「まあそれは間違いでもないな。お前は?」
「……食べられればなんでも」
「味気ない答えだな」
「いいじゃないですか」
「ちゃんと食べろよ」
「食べてますよ」

 どうだか、とクルーウェルは呟いた。
 知りたいことが多すぎて、時間が足りない。ぽろりぽろりと飽きもせずに頬を滑るナマエの涙を大きな手が掬い、慰めるように瞼に唇が落ちてくる。

「彼女、いないんですか」
「俺が二股するような男に見えるか」
「気になったんです。慣れてるから」
「慣れてると思うか?」
「私よりかは?」

 私、という一人称にクルーウェルの気配が揺らいだのがわかった。わかりづらくも嬉しそうな顔をされて、ナマエはどうすればいいかもわからないまま喋り続ける。

「ピアスはいつからつけてるんですか?」
「ミドルスクールの頃」
「痛かったですか?」
「聞いてばかりだな。お前も開けるか?」
「ええ……」
「痛くはないと思うが」

 クルーウェルの指先がナマエの耳の裏に入り込んだ。親指と人差し指で挟まれた耳朶が擽ったくて身を捩れば「いい子にしろ」と耳元で囁かれる。

「俺の耳に開けるか」
「怖いです。先輩のはもうあるし」
「だから先輩じゃない」
「……呼びませんからね」
「なんでだよ」

 ふ、と力の抜けた珍しい笑い方をする。なんとなく口元を眺めていたらクルーウェルの目が動き、緩慢に起き上がった彼はナマエの髪をやさしく撫でた。まるみのある頭に手のひらを添わせて、指先で髪を梳くような触れ方だ。大人びた匂いがそこらじゅうからする。彼の部屋にいるのだから当たり前なのに緊張してしまう。

「あなたの匂い、好きです」
「頑なだな」

 名前ひとつ呼ぶだけだろ、と非難じみた声が聞こえた。合わさった唇のあいだから舌が割り込み、後頭部に添えられていた手が頬に回る。苦しいと胸を叩いて訴えても、離してくれたのはナマエの息が上がった頃だった。

「お前、俺の名前知ってるか」
「……知ってますよ」
「せーので言ってみろ」
「いやです」
「俺のとっておきの秘密を教えてやるから」
「本当ですか?」
「ああ」

 じゃあ仕方ないなとばかりに、ナマエは間近にある端正な顔を見上げた。

「デイヴィス」

 ナマエは長い睫毛が伏せられる瞬間を見た。飽きもせずに降ってくるキスを受け止めながら、クルーウェルの腕にすがりつく。腕は筋肉質で硬かった。彼の高い鼻が彼女のやわい頬に沈み、触れる温度が高くなっていく。

「ごま、かそうと、してません?」
「まさか」
「ん」

 熱い。のしかかるクルーウェルの身体は重く、ナマエの胸はぺしゃんこに押し潰されている。ナマエにだって彼の心臓の音が伝わっているのだから、ドクドクと鳴るこの音は彼にも余すことなく伝わっているだろう。左と右の両側で同じ鼓動を刻む心臓がある。ひとつの、いびつな生き物にでもなった気分だった。人間の心臓の音は、こんなにも、壊れてしまいそうなほどに速くなる。

「お前の心臓、壊れるんじゃないか」
「……痛いです」
「奇遇だな」

 俺も痛いよと困ったようにクルーウェルが笑うから、胸の奥がもっと痛くなって痺れた。またひとつ涙を落としたナマエの胸に耳を寄せると、彼はゆっくりと目をつぶった。それはどことなく猫の仕草に似ていて、決して懐かない気高い猫を手懐けた気分にさせる。

「聞かないでください」
「お前だって散々聞いてただろ」

 まさにクルーウェルの言う通りなのでぐうの音も出ない。彼は口を噤むナマエににやりと笑って見せた。薄いシャツ越しに、彼の熱い吐息が細い棘のようになって心臓へと突き刺さる。もうどうしようもないと諦めて、ナマエはやわらかい髪をそっと撫でた。怒る気はないらしい。シルバーグレーの目を少し開けて、眦を緩めてからまた目を閉じた。俺は犬派だと言って憚らないくせに猫みたいな人だ。

「輝石の国の、美術館知ってるか」
「……はい」
「珊瑚の海の記念博物館は」
「知ってます」
「熱砂の国のオアシス」
市場(スーク)がたくさんありますよね」
「夕焼けの」
「草原の国立公園。知ってますよ」

 いつかの会話でナマエが「行ってみたい」と何気なく言った場所だ。身を焦がすような悲しい沈黙がややあった。一緒に行こう、一緒に見よう。そんな風に約束することはできない。

「いつか、行けよ」
「……はい」
「俺もいつか行く」
「言わないで」

 いつか本当にその場所を訪れたとき、ナマエはきっとたった一人を思い出してしまう。あのひとも、ここに来たんだろうかと。

「ナマエ」
「ひどい、ひどいです」

 ひとつ、引き金さえあれば。
 勉強を教えてもらった図書室、一緒に悪巧みをした魔法薬学室、水やりという名目で駄弁った植物園、防衛魔法と実践魔法を叩き込まれた中庭――すべてを思い出してしまう。

「今さらだろ」

 彼は痛そうに笑って、涙がとける目元に唇を寄せた。階下では、彼らの悲しみなど知らない子どもたちの無邪気な笑い声がずっと響いている。


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